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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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26話:腹を満たす、心を繋ぐ一椀

※本話は一部の重複箇所を修正し、構成を整理した改稿版です。

内容自体の流れは変わりませんが、読みやすさを重視して細部を整えました。

ご指摘くださった方、そして丁寧に読んでくださる皆さまに感謝を込めて。

藤村晴人は、藩庁の炊き出し場に立ち尽くしていた。初秋の風が、火の煙とともに土の匂いを運ぶ。臼の縁に腰掛けた女たちが、拍子木のようなリズムで大根を刻み、乾いた包丁の音が土間に反響する。鍋の中では、里芋のぬめりを帯びた湯気が薄く立ちのぼり、皮を剥いた葱の青さが、煮立つ表面に揺れていた。炊き出しを待つ列は、路地の角を曲がり、さらにその先までのびている。男の咳、子どもの笑い声、腹が鳴るのを誤魔化すための冗談――そんな音が、湯気に混じって漂っていた。


 「……これじゃ、ただの芋煮だ」


 独り言のような声に、囲炉裏の傍らで火を見張っていた老調理人が眉をあげる。琺瑯の柄杓を握る手は、煤で黒ずみ、節々だけが白く光った。


 「どうかされましたか、藤村様。味は悪くありませんが」


 晴人は、鍋の縁を覗きこみ、小さく首を振る。味ではない。香りでもない。足りないのは、この場に満ちる「熱」――食べた者がもう一杯を望み、明日を生きようとする、あの衝動のような熱だ。江戸で耳にした“牛鍋”は、まさにその熱で人を集めつつある。舌で文明を語り、箸で心をつかむ。だが、水戸の財布には牛は重い。贅沢は罪ではないが、日々の鍋には乗らない。


 晴人は、湯気の向こうに列を見た。木地の椀を胸に抱く老人、赤子を背負った母親、肩に刃こぼれした鋸を担いだ大工。誰もが鍋に顔を向け、湯気を吸いこみながら、順番を待っている。彼らの目に、ほんの少しでいい、明日の光を灯したかった。


 ――肉でないなら、肉の理を借りればいい。


 脳裏をよぎったのは現代の記憶。乾燥大豆を湯で戻し、潰し、油と混ぜ、繊維状に形成する「肉のもどき」。この時代に名称は口にできない。だが、ことわりは時代を超える。味噌、醤油、酒粕、玉ねぎ、生姜、砂糖少々。うま味と香りを幾層にも重ねれば、豆は“肉らしさ”を纏う。


 「……試してみる価値はある」


 晴人は土間に足を踏み鳴らした。藩の調理係と町の炊き出し担当を呼び集める。桶の水面がわずかに揺れ、火の粉が一つ、白い線を描いて消えた。


 「これから“新しい料理”を試す。見た目は牛鍋、中身は――大豆だ」


 「豆で肉を?」

 「無茶だろう」

 「いや、やれる。味噌と醤油に酒粕を少し。玉ねぎと生姜を刻み、油で香りを出す。砂糖はごく少しでいい。煮えたぎらせず、ゆっくり味を含ませる」


 晴人は、乾燥大豆を甕から掬い、冷たい水を吸わせるところから指示した。ざるが水を吐く音、手の中で大豆が指に当たる軽い弾み。戻した豆を包丁で粗く叩く。粒が砕けるたび、豆の青い香りが立つ。芋がらを短く刻み混ぜ、胡麻油を垂らした鍋でさっと炒めると、土間の空気が一段変わった。甘い匂いに生姜の辛さが追いかけ、酒粕のふくよかな香りがゆっくりと輪郭を与える。玉ねぎが透明になったところで、味噌を湯でのばし、醤油を一筋、砂糖をひとつまみ。出汁を張ると、鍋の内側で細かな泡が並び、ふつふつと寄せては返した。


 「火は強すぎるな。うま味が逃げる。ここからは、沸く手前を保つ」


 調理係の若い衆が、恐る恐る鍋を覗く。「……肉の匂いがする」


 老調理人が柄杓で具をすくい、まじまじと見た。「見かけも“そぼろ”ですな」


 晴人は器によそい、一口啜る。舌に触れた瞬間の甘塩っぱさ、噛めばほろりと崩れる豆の繊維、葱の甘みが遅れて追いつき、生姜が鼻へ抜ける。豆は豆だ。だが、豆でありながら、肉の記憶を呼び起こす。


 「……いける」


 鍋の向こうから、佐野常民が静かに笑う。「名前が要るな。水戸の、民の鍋――『水戸煮』とでも」


 「処方に近い」晴人は頷いた。「体を温め、心をほどく」


 炊き出しが始まる。最初の椀を受け取った初老の男は、湯気の向こうで目を細め、一口すする。器の底が、手のひらで熱を語る。


 「……うまい」


 隣の青年が覗きこむ。「肉なのか?」


 「いや、豆だとよ」


 「豆で、こんな……」


 膳の前で子どもが椀を抱え、舌を火傷しないように、ふうふうと息を吹きかける。頬が赤い。女たちが拍手し、炊き場の男たちが照れたように笑った。鍋の前で列はふくらみ、湯気はひとつの旗のように空へ上がっていく。暖簾がゆれ、土間の煤が光った。


