24話:志を抱く剣
晩秋の風が吹き抜ける水戸の城下町。その一角、町人の喧騒が遠ざかる藩校裏の小径を、旅装束の青年が静かに歩いていた。
黒の羽織に袴をまとい、きちんと結い上げられた丁髷の下、涼しげな目元をもつ若き侍の面差し。身の丈は五尺前後と小柄でありながら、歩みに一切の揺らぎがなく、腰に差された刀には鞘越しでも研ぎ澄まされた気配が宿っていた。
青年の名は、河上彦斎。肥後・熊本藩の新馬借町に生まれ、学問と剣術に励んできた若者である。
熊本藩邸に茶坊主として召し抱えられ、藩主の近習、国老附へと異例の昇進を遂げた。だが今、その道を辞し、密かに水戸の地を踏んだ。
彼をこの地へと導いたのは一通の文書。差出人は、藤村晴人──水戸藩における改革の旗手であり、武士と町人をつなぐ異色の存在。かの男は、志士の間で密かに囁かれている。
──「あなたの剣は、人を斬るためにあるのですか? それとも、誰かを守るためにあるのですか?」
その問いが、彦斎の胸に突き刺さっていた。
彼はまだ誰も斬っていない。斬らずにすんできた。しかし、剣はいつか血を浴びるのだと信じていた。否、それしか剣の道はないと、思い込んでいた。
──しかし、もし剣に別の意味があるとしたら?
藩校の門前に立った彦斎の前に、すっと門が開く。現れたのは裃ではなく軽装に身を包んだ青年──藤村晴人本人であった。
「河上彦斎殿ですね。ようこそ水戸へ」
晴人は柔らかく微笑み、礼を取った。
「遠路お疲れさまでした。熊本からここまで、道中は厳しかったでしょう」
「……いいえ。道すがら、秋の景色に慰められました」
「それは何より」
晴人は身を翻し、藩校の庭へと案内する。その歩みはどこまでも静かで、威圧も奢りもない。ただ、確かな意思の光をその瞳に宿していた。
庭では、十数人の子どもたちが木刀を手にしていた。大きな号令の声に合わせて、一斉に構えを取る。
「……あの子たちは?」
「町の子どもたちです。農家や商人の家の者もいます。剣の心得などなかった子たちですが、今では稽古が日課です」
「町人の子に、剣を?」
「はい。身を守る力を教えるのは当然として、剣を通じて『節度』や『思いやり』を知ってもらうのが目的です。私の考えでは、教育とはすなわち、人の心に“剣”を鍛える行為だと考えています」
彦斎は言葉を失った。
自らが生きてきた武士の道では、剣とは命を奪うものであった。だがここ水戸では、それが人の心を立て直す道具として扱われている。
晴人は、庭の端にある東屋へと彼を招いた。
腰を下ろすと、懐から一通の文書を取り出す。
「こちらは、水戸藩からの正式な辞令です。あなたを私の“護衛兼教育係”として、迎え入れたい。あなたの剣に、人を守る力があると、私は信じています」
彦斎は文を受け取った。封を切り、丁寧に書かれた辞令を読む。そこには確かに、藩主の花押が記されていた。
──水戸藩の正式な一員として、迎え入れられる。
思わず手が震えた。自らが今までに抱いていた剣の価値観が、音を立てて崩れていく。
「私は、まだ剣で人を斬ったことはありません。……しかし、斬る覚悟だけは、ずっと持ってきました」
「ならば、斬らずに済む道を一緒に探してみませんか?」
晴人の声は、柔らかくも、剣のように真っ直ぐだった。
「……私でよろしければ、藤村様の傍に立たせていただきます。御剣として、そして学び舎の一員として」
「ようこそ、河上殿。これから、共に歩んでまいりましょう」
紅葉がはらはらと舞い落ちる中、河上彦斎は水戸の風を受けて、静かに立ち上がった。
その剣は、過去から未来へと向けられた──命を守るための、新しい剣として。
翌朝、霞のかかった空の下。水戸藩邸の長屋門が静かに開かれ、ひとりの若者が庭先に姿を現した。
河上彦斎。その名を正式に藩士録に載せたのは昨晩のこと。今や彼は、藤村晴人直属の「護衛兼教育係」として、水戸藩政の中心に歩みを踏み出した。
「おはようございます、晴人様」
髷を結い直した姿は、まだ幼さを残すものの、どこか覚悟に満ちている。彼に声をかけたのは屋敷に仕える若い侍女。昨日まで彼に“様”付けをすることに躊躇していた者たちも、今日からは違う。晴人の指示で、彼を正式に「藩に仕える者」として遇することが通達されたのだ。
