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25話:志、風に乗る

水戸の城下に、柔らかな秋風が流れていた。


 昼を過ぎ、弘道館の講義室には、墨の香りと微かな木の軋みが漂っている。光の斜面が白壁を這い、障子の紙を透かして格子の影が畳に落ちていた。


 藤村晴人は、席の一つに腰を下ろし、目の前に立つ男をじっと見つめていた。


 ――吉田松陰。


 黒の羽織をまとう小柄なその男は、藩士でも学者でもない。だが、彼の語る言葉は、場の空気を一変させる熱と静けさを兼ね備えていた。


 「剣を抜かずに吠える者は多い。しかし、剣を抜いて目を閉じる者もまた多い。それでは何も守れはしない。目を開き、剣を構え、言葉を失わずにいること。それこそが志ある者の務めです」


 静かだった講義室に、ただその声だけが凛と響いていた。


 生徒たちが息をのむ。


 中には、年若い町人や藩の下級武士の姿も混じっていたが、誰一人として気を抜いている者はいない。それほどに、松陰の語る思想は真摯であり、苛烈だった。


 講義が終わり、礼を述べた若者たちが次々と立ち上がって部屋を出ていったあと、残ったのは晴人と松陰だけとなった。


 しばしの沈黙の後、晴人が口を開いた。


 「吉田先生――あなたは、ここ水戸で、すでに多くの若者たちの心を動かしています。もしよければ……今後も、水戸に留まり、志を共にしていただけませんか?」


 松陰は首をかしげ、笑みを浮かべた。


 「不思議ですね。私は長州でも居場所を失い、江戸でも疎まれた存在。だが、この水戸という地では、なぜか言葉が生きる気がします」


 「藩の枠に囚われない発想が、今の水戸には必要なのです」


 晴人は真顔で答えた。目に宿る光に、迷いはなかった。


 「幕府に仕える気概を持つ我が藩こそ、志の受け皿になるべきだと信じています」


 松陰の笑みが薄れ、やがて真剣な眼差しへと変わった。


 「長州には、私のような者の居場所は、もはやありません。戻れとすら言われていない。私はただ、学び、語りたい。それが許される地が、ここ水戸であるのなら……」


 晴人は、そっと一枚の紙を差し出した。


 それは、吉田松陰を「非常勤講師」として、弘道館に迎え入れる旨を記した藩命の写しだった。奉行の許可印も、すでに押されている。


 「――これは?」


 「公には弘道館の講師。非公式には、私の改革を支えてくれる“参謀”として、力を貸してほしいのです」


 松陰は紙をしばらく見つめ、やがて力強く頷いた。


 「……わかりました。では、私は水戸に骨を埋める覚悟で参ります」


 その言葉に、晴人は深く頭を下げた。


 そしてこの日から、吉田松陰は水戸藩に籍を置くこととなる。


 彼の存在は、制度改革、兵制教育、町民の精神涵養にまで広く影響を及ぼし、やがて人々から「水戸の三才」と呼ばれるに至る。


 ――佐野常民、津田真道、吉田松陰。


 時代の転換点にあって、三つの才がいま、水戸の風に乗っていた。

町の施療所へ向かう道すがら、藤村晴人と吉田松陰は連れ立って歩いていた。


 肌寒さを帯び始めた秋の風が、黄に染まる銀杏の葉を揺らす。城下町は静かだが、人々の暮らしの音は確かにそこにあった。木戸を叩く音、子どもの笑い声、道端で野菜を売る声……すべてが、水戸の息吹そのものだった。


 「……よく整えられている。道も、町も、民の顔も」


 松陰がぽつりと呟く。晴人はその言葉の意味を量るように横顔を見た。


 「ですが、整って見えるのは表だけです」


 晴人は足を止め、道の先を指さした。


 「この先にある炊き出し場と施療所を見ていただければ、それがわかるはずです」


 歩を再び進める二人の前に現れたのは、質素な木造の平屋だった。表に「町施療所」と墨書された札が掲げられ、狭いながらも清潔に保たれた玄関には数人の町人が順番を待っていた。


 建物の中からは、薬草の匂いと子どもの咳が聞こえてくる。


 「薬は限られており、医師も足りません。応急処置がやっとです。ですが……ここがあるだけで、助かる命もあるのです」


 晴人が静かに語ると、松陰は黙ってその様子を見つめた。中からは、若い町医者が、顔色の悪い老女に手当てをしている姿が見えた。包帯を巻く手は慣れていたが、薬壺の中はもうほとんど空であるようだった。


 「……この仕組み、すでに町内にいくつかあるのか?」


 「三つ、です。ただ、炊き出し場と兼ねている場所もあり、常に人手が足りない。民も最初は警戒していましたが、今では朝から行列ができることもあります」


 施療所の裏手へ回ると、広場の一角に粗末な台所があった。大鍋が据えられ、火が焚かれている。小さな少女が、鉄鍋の湯気を見上げていた。隣には母親と思しき女性が立ち、配られるのを静かに待っている。


