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29話:試衛館からの風

初秋の風が、商会裏手の道場に吹き抜けた。


 土の匂いと木の香が混じり合う稽古場には、白木の柱と剣の音が響いていた。竹刀のぶつかり合う音、打ち込んだ足が板を鳴らす音。水戸に新たに設けられた「剣術修練場」には、朝から若者たちの声が絶えなかった。


 藤村晴人は、控えの間からその様子を静かに見つめていた。


 (ようやく形になってきたな……)


 水戸藩士団――正式な名前ではないが、町人や農民から募った精鋭を教育し、警備や伝令、災害時の先遣要員とする新たな枠組みだ。武士だけで治める時代は終わる。そう考える晴人の改革の一端だった。


 そしてその中心にいるのが、近藤勇と土方歳三の二人である。


 近藤は竹刀を構える若者の足運びを直し、声を荒げる。


 「そこだ! 右に抜けろ、腰が流れてるぞ!」


 彼の指導は熱を帯びている。だが、怒号ではない。厳しさの中に、教える者としての情がある。


 一方、土方歳三は、道場の隅に腰を下ろして若者たちの動きを目で追っていた。時折、言葉少なに助言を加えるが、その視線は柔らかくも鋭い。顔立ちの整った歳三は、剣術指南というよりもどこか芝居役者のような色気を纏っていた。


 「おい、そこの。お前の構え、それじゃ雨の竹のようだ。芯を入れろ。……そうだ、腰で立て」


 その佇まいは、世間で語られる“鬼の副長”とは異なる。穏やかで、面倒見の良い兄のようでもあった。


 彼の近くにいた町医者の息子が、少し緊張しながら尋ねた。


 「土方様は……剣で、人を傷つけたことがあるんですか?」


 歳三は眉をひそめたが、すぐに苦笑し、優しい眼差しで少年の目を見つめた。


 「剣はな、斬るためのもんだ。天然理心流はそう教えてる。けどな……本当に強い奴ってのは、斬らずに済ませる道を選べるもんさ。俺も、そうなりたいと思ってる」


 少年は真剣に頷き、胸に何かを刻み込むように静かに目を伏せた。


   *


 その日、近藤と土方は、正式に水戸藩より禄を与えられた。


 町人・農民出身の二人に武士としての家格を与えるのは、保守派から反発もあった。だが、晴人は彼らの忠義と才覚を高く評価し、斉昭公に直願して、剣術指導役として召し抱えることを認めさせたのだ。


 御目見以下ながら、それぞれに禄高十五石が与えられた。


 「これまでの働きで、此度、正式に禄を賜ることとなった。誇ってよい」


 晴人の声に、二人は思わず顔を見合わせる。


 近藤はぐっと拳を握りしめ、満面の笑みで深々と頭を下げた。


 「ありがとうございます……! これで、俺たちの剣が水戸に根を張れるってわけだ!」


 「ようやく、世に出られたな、近藤」


 土方も静かに頷き、けれどどこか安堵したように口元を緩める。


 「俺はな、これからが本番だと思ってる。禄に見合うだけの仕事をして、ここにいる者たち全員を、無事に育てあげたい」


 「俺もだ。剣で、志で、未来を切り開いてみせます」


 二人の眼差しはすでに、先を見据えていた。


   *


 夕刻、晴人は一計を案じ、稽古を終えた者たちを自宅に招いた。


 今宵の宴には、晴人自らが仕込んだ酒――「米焼酎」が振る舞われた。


 水戸藩の農家と協力し、不要な古米を集め、米麹を加えて発酵させた後、銅製の蒸留器を使って低温で蒸留する。温度と圧力を緻密に調整しながら、幾度も失敗を繰り返してようやく得られた透明な酒。それが、“水戸式米焼酎”だった。


