2話:母の膳、未来の匙
登勢――藤田東湖の母は、すでに藩の家臣の手で寺へと避難していた。老いた身体に余震は堪える。静かな環境で看病を受けながらも、その表情には緊張と不安が残っていた。
俺――藤村晴人は、彼女の世話を命じられていた。客人である以上、不躾なことはできない。だが、だからこそ、まずは信頼を得なければならない。
そして、その最短手段は“料理”だった。
侍たちの食事は質素だった。麦飯に味噌汁、塩だけで漬けた菜っ葉、焼いた干物があれば贅沢な方だ。だが、それでは高齢の登勢には重すぎる。
「台所をお借りしても、よろしいでしょうか」
寺の侍女にそう告げ、許可を得ると、俺は早速荷物を開いた。半年間の潜伏生活で使っていた携帯用の調理具と、残していたスパイス、乾燥野菜、昆布、小豆。奇跡的に無事だった米と、現地で手に入れた根菜もある。
味覚も、香りも、体にやさしく。胃に負担をかけず、それでいて、心に温かみを残す料理――。
米は雑穀と混ぜ、香りが立つように土鍋で炊いた。あらかじめ浸水させておいた小豆と一緒に炊き込むことで、ほのかな甘みと色合いを添える。
汁物は、昆布出汁を効かせた根菜のすまし汁。人参、大根、里芋を薄く切り、口当たりを柔らかく。醤油は控えめに、塩で調整し、最後に青菜を浮かべた。
主菜は、炙った豆腐の餡かけ。練った葛粉に乾燥椎茸の戻し汁を加え、優しいとろみの餡をかけることで、喉越しを良くした。
「これは……見たこともないような……」
登勢は目を細め、器の蓋を取った。
「口に合うとよいのですが」
俺は深く頭を下げる。食器は寺にあった古い木皿だが、盛りつけには気を配った。
登勢は最初のひと匙をゆっくりと口に運んだ。咀嚼し、嚥下し、目を閉じる。
静かな間があった。
「……やわらかいのう。味も、うるさくない。――けれど、温かい」
その言葉に、俺は胸を撫で下ろした。
「このような調理は、どこで学ばれたのですか?」
「母が身体を壊しやすい人でして……幼い頃から食事の世話をしていました。自然と覚えたのだと思います」
それは事実だ。現代でのことだが、母に優しい食事を作ることは、俺の生活の一部だった。
「……武士の料理とは思えぬ。されど、体には染み入るようじゃ」
登勢の言葉は、褒め言葉というより、実感そのものだった。彼女の手が次のひと匙に伸びる。その動作が、なによりの答えだった。
* * *
その日の夕方、東湖が寺を訪れた。
「母は……どうだ?」
「安らかに、お休みになっておられます。食事も、少し召し上がりました」
東湖は小さく頷いた。そして俺の手元にあった小さな鍋を覗き込むと、ふっと鼻を鳴らした。
「これは、お主の仕業か」
「はい。力になれればと思い、作らせていただきました」
東湖は黙っていた。だがそのまなざしは、先日とは違っていた。
「……母は、あまり人を褒めぬ」
それだけ言って、彼は踵を返した。が、数歩進んだところで、立ち止まる。
「――明日も来い。寺の者に伝えておく」
言葉少なに、彼は去っていった。
背を見送りながら、俺は思った。
信頼とは、積み重ねるものだ。だが、その最初の一片は、たった一膳の料理かもしれない。
登勢――藤田東湖の母が身を寄せている寺は、水戸城下からさほど遠くない、竹林の丘にあった。地震の混乱がようやく落ち着いた頃、藤田家の家臣たちの判断で避難先として選ばれたこの寺は、静かで、よく手入れされた庭を持ち、外の喧騒からは切り離された穏やかな空気に包まれていた。
藤村晴人、三十一歳。俺はその寺の裏手、小屋のような納屋跡を仮住まいとして使っている。藤田東湖から「母の様子を見てやってほしい」と頼まれて以来、炊き出しの手伝いという名目で、ほぼ毎日この寺に出入りしていた。
とはいえ、俺の暮らしも簡単ではない。着替えは現代から持ち込んだ数着のうち、現地のものに近い地味な着物。靴は運よく残っていた登山用のブーツを使っていたが、目立つので今では草履に変えている。
この朝も、俺は早くから起きて水汲みを済ませ、炊き出しの準備に取りかかった。町から身を寄せてきた婦人たちが主に厨房を担っているが、数が足りず、男手でも貴重と見なされているらしい。
「藤村さん、その大根は薄めに切ってね。登勢様の胃には優しい方がいいから」
「はい、心得ました」
現代での知識――包丁の使い方から、調味料の使い方、火の調節の工夫まで――は、この時代の彼女たちには新鮮だったようだ。最初こそ訝しがられたが、今では「藤村さんの煮物は胃に優しい」と評判になっている。
