20話:一揆前夜
陽が高くなるにつれ、町とその周辺の空気は目に見えて重くなっていた。
藤村晴人は、町役人や藩士から集めた報告書を手に、仮設の政所に詰めていた。
「……農村部の救援物資が、町のそれと比べて半分以下?」
声に出すと、室内にいた政務補佐の一人が深く頷いた。
「はい。米も味噌も、町に優先的に届いております。農民の間では不満が鬱積し、昨日も複数の庄屋が集まって、訴状をまとめたとか……」
晴人は眉をひそめ、机の上に資料を並べる。配送経路の簡略化と倉庫管理の効率化を優先させた結果、流通に偏りが生じていたのだ。
「……まさか、こんなに早く綻びが出るとは」
背後で軽く扉が開いた。
「晴人さん、郊外の村からの使いが来ています。庄屋の名代だそうです」
「通してくれ」
現れたのは、痩せた初老の男だった。襤褸を纏っているが、目には鋭さがあった。
「晴人さま……お頼み申します。このままでは、田畑に戻る者も減り、百姓の間に“どうせ町が生き残るだけだ”という諦めが広がっております」
「誤解です。私たちは町だけを守ろうなどと……」
「しかし現実に、物資は町に集まり、農村は空の倉に祈るしかないのです。誤解が積もれば、不満では済まなくなります」
言葉を濁したが、その先にあるものは明らかだった。
一揆――。
百姓たちが、自らの手で不満を爆発させる、その直前。
晴人は静かに立ち上がる。
「分かりました。庄屋衆と、町の代表、そして藩の者、三方集めましょう。今日中に調整の場を設けます。場所は……あの、崩れた武家屋敷跡で。すべての人が平等に足を運べる場所でなければなりません」
使者は深く頭を下げた。
その夕刻、屋敷跡には異様な空気が漂っていた。襤褸を羽織った農民たちと、羽織袴に身を包んだ町人たち、そして藩士が、それぞれ距離を保って向かい合う。
晴人はその中央に立ち、周囲を見渡した。彼の姿は、特別な衣を纏わず、まるで誰よりも普通だったが、その声だけは明瞭に響いた。
「……皆が苦しいのは分かっています。物資の偏りは、私の不徳です。しかし、怒りをぶつけ合っても、明日は来ません」
誰もが黙った。
「水は流れてこそ意味がある。米も味噌も、それを支える人の流れも同じです。農地があり、町があり、藩がある。どれが欠けても、ここは終わります」
町人の代表が手を挙げた。
「だが、我々も被災者だ。優先は当然と考えていた」
晴人は頷いた。
「分かります。ですが、被災者の中で序列を作ることに、何の意味があるでしょうか?」
農民の一人が声を荒げた。
「じゃあ、これからは平等に分けてくれるのか? 口だけじゃなく!」
「分配を見直します。倉庫の鍵は、三者で共有していただきます。そして、次回以降の分配表も、公開します」
しばらく沈黙が続いた後、藩士の一人が低く呟いた。
「……ならば、我らも物資運搬を手伝おう。農村の復旧が遅れれば、町の再建も意味を成さぬ」
農民たちがざわついた。
そのとき、年長の庄屋が口を開いた。
「……これが、官と民が結ぶということか」
晴人は深く頭を下げた。
やがて、広場に立つ者たちは少しずつ近寄り、言葉を交わし始める。その光景は、混乱の最中にあって、小さな奇跡だった。
その様子を離れた場所で見ていた会沢正志斎は、懐から筆と紙を取り出し、静かに一文を記す。
「――これを幕府が黙って見ているはずがない」
――翌朝、村の空気は張り詰めていた。
稲の穂先が風に揺れる音も、どこか殺気立って聞こえる。小道の脇では男たちが竹槍を手に集まり、口々に不満を漏らしていた。
「町の連中はいい米をもらってるって話だ。こっちは芋の煮っころがし一杯で終いだ」
「役人は来やしねぇ。庄屋も手出しせん」
「もう我慢の限界だ!」
苛立ちと恐れが交じるその声は、まるで堤防の綻びから漏れる水のように、抑えきれず膨らんでいく。言葉が、群れの熱を生むのだった。
その中を、藤村晴人はゆっくりと歩いていた。無帽、無礼装。脇に竹杖一本を持つだけで、藩士の随行も連れず、ただ一人、田畑を抜けて村の広場へと向かう。
「……あの男は?」
見慣れぬ姿に戸惑う村人たちをよそに、晴人は足を止め、低く言った。
「皆さん、聞いてください。私の名は藤村晴人。町の支援体制の中心に関わる者です」
ざわり、と竹槍が揺れる。
「なんだ、お前も役人か!」
「帰れ! どうせ町の味方だろ!」
怒号が飛び交う。だが、晴人は動じなかった。むしろ、そのまなざしには迷いがなかった。
「怒るのは当然です。食べる物がなければ、誰だって声を荒げたくなる。でも、今、ここで暴れたら――その“怒り”は、明日の自分たちをもっと苦しめるだけだ」
一瞬、沈黙が広がった。若い男が言った。