 晴人は、列の端に立って様子を見守った。貧しさは恥ではない。飢えは、戦である。武器のかわりに鍋を掲げるなら、勝ち筋は緻密でなければならない。味で集まり、椀で納得し、明日も来ようと思う――その循環を作ることが、制度に先行して町を救う。


 「一杯の料理で町が変わる」


 「医療も同じだ」佐野が応じる。「素材ではなく、扱い方が命運を分ける」


 その日の終い、屋台の女将が鍋の前で真似を始めた。味噌を溶き、葱を切り、豆を炒める。若い町人が、空き家の軒に暖簾を結びつける。墨痕新たに“みとのに”。幼い文字は、湯気で少し滲んでいた。

翌朝の炊き出し場は、昨日よりも早く人が集まった。薄い霧が庭石の濡れ色を残し、薪の湿りが火のつきにくさを訴える。だが、一度火が起きれば、釜は応える。湯気が立ちのぼり、味噌の香りが路地へ流れる。子どもが匂いを追い、父親が肩をすくめ、母親が懐から木の札を取り出す。昨日、晴人が配った「子と病人は先に」の合図札だ。順番という制度に、思いやりの抜け道を設えた。


 「塩は控えめに」晴人は鍋の前で言う。「子どもと病人は身体が小さい。味は“香り”で引っ張れ」


 見習い医師の巳之吉が、桶の脇で水を張り替えながら頷く。彼は昨夜、晴人から“手洗い”の回数と方法を叩き込まれた。桶の水面に映る手の甲に、朝の光が揺れる。衛生は目に見えない。だから繰り返して形にする。巳之吉は、その反復の意味を、少しずつ体に覚えさせていた。


 温食は、たしかに効いた。空腹の底に火を灯すように、麦飯と水戸煮は腹の内側から体を温める。老職人は、昨日よりも顔色が良い。大工は、肘の痛みが和らいだと言う。赤子は、薄い舌を覗かせて麦の粒を舐め、母親は、胸の張りが治まったと笑った。


 晴人は、町並みを見下ろす高台に立ち、佐野常民と並んだ。屋根の瓦が陽を返す。遠くで鶏が鳴く。青い空に、秋の雲が薄く横たわっていた。


 「白米五合――江戸の男の自慢が、実のところ、毒だった」


 「脚気ですな」と佐野。「白米は体を甘やかす。米の肌を剥ぐほど、体の芯もまた剥がれる。飯は白く、命は薄く」


 「ならば、飯は褐く、命は濃く」


 晴人は、拳を握った。麦五分米。米と麦を同量ほどに混ぜる提案は、すでに始めているが、反発は強い。白い飯は努力の証であり、男の面子であり、女の誇りだ。子に白い飯を腹いっぱい食わせたい――その願いに、麦は泥の匂いで応えなければならない。


 「説得は、罰ではなく、誇りでなければならない」晴人は言う。「麦は“貧しい代用品”ではない。“生き延びる知恵”だ。麦飯は『武の飯』。脚気に倒れない兵を育てる、“勝つ飯”なんだと」


 「名づけは武器です」佐野がうなずく。「“麦飯は武飯”。言い方一つで味が変わる」


 その日、藩庁の一角で小さな説明会を開いた。木札に書いた文字を掛け、巳之吉が図を描く。白米だけの飯と、麦を半分混ぜた飯――二つの茶碗の絵に、脚気の症状と仕事量の違いを併記する。軍学者にもわかる“兵站”の図だ。麦飯は“持久力”という矢印に太線を引かれ、白米は“短期の満足”と添えられた。


 反発はあった。「江戸に笑われるぞ」「水戸の名を落とすのか」

 晴人は、まばたきもせずに答えた。「笑わせておけばいい。命を笑う者に、国は任せられない」


 夕刻、路地の角で暖簾が揺れた。昨日の小料理屋の栄吉が、看板を掲げる。“水戸煮 麦飯付 一文”。鉦が一つ、涼しく鳴る。最初の客は、煤けた袖口の女で、次に、泥の付いた草鞋の青年だった。二人は並んで椀を持ち、黙って食べる。終いがけに、女が言った。


 「白い飯は、贅沢で、怖い。旦那の足もしびれてね。麦にしてから、朝が軽いのよ」


 栄吉は、耳を澄ませた。商いは、耳でつくる。噂に乗らない飯は、すぐ死ぬ。だが、この鍋は生きている。湯気の向こうで、客の頬が緩むとき、口をついて出る“ただの一言”が、鍋の背骨になる。


 晴人は、屋台の端で巳之吉に小声で言った。「麦飯はおかわりを自由に。満腹は病の薬になる」


 巳之吉が「はい」と答えたとき、空き家だった軒先に、もうひとつ暖簾が結ばれるのが見えた。墨の勢いは、先の店よりもやや弱い。だが、弱い線にも工夫は宿る。鍋のふちには、刻んだ大根の白が見え、豆腐の角が崩れかけていた。味噌が違うのか、香りが少し甘い。真似から始まる工夫は、やがて本物になる。町がそれを覚えれば、制度は後から追いつく。