登勢の朝食は特に気を使った。白米は重湯に近い柔らかさで炊き上げ、具沢山の味噌汁は塩を控え、煮豆と干し大根の甘辛煮を添える。山菜の酢の物も少量ながら加えた。すべて地味だが、体に優しく、腹を温めるものだ。
静かな部屋へ、膳を運ぶ。障子越しに漏れる風の音と、遠くの読経がかすかに混ざり合っている。
「登勢様、朝餉をお持ちしました」
「……ああ、藤村さん。いつもすまぬな」
布団に体を預けていた登勢が、ゆっくりと身を起こす。痩せた頬には年齢がにじんでいたが、その眼差しには知性が宿っていた。
「味噌汁の香りがしますね」
「根菜を多めに入れました。塩分も控えめにしてあります」
一口、味噌汁を口に運んだ登勢は、ふっと目を細めた。
「やわらかい……だが、しっかり味がある。料理の心得がおありなのか?」
「……必要に迫られて、少し」
誤魔化しながらも、確かにこの時代にしては妙な手際の良さかもしれない。けれど、登勢はそれ以上問い詰めることもなく、静かに箸を進めていた。
「不思議なものだな。ここに来た当初は、何を食べても味気なく感じていたのに……。最近は、食べるたびに力が戻る気がするよ」
「少しでも、力になれているのなら嬉しいです」
俺の言葉に、登勢はわずかに微笑んだ。小さな安堵が胸をよぎる。現代で得た知識が、ほんのわずかでも人の命に寄与しているという実感は、思った以上に深く心に残った。
寺の裏手に戻り、炊き出しに合流する。湯気の立ちのぼる鍋と、忙しなく動く女たちの間に、どこか温かい空気が流れているのを感じた。
まだ幕末という嵐の入り口に立っているだけなのだ。だが今は、ただ一人の命を癒すことに専念しよう――
昼下がりの陽射しが、寺の中庭に斜めに差し込んでいた。
炊き出しを終えた俺は、裏手の納屋跡に戻り、乾かしていた衣を取り込む。寺に出入りしているとはいえ、あくまで「炊き出しの手伝い」としての名目であり、立場が安定しているわけではない。
だからこそ、俺は常に周囲の目に気を配っていた。特に、寺に避難している他の人々や、たまに顔を見せる藩士たちの視線は油断ならない。
この時代の常識に馴染むよう努めてきた。現代の言葉遣いを避け、習慣や礼儀も一から学び直した。調味料の分量一つ取っても、知られすぎれば「奇異」になり、下手をすれば「怪しい者」として追われかねない。
そんな中で、登勢との距離が少しずつ縮まっていることが、俺にとって唯一の救いだった。
再び寺に戻ると、廊下に面した部屋から静かな笑い声が漏れてきた。声の主は登勢と、寺に身を寄せている老婦人の一人だろう。俺が持ち込んだ昆布と干し椎茸で作った出汁の味噌汁が、昼餉に供されたらしい。
「藤村さん、あの味噌汁は本当に体が温まるよ」と、先ほど声をかけられたのが耳に残っていた。
味噌の風味を立てる方法も、この時代のやり方とは少し違う。出汁の取り方、煮立たせない加減、そうした小さな工夫が「不思議と美味しい」と受け入れられ始めている。
やがて、廊下を歩く足音が近づいてきた。振り返ると、藤田東湖が姿を現した。
「おぉ、藤村殿。今日も母の世話を感謝する」
「いえ、ただの炊き出しの延長です。どうかお気になさらず」
そう言いながらも、藤田の視線は鋭い。彼はただの儒学者ではない。政治や藩政にも影響力を持ち、洞察力に富んだ人物だ。俺の正体を、ある程度「察している」のではと疑いたくなる瞬間がある。
「母が、藤村殿の味噌汁が楽しみだと言っておった。まるで……体の芯から力が湧くようだとな」
「はは……それは、ありがたい言葉です」
軽く頭を下げたが、内心は緊張していた。
このまま、この世界に溶け込めるのだろうか。たとえ知識や技術で人を救えても、それが異端と見なされれば命を失う時代だ。
――それでも。
俺は、ここに来てしまったのだ。水戸藩政改革の只中、やがて訪れる幕末の嵐。どこかの時点で、この流れに自分も呑まれるのだろう。
せめて、今は目の前の命に寄り添いたい。
その夜、俺は小屋の中で、持ち込んだiPadとメモ帳を広げていた。iPadの電源は切ってある。外で使うことはない。中に保存されたデータは、未来の知識の宝庫――だが、同時にこの時代にとっては「禁忌」でもある。
だが、俺には必要な情報だった。食材の栄養、感染症の予防、保存技術。そして――地震の記録。
「次に起きるのは、いつだ……」