書院の奥、障子の向こうでは、晴人がひとり、巻物を眺めていた。だが、足音を聞くとすぐに手を止め、顔を上げる。
「来たか、河上くん」
「はい。身も心も整えて、参りました」
深々と頭を下げた彦斎に、晴人は小さく頷いた。
「今日からは君も、この屋敷の一員だ。心して務めてくれ」
「はっ。命を懸けて、守らせていただきます」
晴人はにこやかに首を横に振った。
「私は“命を懸ける剣”ではなく、“命を守る心”が欲しいんだ。……君には、それができると信じている」
彦斎は、その言葉に胸の奥が熱くなるのを感じた。熊本では剣を持つ者として期待され、使われ、だが“心”までは問われなかった。
その日の午後、藤田東湖と会沢正志斎を交えた場で、彦斎の登用が正式に布告された。
「河上彦斎、藤村殿の補佐として護衛に当たり、併せて藩内の教育補助に従事することを命ずる」
この一文が、会沢の筆で記録簿に記される。
「固定禄高、四十石を支給。役扶持に加え、藤村殿の屋敷内に一室を貸与する」
東湖の言葉に、周囲の武士たちが息を呑んだ。藩外出身の若者にこの待遇は異例中の異例。だが誰も異を唱えなかった。もはや、晴人の存在がそれを許さなかったのだ。
夜。屋敷の広縁に、二人並んで腰を下ろす。
「……四十石。熊本での倍以上の禄です。まさか、私のような者が」
「君のような者だからこそ、だよ」
晴人はそっと、畳に置いていた小さな帳面を差し出した。見開きにはびっしりと筆文字が並び、年表や人物略歴が記されている。
「……これは」
「未来を知るためのノートだ。私がここへ来てからのすべてを記した。君にも、これを渡しておきたい」
彦斎は、ページをめくる手を止めたまま、しばらく沈黙した。
「……このようなものを、なぜ私に」
「君は学がある。そして、自らを律するだけの剣もある。だが、未来を知ったうえでどう選ぶか――それは、君自身の“心”で決めてほしい」
彦斎はそっとノートを抱えた。
「はい。私は……“正義”を振りかざして人を斬るような者にはなりたくありません。晴人様の言葉で……私は、救われました」
「救うなんておこがましい。ただ、仲間が欲しかっただけだよ」
二人はしばし沈黙した。やがて、春の月が雲間から顔をのぞかせる。
「晴人様。……私は、水戸で生きていきたい。この地で、“命を守る剣”を磨いていきたいのです」
その言葉に、晴人は静かに頷いた。
「それなら、君にしかできないことが、きっとある」
夜風が広縁を撫でる。未来を知る者と、未来を変える覚悟を持った若者が、今ここに出会ったのだった。
風がまだ冷たい春先の昼下がり。水戸城下の町筋を、浅葱の羽織をまとった小柄な若者が歩いていた。
河上彦斎。その名を、水戸藩において正式な記録に記されたばかりの新参者。だが、今や彼は藩主公認の改革実働者・藤村晴人の「護衛兼教育係」として、その身を預かる立場となった。
「……ここが、水戸の町か」
柔らかな陽光の下、町並みは賑わっていた。炊き出し場の近くでは、子どもたちが小麦団子を手に戯れ、行商人が「干し芋だよ、安くするよ」と声を張り上げる。そんな中、彦斎は一人、肩の力を抜けずにいた。
「……緊張する必要はない。ここは君の新しい“居場所”だよ」
背後から穏やかな声がかけられる。晴人だった。今日の町回りは、あくまで「視察」の名を借りた“洗礼”でもある。
「剣を持っていなくても、人は誰かを守れる。今日、それを君の目で見てほしかった」
晴人の言葉に、彦斎はゆっくりと頷いた。
「……はい。心得ます」
町の一角――学問所跡に作られた臨時教室を訪れると、十名ほどの町の子どもたちが、墨をすった紙と格闘していた。
「これは……寺子屋ですか?」
「そう。ここでは、字を知らぬ者にも読本や算術を教えている。最近は“道徳講話”も試してる」
晴人が微笑みながら語ると、一人の少年が駆け寄ってきた。
「せんせぇ!“しん”って、こっちで合ってる?」
「“誠”か、“真”か……。それは、君が何を大切にしたいかで違うんだよ」
子どもが目を丸くする。その様子を、彦斎はじっと見つめていた。
「……教える、とは、こういうことなのか」
