26話:腹を満たす、心を繋ぐ一椀
藤村晴人は、藩庁の炊き出し場に立ち尽くしていた。初秋の風が、火の煙とともに土の匂いを運ぶ。鍋の中で煮立つ大根と里芋の音が、腹を空かせた町人たちの胃袋をくすぐっていたが、晴人の顔は浮かない。
「……これじゃ、ただの芋煮だ」
囲炉裏の傍らで火を見張っていた老調理人が首を傾げた。
「どうかされましたか、藤村様。味は悪くありませんが」
晴人は黙って小さく首を振る。味のことではないのだ。この町には“熱”が足りない。生きる意志を引き出す、あの一杯の衝撃――江戸で話題になっている“ももかわ”のような、庶民が銭を握って通うほどの、魂のごちそうが。
「江戸では、牛鍋が話題を呼んでいる……いや、呼び始めている、が正確か。あれは、ペリー来航のもてなしを契機に生まれた“味の外交”だ。料理で人の心を動かす――今、水戸にもそれが必要だ」
とはいえ、牛は高い。牛肉を毎日供するなど、水戸の財政では夢物語だ。まして町人向けに日々出せる代物ではない。
ふと晴人の脳裏に、現代の食材がよぎった。
大豆ミート。
その名を、この時代で声にすることはできないが――乾燥した大豆を湯で戻し、潰して油と混ぜ、繊維状に形成した食材。まさに“肉のもどき”だ。
「……試してみる価値はある」
晴人は厨房の土間に向き直り、藩の調理係と町の炊き出し担当を呼び集めた。
「よし、これから“新しい料理”を試す。だが、見た目は牛鍋、中身は……大豆だ」
調理係の男たちが一斉に顔をしかめた。
「豆で肉を? そんな無茶な……」
「いや、やれる。味噌、醤油、酒粕、さらには玉ねぎと生姜の力を借りれば、充分に“肉らしい風味”になるはずだ」
かくして始まった、即席の調理実験。乾燥大豆を水で戻し、包丁で粗く叩いて、芋がらと混ぜる。これを油で軽く炒め、刻んだ葱とともに甘辛い味噌で煮込んだ。
煮上がるまでの時間、周囲は沈黙していた。が、鍋の蓋を開けた瞬間、蒸気に乗って立ち昇る香りに、誰もが眉を上げた。
「……肉?」
「いや、豆だ。でも、匂いが……」
晴人は器に盛った汁を一口、啜った。
「……いける。これは“水戸の牛鍋”だ」
「水戸煮と呼ぼう」佐野常民がふと呟いた。「肉ではなくとも、人の体を温め、心をほどく。ならば、それは鍋以上の“処方”だ」
数刻後、町人たちの列が伸びる炊き出し場に、例の“水戸煮”が配られ始めた。
初老の男が椀を口に近づけ、ゆっくりと一口すする。目を閉じて、しばし無言。その頬がじんわりとゆるみ、静かに呟いた。
「……うまい」
周囲がざわついた。
「肉じゃないのか?」
「いや、豆だとよ。でも、こんなに旨く作れるのか……!」
子どもが笑い、女たちが拍手した。言葉はなくとも、その場に灯った“温かさ”こそが、町に戻るべき誇りの一端だった。
晴人は、湯気の向こうで佐野と目を合わせた。
「一杯の料理で、町が変わる……。たとえ大豆でも、想いを込めれば、ここまでできるんだ」
「侮れんな、豆というやつは」佐野が笑う。「医療と同じだ。素材ではない、扱い方が命を救うのだよ」
その日から、「水戸煮」の名は町のあちこちに広まっていった。屋台に並ぶ女将が味を真似し、若い町人が味噌仕立ての煮込み屋を始める。店の暖簾には、手書きでこうあった――「心あたたまる、みとのに」
炊き出し場に、朝の光が差し込む。薪の弾ける音と、味噌が煮える香りが、城下の空腹を静かに満たしていく。木桶の中では、こんにゃくと白ネギをじっくり煮込んだ味噌煮が、とろりとした艶を帯びていた。
「こいつぁ、温まる……腹の芯から、ありがてぇ」
土間に腰を下ろしていた老職人が、ふうふうと湯気を吹きながら呟く。
「大豆のそぼろも、肉みてぇだな……まさか、豆からできてるなんて思わなかったぜ」
