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23話:命を運ぶ艦、志を繋ぐ礎

秋風が水戸の城下をやわらかく撫でる朝。空は一面の薄曇りで、光の筋が瓦屋根の上を静かに滑っていた。遠くからは寺の鐘の音が響き、町の目覚めを告げている。


 水戸藩庁の一角――客間の障子が静かに開き、藤村晴人が茶を盆に載せて現れた。


 「ようこそ、水戸へ」


 頭を下げるその先に、二人の異邦人がいた。


 一人は、佐賀藩士・佐野常民。


 武士にしては長身で、どこか洋学者を思わせる面持ちをしていた。張りのある眉に、引き締まった口元。その佇まいは、穏やかながらも芯に強い意思を感じさせる。佐賀藩の施政において医療と人道に関わる政策を進言し、藩内における知識階級からも一目置かれる存在である。


 だが、晴人は知っていた。この男こそ、未来の日本赤十字社の創設者となる人物。戦乱の時代にあって、命の価値を説き、救う側に立ち続けた、真の“医の戦士”であることを。


 もう一人は、美作国・津山藩の出身、津田真道。


 小柄で痩せた体つきながら、目の奥に鋭く深い光を宿していた。若くして西洋法学に傾倒し、江戸では佐久間象山に兵学を、箕作阮甫に蘭学を学んだ秀才。将来、明治の法制度の礎を築くこととなる、日本近代法の先駆者である。


 「このような地へお招きいただき、光栄の至りにございます」


 佐野が低く頭を下げる。津田もそれに倣った。


 晴人はにこやかに頷きながら、二人の前に茶を差し出した。


 「お二人にはぜひとも水戸の未来をともに考えていただきたく、お呼び立ていたしました。ご足労、感謝いたします」


 佐野は湯気の立つ茶碗に目を落とし、そして静かに口を開いた。


 「水戸という地には、以前より興味がございました。佐賀とはまた異なる学問と志が、ここにはあると聞き及んでおります」


 津田も続けて言った。


 「町を歩いてきましたが、民の顔つきが、他藩とは違う。目に力がある。……これほど“学び”が町に根づいている土地も、珍しい」


 晴人は微笑み、懐から一冊の和綴じ帳を取り出す。それは彼がiPadに記した未来の知識を紙に書き写し、分類してまとめた“未来手帳”の一冊だった。


 「今日は、まずお二人に水戸藩の現状と、今後の改革案についてお話したく存じます」


 佐野と津田は頷き、手帳に視線を落とした。


 「佐野殿には、公衆衛生と医療制度について。津田殿には、町人参政制の法理と構築について、ご助力をお願いしたい」


 その言葉に、佐野の眉がわずかに動いた。


 「なるほど。佐賀でも、貧民層への簡易な施療所を設ける試みは進めております。……ですが、それはごく一部に過ぎず、本格的な制度設計はまだ先の話にございます」


 晴人は言葉を継いだ。


 「構想としてお持ちなら、それをこの水戸で試していただけませんか。私たちは、制度という“仕組み”を武器にして、民の命を守る藩を作りたいのです」


 佐野は静かに頷いた。


 「非公式であれば、お手伝いできるかもしれません。……私は来年、長崎にて欧州式の海軍技術と医療体系を学ぶ予定ですが、それまでの間、水戸で研鑽を積むのも一興でしょう」


 「水戸藩としても、いずれ海防力の強化を考えています。佐野殿には、将来的に藩海軍の設立と訓練についても、責任者としての参与をお願いできれば」


 佐野は一瞬目を見開き、そして真顔で頷いた。


 「……了解いたしました。私は、命を奪う技より、命を守る力にこそ興味があるのです。海軍という形でそれが叶うのであれば、力を惜しみません」


 晴人は静かに深く頭を下げた。


 一方、津田は手帳の一ページを眺めながら、唸るように言った。


 「町人参政制……藩政への住民参加ですか。かなりの異端ですが、理論的には可能でしょう。法理の整備には時間を要しますが、試験的に町会制を導入すれば、徐々に適応も進むかと」