彼の脳裏に、熊本での日々がよぎった。藩邸の裏庭、宮部鼎蔵の下で学んだ兵法書。血が流れることの意味。正義の名を借りて掲げた刃。そのすべてが、今この場では無力だった。
「河上くん、試しに“心”という字の話をしてみてはどうかな」
晴人に背中を押され、彦斎は子どもたちの前に立った。
「“心”というのはな……」
言葉が、すぐには出てこなかった。だが、子どもたちのまっすぐな瞳が、それを受け止めようとしている。
「……人の心は、見えない。けれど、心ある言葉、心ある行いは、見える。そうやって、人は人の心を知るものだ」
しん、と空気が静まった。そして一人の少女が、ぽつりと言った。
「じゃあ、“ありがとう”も、心の剣になるの?」
その言葉に、彦斎の胸が鳴った。
「……なるとも。どんな鋼より、強くて優しい剣にな」
子どもたちの顔が、ぱっと綻ぶ。
それを遠目に見ていた藤田東湖が、書院の縁からそっと囁いた。
「変わったな、あの若者。いや――変わり始めた、か」
隣の会沢正志斎も、頷く。
「剣の力でなく、言葉と学で人を導けるなら、それはこの国の光になる」
夕刻。町を後にし、屋敷へ戻る途中の道すがら。彦斎は、そっと口を開いた。
「晴人様……。私、ようやくわかってきました。剣を使わずに、守る道があるということを」
「まだ始まったばかりだよ。でも、君の“剣”はもう、鞘から言葉に変わっている」
その言葉に、彦斎は黙って頷いた。
その夜、彼は一人、灯の下で筆をとった。
《“心は、見えぬ。けれど、伝わる”――》
その書き出しで始まる新たな日記帳が、彼の机の上に生まれた。
水戸藩邸の夜。屋敷の廊下に、薄明かりが静かに揺れていた。
広縁に立つのは、河上彦斎。脇差を膝に置き、座して月を見上げるその背中には、今朝までの迷いはない。
戸の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。
「眠れないか、河上くん」
晴人の声だった。彦斎はすぐに立ち上がり、軽く頭を下げた。
「いいえ。……ただ、手入れをしておりました。私の、剣を」
脇差をそっと鞘に収める音が、夜気に吸い込まれる。
「剣は、捨てません。……ですが、斬るためだけに握ることは、もういたしません」
「そうか。それでこそ、君を迎えた意味がある」
晴人は彼の隣に腰を下ろした。二人の間には言葉少なな沈黙が流れる。
やがて、彦斎が口を開いた。
「熊本では、私の剣に問われたのは“速さ”と“勝敗”でした。でも水戸で問われたのは、“何のために抜くか”――それが初めてで」
「君はまだ若い。だけど、それを考え始めた今の君こそ、本当の意味で“武士”の入口に立ったんだと思うよ」
「……武士」
彦斎は、自らの掌を見下ろす。あの刃を持つ手が、これから何を護るのかを思い描くように。
「晴人様。……私はやはり、剣を抜く時が来ると思います。けれど、その刃の向け先は、必ず自分で決めます」
「それでいい。必要な時には、斬れ。ただし……その“必要”を、誰かに決めさせてはいけない」
「……はい」
晴人は、懐から一冊の手帳を差し出した。使い込まれた表紙には、墨の染みと小さな折れがいくつもある。
「君にも、これを預けておこう。未来の記録だ。年表と、人々の行動、いずれ訪れる苦悩と、その先の選択……」
彦斎は両手でそれを受け取り、黙って開いた。
「これは……」
「剣ではなく、未来を切り開く“知”だ。君の剣に、もうひとつの刃を添えてやってくれ」
ぱらりと捲られたそのページには、やがて歴史を揺るがす名と出来事が記されていた。
「私は……必ずこれを読み解きます。そして、“正しく抜く”と、心に誓います」
「うん。……君の中には、“斬れるけれど、斬らない勇気”がある。それは誰にも真似できない強さだ」
しばらくして、遠くで夜鷹が鳴いた。
「晴人様。私は、貴方に出会えてよかった。この藩で、生きる意味を得られました」
「それなら……もう、君は“斎”ではなく、“志”の名を刻む人間になる」
彦斎は一瞬、目を見開いたが、すぐに深く頷いた。
「“志”のための剣……。それが、私のこれからです」
その夜、若き剣士の中で、迷いは確かな信念へと変わった。
ただ振るう剣ではない。選び、抱え、そして振るう剣――その在り方が、この水戸の地で育ち始めていた。