 「……我が国には“民を育てる”という発想が、まだ定着していません」


 晴人は、鍋に向かって汁をかき混ぜる町娘の姿を見つめながら言った。


 「武士は戦い、百姓は耕す。町人は売買する……そう分けてきた結果、貧しい者は見捨てられてきました。ですが、民を育てなければ、国は育ちません」


 松陰は黙って頷いた。その表情には、どこか揺らぎがあった。


 (これは……儒学でも、兵法でも、語り尽くせぬ現場だ)


 町の子が、配膳を手伝いながら、転びそうになった小さな男の子を支える。


 「こら、ちゃんと列に並ばなきゃ駄目だよ」


 笑いながら言う声に、晴人と松陰の視線が重なる。


 「民が民を助ける……この風景、儒の教えにこそ適っておる」


 ぽつりと松陰が言ったとき、その目には微かな光が宿っていた。


 「民を斬らぬ剣を、わたしも……ここで学ぶべきかもしれません」


 晴人は、言葉を返さず、ただ静かに歩き出した。


 その後ろ姿に、松陰は小さく微笑みを返し、やがて一人の子どものもとへ歩み寄る。


 「君は、今日は何を食べた?」


 「えっと、汁と、おにぎり!」


 「そうか……では、よく噛んで、明日も元気に走るのだぞ」


 松陰は子どもの頭を優しく撫でた。


 それは、志士ではなく、一人の人としての優しさだった。

町の風が、秋の実りの匂いを帯びて吹き抜けていく。穏やかな日差しが町屋の瓦に淡く反射し、子どもたちの笑い声が裏通りにこだまする。


 吉田松陰は、町の施療所から出たところで、足を止めた。


 石畳の先、水戸城下に設けられた第二炊き出し場には、貧しい身なりの民たちが列をなし、粥の入った木椀を抱えていた。だが、その目には、諦めではなく、小さな希望の光が宿っている。


 ――これが、制度の力か。


 松陰は無意識のうちに拳を握っていた。かつて自らが叫んだ「攘夷」とは、敵を追い払う叫びでしかなかった。だが、ここには違う“志”があった。民を生かす制度、民を育てる仕組み――それが目の前で静かに、しかし確かに育っている。


 道の向こう、古びた町家を改装した建物の一角で、三人の男たちが語らっていた。


 中心に立つ藤村晴人は、若さを湛えながらも、その眼差しに曇りがなかった。横に並ぶのは、佐野常民と津田真道。いずれも、ただの士ではない。佐野は衛生と軍略を兼ね備えた才覚の持ち主、津田は理法をもって世を調える力を秘めていた。


 松陰はしばし、その光景を黙って見つめた。


 (三人――いや、とくにあの藤村晴人という男は……)


 その振る舞い、言葉の重ね方、人と人を繋げる才――すべてが、ただの藩士には収まらぬ器である。民の顔を見て、言葉を聞き、何が足りぬかを考える。そしてただ指示するのではなく、共に歩く姿勢。そこに偽りはなかった。


 ふと、背後から声がした。


 「松陰先生。お戻りで?」


 振り向けば、町の若者たちが簡素な道着姿で頭を下げていた。新たに開かれた寺子屋の生徒たちである。わずか三ヶ月足らずで、町の識字率は目に見えて上がっていた。


 「今日も、学びの場へ?」


 「はい。晴人様が『読み書きは、己の命を守る武器だ』とおっしゃって……」


 若者たちは恥ずかしげに笑い、風のように走り去っていった。


 松陰はその背を見送りながら、小さく息をついた。


 (“学び”とは、ここでは生きる手段であり、誇りでもあるのか)


 いつの頃からだろう、自分が「教える者」であろうとし過ぎていたのは。己の思想を広めることがすべてだと思い込んでいたのではないか。“民の声”を聞く耳を、忘れていたのではないか――


 (私は、いつから“学ぶ”ことをやめた……?)


 胸の奥で、静かな痛みが生まれた。まるで、古い刀傷が疼くような感覚だった。


 視線の先で、晴人が紙束を広げていた。見れば、墨の図と現代的な数字が混在している。聞けば、「衛生艦」――現代で言えば“病院船”に相当する艦船を、水戸藩の資金で建造するというのだ。


 「軍艦ではなく、民を救う船を。災害、疫病、戦乱の際に中立の旗を掲げ、万人を救う。その先駆けとなる艦を、水戸で形にしたいのです」


 晴人の声は静かだったが、確かな熱を帯びていた。


 佐野が静かに唸り、津田が唇を引き締める。


 「資金はどうするのか。既に炊き出し、施療所で財政は逼迫していると聞きます」


 晴人は頷きながら、懐から別の紙束を取り出した。そこには、民間資本を導入した新たな融資制度、藩営と民営の協同事業、さらに“利子制限付き投資制度”なるものまでが記されていた。