 「その法案の起草を、津田殿にお願いできればと思いまして」


 津田はしばらく思案し、そして短く答えた。


 「引き受けましょう。ただし、私にも一つ条件がある」


 「条件、ですか?」


 「私に、水戸の財政帳簿と町割り、人口分布、ならびに過去五年分の刑罰記録を見せてください」


 晴人はわずかに笑った。


 「さすが、早い。……すぐに手配いたします」


 この時、二人の客人はまだ知らなかった。水戸がこの国の中心へと躍り出る舞台に立っていることを。


 晴人は、その一歩を共に踏み出せる仲間を、今まさに迎えたのだ。


 そしてこの日をもって、佐野常民には禄高三十石と藩医官並の待遇が、津田真道には二十五石と法制参与役としての役扶持が正式に与えられる。


 水戸藩に、静かだが確かな変化が訪れようとしていた。

城下町の南寄り、町人地に隣接する一角――。


 そこに、水戸藩が晴人の発案で設けた第二炊き出し場があった。


 竹で簡素に組まれた囲いの中、複数の大鍋から湯気が立ちのぼる。番屋風の小屋では藩士の下働きたちが湯を汲み、配膳役の町娘たちが手際よく行列をさばいていた。晴人は、佐野と津田をその場に静かに誘導する。


 「こちらが、我々が今力を入れている“炊き出し制度”の現場です。……先月より第二の拠点を設け、今では一日およそ八百人が訪れます」


 湯気の向こうに、子どもを抱えた母親や、痩せた老人たちの姿が見える。言葉少なに列を成し、黙々と器を差し出す彼らの背中に、ただ静かな“生きるための重み”が刻まれていた。


 佐野は無言で数歩進み、配膳の様子をじっと見つめる。


 「……分配は整然としていますね。支給内容は?」


 「粥と大根の煮物、それに干し芋。日によっては魚の干物も出せます」


 「医師や看護人は?」


 「常駐ではありません。急患対応用に、隣に一時診療小屋を設けていますが……最低限です。薬も乏しく、養生所とは名ばかりでして」


 佐野は眉をひそめた。


 「この人数、この熱量……よく暴動が起きませんな」


 「皆、腹は空かせていますが、希望を失ってはおりません。ここに来れば“今日を生きる一膳”がある。それだけで秩序は保たれているのです」


 晴人は、佐野の横顔を見つめながら言った。


 「ですが、これは“持続できぬ善意”の域を出ていません。水戸の財政は、限界に近い」


 津田が、帳面を取り出して手早く数を記しながら問う。


 「財源は?」


 「藩米の余剰分と、義金。あとは有志からの寄進です」


 「つまり、変動する資金に命を預けている、と」


 「……そうです」


 佐野は目を細めて言った。


 「いっそ、この拠点を正式な“施療兼救護所”と位置づけてはどうか。炊き出しに限らず、子どもの熱、出産後の母子養生、季節病の対応まで含めて……“命を守る現場”として再編する」


