22話:言葉は剣よりも
水戸城下の朝は、静かな鐘の音から始まった。
日が昇る前の薄明に包まれた町では、藩校・弘道館の門前に、すでに小さな人影が並んでいた。町の子どもたちである。破れた草履を履いた者もいれば、武家の裃を着た少年もいる。身分を問わず、この場所にだけは、学ぶ者として同じ席に着くことが許されていた。
晴人は、門の陰からその様子を見つめていた。懐の中には、昨日完成したばかりの教育指針案が収められている。紙の隅には、藤田東湖と会沢正志斎、さらに自らの署名が並んでいた。
「知を育てれば、争いは減る。礼を教えれば、刀は抜かれぬ」
それが彼の信念だった。
武を否定するわけではない。だが、武はあくまで最後の手段であるべきだと、彼は考えていた。戦いでしか秩序を築けぬ政は、やがて民を疲弊させる。では、どうすればよいのか。
「心を耕すのだ」
そう口にしたのは、昨夜の会合での藤田東湖だった。
弘道館の一室で行われた非公開の討論会。そこには東湖と会沢、そして吉田松陰、佐久間象山という、幕末でも一級の頭脳たちが集まっていた。席の末席に、藤村晴人の姿もあった。
机の上には、晴人が提案した「三民共学の構想案」が広げられていた。
「士・農・町人すべてに学問を。学ぶことで、身分の垣根を越えた“公の心”を育む……か」
書状を手にした会沢が、眉間に皺を寄せながらも読み進める。
「これまでの藩校は士族のためのものだった。だが、そもそも学問とは、誰のためのものか。私は、学びは生きる力になると信じています。民が愚かであるなら、それは教えなかった政の責任だ」
晴人の言葉に、場が静まった。
吉田松陰が、真剣なまなざしを晴人に向けた。
「学問は……富をも呼ぶ。知恵ある者が治めることで、無駄が省け、争いも減る。民は、守られるのを待つのではなく、自ら築ける力を持つ。私も、そう信じておる」
象山もまた、筆を置いて口を開く。
「なるほど……“士道”に“民道”を重ねるか。面白い。だが、これは新しい考えだ。幕府が黙ってはおるまい」
晴人は深く頷いた。
「ええ。ですからこそ、今が好機だと思うのです。黒船が来て、皆が揺れている今だからこそ、“心”に火を灯さねばならない」
その言葉に、藤田東湖がにやりと笑った。
「まったく……君のような若造がいるとは。だがな、晴人君。言葉は剣よりも難しい。切れ味が見えぬ分、真に届くかは、その人間の器量にかかっておる」
そのとき、会沢正志斎が書状を置き、真っ直ぐ晴人を見た。
「ならば、我らでそれを支えよう」
重みのある言葉だった。思想家として水戸学を築き上げた男が、晴人の改革案に賛意を示した瞬間だった。
……その翌朝が、今である。
晴人は弘道館の門を見つめながら、背筋を伸ばす。
民と士が学ぶ場。理想は遠く、反発もある。だが、少なくとも今、門の前で待つ子どもたちは、晴人の夢の“はじまり”だった。
「おう、若……いや、先生よ。今日の教材、面白えか?」
背後から声がした。
振り返れば、近藤勇と土方歳三が立っていた。町民の子どもに剣を教えたことで一時は批判された二人だが、いまや“町の師範”として弘道館に席を得ていた。
「先生、だなんて……違いますよ。俺は、ただのまとめ役です」
「謙遜ばかりするなよ。お前がいなきゃ、この町で“士も町人も百姓も”、一緒に読み書きなんてできなかったさ」
近藤が笑う。その横で、土方が小さく頷く。
「……礼と知識は、剣より強い。お前の言葉、忘れてないぜ」
そのとき、門が開き、教師役の藩士が現れた。続いて、子どもたちが一人、また一人と中へ入っていく。晴人はその光景を見届けると、静かに懐の書状に手を添えた。
「この町で、学びが当たり前になる日が来る。そうなれば、余計な争いはきっと減るはずだ」
東湖の言葉が思い出された。
「心を耕せば、田も町も、皆実りを得る」
空に日が昇る。
水戸の町は今日もまた、ゆっくりと変わろうとしていた。