 「……未来の民が、未来の民を助ける仕組みです。搾取ではなく、還元の輪を……」


 松陰の胸に、また新たな感情が芽生えた。それは嫉妬ではなかった。憧れでもない。ただ――


 (……この男に、私は何を与えられるだろう)


 かつて、己が学びの炎を他者に灯そうとしたように、今度は自分が、その灯火の傍に立っていたいと、そう思った。


 水戸に残ること。


 それは、故郷を捨てることではない。志を捨てることでもない。


 むしろ――ここでこそ、“日本”の明日を形にできるのではないか。


 風が、再び吹いた。


 吉田松陰は目を閉じ、胸の内でひとつ、覚悟を決めた。


 ――私は、ここに残る。学び、支え、そして、未来を語ろう。

水戸城下・学館。


 風が障子の隙間をくぐり抜け、静かに書の香りを撫でていく。


 この日も吉田松陰は、子どもたちに囲まれていた。彼の前に並ぶのは、百姓の子、町人の子、そして若い藩士見習いの少年たち。決して身分で区別されることのない“教場”だった。


 「……ただ書を読み、剣を振るうだけで、世は変わると思うか?」


 松陰の問いに、少年たちは困ったように顔を見合わせた。


 その視線を受けながら、松陰はゆっくりと黒板に字を書く。


 “志”


 たった一文字。


 それを見つめる松陰の目に、かつての激しさはなかった。ただ、深く静かに、言葉を紡ぐように語った。


 「志とは――人のために、自らを鍛え、尽くす心だ。攘夷でも開国でもない。“志”なき行動は、ただの喚きに過ぎん」


 数人の子どもが、目を見開く。誰かがぽつりとつぶやいた。


 「じゃあ……先生は、攘夷しないの?」


 松陰は笑った。柔らかく、けれどどこか寂しげな笑みだった。


 「かつての私は、“攘夷”の旗の下に燃えていた。だが、それだけでは何も変わらなかった。むしろ、人を傷つける言葉を振り回していたのだと、気づいた」


 その言葉に、教場の空気が静まる。


 彼の語りは、子どもたちだけでなく、背後で立っていた書生や見回りの藩士たちの心にも、確かな何かを落とし込んでいた。


     *


 その夜、晴人は水戸藩庁の書状机に向かって筆を走らせていた。


 ――差出人:水戸藩藩政補佐 藤村晴人

 ――宛先:幕府若年寄並・一橋家中屋敷


 件名は、「吉田松陰の動向および藩内貢献に関する報告書」。


 そこには、吉田松陰の近況、講義内容、民衆への影響などが詳細に記されていた。


 特に注目されたのは、以下の記述だった。


 >「当藩における吉田松陰の言行は、過激思想にあらず。むしろ実学と志の融合に向けて思索を深め、若年層教育に大きな成果を上げております。

 >水戸学と陽明学の交差点に立ち、民の中から人材を育てる姿勢は、幕政改革においても資すべき素地と存じます」


 それは単なる情報ではなかった。晴人は、敢えて“幕府に推薦する文体”でまとめた。


 なぜなら、この男――吉田松陰のような変革者を、今度こそ正しく導くことができれば、政も、国も変わると信じていたからだ。


     *


 江戸・一橋邸。


 庭の池に、秋の月が反射する静かな宵。

 慶喜は庭に面した書院に座し、報告書の束を手にしていた。


 供の者が黙って退出したのを見届けると、慶喜は息をついてその一通を手に取る。


 「……吉田松陰、水戸に留まっているのか。ふむ」


 しばし目を細め、静かに報告書を読み進めた。


 「過激なる志士と思いきや、教化の才あり、民への影響も良……。この藤村という男、まことに言葉の選びが巧みだな」


 慶喜の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


 彼の脳裏には、かつて水戸学を学び、攘夷か開国かの板挟みに悩み抜いた自らの若き日がよぎっていた。


 「“志”か……。久しく聞かぬ響きだ」


 やがて彼は筆を取り、簡潔な書状を認めた。


 >「吉田松陰の言動、注視すべし。必要とあらば、召喚も視野に入れる」


 それは、幕府の中枢が、水戸の動きを“無視できぬもの”と認識し始めたことを意味していた。


     *


 水戸・学館裏の小道。


 星のまたたく夜空の下で、松陰は晴人と並んで歩いていた。


 「幕府に報せてくれたそうですね」


 晴人は驚かなかった。ただ頷く。


 「あなたの今の姿を、正しく知ってもらいたかったのです。今度こそ、“言葉で誤解される”のではなく、“行いで認められる”ように」


 松陰は、静かに天を仰いだ。


 「ありがとう、藤村殿。……私はもう、急いてはならぬと学びました。言葉は刃にも、灯にもなる。ならば私は、灯をともす者でありたい」


 晴人もまた、星を見上げながら言った。


 「志は、風に乗る。それがどこへ届くかは、言葉と行動の先にあるのだと思います」


 月が雲間から顔を覗かせた。


 それはまるで、二人の言葉を聞いていたかのように、やわらかく地上を照らしていた。

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