27話:才覚と氷、商いの船出
晴人は、手元のiPadに残されたメモを見つめていた。
かつての世界で蓄えた“未来の人材リスト”――その中に、一人の名があった。
岩崎弥太郎。
まだ何者でもない、土佐の郷士の息子。
だが、のちに日本最大の財閥を築き、明治政府の物流・貿易・金融の中核を担う、歴史的実業家。
「今はまだ……江戸で従者として動いてる頃のはずだ」
彼の立場は脆く、塾にも正式には通っていない。
それでも、晴人は知っていた。この時代の弥太郎にこそ、強烈な“登りたい意志”があることを。
――ならば、水戸で拾い、育てればいい。
水戸藩に今、必要なのは“武”でも“学”でもない。
商いで生きる知恵と、それをまとめあげる胆力だ。
晴人は、密かに使者を江戸へ送った。
送り先は奥宮慥斎――水戸ともつながりのある人物。
そしてそこに、弥太郎宛の文を添えた。
数週間後、風を連れて、ひとりの若者が水戸に現れた。
羽織は古く、草履の鼻緒も擦り切れていたが、瞳だけは鋭く、挑むように街を見渡していた。
「……藤村晴人殿、でありますか」
晴人のもとに現れた弥太郎は、第一声から遠慮がなかった。
その声に迷いはなく、居並ぶ藩士たちの視線をものともせず、堂々と座に着いた。
「聞きました。水戸で商いの新しい形を始めようとしておられるとか」
「その通り。だがまだ、人手が足りない。見識も、経験も……なにより、“腹の据わった若者”が必要だ」
「ならば、俺にやらせていただけませんか」
即答だった。
晴人はうなずき、かすかに口元を緩めた。
――やはり、見込んだ通りだ。
*
その頃、水戸の城下では、“水戸煮”を看板にした料理茶屋が数軒、営業を始めていた。
町の商人・栄吉が率先して立ち上げたもので、庶民にも手が届く価格帯で、味噌とこんにゃく、大豆ミート、長葱を煮込んだこの一品は、たちまち評判となった。
「うまいのに、安い」
「肉はないが、腹が膨れる」
「しかも、身体にもいいと来た!」
子どもから年寄りまで、評判は上々だった。
同時に、晴人がもう一つ力を注いでいたのが、“石鹸”だった。
灰汁と油を用いた石鹸づくりは、実は町の職人・喜兵衛とともに何ヶ月も試行錯誤していた案件だった。
最初は泡立たず、臭いも酷かったが、ようやく藁灰と菜種油を使った「灰石鹸」の試作品が完成した。
「……これは、ただの洗浄じゃない。病を減らすための武器だ」
手洗いが、病を遠ざける。
その当たり前を、この世界に根付かせるための第一歩だった。
*
弥太郎は、早速動き始めた。
町の問屋を訪ね歩き、商品の在庫や仕入れ先、売上の流れをつぶさに観察する。
数字にはまだ弱かったが、人の心をつかむ才は、すでに持っていた。
「おまんら、こんままじゃ損ばっかりじゃ。ならば一緒に買うて、一緒に売ろうや!」
いわば“共同仕入れ”――晴人の構想する協同組合の原型を、彼は商人たちに直接ぶつけた。
ある者は警戒し、ある者は興味を示し、ある者はただ笑っていた。
だが、彼の熱と理屈に心を動かされた者もいた。
「そげん言うなら、ひとつ乗ってみるか」
「栄吉が言うなら、間違いねぇだろう」
そして“商会”の芽が、小さく、だが確実に芽吹きはじめた。
*
同じ頃、水戸の藩邸では、大きな冷気の実験が行われていた。
氷室を模した土室の中、酒蔵から調達した天然塩と硝石、水の配合により、人工的に氷を作り出す実験である。
夜通し見張り番をつけ、温度を保ち、振動を避けて一晩。
翌朝、張られた水の表面に、うっすらと霜が浮かんでいた。
「……成功、か」
晴人は、その氷を丁重に包ませ、斉昭公のもとへと献上の準備を始めた。
この一片の氷が、のちに水戸の“夏の名産”となる日が来るなど、まだ誰も知らない。
*
その夜、弥太郎は商人の家の縁側で、一人、火鉢を前に肩を落としていた。
初めての“拒絶”を味わったのだ。
「……藩が認める商いなど、信用できるか」
年配の問屋主の、その言葉が、胸に残っていた。