 「ほう……これは、酒か? まるで水のようだが、喉に火が走るな」


 最初に口をつけたのは土方だった。盃を煽り、静かに喉を鳴らすと、微笑みを浮かべてつぶやく。


 「……気張った心を、やんわりほどいてくれる。いい酒だな」


 「なんだそれ、詩人かよ」


 近藤が笑いながら茶碗を手に取り、一口飲んで目を丸くした。


 「おお、これ……旨いぞ!」


 場が一気に和やかになる。剣士たちの間に、笑い声と熱が満ちていく。


 「この焼酎、名前はあるのか?」


 近藤が問うと、晴人は少し考え、静かに答えた。


 「“水心一滴すいしんいってき”とでもしておきましょう。水戸の志と心意気が、一滴に宿る……そんな意味を込めました」


 歳三が静かに盃を傾けながら頷く。


 「いい名前だ。剣とは違う形で、人の心を奮い立たせる。……この国には、こういう酒が必要だ」


 その夜、揺れる灯火の下で交わされた盃の数々が、若者たちの未来を照らす小さな光となった。

夕餉の香ばしい匂いと共に、晴人の屋敷には賑やかな声が満ちていた。


 長机の上には、里芋と味噌田楽、鯉のあらいに野菜の煮びたしが並び、中心には晴人自らが仕込んだ焼酎《水心一滴》が鎮座している。さながら小さな祝宴のような宴席に、剣士たちの顔には紅潮した笑みが浮かんでいた。


 「いやぁ……これほど喉越しの良い酒は、江戸でもなかなかありませんよ」


 そう言ったのは、鮮やかな羽織をまとった男――千葉栄次郎である。北辰一刀流・千葉道場の継承者であり、父・千葉周作の後継として江戸の道場を守る剣客だ。今日は、わざわざ水戸の晴人の招きで訪れていた。


 「栄次郎殿、今日の稽古場でも若者の目を釘付けでしたな。竹刀を投げる技、あれはどうやって……」


 そう声をかけた近藤に、栄次郎はからからと笑って酒をあおる。


 「へへっ、あれはな、昔……弘道館に呼ばれた時にやって、怒られた技ですよ。竹刀を頭上でぐるっと回して、股をくぐらせて、空に放って――ぱしっと構える」


 その所作を軽く再現してみせると、周囲からどっと笑いが起きた。


 「そりゃ怒られるでしょうよ! あんなお堅い連中に!」


 土方が珍しく大笑いしながら杯を傾ける。どこか芝居がかった栄次郎の語り口に、若者たちは目を輝かせて聞き入っていた。


 「でもな、あのとき俺が思ったのは……剣ってのは型だけじゃない、心を動かす力もあるってことなんです。技で魅せて、驚かせて、それで相手が動く――それもまた、剣の一つの形じゃないですかね」