 「財さえ確保できれば、すぐにでも着手したい構想です」


 佐野は考えるように空を見上げた。雲の切れ間から、一筋の陽が差し込む。


 「財源を“命に使う”と聞くと、必ず非難も上がるでしょう。だが、藩が“生かす政治”を掲げるならば――わたしは、力を貸します」


 晴人は静かに頭を下げた。


 「ありがとうございます」


 その瞬間、小屋の奥から悲鳴に似た声が響いた。


 「こら! 待てっ、盗っ人だ!」


 振り向けば、飯桶を抱えた少年が走り出してくる。骨の浮いた手足、泥だらけの顔。飢えが、その瞳に狂気を宿していた。


 「誰か止めろ!」


 周囲の男たちが駆け寄ろうとした刹那――。


 佐野が一歩前に出て、少年の行く手を遮るように仁王立ちした。


 「やめなさい」


 その一声に、少年の足が止まった。いや、“止まった”のではない。佐野の目に込められた静かな威圧に、凍りついたのだ。


 「おまえ、名前は?」


 「……た、たけし……です」


 「たけし。腹が減っていたのか」


 少年は、顔を伏せたまま小さく頷く。


 佐野はしゃがみ込み、ゆっくりと目線を合わせた。


 「ではなぜ、列に並ばなかった?」


 「……母ちゃんが、病気で……並んでたら、死んじゃうかもしれないって……」


 周囲に、沈黙が落ちた。


 佐野は飯桶を受け取り、少年の手を取り立ち上がる。


 「この子の母親に、食事と水を。小屋に寝かせ、診てやってほしい。薬はわずかでも、できる限りを」


 配膳係の若者たちが動き、少年の手を引いて小屋へと導いた。


 津田が、そっとつぶやく。


 「……制度の前に、心がある」


 晴人もまた、強く頷いた。


 「だからこそ、この人を招いたのです」


 その後、三人は再び庁舎へ戻り、制度整備の草案へと移っていった。


 だが、あの少年の姿と、佐野の眼差しは、晴人の胸に強く刻まれていた。


 制度とは何か。


 数字ではない。法文でもない。


 ――命を守るために、人が人として動ける場を作ること。


 それが、藤村晴人の“政”の原点だった。

水戸藩政庁の奥座敷には、夕陽が差し込み始めていた。


 障子越しに朱の光が射し、畳の上に静かな斜線を描く。まるで、ここに集う人々の歩む未来を予兆するかのように。


 その座敷に、藤村晴人は座していた。向かいには、佐野常民と津田真道。傍には藤田東湖と会沢正志斎が控え、慎重ながらも緊張感を孕んだ空気が流れていた。


 「……本日は長きにわたり、貴重なお時間を賜り、誠にありがとうございました」


 深く頭を下げた晴人の声は、どこまでも真摯だった。佐野と津田が応じて軽く頭を下げる。


 一日を費やして行われた協議の末、ついに決断の刻が訪れた。


 「このたび水戸藩は、両名を“公務に準ずる者”として迎え入れたいと存じます」


 晴人の言葉に、佐野が一瞬だけ目を伏せ、津田が静かに眉を動かす。彼らが抱く責任の重さは、当然ながら他藩士としての立場をも伴うものだった。


 その沈黙を破ったのは藤田東湖だった。


 「両名の才覚、すでに斉昭公にも上申し、裁可を得ております。形式上は水戸藩籍ではなく“外部協力礼遇者”としての登用。すなわち、他藩との関係を損なうことなく、藩の中核にご参画いただく道です」


 続けて、晴人が一枚の書状を広げた。


 「佐野常民殿には、藩医官並の権限と禄高三十石。さらに、海軍局創設の責任者として、我が水戸藩の“新しき軍”の礎を築いていただきたい」


 佐野は息を呑み、言葉を失っていた。


 晴人は視線を津田へ移す。


 「津田真道殿には、町人参政制にかかる法制度整備の主責任を。法制参与役として、禄高二十五石と役扶持をお渡しいたします」


 再び、静寂が場を包む。


 その中で佐野が、まっすぐに晴人を見つめ返した。


 「……主君に背くことは、本来ならば決して許されぬ行い。しかし、志を胸に秘めたまま、何もせずに老い朽ちる方が、よほど罪深いと気づかされました」


 そして、わずかに唇を緩める。


 「わたくしに“未来を拓く帆”を任せてくださるのであれば、命を賭けて応えましょう」


 津田もゆっくりと立ち上がり、手にしていた帳面を広げた。


 その筆跡は既に数十頁に及ぶ草案に及び、「町人参政制度」の基礎骨格を描いていた。


 「制度は理だけでは動かぬ。だが、理なき制度は、必ず民を苦しめる」


 彼はそう言い、晴人の前に帳面を差し出した。


 「私の理想と、この藩の未来とが重なるなら、共に歩んでみせましょう」


 その瞬間、会沢正志斎が小さく笑った。


 「……これで水戸にも、次代を灯す“火”が三つ、揃ったようですな」


 佐野、津田、そして藤村晴人――


 異なる道を歩んできた三人が、今この城下の一隅で、ひとつの志を共有した。


 その後、佐野には長期的な海軍構想と兵站体制の整備が任され、津田には町人参政制の“実験場”としての地区選定が命じられる。


 そしてこの日をもって、佐野常民には禄高三十石と藩医官並の待遇が、津田真道には二十五石と法制参与役としての役扶持が正式に与えられた。


 水戸の風は、確かに変わりつつあった。

水戸藩政庁の奥、格式高い謁見の間にて――。


 藤村晴人は、佐野常民と津田真道を前に、厳かな声で言葉を発した。


 「本日をもって、佐野常民殿には水戸藩藩医官並の地位と禄高三十石、津田真道殿には法制参与役としての役扶持と二十五石を、正式に命ずる。両名の知見と志、これを水戸の柱とせんことを期待する」


