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21話:新たな風、土佐より

水戸の町に、新たな風が吹いていた。


 道行く町人が深く頭を下げ、子どもたちは道端で遊びながらも、通りすがる侍に礼を欠かさない。店先には「義と礼を忘れずに」という木札が掲げられ、往来の整備も進んでいた。町と藩が手を取り合い、まるで一つの“国”のように、呼吸を合わせている。


 その様子を、じっと見つめる男がいた。


 武市半平太――土佐藩士。黒い羽織をまとい、腰には細身の打刀。年齢は三十を前にしたばかりだが、その目には炎のような意思が宿っていた。


 「……まことか。町人が子に礼を教え、百姓が自警団に加わる……。こんな町が、本当にあるとはのう……」


 江戸で耳にした噂は、半信半疑だった。


 “水戸に、藩と町が並び立つ理想の形があるらしい”


 それを聞いたとき、武市は笑い飛ばそうとした。土佐では、上士と郷士、そして町人の間に厳然たる壁がある。下の者が上の者に意見するなど、夢物語でしかない。


 だが今、目の前の現実が、その幻想を打ち破ろうとしていた。


 広場では、若い町人と農民が木剣を振るっている。年嵩の侍が構えを正し、優しく指導している姿に、武市は思わず足を止めた。


 「……剣術か?」


 呟いた直後、二つの影が交差した。


 一人は頬に傷のある男、もう一人は鋭い眼光を宿した青年。どちらも、武士らしからぬ粗野さと、洗練された動きとを併せ持つ。まるで、剣が舞っているようだった。


 「……なっ……!」


 武市は思わず息を呑んだ。


 その名は、江戸の志士の間で密かに語られていた。


 近藤勇と土方歳三。


 ただし、名が知られているのはあくまで一部の者たちの間であり、土佐のような地方では無名同然だ。彼らが水戸にいるという話など、一度として聞いたことはなかった。


 だが今、武市の眼前で、確かに“彼ら”は剣を振るっていた。


 「……何者だ、おまんら……」


 唇の端に、思わず笑みが浮かぶ。


 民に剣を教えるとは。そんな在り方が、あってよいのかと。


 近藤と土方は一礼を交わし、稽古を終えると、周囲の若者たちに的確な助言を与えはじめた。


 「おい、肘が甘いぞ。刃筋がぶれると、すぐに折られるぞ」


 「下段を意識しろ。足元を見れば、相手の気が読める」


 それを聞いていた少年が目を見開き、「はいっ」と答える。その様子に、武市の胸にかすかな衝撃が走る。


 剣が、民のためにある。

 力が、導くために使われている。


 そんな世界を、彼は一度として見たことがなかった。


 ふと、稽古場の端から声が飛んだ。


 「武市様!」


 振り向けば、案内役の青年が手を振っている。その隣に、にこやかな男が立っていた。


 「……あなたが、土佐の武市半平太殿ですね?」


 声の主は、裃を着崩した青年――藤村晴人だった。


 名乗りはしていない。だが、武市が水戸の町に姿を見せてから、数時間も経っていないというのに、相手はこちらの素性を把握している。


 「まさか……おんしが、藤村晴人……?」


 その名もまた、江戸で聞いたことがある。


 民と官を結ぶ者。町人の出でありながら、藩主の信任を受け、町政と藩政を橋渡しする存在。武市は、目の前の男に、ただならぬものを感じた。


 「ようこそ、水戸へ。今日は非公式とのことでしたが、町の様子をご覧になられたかと」


 「……見せてもろうたよ。まっこと、目を疑うような光景やった」


 武市は真っ直ぐに晴人を見据える。


 「町人が、子に礼を教えちょった。百姓が剣を学び、侍がそれを導いちょる。おんしら……この国を変える気か?」


 晴人は、微笑んだまま首を横に振る。


 「いいえ、変えるのではなく、“戻す”のです。本来、民と武は一つであるべきでした。力を誇るためではなく、守るためにある――それを思い出してもらっているだけです」