娘を抱いた母親も笑みを浮かべる。大豆ミートと麦飯、そして味噌煮――晴人が試作を重ねた“水戸の温食”は、少しずつ、町人たちの心と体に染み込んでいた。
その様子を少し離れた高台から見守る男がいた。
藤村晴人は、瓦屋根の連なる町並みを見下ろしながら、小さく息をついた。
「白米五合……それが江戸の男たちの“当たり前”だったそうです。だが、それは、贅沢ではなく、毒だった」
「脚気、ですな」
隣に立つ佐野常民が頷く。
「白米ばかり食えば、足の痺れが始まり、やがて心臓にまで影響が出る。脚気は、病ではなく“慢性的な飢え”なのです」
「ならば、救える」
晴人は、ぐっと拳を握る。
「白米ではなく、麦を。味では劣っても、命には勝る」
すでに試験的に始めた“麦五分米”は、町人たちの抵抗感を呼んでいた。
「麦飯だァ? 犬の餌じゃねぇか」「白飯が出ねぇ藩なんて、終わりだ」
そんな声も、晴人の耳に届いていた。
「わかってます。彼らにとって白米は、“努力の証”なんです。だが……食って死ぬか、生きて麦を食うか」
「変えるには、まず心を説くしかないですな」
佐野は軽く笑った。
「ただ……殿中では反発も強い。『水戸の名を落とすな』『江戸に笑われる』と」
「笑わせておけばいい。命を笑う者に、国は任せられない」
晴人の瞳は強い光を帯びていた。
*
その日、藩庁の一角で、麦飯と味噌煮の試食会が開かれた。
椀に盛られたのは、黄金色に光る麦飯と、よく煮込まれたこんにゃくと大豆の味噌煮。職務上初めて顔を合わせた藩士たちも、互いに遠慮しつつ箸を伸ばす。
「……うむ。香ばしさがあるな。白米とはまた違う」
「このそぼろ……ほんとうに肉ではないのか?」
「麦というのは、こんなに噛み応えがあったか……」
次第に、沈黙が破られ、口々に感想が飛び交う。
津田真道は椀を置き、晴人に視線を向けた。
「これは……武士の食卓にも並べていい味だ。だが、継続的に供給できるのか?」
「はい。大豆は城下で干して貯蔵できます。麦も利根川水系の田畑で育て始めました。味噌も地元の麹屋と提携し、月百俵単位での製造が可能です」
晴人の声には、確かな裏付けがあった。
そこへ、吉田松陰が姿を見せた。
「……香りに釣られて来ました」
冗談めかした口調で、椀を手に取る松陰。その瞳に、真剣な光が宿る。
「この一椀に、人を育てる力がある」
松陰はゆっくりと食べながら呟いた。
「飢えを防ぎ、病を防ぎ、人を働かせる……これが“志を支える食”か」
「そうです」
晴人は静かに答えた。
「“水戸煮”は飽きない味を。“麦飯”は命を。“大豆”は資源を……すべては、水戸から始まる“食の再構築”です」
*
数日後、町人の間では“水戸煮屋”が開店していた。
味噌だれの匂いが通りに立ち込め、麦飯と一緒に出されるそぼろこんにゃくが人気を博していた。
「よう、今日の味噌煮は大根が入ってるぜ」「豆腐もなかなかいける!」
“うまい、安い、腹がもつ”の三拍子が揃った水戸煮は、日々行列を生み、やがて町を活気づけていった。
ある母親が、炊き出しの列で小声で呟いた。
「白米はね……贅沢だけど、怖いのよ。旦那も、隣の若い衆も、みんな足が痺れるって……でも、麦を食べてからは、元気になったの」
その言葉に、晴人は遠くから深く頷いた。
「この町を、“食で守る”。それが、今の私の戦だ」
晴人が導入した“水戸煮”――こんにゃくと大豆ミート、味噌、そして長ネギを使った熱々の煮込みは、城下に静かに、そして確かに広まりつつあった。
その日の午後、晴人は藩庁の外、町家を改装した炊き出し所の一角に立っていた。天井は煤け、土間には大釜と桶がずらりと並んでいる。焚き火の煙がほんのりと鼻に刺さるが、不思議と心地よかった。