「まだ……俺は、足りんのか」
爪を噛むように唇をかみしめる。
その姿を、軒下からそっと晴人が見ていた。
――育てるとは、失敗させることでもある。
だが、それを一人では終わらせない。背を見守る者がいる限り、彼は立ち上がるだろう。
夜が明ける頃、城下の市場通りに陽が差し始めていた。
昨日の冷え込みが嘘のように、朝の空気はやわらかく、湿った土の匂いと共に人の声が戻ってくる。
まだ日の出前だというのに、商会が用意した一角では、すでに十数名の商人たちが小声で言葉を交わしていた。
炊き出し所を借りたこの仮設会場では、晴人が呼びかけた“第一回 商会準備会議”が始まろうとしていた。
「本当に……役所が商売の世話までしてくれる時代が来るとはな」
「いや、役人じゃねえさ。あの旦那――藤村様は“商い”ってのを“戦”みてぇに考えてやがる」
帳簿とにらめっこしていた紙問屋の老主人が、しわがれた声で笑う。
その目の先には、弥太郎がいた。
裾をきちんと正し、何度も紙に目を落としながら、資料を整えていく。
彼はまだ未熟だ。数字の計算にも癖があるし、言葉がやや熱すぎることもある。
だが――人の顔を見る目と、空気の変わり目を読む勘だけは、鋭かった。
「ご協力いただいた諸兄に、まず感謝を。俺はまだまだ半人前ですが……水戸を、変えたいと思っております!」
弥太郎は頭を下げ、まっすぐ声を張った。
「共同で仕入れれば、無駄は減る。値も抑えられる。売るときも、揉めずにすむ。これを町ぐるみでやれれば、藩に頼らずとも生き残れる――そう思っております!」
武士たちの視線が集まる中で、町人が堂々と語る――それだけで異例のことだった。
「面白ぇ。おめぇさん、口だけじゃねぇな」
最初に笑ったのは、味噌問屋の喜兵衛だった。
「倅にゃちっと難しいかもしれねぇが、わしが代わりに加わるよ」
拍手が起こった。
そこからは、弥太郎の持ち味が発揮された。
その場で業種別に班分けを始め、最も仕入れに困っていた塩と干し芋、油の三品目を“初期優先流通商品”と定めた。
「塩は笠間経由で運ばれてるが、いっそ海から直接入れた方が安上がりじゃねえか?」
「水戸に港がありますからな」
「それなら那珂湊を使えばいい。地元漁師と手を組めば、魚の流通にも光が差す」
話は自然と、魚の冷凍保存や加工の話にまで及んだ。
晴人はその流れを見て、静かにうなずいた。
弥太郎の本当の才は、“点と点を線にする力”にあった。
*
その午後、晴人は斉昭の屋敷を訪れていた。
「この氷、確かに……人工のものか」
銀製の小鉢に乗せられた氷の塊を、斉昭はまじまじと見つめた。
氷は澄み、中心部はわずかに青みがかっている。
「この暑さの中で、冷えた酒が飲めるとは……水戸にも粋が戻ってきたようだ」
晴人はその言葉を受け、深く頭を下げた。
「氷の製法は、門外不出といたします。藩の名産として、夏場の献上品や茶会用に供するほか、町の者にも“薬効”を持つ品として広めたいと」
「うむ、よかろう。……して、あれも例の“商会”が動いておるのか?」
「はい。流通と販路を整えれば、いずれは江戸や他藩への販売も可能になるでしょう」
斉昭の目が細くなった。
「それは面白い。――わしがかつて夢見た、民の力による富国。そなたが形にしようとしているのか」
「いえ、私はまだ“起点”を示したに過ぎません」
*
夕暮れの街並みに、香ばしい香りが立ち上る。
弥太郎と商会の者たちは、市場の片隅で試食販売会を行っていた。
目玉商品は、水戸煮を応用した「味噌田楽」。
こんにゃくや豆腐を串に刺し、甘めの味噌を塗って炙っただけの簡素な料理だったが――
「うまっ……これ、屋台でも売れるぞ!」
「おい、こっち三本くれ!」
子どもたちが群がり、行商人も足を止めていた。
商会は、町の“味”を商品にするという初の試みに踏み切ったのだ。
「次は、乾燥味噌汁でも売ってみますかね」
弥太郎が、にやりと笑う。
晴人は笑い返し、言った。