「じゃあ、どうすりゃいい。家族が飢えてるんだぞ!」
「だからこそ、話し合いたい。庄屋の屋敷で、代表者を集め、町からも藩士からも呼ぶ。三者で話し合う場を作ります」
言葉に力があった。竹槍を握る手に、迷いが混じる。
その場に現れたのは、村の庄屋である篠原老人だった。白髪の男は、晴人を睨むように見つめていた。
「お主……何のつもりだ。火種をあおる気か」
「いいえ。鎮めるつもりです。そのために、すべての事情を洗いざらい、出していただきたい」
「……分かっておるのか。町の連中は我らを“後回し”にしている。年貢を納める田を持つ者より、商いで金を落とす町を優先しているのだ。これは昔からの“筋”だ」
「その筋を変える時が来たんです、篠原様」
晴人の声は真っ直ぐだった。
「今の町を支えているのは、物でも金でもなく、“人”です。町と村が互いに背を向けていては、共に滅びます。だから、“結び直す”必要があるのです」
篠原は目を細めた。まるで、若い頃に聞いた理想の声に、耳を傾けるかのように。
「……藩に頼る気か?」
「いいえ。まずは我々でやる。町の代表と、藩の下級藩士、それに村人の三者で、救援の仕組みを見直す。今日の夕刻、庄屋屋敷に集まってほしい」
村人たちはざわついたが、竹槍の先は次第に下がっていった。
その様子を少し離れた山道から見下ろしていたのは、佐久間象山と吉田松陰である。
「……危うく、一揆になりかねんところだった」
「否、止めましたよ、彼は。剣も盾も使わず、言葉ひとつで」
松陰の目は、尊敬と驚きに満ちていた。
そして、その背後から歩み寄ってきた藤田東湖が静かに呟いた。
「言葉だけで終わらせぬかが肝要だ。これよりが、本番よ――晴人殿」
まるで、試練を越えた者への新たな命令のように。
夕暮れ。村の庄屋・篠原の屋敷には、すでに集会の準備が整っていた。
長年使われてきた畳敷きの広間には、中央にちゃぶ台を据え、農民代表、町人代表、そして藩士の代表格が顔を揃えていた。
畳の縁を挟んで、向かい合う者たちの表情は硬い。数時間前まで、互いに背を向け、反目していた者たちだ。互いを信用する理由などない。
そこへ、藤村晴人が静かに現れた。
彼は周囲を見渡し、まず一礼すると、畳に膝をついて座った。
「お集まりいただき、ありがとうございます。今日はまず、お互いに腹の内を話すところから始めたいと思います」
張りつめた空気の中、町人の一人が口を開いた。
「なら、言わせてもらうが――我々は、村の者が米を強奪するんじゃないかと、びくびくしてるんだ。そっちが武装しはじめたって話もある」
「武装……って言っても、竹槍ですよ。腹が減って死にそうなのに、何を守れってんですか」
農民側の代表が、怒りを押し殺した声で返す。
「庄屋に言っても、何もしてくれなかった。町が優先されてるのは明白だ。なら、自分たちで動くしかないと思った。それが悪いのかよ」
言葉が空気を叩いたように、広間は再び重苦しい沈黙に包まれた。
その中で、藩士のひとりが小さく嘆息し、口を開く。
「……俺たちも、どうにかしたかった。ただ、上からの命令で物資を分ける配分が決まっててな。それを勝手に変えれば、処罰の対象になる」
「なら! お前らの“命令”のせいで、誰かが死んでもいいのか!」
農民の若者が立ち上がろうとした。すぐに隣の年配者が手を引いて制するが、空気は一触即発に近い。
その瞬間――
「だから、変えましょう」
晴人が静かに言った。
「上の命令があるなら、現場の状況を報告すればいい。今までは“報告”自体がなかった。それが問題なんです」
町人、農民、藩士、三者の目が晴人に向く。
「今日ここにいる皆さんの言葉を文書にまとめ、藩に正式に提出します。『現地では配分に見直しが必要』という、全員一致の意見として」
「そんなこと、藩が聞いてくれると……?」
「聞かせます。いえ、動かします」
晴人はそう言って、懐から数枚の紙を取り出した。それは、藤田東湖の筆による推挙状の写し、そして晴人が藩政補佐役の一任を受けた証文だった。
「私がこの件を正式に動かします。条件は三つだけ」
晴人は、指を立てた。
「一つ。村人たちは武器を手放し、攻撃的な行動は控えること」
「二つ。町人たちは、自警団による“村人の監視”を中止し、見回りは共同で行うこと」
「三つ。今日以降、三者での“情報交換の場”を定期的に持つこと」
言葉を区切るごとに、場の空気が変わっていった。
誰もが自分たちの正義を語っていたこの場で、初めて“共通のルール”が持ち込まれたのだ。
「……できますか?」
農民の年長者が静かに言った。