湯気が立ち上る大鍋の中では、こんにゃくがぷるぷると揺れ、厚く切ったネギがとろりと煮崩れ始めていた。味噌の香りが漂い、釜の前に立つ男たちの額には、湯気とは違う汗が浮かんでいた。
「味噌は少し控えめにしてくれ、塩分が強すぎると子どもや病人にはつらい」
「へい、旦那」
晴人の指示に、町の調理人・松次がうなずいた。彼は元々、町の味噌問屋の手伝いだったが、晴人の呼びかけに応じて炊き出し場の手伝いに入った者の一人だ。真面目で几帳面な性格は、こうした現場に向いていた。
「旦那、こいつぁ、肉が入ってねえってのに、なんでこんなに旨えんですかね?」
松次がふと呟いた。
「……心の底から、あったまるっていうか」
晴人は、微笑を浮かべながら答えた。
「“味”っていうのは、材料だけで決まるもんじゃない。塩梅と、手間と、なにより――誰のために作っているか、だよ」
その言葉に、松次はじんと胸が熱くなったような顔をして、釜を見つめ直した。
*
数刻後、通りの広場に、木の長椅子が並べられていた。晴人の指示で設置された即席の“屋外食堂”だった。子どもたちや老女が一人、また一人と列に並び、味噌煮込みの湯気に誘われるように集まってくる。
「ほら、お椀を持っておいで」
「熱いから気をつけるんだよ」
小さな手に味噌煮が注がれるたび、子どもたちの目がまん丸になる。初めて口にする“水戸煮”の、あたたかさと旨みが、口内いっぱいに広がる。
「……これ、お肉じゃないの?」
「ふふ、こんにゃくとお豆だよ。たんぱくもあるし、脚気も防げる。麦飯もおかわり自由だからね」
麦飯――それも、脚気を恐れる晴人が強く推奨した主食だった。精白米の代わりに麦を混ぜて炊き上げた飯は、最初こそ敬遠されたが、今では身体に良いと評判になり始めていた。
「白米は江戸の贅沢、だが健康には敵なんだ。麦には命を守る力がある――って、口癖のように言ってましたよね、旦那」
そう言ったのは、見習い医師の巳之吉だった。まだ若いが、晴人の指導のもと、炊き出し場の衛生管理や栄養監督を担っている。
「うん、江戸じゃ白米ばかり食べて脚気で倒れた人が山ほどいた。でも、水戸では倒れても立ち上がれる体を作りたい」
子どもたちが嬉しそうに麦飯と水戸煮を頬張る姿を見ながら、晴人は胸の奥でそっと拳を握った。
*
夕方になる頃、“水戸煮”の評判は市場を通じて町全体に広がっていった。
炊き出し場のすぐそば、空き家だった古い町家に、一人の商人が興味津々と足を踏み入れてきた。
「……こりゃあ、商いになるかもしれねぇな」
町の小料理屋を営んでいた男・栄吉が、味見をした後にぽつりと漏らした。
「牛肉や鶏を使わずに、こんだけ旨い。味噌も野菜も、地元で賄える。……おまけに脚気も予防できるって? こいつぁ、“水戸煮”として看板にできる」
彼はその場で、晴人に開業の許可を願い出た。
「藩の公許があれば、町に出す料理屋として、これを売り出してぇ。藩の名前も出して構いません」
晴人は少しだけ目を見開き、やがて静かに頷いた。
「いいでしょう。ただし、価格は庶民の手の届く範囲で。味と志、両方が揃ってこそ“水戸煮”です」
「もちろんです!」
栄吉は深々と頭を下げた。
*
その夜、一橋邸に届いた報告を読みながら、一橋慶喜はふと筆を止めた。
「……“水戸煮”、か」
目を細め、報告書を読む手をしばし止める。藩政改革の進捗報告に混じって、町での新料理の開発と、それによる町人経済の活性化が綴られていた。
「藤村晴人……民の胃袋を掴むことが、政の一手になるとでも思ったか。……いや、それができるのなら、本物かもしれん」
慶喜の顔に、僅かに笑みが浮かんだ。