 「うむ、見事な理屈だ」


 晴人が笑みを浮かべながら盃を持ち上げる。


 「この水心一滴の名に込めた思いも、少し似ています。剣や酒、あるいは言葉一つが、人の心を動かす。それが時代を変える原動力になる――そう信じたいのです」


 その言葉に、場が静まり返った。まるで、一滴の水が広がっていくように、晴人の声が皆の胸に沁みていく。


 「志、ですね」


 そう呟いたのは、一番若い剣士――町人あがりの少年、庄助だった。彼は畏れるように杯を掲げ、小さな声で言った。


 「自分……家も貧しくて、学もなくて。でも、こうして剣を学べる場所があるだけで、夢が見られるんです」


 「夢か……いい言葉だ」


 近藤がうんうんと頷く。


 「俺たちだって、最初は何もなかった。金も、地位も、名も。でも、志さえあれば、人は剣を持てる。誰かを守る力にもなれる」


 その背中を支えるように、土方が続けた。


 「剣は人を斬るためじゃねぇ。守るためにある……俺は、そう信じてる」


 「でも、守るにはまず、自分の弱さを斬らなきゃな」


 栄次郎がにやりと笑った。


 「剣は強さじゃない、覚悟だ。いいか、お前たち。剣を抜くとき、自分の心も研がれてなきゃ、振るう意味はない」


 若者たちは息を飲んで、その言葉を胸に刻んでいた。


   *


 月が高く昇り、灯籠の灯が風に揺れる頃、宴は静かな余韻に包まれていた。


 土方がふと、杯を手にしながら晴人に向かって言う。


 「……晴人殿、こうして仲間と志を語れる夜が、これほど尊いとはな。かつての俺は、ただ剣に己を重ねていただけだった。だが今は違う」


 「こちらこそ、感謝しております。あなた方がいてこそ、この改革も形になりました」


 その言葉に、近藤も深く頷いた。


 「これからも、もっと強くなります。剣だけじゃない――心も、志も。いつか、水戸の若者たちが“ここで生きてよかった”って思えるように」


 「道場の仲間たちにも、今日のことを語ってやりたいですね」


 栄次郎が微笑みながら、最後の一滴を盃に落とす。


 「“水心一滴”……いい名です。本当に、剣士の心を映した酒だ」


 晴人は静かに頷いた。


 そして皆がそれぞれの杯を掲げ、声を揃える。


 「――志に、乾杯!」


 その声は、夜の空へと透き通るように響き渡った。

夕暮れの剣術修練場。稽古が終わり、汗と埃がまだ残る空気のなか、門が静かに開いた。


 「失礼いたします」


 澄んだ声に、皆がそちらを向いた。


 現れたのは、一人の少年だった。まだ幼さの残る面差しに、澄んだ瞳。髪は後ろで結わえ、浅黄色の道着に身を包んだその姿は、どこか儚げで、しかし芯のある気配を漂わせていた。


 「試衛館より参りました。沖田総司と申します」


 その名を聞いた瞬間、道場の空気が一変する。


 「沖田……まさか、あの総司か!」


 「やっと来たか……」


 近藤が立ち上がり、笑顔で駆け寄った。土方も静かに歩み寄る。


 「お久しぶりです、先生方。少し遠かったですが、無事に来られました」


 沖田は深く頭を下げ、屈託のない笑顔を見せた。だがその笑顔の奥には、鋼のような芯が隠されていた。


 晴人も沖田に歩み寄り、柔らかな表情で声をかけた。


 「君が沖田総司くんか。近藤殿や土方殿から話は聞いている。今回は、剣の修行と見習いを兼ねて、この水戸に迎え入れることとなった。ここで多くを学び、励んでもらいたい」


 「はい。よろしくお願い致します」


 少年の礼儀正しさと、物怖じしない態度に、周囲の若者たちは小さくざわめいた。


 その時、道場の隅にいた千葉栄次郎が立ち上がる。


 「ならば、手合わせしてみるか? 若き天才の剣、私も興味がある」


 「はい。ぜひ、お願い致します」


 沖田は即答した。躊躇いも戸惑いもない。


 場が整い、二人は木刀を手に構えた。沖田の構えは柔らかく、まるで舞うような軽ささえ感じさせた。


 ――が、次の瞬間。


 「はッ!」


 沖田が踏み込んだ。


 その一撃は、風を切り、鋭く振り下ろされる。子供の振る剣とは思えない速さと、殺気に似た“間合いの圧”がそこにはあった。


 栄次郎がわずかに目を見開く。即座に受け太刀を出し、打ち合う音が道場に響いた。


 (……剣が変わった?)