「いいね。あと、お茶の流通にも手を伸ばそう」
「お茶?」
「ああ。日本のお茶は、いずれ“海外”で金になる。その時が来る。……今は、種を蒔いておく段階だ」
弥太郎の目が輝いた。
「――藤村様は、どこまで見えてるんですか」
「俺が見るのは、“未来の地図”だけだよ。でも、歩くのは君たちだ」
水戸という一つの城下町。
そこに、“商い”の血が流れ始めていた。
それは金だけの話ではない。
流通、衛生、情報――生きる術を持った民の“力”そのものだった。
そしてその中核に、岩崎弥太郎の姿が、はっきりと見え始めていた。
日が沈み、夜の帳が静かに町を包み込んでいく。
水戸の町には、これまでになかった新しい“熱”が生まれ始めていた。
商会の立ち上げから数日。
弥太郎は、朝から晩まで市場と会議場を駆け回っていた。
その日も、炊き出し場を改装した商会本部では、塩問屋や油屋、そして小間物を扱う若い商人たちが集められ、弥太郎のもとで意見を交わしていた。
「このあいだの味噌田楽、評判だったが……次はどうする?」
「干し芋と煎餅を一緒に売るってのはどうです? お茶の試飲もつけりゃあ、店の前で足を止める人は増えますぜ」
「よし、それ採用! 茶の仕入れ先は――あ、安達さん、例の鹿行の農家と話はついてますか?」
「ええ、ただし条件がひとつ。“藩の許しがある”と証文がいるそうです」
弥太郎は一瞬うなったが、すぐ顔を上げた。
「証文なら、俺が書きます。藤村様にも通して、印をもらおう。約束は守る、って言えば農家も安心するはずだ」
それを聞いて、周囲が頷く。
――商いとは、信用を積み重ねてこそ。
それを誰よりも理解していたのが、弥太郎だった。
*
午後、弥太郎は市場の一角――空き家だった町家の奥で、一人の職人と向き合っていた。
「……これが、“石鹸”か」
握りこぶしほどの白い塊を、弥太郎は手にとって見つめた。
薄く甘い香りがし、しっとりとした感触が指先に残る。
原料は、菜種油と灰、そして香草の汁。晴人の指導のもと、地元の職人が試行錯誤を重ねて作り上げた。
「香りつきはまだ試作段階ですが……皮膚にも優しいようでしてな。特に、炊き出し場で働く女たちに好評です」
「ほう……これを売り出せれば、女衆に火がつくな」
弥太郎の目が鋭く光る。
「この品、名をどうする?」
「“水戸せっけん”では味気ないかと思いまして……“白梅玉”などと」
「……いい。風雅もあるし、贈答にも使える。夏場には氷と一緒に、屋敷へ納める形にすれば貴族筋にも通じるはずだ」
「弥太郎様、まさかそこまで――」
「見据える先が、広くなくちゃな」
*
夕刻、晴人と弥太郎は氷室――人工氷の保存庫に向かっていた。
氷は、夜間に井戸水を冷却槽に流し込み、反射板と風を使って凍らせる仕組みだった。
晴人が科学の記憶を頼りに、町の鍛冶職人や冷房技師と組んでようやく形にした。
「これは……本当に、氷ですか」
弥太郎が声をひそめる。
木箱に収められた氷は、厚さ四寸を越え、触れれば確かに冷たかった。
「これを……江戸に売るつもりですか?」
「まだ無理だ。生産量が少ないし、運搬技術も確立していない。ただ、今は“貴重品”として扱えば、それ自体が評判になる」
「評判……宣伝の手段になるってことですね」
晴人は静かに頷いた。
「今宵、斉昭公にはすでに献上を済ませた。江戸にいる慶喜様にも、近く文を添えて届けるつもりだ。夏に冷たい甘味を出せるだけで、どれほど屋敷中が驚くか――目に浮かぶようだよ」
*
その夜、弥太郎は、商会の夜間会合を任されていた。
「……弥太郎殿、お話というのは?」
集まったのは、町の油問屋、茶商、反物屋など。
皆一様に、着流し姿の若い弥太郎に半信半疑の目を向けていた。
「本日は、重要な提案があります」
弥太郎は、緊張した面持ちで口を開いた。
「我々の商会は、今まで仕入れや流通の効率化を進めてまいりました。ですが――それだけでは、外から水戸に金は流れません」
会場が静まる。
