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28話:交わる志、動き出す商い

夏の終わり。


 じりじりと照りつけていた日差しも、夕刻にはどこか穏やかに変わり、町の通りに涼やかな風が通い始めていた。水戸の空には、うっすらと秋の気配が漂い、白鷺が遠くの田畑を横切っていく。


 そんな中、水戸の町では、弥太郎が主導した展示会が続いていた。


 干し芋のやさしい甘さに、味噌の香ばしさ。茶葉の深い緑と、“白梅玉”と名付けられた香石鹸の、澄みきった芳香――。


 見物に訪れた町人たちは、商品を一つひとつ手に取り、目を細めながら匂いを嗅ぎ、感嘆の声を漏らした。


 「この香り……まるでどこか懐かしいような、けれど新しい……」


 「江戸でもこんな品、そうそうはお目にかかれねぇな」


 商人風の男が腕組みしながら呟くと、傍らにいた医師らしき男が頷いた。


 「香りだけじゃない。この石鹸……肌に優しそうだ。手を洗ってみたくなるな」


 とある婦人は、氷の上に載せられた白梅玉を見つめ、思わずうっとりとした表情を浮かべていた。


 「まるで玉のよう。触れるのが惜しくなりますわ……」


 弥太郎はその反応を、静かに、しかし確かな自信と共に受け止めていた。


 「水戸の技術と心意気が、ようやく届き始めたんだ」


 展示品の背後には、手書きの札が並べられ、それぞれの原料や用途が丁寧に記されていた。その一つひとつに、弥太郎と町の者たちの知恵と工夫が込められている。


 晴人は、会場の隅でそれを見守っていた。


 賑わいの中にあっても、彼の視線は冷静だった。だが、その瞳の奥には、どこか誇らしげな光が宿っていた。


 (これが、“始まり”か)


 iPadに残された歴史年表には、水戸の名がこんな形で記されていることはなかった。だが今――確かに、未来は書き換えられつつある。


     *


 その日の午後。


 藤村こと晴人のもとに、一通の書状が届いた。


 触れた瞬間、紙の質に驚かされる。上質な楮紙に、墨のにじみひとつない見事な筆致。差出人の名を見たとたん、彼は軽く息を飲んだ。


 ――清河八郎。


 江戸・赤坂で私塾「清河塾」を構え、志を抱く若者たちを集めている、気鋭の志士。


 未来の歴史において、その名は鮮烈に刻まれている。だが今は、まだ“野望を燃やす青年”の域を出ていない。


 晴人は封を切り、文面を追った。


 《拝啓


  水戸の風聞、これまでも耳にしておりましたが、


  今回、直接拝見し、胸を打たれました。


  展示に並ぶ品々、いずれも民の才と理が詰まっており、


  わが門弟らにも、この姿を見せたいと思うほどにて候。


  とりわけ、白梅玉の香りと氷の演出――


  あれは、見る者の記憶に焼きつく、志ある商の業なり》


 「……よく見ている」


 晴人は、手元の書状をそっと置いた。


 清河八郎。

 理知的で、雄弁で、しかし激情をはらんだ男。彼が持つ“巻き込む力”は、後に数多の浪士を導いていくことになる。


 だが、その強すぎる意志が、やがて悲劇を招くことも、晴人は知っていた。


 (彼の人生の分岐は……まだ、変えられる余地があるかもしれない)


 文の末尾には、こう添えられていた。


 《次の季節、余裕あり次第、門弟の数名を御地へ送らせたく候。


  貴殿の知見と志、是非とも語り合いたく存じます。


  商と政は、もはや相克に非ず。


  志をもつ者にとって、両者は並び立つ道と信じております。》


 晴人は深く頷いた。


 弥太郎や町の者たちの努力が、確実に他藩の志士たちにも影響を与えている。


 それは、机上の空論ではなく――現実の歴史を、少しずつ動かす手応え。


     *


 夕刻。


 展示場では、商会の若者たちが荷物を整理し、翌日の準備に追われていた。


 弥太郎は、氷を保存するための箱の中を点検しながら、小さく頷く。


 「次は、日立、鹿島、佐原だな。巡回展示の準備を急がなきゃならねえ」


 「船の手配は?」


 「もう話は通してある。ただ、馬は足りねぇな……あとは歩荷ぼっかにも頼るしかねぇ」


 晴人がそっと近づき、声をかける。


 「人の力に頼るなら、その分、感謝を忘れずにな」


 「わかってます。だから、渡す礼の品も用意してる。余った白梅玉を、小袋に包んでな」


 晴人は小さく笑った。


 それは、商いを“道”として捉え始めた者の顔だった。

翌朝、まだ陽が昇りきらぬうちから、水戸の町は騒がしくなっていた。


 商会の若者たちは、荷車に道具を積み込み、次の巡回先となる日立への出発準備に追われていた。木箱の中には、丁寧に詰め込まれた干し芋や味噌、茶葉。そして、氷とともに並べられる“白梅玉”も、慎重に麻の布でくるまれていた。