炊き出し場に、朝の光が差し込む。薪の弾ける音と、味噌が煮える香りが、城下の空腹を静かに満たしていく。木桶の中では、こんにゃくと白ネギをじっくり煮込んだ味噌煮が、とろりとした艶を帯びていた。
「こいつぁ、温まる……腹の芯から、ありがてぇ」
土間に腰を下ろしていた老職人が、ふうふうと湯気を吹きながら呟く。
「大豆のそぼろも、肉みてぇだな……まさか、豆からできてるなんて思わなかったぜ」
娘を抱いた母親も笑みを浮かべる。大豆ミートと麦飯、そして味噌煮――晴人が試作を重ねた“水戸の温食”は、少しずつ、町人たちの心と体に染み込んでいた。
その様子を少し離れた高台から見守る男がいた。
藤村晴人は、瓦屋根の連なる町並みを見下ろしながら、小さく息をついた。
「白米五合……それが江戸の男たちの“当たり前”だったそうです。だが、それは、贅沢ではなく、毒だった」
「脚気、ですな」
隣に立つ佐野常民が頷く。
「白米ばかり食えば、足の痺れが始まり、やがて心臓にまで影響が出る。脚気は、病ではなく“慢性的な飢え”なのです」
「ならば、救える」
晴人は、ぐっと拳を握る。
「白米ではなく、麦を。味では劣っても、命には勝る」
すでに試験的に始めた“麦五分米”は、町人たちの抵抗感を呼んでいた。
「麦飯だァ? 犬の餌じゃねぇか」「白飯が出ねぇ藩なんて、終わりだ」
そんな声も、晴人の耳に届いていた。
「わかってます。彼らにとって白米は、“努力の証”なんです。だが……食って死ぬか、生きて麦を食うか」
「変えるには、まず心を説くしかないですな」
佐野は軽く笑った。
「ただ……殿中では反発も強い。『水戸の名を落とすな』『江戸に笑われる』と」
「笑わせておけばいい。命を笑う者に、国は任せられない」
晴人の瞳は強い光を帯びていた。
*
その日、藩庁の一角で、麦飯と味噌煮の試食会が開かれた。
椀に盛られたのは、黄金色に光る麦飯と、よく煮込まれたこんにゃくと大豆の味噌煮。職務上初めて顔を合わせた藩士たちも、互いに遠慮しつつ箸を伸ばす。
「……うむ。香ばしさがあるな。白米とはまた違う」
「このそぼろ……ほんとうに肉ではないのか?」
「麦というのは、こんなに噛み応えがあったか……」
次第に、沈黙が破られ、口々に感想が飛び交う。
津田真道は椀を置き、晴人に視線を向けた。
「これは……武士の食卓にも並べていい味だ。だが、継続的に供給できるのか?」
「はい。大豆は城下で干して貯蔵できます。麦も利根川水系の田畑で育て始めました。味噌も地元の麹屋と提携し、月百俵単位での製造が可能です」
晴人の声には、確かな裏付けがあった。
そこへ、吉田松陰が姿を見せた。
「……香りに釣られて来ました」
冗談めかした口調で、椀を手に取る松陰。その瞳に、真剣な光が宿る。
「この一椀に、人を育てる力がある」
松陰はゆっくりと食べながら呟いた。
「飢えを防ぎ、病を防ぎ、人を働かせる……これが“志を支える食”か」
「そうです」
晴人は静かに答えた。
「“水戸煮”は飽きない味を。“麦飯”は命を。“大豆”は資源を……すべては、水戸から始まる“食の再構築”です」
*
数日後、町人の間では“水戸煮屋”が開店していた。
味噌だれの匂いが通りに立ち込め、麦飯と一緒に出されるそぼろこんにゃくが人気を博していた。
「よう、今日の味噌煮は大根が入ってるぜ」「豆腐もなかなかいける!」
“うまい、安い、腹がもつ”の三拍子が揃った水戸煮は、日々行列を生み、やがて町を活気づけていった。
ある母親が、炊き出しの列で小声で呟いた。
「白米はね……贅沢だけど、怖いのよ。旦那も、隣の若い衆も、みんな足が痺れるって……でも、麦を食べてからは、元気になったの」
その言葉に、晴人は遠くから深く頷いた。
「この町を、“食で守る”。それが、今の私の戦だ」