 武市は、目を細めた。


 「……まるで、夢を見ちょるようじゃ。だが、土佐でも、町人の声を聞く志士はおらん。おんしらが見せちょる道、もし土佐に持ち帰れたら……」


 晴人は頷きながら、道場の奥へと武市を招いた。


 「どうか、明日までお時間を。町だけでなく、藩校や学び舎、そして私たちが今、目指している未来を、見ていただきたい」


 武市は口元にかすかな笑みを浮かべた。


 「おもしろい。……見せてもらおうか、水戸の“志”を」

水戸城下の町筋を、二人の男がゆっくりと歩いていた。


 一人は、浅黒い肌に鋭い眼光を宿す土佐の志士・武市半平太。もう一人は、裃姿に草履を履き、どこか民の中に溶け込むような気配を持つ男――藤村晴人。


 道の両脇では、子どもたちが元気に挨拶を交わしながら行き交う町人に頭を下げ、老婦人がその姿に目を細めていた。物売りの声が通りに響く中で、店先では町人が丁寧に品物を並べ、通行人に一礼する姿が見える。


 武市は、やや歩みを止めた。


 「……妙じゃのう。商家の丁稚までが、行き交う武士に頭を下げちゅう。しかも、その武士たちも、ちゃんと頭を下げ返しちょる」


 「ここでは、武士も町人も、互いに礼を交わすのが決まりなんです」


 晴人は笑みを浮かべ、武市を案内しながら町の様子を説明した。


 「表の道を町人が通り、裏の道を武士が歩く。そんな江戸の空気とは違いましてね。ここでは、“共に町を造る者同士”という意識を持ってもらっています」


 武市は黙って耳を傾けながら、晴人の横顔を盗み見る。言葉には威圧も自慢もない。ただ、淡々と“当たり前”として語る姿勢が、むしろ重みを持っていた。


 やがて、二人は寺子屋の前に差しかかった。


 「ここが、“民学寮”です。武士の子も町人の子も、分け隔てなく学んでいます」


 晴人の言葉に合わせて、戸の奥から朗々とした声が聞こえてくる。子どもたちの声で詠まれる四書五経の響きが、道にまで染み出していた。


 「……藩校だけではなく、町側にこうした教育の場を持たせておると?」


 「はい。学問を持てば、人は疑念を抱けるようになります。疑念を持てば、扇動には乗らずに済む」


 「……なるほど」


 武市は、子どもたちが筆を走らせている様子を見つめながら、静かに頷いた。


 次に訪れたのは、小さな訓練場だった。


 陽の傾いた空の下、町人や農民らしき男たちが木刀を振っている。傍らには、晴人の家臣筋である近藤勇と土方歳三の姿があった。道場仕込みの太刀筋を持つ彼らが、真剣な面持ちで農民たちに構えを教えている。


 「……あれが、あの者たちか」


 武市は、黙ってその場に立ち尽くした。


 「はい。近藤と土方です。江戸での道場の縁で、私に力を貸してくれています」


 武市の目が、訓練を受ける一人の農民に止まる。筋はまだ硬いが、打ち込む目が真剣だ。横で見守る子どもが、父親の背中を誇らしげに見上げていた。


 「……剣は、己を守るもの。民にそれを教えるとは……正直、驚いたぜよ」


 「武器を持てば人は暴徒になると、よく言われます。でも、武器の使い道を正せば、それは“盾”にもなります。民が、民を守る力を持つ。それが、この町の柱の一つです」


 その言葉に、武市は唸るように呟いた。


 「士道と民道が、交わっちゅう……。こんな町があるとは、思いもしちょらんかった」


 その声には、嫉妬にも似た感情が滲んでいた。


 土佐では、郷士と上士の溝が深い。民と士が手を取り合うなど、夢物語に過ぎないと教えられてきた。だが――ここでは、それが形となって息づいている。


 町を歩くうちに、武市の表情は幾度となく揺れ動いた。穏やかに礼を交わす民の姿、助け合う様子、教育と防衛が町に根付いていること。それらすべてが、彼の中の常識を揺さぶっていた。