 夜、晴人は短い活動報告を書いた。「水戸に温食あり。麦は勝つ飯。脚気に負けぬ町を、鍋で整える」。紙は簡潔で、火のそばで読める長さに留めた。長すぎる正論は、湯気に負けてしまう。


 その文は翌日には、藩庁の掲示板に、さらに翌日には市場の柱に貼られた。誰かが勝手に写し、誰かが勝手に短くした。伝わるべき骨だけが残り、余計な肉が落ちた。町は、良い意味で、編集者でもあった。

“水戸煮”が町で受け入れられ、麦飯の効能が、井戸端や職人宿で語られ始めると、その評判は自然と藩庁へ上がってきた。善意だけでは続かない。制度に載せるには、正式な場が要る。数日後、藩の一角に敷かれた畳の間で、藩士向けの試食会が開かれる運びとなった。障子から射す光が薄く畳に広がり、朱の膳が整然と並ぶ。白木の箸が、等間隔に置かれていた。


 膳に盛られたのは、黄金色に光る麦飯と、よく煮込まれたこんにゃくと大豆の味噌煮。椀の表面に、うっすらと油の輪が浮き、刻んだ葱がひと筋、湯気で踊る。正装の藩士たちは、互いに遠慮しつつ箸をとった。最初に音を立てたのは、若い書役で、次に、年配の郡奉行。やがて、間を支配していた遠慮は、湯気の密度に押されるように、少しずつ薄れた。


 「……うむ。香ばしさがある。白米とはまた違う“噛む味”だ」


 「このそぼろ、ほんとうに肉ではないのか?」


 「麦というのは、こんなに歯ごたえがあったか。腹に芯が入るな」


 声が出れば、空気は楽になる。ぽつぽつと感想が増え、やがて笑いも混じる。津田真道は、椀を置き、晴人に視線を投げた。


 「武士の食卓にも並べられる味だ。だが――継続供給は可能か?」


 晴人は、前へ一歩進み、用意していた紙片を広げる。そこには、要点だけが整えられていた。


 「大豆は城下で干して貯蔵できます。麦は利根川水系の畑で作付けを拡大中。味噌は地元麹屋と提携し、月百俵単位の製造見込み。配給は、子・病・老・働の順に重点を置きます。価格は庶民が毎日払える水準に限定し、藩札と物納の併用を認める」


 「藩札の信用は?」

 「鍋を通じて裏付けます。空の理屈ではなく、腹の納得で信用を作る」


 その時、ふっと障子が開き、吉田松陰が姿を見せた。彼は晴人に会釈し、冗談めかして言う。


 「香りに釣られて来ました。どうにも筆が進まなくて」


 乾いた笑いのあと、松陰は椀を手にとり、静かに口をつけた。ひと匙、噛む。ふた匙、噛む。三匙目で、彼の目の奥に、柔らかい光が宿る。


 「この一椀に、人を育てる力がある。飢えを防ぎ、病を防ぎ、人を働かせる。学舎の論よりも、鍋の湯気が志を立てることがある――“志を支える食”だ」


 松陰は椀を置き、晴人を見た。晴人は、言葉を選び、はっきりと告げる。


 「“水戸煮”は、飽きない味を。“麦飯”は、命を。“大豆”は、資源を。米の不作、勘定の細り、脚気の流行――それらを鍋ひとつで同時に削る。水戸から始める“食の再構築”です」


 その言葉は、畳の目に沿って静かに広がり、座していた藩士たちの背筋を、ほんの少しだけ伸ばした。机上の学問に、椀の重みが加わるとき、政治はようやく、体温を持つ。


 試食会が終わるころ、障子の外は薄暮で、庭石の影が長く伸びていた。誰かが咳をし、誰かが笑い、誰かが腹をさする。出ていく背中の多くが、椀の温度を忘れまいとするように、掌を擦った。


 その夜、一橋邸に届いた報告書に、一橋慶喜は筆を止めた。灯芯が揺れ、紙の端に影が落ちる。


 「……“水戸煮”、か」


 慶喜は、文を読み返す。町の鍋が、藩士の膳に上がり、やがて兵の飯へ伸びていく。この一椀は、財政の赤を薄め、病の黒を洗い、民の顔に血色を戻す。彼は、筆を置き、口元にかすかな笑みを浮かべた。


 「民の胃袋を掴むことが、政の一手になると見たか。……いや、それができるのなら、本物だ」


 障子の向こうで、風が松を鳴らす。湯気は見えない。だが、彼の胸の内には、たしかに温度があった。町から立った湯気は、今、政の中心にまで届いたのだ。

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その日、藩庁の一角で、麦飯と味噌煮の試食会が開かれた。  椀に盛られたのは、黄金色に光る麦飯と、よく煮込まれたこんにゃくと大豆の味噌煮。職務上初めて顔を合わせた藩士たちも、互いに遠慮しつつ箸を伸ばす。…
あれ?文章が重複しているような?
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