水戸城下の南にある学問所「弘道館」では、朝から筆の音と講義の声が交差していた。
風が吹き抜ける開けた廊下に、藩士や町人の子らが静かに正座している。その表情は真剣そのもの。教壇には白髪の老教師が座し、「陽明学の実践」について語っていた。
──知行合一。知識は行動により成就する。
その一語一句に、生徒たちの目が輝いていた。だが、ここに集うのはただの藩士子弟ばかりではない。武家屋敷の隅に生まれた者、町の読売の子、さらには庄屋の次男に至るまで、身分の隔てなく共に学んでいた。
「晴人様のおかげじゃ」
後ろの座敷で見守っていた年配の教師が、ほとんど呟くように口にした。
「教育は、身分のためにあるのではなく、人の心を整えるためにある……。それを、あの方は本当に信じておられるのだ」
その教師の言葉を聞きながら、もう一人の見回り役――吉田松陰は、静かにうなずいた。
「学びが富を呼ぶ時代が来る。晴人殿の姿は、まさにその先駆けだ」
彼の目には、かつての長州藩での記憶がちらついていた。武備だけが全てであった時代。書を読むことさえも「役に立たぬ」と嘲られた日々。しかし、今この水戸では、「知」が剣よりも重んじられ始めている。
その歩みはゆっくりで、確かだった。
一方、藩邸の奥では、藤村晴人が一枚の書状を前にしていた。
机には、各町からの収支報告書、義倉(備蓄倉庫)の出納簿、そして子どもたちの学力状況をまとめた帳簿が並ぶ。
「学びが民を救うというのは、理想でしかないと、昔は思っていた」
そう言ったのは、側に控えていた藤田東湖だった。彼は晴人の提出した「教育費用の予算拡大案」に目を通しながら、ふと筆を置く。
「だが、倹約を強いるだけでは、民は疲弊し、心まで貧しくなる。晴人君が見ているのは、心の貯蓄……というわけか」
晴人は肩をすくめて笑った。
「もともと私は、経済の専門家でも、士道の達人でもない。ただ、子どもたちが腹を空かせて眠る国に未来はないと思っているだけです」
窓の外では、訓練帰りの少年たちが声を上げていた。近藤勇や土方歳三が、礼儀と護身術を教える“民兵塾”は、今や弘道館の副教室として正式に位置付けられている。
知と武、そして徳。
この三つを、ひとつに束ねようとする晴人の構想は、水戸藩の中で確実に根を下ろし始めていた。
「無駄な支出を切り詰めるだけでは、財政は立ち直らない。民の心が安定して初めて、治安が保たれ、倉も守られる。つまり……教育は防災であり、治安対策でもあるのです」
晴人の言葉に、東湖はふっと目を細める。
「まるで孔子だな。……いや、いや、陽明先生のほうが近いかもしれん」
晴人は苦笑した。
「そんな大それたものではありません。ただ、“人は教えられれば変わる”という事実が、水戸の町を少しずつ変えてくれている。それだけです」
東湖はやがて帳簿に目を戻し、淡々と語った。
「来月には、会沢正志斎殿の呼びかけで、隣藩からも見学者がやって来るようだ。君の手腕が“思想”として他藩に認識され始めているのだろうな」
晴人はわずかに表情を引き締める。
「だからこそ……言葉を選ばねばならない時期に入った、ということですね」
──言葉は剣よりも鋭く、深く、そして遠くまで届く。
誰が語った言葉だったか。彼の心に、それが静かに根を張っていくのを感じていた。
その夜。
晴人は、寺子屋に出向いた。かつて自らが黒板を持ち込み、町人たちとともに作り上げた学び舎だ。
そこでは、夜間講義が行われていた。灯りを囲んだ十数人の老若男女が、黙々と算盤をはじき、読み書きを繰り返している。
「……正直、子どもの頃に教えてほしかったよ。これ」
呟いたのは、隣町から通ってきたという四十代の男だった。三つ指をつきながら、晴人に深く頭を下げる。
「自分は、いつも馬鹿にされてきた。字も読めず、計算もできず、ただ力仕事しかないと諦めてた。だけど、ここに来て、初めて“学ぶ喜び”ってやつを知ったんです」