 最後に二人は、町外れの炊き出し所に立った。


 木の櫓の下、女たちが鍋をかき混ぜ、子どもたちに飯をよそっている。遠くから、晴人の名を見つけた子が駆け寄ってきた。


 「晴人様! 今日のおかず、お魚でしたよ!」


 「それはよかった。よく噛んで食べてな」


 晴人は頭を撫で、やさしく微笑む。


 そのやりとりを見た武市の胸に、なにか熱いものが込み上げた。


 「……これが、おまんが言う“民と歩む政治”か」


 「そうです。私がどれほど上に意見しようと、現場が崩れれば意味がない。だからこそ、民と向き合う必要がある」


 武市は、ふっと息を吐き、月を仰いだ。


 「わしも……土佐で、始めてみるかもしれん。町人や郷士を教える塾……いや、“共に歩む場”を」


 その横顔に、強い覚悟が浮かんでいた。


 晴人は静かに頷く。


 「志ある者が集まれば、必ず風は起きます。土佐にも、水戸にも、その風は必要です」


 武市の目が、真っ直ぐに晴人を見つめた。


 「……わしも、この目で見た。この町が“嘘”でないことを。感謝するぜよ、藤村晴人」

夕暮れが迫る町の通りは、柔らかな橙色に染まり、瓦屋根が金色の縁を纏って輝いていた。


 町の一角──かつては物置だった木造の小屋に、晴人が案内した男がひとり立っていた。


 武市半平太。

 頬に刻まれた陽焼けの痕、しっかりと結い上げた髷、その背には、土佐の誇りと未来への焦燥が影のように付いていた。


 だが今、その顔は何かを見つめるように穏やかだった。

 小屋の前には子どもたちが座り、石板と墨を手に、誰かの話を真剣に聞いている。


 その講師は、武士ではなかった。

 町の算盤屋の息子、元・百姓の子、寺子屋上がりの町人が、交代で教壇に立っていた。

 武市の目に映ったのは、「身分に関わらず学びを受け継ぎ、教える」水戸の町の姿だった。


 「……これは、わしらが目指したものの……先を行っちょる」


 武市がぽつりと呟いた。


 彼の傍らに立っていた藤村晴人は、笑みを浮かべる。


 「土佐にも、きっとできます。教育に身分はいりません。むしろ、立場が違うからこそ、視野は広がる」


 「わしが……教える、かえ……?」


 武市は自嘲するように笑った。

 だが、その笑みはすぐにかすかに揺らぎ、真顔へと戻る。


 晴人が口を開く。


 「武市さん。あなたは“志士”でありながら、民を見る目を持っている。民と共に歩もうとするあなたの姿勢は、学びの師として何より必要なことです」


 武市は黙って立っていたが、その両手は徐々に拳を解き、緩やかに開いていった。


 子どもたちの声が響いた。


 「これ、字がちがうよー!」「お前、それ、読み方が反対だ!」


 声に混じる笑いと、時折交わされる素朴な知識。

 そこには、剣を振るわずして守られる未来の萌芽があった。


 「……晴人どの」


 「はい」


 「わしは、水戸に残りたい」


 静かに、だが確かな声だった。

 晴人が驚いたように振り返る。


 「土佐で、教えようとしても、きっと今のままでは通らん。藩の上士と下士の対立は根深く、わし一人の力じゃ……」


 武市は言葉を切ると、町の空を見上げた。

 茜の空に、いくつもの鳶が旋回していた。


 「ここで、土台を作る。町人と百姓と武士が共に学ぶ場。いずれ土佐に戻る時、その証を携えていく」


 晴人は小さくうなずく。


 「水戸の学び舎で、最初の一歩を踏み出す。……素晴らしい決断です」


 武市は微笑んだ。

 その頬には、ようやく焦燥ではなく、未来を見据える穏やかな色が浮かんでいた。


 「ただし」


 「え?」


 「教えるからには、武もやらせてもらうき」


 「もちろん。剣術も礼儀も、知識と同じく大切です」


 二人は顔を見合わせ、互いに微笑みを交わした。


 その夜──


 武市半平太は、一冊の手帳を開いた。

 灯りの下、筆を走らせる。


 《志を伝え、民と士をつなぐ場を作る──郷学舎ごうがくしゃ


 手帳の端にそう記し、彼は深く息をついた。


 晴人の言葉が、耳に蘇る。


 ──人材こそ最大の投資。礼節と知識は、武に勝る防具。


 武市は筆を置き、夜の空を見上げる。


 「民と士が並び立つ町……それを土佐に持ち帰るがぜよ」


 その目には、かつての激しさはなかった。

 代わりに、学び舎に灯る明かりのように、静かな炎が灯っていた。