「いずれは、水戸の品を“外に売る”ことが不可欠です。干し芋、石鹸、味噌、茶、そして――氷。すべてはその布石です」
「そりゃ……江戸に売れるとでも?」
茶商が言った。
「売れるんです。いや、売れるようにする。水戸には、誇れるものがある。ただ、知られていないだけなんです!」
言葉に熱がこもる。
「だから、まずは“展示会”を開きます。城下の北町――廃屋だった旅籠を借りて、品評会をやるんです。民だけじゃない。武士も、医者も、子どもも呼び込むんです」
目を見開く町人たち。
「藩が民を育てる時代は終わります。これからは、民が藩を動かす。……俺は、そう信じてます!」
しばしの沈黙ののち、反物屋の壮年男が、立ち上がった。
「……いいだろう。うちの娘にも売らせてみるよ。おまえさんの言葉、妙に嘘がねぇ」
それを合図に、拍手が起こる。
町の血が、動き出していた。
献上品が江戸の地で静かに波紋を広げる頃、水戸の城下では新たな動きが始まっていた。
廃業した旅籠を改装し、晴人と弥太郎は「品評・展示会場」の準備を進めていた。
看板には、「水戸商会・第一回物産見本会」の文字。木の板に黒墨で力強く書かれた字は、素朴ながらも威厳があった。
旅籠の一階は、干し芋・味噌・煎餅・石鹸・油・茶・白梅玉といった町の商人たちの品々が並ぶ。
台には敷布をかけ、藁や杉の葉で装飾が施されており、晴人の“令和の展示ブース”の記憶を活かした工夫が随所に見られた。
「これで……“民の力”を、目に見える形で示せる」
晴人の言葉に、弥太郎は力強く頷いた。
「俺、正直言って、こんな世界があるとは思ってなかったんです。武士だけが藩を動かすもんだと思ってた。けど……民だって、商いだって、戦える」
「戦い方が違うだけさ」
「はい。俺も“戦う”つもりで動きます」
弥太郎の眼には、火が宿っていた。
*
展示会の初日。
旅籠の前には朝から行列ができ、武士、商人、町娘、百姓、そして子どもたちまでが詰めかけた。
中でも人気を集めたのは、やはり白梅玉だった。
香りを試した町娘が思わず顔を赤らめ、武家の奥女中がまとめ買いを申し出るほどだった。
さらに、氷を使った甘味の試食では、白玉と寒天を小鉢に盛り、蜜をかけて出すという演出が人々の注目を集めた。
「冷たい……!」
「こんな甘味、初めてじゃ……!」
歓声が上がるたびに、弥太郎は会場の隅で頷いていた。
それは商売というより、未来へ向けた実験だった。
そして、江戸から来ていた数人の町人が、ふと弥太郎に声をかけた。
「この品々……江戸で取り扱えませんかな?」
「まずは少量から。数を揃えるには、まだ時間がかかりますが――やります。必ず、やってみせます」
笑みを浮かべた弥太郎の背で、晴人は確かに“新しい力”が芽吹いているのを感じていた。
*
展示会の成功は、藩内にも波紋を広げた。
今まで民の商いに無関心だった中老や代官の中にも、「藩が支援するべきでは」という声が出始める。
晴人は迷わず、藩庁に提案書を提出した。
――「水戸商会は、藩の保護下に置き、販路拡大を図ること」
――「品目ごとに帳簿を整え、江戸・上方の商人とも文を交わすこと」
――「特産品として“氷”“白梅玉”“干し芋”の三本柱を確立すること」
数日後、藩庁から正式な許可が下りた。
「水戸藩公認・町民商会」として、水戸商会は新たな立場を得たのだった。
*
弥太郎は展示会の片づけが終わった夜、晴人に頭を下げた。
「ありがとうございます。俺は……晴人様のもとで、まだまだ学びたいです」
「俺は先生じゃない。だが、未来の地図を少しだけ見てるだけだ」
「……それで十分です」
弥太郎は拳を握りしめた。
「俺、この商会を……“民のための、戦える船”にします。水戸から、外に出してみせます」
その夜、星がきらめいていた。
そして、旅籠の跡地に立てられた看板の下では、一人の少年が炊き出し場の残り物を分けてもらいながら、弥太郎を見上げていた。
彼もまた、新たな未来の芽だった。