晴人はただ、黙ってうなずいた。
その背中に、そっと手を添えた松陰の声が、夜の空気に溶けていく。
「剣を取らぬ者にも、戦はある。……学びによって、人は初めて、自分の言葉を持てるのだ」
灯りが揺れ、空には星が瞬いていた。
そして水戸の町は、静かに、しかし確実に、“教育立国”への道を歩み始めていた――。
風が、教室の障子を揺らした。
――水戸藩の藩校・弘道館。
その一室では、今日も晴人による特別講義が行われていた。対象は武士だけでなく、町人、さらには学びたいと願う百姓の若者まで含まれていた。
部屋の前方、机もなく床に膝をつく晴人は、手に一冊の冊子を掲げていた。筆のにじみ、墨のかすれが生々しいそれは、彼自身が昨晩書き上げたばかりの教育提言書だった。
「……これは、“学び”の力で財政を立て直すという、一つの考え方です。無駄を減らし、規律を守り、正しい計算と、正しい思いやりを備えれば、余計な争いや支出は避けられる」
教室の隅では、吉田松陰が腕を組んで見守っていた。彼の表情には、晴人の語りを“吟味”するというよりも、希望を見るような光があった。
「む……つまり、“人の心を整えれば、制度は後からついてくる”と?」
声を上げたのは、一番前に座っていた中年の町人風の男だった。商家の主で、町の学び舎をつくる計画に賛同して来ていた人物だ。
晴人は頷き、視線を全員に向けた。
「皆さん、もし、貧しい者がいたら施す。だがその“施し”に終わらせては、また同じことが繰り返されます。だからこそ、学ばせるんです。算術も、農法も、商いも」
静まりかえる室内。
その中で、後方の座敷にいた農民の若者が手を挙げた。肌は日に焼け、足は裸足。だが、目は真剣だった。
「侍様……いや、晴人様。……字を覚えるのも、算術を学ぶのも、農作業で手一杯の村じゃ、難しゅうて」
晴人は微笑し、教室の一角に置いてある小さな箱を指さした。
「そこに入っているのは、昼間の余った食糧です。弘道館の厨房で出たものですが、こうした“学ぶ者のための施し”を、町や寺と連携して始めました。勉強のあと、飯を食って帰ってください」
若者は驚いたように目を見張った。
「……そんな、いいんですか?」
「腹を満たし、心を耕す。それが、この弘道館の役割です」
室内がざわめいた。晴人の言葉が、ただの“善意”や“理想”ではなく、現実の施策として根を張っていることに、多くが驚いたのだった。
その後、近藤と土方が教室に顔を出し、簡易な礼をしてから門弟の確認に入った。武術を学ぶ少年たちが、朗々と声を出しながら礼を交わす様子は、秩序と熱意が共存する空間だった。
松陰がそっと近づき、声を潜めて晴人に話しかける。
「君の話は、ただの理屈ではない。……実地に根を張っている。これは、“思想”だ。理屈が民を変えることはないが、思想は人の背骨を変える」
晴人は目を伏せる。
「私自身、頭で考えているのか、民に押されているだけなのか……ときどき、わからなくなることもあります」
「ならば、それでいい」
松陰はそう言って、短く笑った。
「自らを疑う者こそ、傲慢から遠く、民に近い。……それにしても、学び舎に侍と農が並び座る日が来ようとは」
晴人は返す。
「身分よりも、“志”が並ぶことが、何よりの財産です」
松陰の目が、わずかに潤んでいた。
「晴人君。学びが、富を呼ぶ時代が来る。私はそう記そうと思う」
そのとき、講義が終わり、農の少年が立ち上がって頭を下げた。
「……ありがとうございました。うちに戻ったら、じいさまと米の数、数えてみます」
「それが、学びの第一歩です」
笑顔を返した晴人の声に、少年の顔がぱっと明るくなった。
夕陽が教室を赤く染めていく。
机も、椅子もない教室で、年齢も身分も異なる者たちが肩を並べ、ひとつの“未来”を語る姿は、まさに武と文が重なり合う水戸の現在を象徴していた。
そしてこの日、弘道館の扉を出た松陰は、帰り際の町で、ある一組の親子の姿を目にする。