水戸の地震はまだ序章に過ぎない。確か、幕末には何度か大規模な震災が起きていたはずだ。文献で読んだ記憶があった。
しかし、その記憶は曖昧だった。iPadの中に残る日本地震史のPDFが唯一の頼りだ。
この時代の人々を守るには、俺の予測と、このデバイスに眠る情報しかない。だが、使い方を誤れば、それは俺の命を奪う毒にもなる。
火鉢の炭を細く突いて、炎が小さく踊った。
――明日も、また朝が来る。登勢に朝餉を届け、子どもたちに声をかけ、寺の片付けを手伝う。
その一つひとつが、確かに「ここにいる証」なのだ。
ゆっくりと横になり、俺は目を閉じた。
外では風の音が、竹林を優しく撫でていた。
蝉の声がまだ遠く、朝露が葉を滑る音が耳に心地よい、そんな早朝だった。
寺の裏手にある小屋から、藤村晴人はそっと身を起こした。薄い布団をたたみ、古びた水瓶で顔を洗い、火打石で小さな囲炉裏に火を入れる。昨夜の残りの飯を粥にするために、備え付けの鉄鍋に水と米を加え、ゆっくりとかき混ぜる。薄く刻んだ大根と人参、そして干し椎茸を加え、香りが立ちのぼるのをじっと待った。
その横で、味噌を溶く手つきは、もうすっかり慣れたものになっていた。
「……ここの味噌、塩気が控えめなんだよな」
ぽつりと呟く。寺で使われている味噌は、どこか素朴で優しい味がした。保存性よりも、胃に優しいことを重視した作りなのかもしれない。現代では見かけることの少ない風味が、かえって晴人には落ち着きを与えていた。
竹林を抜け、登勢のいる一室へ向かう途中、寺男のひとり――住職代理を務める中年の男とすれ違った。
「おはようございます、藤村殿。……昨夜の冷え込み、堪えませんでしたか?」
「いえ、大丈夫です。小屋の屋根、意外としっかりしてるんですよ」
住職代理は小さく笑みを浮かべ、「それはよろしゅうございました」と一礼して去っていく。晴人はその背中に、軽く頭を下げてから、静かに襖を開けた。
「……失礼します。朝餉の支度ができました」
中は畳敷きの、簡素ながら清潔な部屋。床の間には季節の花が一輪挿してあり、障子からはやわらかな朝日が射していた。
登勢――藤田東湖の母は、布団に身を起こして座っていた。顔色は少しよくなっており、以前のように咳き込む姿は見えない。晴人が用意した粥と味噌汁の香りに、彼女の目が細められた。
「まあ……いい香りですこと」
「大根と椎茸を少し……それと、味噌の量を控えめにしています。お身体に障らないようにと思いまして」
登勢はゆっくりと箸を持ち上げ、一口、粥を口に運んだ。口の中でゆっくりと味わい、嚥下したのを見計らって、晴人が尋ねる。
「……いかがでしょうか」
「……うん。やさしい味。……けれど、どこか不思議な……懐かしいような……」
登勢は目を細め、しばし余韻に浸る。晴人は笑って、味噌汁の椀を手渡した。
「このあたりでは手に入らない食材ではございません。けれど、調理の仕方を少し変えるだけで、食べやすくなるものもあります」
「あなたの手は……ご立派ですわ。息子も……こんな料理を食べたら、驚くかもしれませんね」
その言葉に、晴人は少し苦笑した。
「藤田様は、きっとお忙しいでしょうから……しばらくは、登勢様のお世話を、私が」
「……ねえ、藤村様」
登勢が急に口調を変えた。優しく、しかし真っ直ぐな目で晴人を見つめてくる。
「貴方、まるで未来を見ているようなお話をされるのね。あの日、あの言葉がなければ、私はきっと、あの屋敷の下敷きになっておりました」
晴人は言葉を失った。だが、登勢は静かに続けた。
「不思議な方だと思っておりました。でも……この数日、貴方の真面目さと、気遣いに触れて……信じても、いいのではないかと、そう思いました」
そのとき、障子の外に、控えの者の気配があった。
「母上……入ります」
その声に、晴人はわずかに身を正した。
藤田東湖。
ようやく、彼が現れた。
障子が開き、凛とした雰囲気を纏った若き武士が現れた。晴人はその姿に、一瞬だけ息を呑んだ。これが、日本の未来を左右する存在――。
「藤村殿。……改めて、母の世話を感謝いたす」
藤田東湖は深く頭を下げた。
晴人はその姿をまっすぐ見つめながら、胸の奥で新たな決意を噛みしめていた。
――ここからだ。
藤村晴人の「逆転録」は、静かに次の幕を迎えようとしていた。
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