 「もう少し、そっち持ち上げてくれ! 箱が歪むと、石鹸が割れちまう!」


 弥太郎の声が、通りに響く。朝靄の中、汗をかきながら荷を運ぶ若者たちの目は、どこか晴れやかだった。


 その様子を、晴人は少し離れた軒先から見守っていた。夏の名残を感じさせる涼風が、彼の羽織をふわりと揺らす。


 (旅商人との連携は、ひとまず軌道に乗った)


 近隣の商人や医師らが、展示会で得た製品に関心を持ち、自ら販路を広げる申し出をしてきていた。茶商の老舗「伊勢屋」は、すでに江戸への出荷計画を立てており、越後から来た薬種商も“白梅玉”を町医者に配り始めているという。


 だが、順風満帆というわけではなかった。


 「……足軽の子どもが、白梅玉を盗もうとしたらしいな」


 背後から、静かな声がした。


 振り向くと、そこには密かに協力を続けている郡奉行の神谷がいた。冷たい視線の奥には、現実を突きつける憂いがあった。


 「町に物が溢れ始めると、必ず“歪み”が出る」


 晴人は頷いた。


 「それでも、止める気はない。物と心の流れは、どちらかを止めれば、どちらも淀む」


 神谷はしばし沈黙し、そして呟く。


 「……斉昭公は、お前のような者を、どう思うだろうな」


 その問いに、晴人は答えなかった。


 心のどこかで、斉昭の冷ややかな目と、深い洞察力が、自身の“変化”を見抜いている気がしてならなかったのだ。


 町では、展示品を見た婦人たちが、手紙で感想を寄せる動きも出てきていた。


 「香りが、幼い日の母を思い出させてくれました」


 「白梅玉で洗うと、夫が優しくなったように感じます」


 こうした手紙は、商会の壁に貼られ、町人たちの間で静かな話題となった。


 やがて、その評判は、他藩の使者の耳にも入ることになる。


 「これは……他藩の兵が水戸に潜って、展示会を視察している、という話がある」


 晴人は、あえて驚かなかった。


 (それも想定済みだ)


 水戸の改革が、他藩にどう映るか――それを測る“鏡”のようなものだった。


 午後、弥太郎が小走りで晴人のもとへやってきた。


 「清河塾から、弟子が一人、今朝ついたそうです」


 「もう来たのか……名は?」


 「“竹内章吾”と名乗ってました。まだ十代前半ですが、妙に礼儀が正しくてな。あと、手紙を預かってます」


 それは、清河八郎からの第二の書状だった。


 《門弟の中でも、学識と胆力を併せ持つ若者ゆえ、御地にて鍛えたく候。


  民の中で学ぶ者が、真の志士なり。


  商と政を一つに見る目を、彼に教えていただきたく。》


 晴人は、章吾という若者に目を向けた。


 近くで荷物運びを手伝っている、痩せ型の少年。だが、その目には真っすぐな光が宿っていた。


 (火種は、確かに燃え広がっている)


 水戸は、静かに、しかし確実に――“時代の焦点”となりつつあった。

一夜明け、晴人は早朝から商会の蔵へと足を運んでいた。


 展示会の成功を受けて、在庫管理と今後の拡販戦略の確認が急務となっていたからだ。弥太郎や他の町人たちも、すでに集まり始めている。


 「白梅玉、追加分は百五十。干し芋は三俵。茶葉は新たに鹿嶋からも仕入れ候補が上がっております」


 「それぞれ、値段が上がる前に契約しとくんだな。夏の需要が消える前に、冷品系は次の“香りもの”と“薬効”の線で押す。いいな?」


 弥太郎が指し示した帳簿に、筆を走らせる若者たち。かつてなら町奉行の前で震えていたであろう彼らが、今では目を輝かせ、商いの言葉を交わしていた。


 晴人はその様子を、少し離れた場所で静かに見つめていた。


 (育っていくな……)