母親が手を引く、小さな子が――書き取りの練習を口ずさんでいた。
「ま、つ、り。まつりは、みんなでやるもの」
松陰は立ち止まり、空を仰ぐ。
「……民が学びを口にする。それが“祭り”のように楽しまれる日が来るとは」
風に舞う紙片。誰かの落とした学び帳の切れ端に、松陰はそっと手を伸ばした。
“言葉は剣よりも、遠くを届く”
それは、今日の講義で晴人が語った一節だった。
松陰は、そっとそれを懐にしまい、歩き出した。
夜の帳が下りるころ、晴人は久しぶりに学舎の縁側に腰を下ろしていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、虫の声だけが、草むらの中で細やかに鳴いている。
傍らでは、提灯を片手に松陰が佇んでいた。彼は黙って晴人の横に腰を下ろし、懐から取り出した冊子を広げる。
「……これが、藩校の新しい講義録か?」
「ええ。先日、会沢先生と話し合って構成を見直しました。水戸学に加えて、陽明学と民本主義の要素を段階的に織り交ぜています」
晴人が頷き、巻物を手渡すと、松陰の目がわずかに見開かれた。筆致は簡潔でありながら、語り口は温かく、子どもにも届くように工夫されていた。
「……これは、文字に力があるな。教えるための言葉ではなく、伝えるための言葉だ」
松陰の声は、どこか感嘆を含んでいた。
「私が書いた部分もありますが、町人の青年や女中奉公を終えた女性にも意見を聞いて、手直しを重ねたんです」
「民の声か」
「ええ。字を知らずとも、知ろうとする者たちの言葉には、重みがあるんです」
そのとき、土間の奥から象山が現れ、軒先に足を運んできた。手には酒瓶が一本。
「まったく、どいつもこいつも理屈っぽい。だが、言葉で人を導くなら、それもまた武だ」
象山は言って、地べたにどっかりと座ると、無遠慮に酒を注ぎ始めた。
「貧乏藩のくせに、教育と武備には糸目をつけんとは……あきれるほど真面目な土地だな、水戸は」
「そこが、いいんですよ」
晴人は微笑んだ。
「人が育てば、町も国も変わります。学びは、百の兵より強い。……私はそう信じています」
松陰が晴人の言葉に呼応するように、小さく頷く。
「いずれ、武ではなく、学びで国を導く時代が来るだろう。学びが富を呼び、富が志を生む。……それを形にして見せたのが、お前だ、藤村君」
夜気が静かに流れる。
どこか遠くで太鼓の音が響いた。夜回りの合図だ。
晴人は、懐から一枚の帳面を取り出すと、そっと広げる。そこには、これまで出会った名もなき人々の言葉が、びっしりと綴られていた。
「これは……?」
「“日々のことば帳”です。道端の老婆が教えてくれた節約術、米屋の小僧が話してくれた倉の仕組み、町人の子が読んでいた詩……どれも、政策を考える上での、大事な材料になりました」
「民の声を、記録したというわけか」
松陰が、静かにその帳面に目を通す。
「……言葉は、風のように流れて消える。けれど、お前はそれを留めた。見事だ」
そのとき、ふいに軒先の暗がりから声がした。
「夜分に失礼。藤村様、報告がございます」
姿を現したのは、青年藩士だった。彼は畏まって一礼すると、懐から小さな書状を差し出した。
「江戸の情報筋からです。……幕府の評定所で、水戸藩の“近代的な藩政改革”について討議されたとのこと。中には、不穏な動きも……」
「……そうか」
晴人は書状を受け取り、静かに目を通した。
そこには、「水戸の民政に“革新の気”あり」と記されていた。
象山が鼻を鳴らす。
「予想通りだな。お上が黙っているはずもあるまい。だが、恐れるには及ばん。志があるなら、押し通すべきだ」
「ええ」
晴人は頷いた。
「言葉で始めたこの道を、言葉で貫きます。たとえ、それが剣よりも難しいとしても──」
提灯の灯りが、晴人の横顔を照らす。
その瞳の奥にあるのは、炎ではなく、光だった。
静かに、しかし確かに、未来を照らす光だった。