 ──志は、剣にだけ宿るものではない。


 水戸の空に、希望の灯がまたひとつ、灯された。

水戸の町に、風が吹いていた。

 冬の名残を含んだ冷たい風ではない。春の息吹を孕みながら、そっと暖簾を揺らし、人々の心をかすめていく──そんな、柔らかな風だった。


 町の一角。

 かつて倉庫として使われていた建物が、今は整然と並んだ机と畳の空間へと生まれ変わっていた。


 新たに掲げられた木の看板には、墨でこう記されている。


 ──《郷学舎》──


 その名の通り、「くにの民」と「学びの場」を結ぶための舎である。

 町人も、百姓も、武士も関係なく、学びたいと願う者なら誰でも門を叩くことができた。


 その朝、陽が昇るよりも早くから、学舎の前には人々が集まっていた。


 ぼろぼろの半纏をまとった老百姓。

 額に泥をつけたままの若い町の職人。

 小刀を腰に差した小柄な若侍。

 手を引かれた子どもまでが、期待と不安の入り混じった眼差しで校門を見つめていた。


 教室の奥では、藤村晴人と武市半平太が、準備を終えて静かに立っていた。


 「……来ましたな」


 「ええ。こんなに早く、これほどの人数が……」


 晴人は息を呑んだ。

 初日で、すでに三十人近い志願者。身分も年齢も、まったくばらばらだ。

 だが、皆が一様に、真剣な眼をしていた。


 武市が口を開く。


 「教える側も、命を懸けねばならんのう。言葉で斬られる時代やき」


 「だからこそ、言葉で守る時代にもできます」


 二人は軽くうなずきあい、学舎の扉を開け放った。


 「ようこそ、郷学舎へ!」


 武市の凛とした声が響く。


 集まった者たちは一斉に頭を下げ、中へと足を踏み入れた。

 質素な畳の教室。すべてが手作りの机と座布団。けれど、そのどれもが磨かれており、使い手を迎える準備が整っていた。


 晴人が一歩、教壇に立つ。


 「皆さん。本日より、この郷学舎では、文字の読み書き、算術、歴史、そして武士道と礼法を共に学んでいただきます」


 子どもが、小さく手を挙げる。


 「お侍じゃなくても、剣を習えるの?」


 晴人が答えようとしたその時、武市がやさしく頷いて前に出た。


 「剣を持つ者だけが、強いわけではない。だが、強くなろうとする心は、誰にでもあるき」


 男の子はぽかんと口を開けた後、嬉しそうに笑った。


 武市は続けた。


 「わしは土佐から来た、武市という者じゃ。今日からここで共に学び、共に教え合う仲間ぜよ」


 その言葉に、教室にいた者たちの背筋が、すっと伸びた。


 授業が始まると、初めは戸惑っていた者たちも、少しずつ声を出すようになっていった。


 「この漢字、どう書くんだっけ?」


 「へぇ、“武”って“戈”と“止”でできてるのか……」


 「“士”と“土”は、ほんのちょっとしか違わんのじゃのう」


 笑い声。

 小さな喧嘩。

 そして時折、真剣な沈黙。


 すべてが、学びの始まりだった。


 武市は教壇の隅から、そんな光景を眺めていた。

 かつて自分が剣でしか変えられないと思っていた世界が、今、目の前で言葉と知識によって変わっていく。


 胸の奥が熱くなる。


 晴人がそっと隣に立った。


 「どうですか、武市さん。あなたの志が、今、動き出しました」


 「いや……わしはまだまだ。けんど……これはきっと、何かの始まりじゃ」


 その日一日、郷学舎には人が絶えなかった。


 授業が終わると、近隣の母親たちが茶を持ち寄り、掃除を買って出る者もいた。

 中には「読み書きを習いたい」と後から訪れる者も現れた。


 そのすべてに、晴人も武市も丁寧に応えた。


 陽が沈み、空が藍色に染まり始めた頃、教室の最後の掃除を終えた晴人が、肩を回しながら武市に言った。


 「今日という日は、忘れません」


 武市はふっと笑った。


 「わしもじゃ。……あんたに会えて、よかったき」


 ふたりは並んで、灯りの消えた教室を後にした。


 郷学舎の戸に鍵をかけ、振り返ると、そこにはまだ残り香のような熱気が漂っていた。


 水戸という地に、確かに一つの“志”が根を下ろした日だった。


 ──それは、やがて時代の波に呑まれることがあっても、決して消えることのない灯となって、後の世に語り継がれていくことになる。

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