 周囲の誰もがそう感じていた。


 先ほどまで穏やかだった少年の瞳が、今は冷たく研ぎ澄まされている。表情は変わらない。だが、剣だけが“別の人格”のように、猛々しく、獰猛だった。


 栄次郎が連撃を仕掛ける。だが沖田は、半歩のずらし、身体の捌きだけでそれを受け流し、間合いを詰める。


 「……っ、面白い!」


 栄次郎が声を上げ、さらに動きを速めた。北辰一刀流の正統なる技が、次々と放たれる。


 沖田はそれらを正確に見切り、あるいは紙一重で外し、逆に打ち返す。その姿は、まるで“殺気と静謐”を同時に身にまとった一振りの刃だった。


 そして、ふと――


 沖田の木刀が、栄次郎の肩口に止まった。


 完全に“決めた”位置。まるで、手加減など必要ないとでも言いたげな正確さだった。


 道場が静まり返った。


 やがて栄次郎が息を吐き、口元を緩めた。


 「……将来が恐ろしい。まさか、ここまでとは」


 沖田は、きょとんとした表情に戻り、木刀を下ろす。


 「え? 終わりですか?」


 その無垢な声に、場がふっと和らいだ。だが誰もが、その“ギャップ”にぞくりとしたのだった。


 「どういうことだ……さっきまでと、別人のようだったぞ……」


 「まるで、斬ることが当たり前みたいな……」


 若者たちの間でざわめきが広がる。


 そんな中、土方が静かに沖田のもとに歩み寄り、そっと肩に手を置いた。


 「総司……お前の剣は、どこか“死”の匂いがする」


 「え……」


 「無意識にやってるんだろうが、あれは命を斬る技だ。強い。でも、怖い」


 沖田は、困ったように目をそらした。


 「……先生にも、たまに言われます。“調子に乗ると、怖い顔になる”って」


 「剣は、使い方次第だ」


 近藤が、そっと沖田の頭を撫でながら言う。


 「お前の剣は間違ってない。だから、ここでしっかり学べ。力は誰かを守るためにある。そう教えたい」


 沖田は目を丸くし、少ししてから――にこりと笑った。


 「はい。頑張ります」


 その笑顔は、まるで何事もなかったかのような、少年の顔だった。


 道場には再び夕風が吹き抜ける。


 白木の床に、夕陽が細く差し込んでいた。


 その光の中で、沖田総司という名の剣士が、新たな道を歩み始めたのだった――

夜の帳が降りた水戸の町に、静かな風が吹いていた。


 剣術修練場に併設された宿舎では、湯上がりの湯気と、晩餉の名残が漂っている。囲炉裏を囲んだ座敷には、木の香と共に、穏やかな会話が交差していた。


 「いやあ、あの一太刀は見事だったよ、総司」


 湯呑を手にした近藤が、口元をほころばせながら言った。


 沖田総司は、囲炉裏の端で正座し、肩をすくめて笑った。


 「まぐれですよ。栄次郎先生の隙を、たまたま捉えただけです」


 「それを“まぐれ”と言えるのは、強さの証だ」


 と、土方が静かに口を挟んだ。


 「剣というのは、ことわりだけでは語れない。心の迷い、身体の揺らぎ、すべてが刀の動きに出る。お前はそれを、読み切った。……見事だった」


 総司は、少し頬を染めた。十四歳の少年には、過分な言葉かもしれない。だがその瞳には、まっすぐに吸い込まれるような力があった。


 「……ありがとうございます。でも、自分の剣が、相手を斬るためのものかどうか、まだよく分からないんです」


 囲炉裏の火が、ゆらりと揺れた。誰もすぐに返事をしなかった。薪のはぜる音だけが、部屋の中に静かに響いていた。


 「昔、師匠が言ってました」


 総司はぽつりと語った。


 「“強さってのは、自分のためじゃなく、誰かのために振るえるものだ”って」


 その言葉に、近藤は目を細めた。まるで、かつての自分に返される言葉のようで。


 「そうだな。俺たちも、そうやってここまで来た。道場の仲間、江戸の町、そして……この水戸で出会った人々のために、剣を振るっている」


 土方は湯呑を置き、じっと火を見つめながら言った。


 「強さは、いつか試される。だが、斬るだけが剣じゃない。……耐える剣も、支える剣もある」


 しばしの沈黙のあと、襖の向こうから、ふわりと気配が流れ込んできた。


 「ふむ、哲学的ですね」


 栄次郎が、いつの間にか座敷の縁側に立っていた。袖を軽く払って部屋に入り、皆の輪の中に腰を下ろす。


 「“剣は、心を映す鏡”とは、我が父・周作の言葉ですが……今のやりとり、実にそれを地で行っておられる」


 近藤が照れくさそうに笑い、総司は急いで正座を直した。


 「今日の一太刀、見事でしたよ、沖田君。北辰一刀流の私が認めたのです、少なくとも“まぐれ”ではない」


 「ありがとうございます……!」


 夜の空気が、静かに冷えてきた。縁側の障子が開け放たれ、外には満天の星々が瞬いている。


 晴人が、そっと縁側に座り、夜空を仰いだ。


 「この地にも、確かに風が吹き始めたようだ」


 皆が、無言でその言葉を聞いた。


 「刀を持つ者が集まり、語り、交わる。ここが“力”の場ではなく、“志”の場になることを、私は望んでいる。――それが、水戸の未来につながると信じている」


 囲炉裏の炎が、再び音を立ててはぜた。


 その音に合わせるように、総司が声を出す。


 「ここで……自分の剣を見つけたいです。人のために、立てるような剣を」


 土方が頷く。近藤もまた、誇らしげに笑った。


 そして、栄次郎が茶碗を掲げた。


 「では、今宵は新たな剣士の旅立ちに。……沖田総司殿、水戸へようこそ」


 「はい!」


 十四歳の少年の声が、夜気に染み渡った。


 その音は、どこか遠く、時代の狭間にいる誰かの胸にも、きっと届いている。


 ――そう信じさせてくれるほど、清らかで、力強い声だった。

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