 部屋に静寂が満ちた。


 朱印を押した辞令が、恭しく文箱に納められ、それぞれの手に渡る。佐野も津田も、静かにそれを受け取り、一礼した。


 だが――。


 二人の心には、ある種のざわつきがあった。


 津田は目を伏せ、文箱の封を開けることもせず、唇を閉ざしたまま座していた。


 (……十万石の津山藩で、私は学問を以て召し抱えられ、出仕当初こそ三十石前後だったが、やがて四十石まで昇進した。決して大禄ではないが、学者としての誇りはあった。――だが今、私は水戸藩で二十五石の参与役に過ぎぬ)


 すぐにその思いは己の中で消えていく。


 (今の私は“身分”ではなく“制度”を遺すためにここにいる。誰が何を言おうと、それが未来を変える礎になるならば)


 彼は静かに顔を上げ、藤村晴人と目を合わせた。


 一方、佐野はわずかに眉を動かしながら、辞令を読み取っていた。


 (三十石――佐賀にいれば、いずれ百石には届いたであろう。それでも……)


 彼の脳裏に浮かぶのは、かつて大阪・適塾で共に学んだ友の姿だった。


 村田蔵六――後の大村益次郎。医学と兵制を語り、未来を論じた熱い日々。


 その彼が今、晴人の計らいで水戸藩に招聘され、兵制顧問として活躍している。


 まさか、水戸で再会するとは――


 「お二人には、もう一人紹介したい人物がいます」


 晴人が立ち上がり、障子を開くと、奥の間から一人の男が現れた。


 「久しぶりだな、佐野。まさかこんな形で再会するとは思わなかった」


 端正な顔立ち、冷静な瞳。長州の血を引きながらも、藩を離れ、学問と兵制に身を捧げた男――大村益次郎だった。


 佐野の目が見開かれる。


 「……大村。お前が、ここに……」


 「今は兵制顧問として水戸にいる。晴人殿の考えに共感したのが、決め手だった」


 言葉少なに、それでも明確な信頼が、二人の間に流れる。


 晴人は微笑しつつ、改めて語った。


 「佐野殿には、軍医制度の整備と、もうひとつ――“病院船”の構想をお願いしたいのです。負傷者の治療はもちろん、伝染病や災害時にも出動できる移動施療所としての船です」


 大村が補足する。


 「港湾整備と海防の点から見ても、水戸に常駐の医療船があるのは理に適っている。だが――問題は、財源だな」


 その言葉に、佐野と津田も小さくうなずいた。


 「いくら理想を語っても、金がなければ動かない」津田が呟く。


 晴人は、懐からまた一冊の書付を取り出す。


 「これが、新たな商法に基づく“公共基金”の草案です。利益の一部を藩が徴収し、それを福祉や医療、教育に再分配する。いわば、水戸藩版の“公益還元制度”です」


 佐野が目を見張った。「……なるほど。商人から税をとるのではなく、“出資者”として扱うのですね」


 「ええ。その代わり、一定額以上の出資には、名誉職や優遇措置をつけます。……水戸藩が“民と共に歩む藩”であることを、制度から示したいのです」


 部屋の空気が、静かに熱を帯びた。


 「晴人殿。貴殿は我らを、身分や藩籍を越えて迎えてくださった」津田が言った。


 「この志に、私は応えたい。例え禄が半減しようと、制度が未来を救うと信じる限り、我が身を賭けましょう」


 佐野も深く頷く。


 「……病院船、やってみましょう。戦の道具ではなく、人の命を守る“藩の矜持”として。それこそが、我らが果たすべき使命です」


 晴人は、深く礼をした。


 「ありがとうございます。水戸は、あなた方の力を必要としています。……そして、未来は、あなた方の制度を待っている」


 その言葉に、佐野も津田も、言葉なく頷いた。


 この日、水戸藩は新たな一歩を踏み出した。


 階級も藩籍も超えて、志で繋がった者たちが、命と制度を支えるために――。

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