 たとえ未来がどうあれ、今を生きる者たちの手によって、新しい流れが生まれつつある。そう確信できる光景だった。


   *


 その日の夕刻、商会に一人の客が訪れた。


 すらりと背が高く、整った顔立ちの男。背には軽い道具包と木箱を背負い、手には一通の書状を携えていた。


 「藤村晴人殿……お目通り願いたく、参上つかまつりました」


 声は柔らかいが、抑えられた鋭さがあった。


 応対に出た晴人は、来客の顔を一瞥し、すぐにそれと分かった。


 「……清河八郎殿ですね」


 相手の眉が、わずかに動いた。


 「はて……拙者は、名乗っておりませぬが」


 「存じております。あなたの書状を、拝読しました」


 そう言って、晴人は懐から一通の文を取り出した。展示会の数日前に届いた、彼からのものである。


 《貴地にて見聞きしたる民の試み、痛快至極にして、我が胸震え申候。》


 《文と剣の両立、志ある者の育成、これこそ時代を繋ぐ要なり》


 清河は微笑を浮かべ、軽く一礼する。


 「……いやはや、観察眼の鋭きお方だ」


 「それはお互い様でしょう」


 二人はそのまま、商会の裏庭に案内される。秋の風が木々をゆらし、かすかに白梅玉の香りが流れていた。


   *


 しばらくの談笑ののち、清河は懐から細長い木箱を取り出した。


 「これは、我が清河塾で用いる文筆と剣の心得の手引でございます。些少なれど、貴殿の志の一助となれば」


 晴人は丁寧に受け取り、表紙を開く。そこには、「清河塾私記」と墨字で記されていた。


 「江戸にて塾を開いて三年。道場破りや口先ばかりの連中も多く、時に失望もあり申した。しかしながら――」


 清河は視線を上げる。


 「……貴殿のように、町の声に耳を傾け、民と共に道を拓こうとする御仁が居ると知り、再び心に火がともりました」


 「それは……過分なお言葉です」


 「いえ。時代は、貴殿のような者を待っている」


 晴人はその言葉を、静かに胸に刻む。


   *


 その夜。清河が去ったあと、晴人は書院で文机に向かっていた。


 ふと視線を落とすと、清河から手渡された小冊子がそこにある。


 筆の走りは力強く、文字の隅々にまで気概が宿っていた。


 (彼は、ただの理想家ではない……)


 口では剣を捨てよと言いながらも、心には未だ、時代の血潮が宿っている。


 だが、同時に晴人は思う。


 (あの男が、いつか剣を手にする日が来たとしたら――)


 未来の“清河八郎”を知る者として、言葉にできない不安が胸に去来する。


 だが今は、今だけは。


 まだ“希望”の名を帯びたこの若者が、自らの志を語り、歩みを共にしている。


 それだけで、救われる想いがあった。


 晴人はそっと小冊子を閉じ、蝋燭の火を吹き消した。


 夜の静寂が、秋の虫の音とともに、静かに部屋を包んだ。

一夜が明け、藤村晴人は静かに目を覚ました。

 昨夜の余韻が、まだ胸の奥に残っている。


 清河八郎――不思議な男だった。

 情熱を内に秘めながらも、冷静な観察眼を持ち、未来を語るその瞳は、どこか既視感を抱かせた。


 蝋燭の火が消えた後の書院は、ひんやりとした空気に包まれていた。

 だが、その静けさの中にも、確かな熱が残っていた。


 晴人は机の上に置かれた『清河塾私記』を手に取り、再びページをめくった。

 そこに記されていたのは、理想に燃える青年の、率直で熱い言葉だった。


 「文を鍛えよ。そして剣を忘れるな。

  学も武も、どちらか一方では道は開けぬ」


 その一節に、晴人は思わず唸った。


 (……この男は、決してただの理想家ではない)


 幕末という混沌の時代に、思想家は数多くいた。

 しかし、実際に行動に移す者は限られていた。

 そして、理想と現実のはざまで折れずに歩む者は、さらに少ない。


 外から、鶏の鳴き声が聞こえた。


 晴人は立ち上がり、障子を開けた。

 町の輪郭が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいた。


 遠くで薪を割る音。

 井戸から水を汲む音。

 子どもの笑い声。

 ――日常が、今日もまた静かに始まっている。


 晴人は深く息を吸い込み、微笑を浮かべた。


 「この日常を、守るために」


 そう呟きながら、書院を出た。


   * * *


 その日、晴人は新たな動きを見せた。


 まず、町医者と薬種問屋を訪れた。

 白梅玉に漢方の成分を加える案を提案し、実際の使用感や需要の拡張性について話し合った。


 「これがもし、解熱や虫除けの効果を持つならば……夏場だけでなく、通年の需要になります」


 薬師は頷きながらも慎重だったが、提案自体には強い関心を示していた。


 続いて晴人は、絹問屋を訪れた。


 「香りを移す布地……例えば、枕や衣類に応用できるかもしれません」


 この発想に、絹問屋の若旦那は目を輝かせた。


 「それならば、土産物としても売り出せますぜ。香る絹なんて、聞いたことがない」


 町の商人たちが、次々と反応を示していく。

 晴人は、商いの可能性が広がっていくのを肌で感じていた。


   * * *


 夕刻、晴人は弥太郎と共に、商会の裏に設けられた実験室のような一室に入った。


 そこでは、新たに加わった若い職人たちが、香りの調合と氷の保存法について、試行錯誤を重ねていた。


 「香りの強さを少し抑えたほうが、女性客には好まれるようです」

 「氷の保存は、米ぬかを断熱材にしてみたらどうかと……」


 若者たちは、自分の言葉で、考えで、未来を語り始めていた。

 その姿に、晴人は深く頷いた。


 (未来は、ここにある)


 かつて、無力だった自分が、今では彼らを支える存在になっている。

 そんな不思議な感覚に、胸が少し熱くなった。


   * * *


 夜が再び訪れた。

 空には星が瞬き、商会の明かりは徐々に消えていく。


 書院に戻った晴人は、再び文机に向かった。

 そこには、清河八郎の「私記」が、静かに置かれている。


 晴人は筆を取り、ページの余白に一行、書き添えた。


 「この志、受け継ぎ、民のために活かすと誓う」


 筆を置いたとき、彼の目は決して迷いを帯びていなかった。

 その瞳は、確かに前を――混沌の未来を見据えていた。

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