「その証文があるなら、庄屋として、一旦引こう。ただし、村人の命に関わることだ。約束は守っていただきたい」
町人の代表も、頷いた。
「我々も……物資の配分で疑問を感じていた。腹の虫が収まらなかっただけで、争いたいわけじゃない」
最後に藩士が言った。
「正式に藩政補佐の任を受けたとあれば……俺たちも、従う」
そうして、場はようやく静けさを取り戻した。
その夜、庄屋屋敷の一角で、晴人は一人、灯火の前に座っていた。
松陰と象山が声をかけてくる。
「……君のしたことは、もはや一介の役人ではない」
象山は、ぐいと酒をあおってから、重く言葉を続けた。
「これを幕府が見過ごすとは思えない。君は“政治を動かした”。それは、旧き者たちにとっては、最も恐ろしい事象だ」
晴人は静かに頷いた。
「……覚悟の上です。それでも、やるべきことは変わらない」
松陰は微笑む。
「民の声を“かたち”に変える人が、ついに現れたな」
そして――
少し離れた縁側に、藤田東湖が立っていた。
「藩主は、お主に“任せてみよ”とおっしゃった。……後には引けぬぞ、晴人殿」
その言葉は、もはや一個人の“協力者”ではなく、藩を担う“一角”への宣言だった。
月が滲んでいた。
かすむ空の下、村の広場に集まった農民たちは、焚き火の火を囲んで沈黙していた。
竹槍を肩に立てかけた若者の一人が、ぱちんと火の爆ぜる音にびくりと肩を揺らす。
「……明日、本当にやるのか」
誰ともなく呟かれたその声が、焚き火の輪をゆらりと揺らした。
沈黙のまま、数人がうなずく。
「うちの子どもは、もう三日もろくに飯を食べとらん。侍も町人も、倉にしまった米を動かしやしねえ。こっちは、命がけだ」
皺の刻まれた老農が、かすれた声で吐き捨てる。
どこかから、喉を鳴らして泣く赤子の声が聞こえてきた。
怒りではなかった。
そこにあるのは、飢えと、恐れと、諦めだった。
だが、その静寂を裂くように、一人の青年が駆け込んできた。
「お、おまえら、晴人様が来るって!」
その名に、ざわめきが広がる。
「役人の……あの、藤村晴人様か?」
「なぜ、こんなとこに……」
揺らぐ火の奥、広場の端に、懐中灯を掲げた影が立った。
「皆さん……話を聞いてほしい」
その声は、疲れていた。けれど、決して弱くなかった。
藤村晴人は、火の輪の中へ歩み出る。
「お侍が何しに来た。あんたらが倉を開けてくれないから、こうなったんだろうが!」
若い農民が声を荒らげる。その背後では、武器を持った男たちがざっと立ち上がった。
だが晴人は、一歩も退かなかった。
泥にまみれた裃の裾を払うこともせず、広場の中央に腰を下ろすと、地べたに手をついて、深く頭を下げた。
「申し訳ない。皆さんをここまで追い詰めた責任は、私にもある。だから……私は、倉の鍵を持ってきました」
ざわめきが止まる。
火の粉が、静かに舞った。
「先ほど、藩主様に願い出て、町と村とで融通し合う制度を、正式に始める許しを得ました。明日からは、村の口数に応じて食糧が配られます。私が、責任を持って行います」
竹槍を握りしめていた男が、一歩前に出た。
「言葉だけじゃ信じられねえ。あんた、本当に動く気があるのか?」
晴人は答えず、懐から一枚の書状を取り出して差し出す。
「これは、藩主様の御印のある通達書です。……ご確認ください」
農民たちの間を、その紙が回されていく。
指先で触れた誰もが、それがただの紙切れでないことを理解した。
やがて、最初に声を上げた老人が口を開いた。
「それでも、倉の見張りは町人がしておる。わしらが行ったところで……」
「町人の代表にも、すでに話を通しました。共に話し合う場を設けます。皆さんにも、意見を届けていただきたい」
晴人の声が、夜気に染み渡る。
「民が民を斬るようなことは、二度と起こさせません。私に、それを止める資格がないなら、いまここで斬られても構いません」
その言葉に、ざわめいていた声が、すっと凪いだ。
火の粉の舞う広場で、誰かが膝をついた。
そしてまた一人、もう一人と、次第に武器を下ろしていく。
「……たしかに、あんたの目は、空っぽじゃない」
「口先だけじゃねえ、腹に覚悟がある」
「……それでこそ、俺たちの“代弁者”だ」
最後の声は、村の若者だった。
そしてそのとき、闇の向こうから馬の蹄が響く。
数騎の藩士が広場へ現れた。晴人の側近である中山、そして吉田松陰と佐久間象山の姿もある。
松陰は晴人の背に手を置くと、深く頷いた。
「見事だ、藤村君。言葉で民を斬るのではなく、心で民を包む。それこそが、民政だ」
象山も腕を組みながら一歩進み出る。
「……この国が変わるならば、こうした夜から始まるのだろうな」
藤村晴人は、土に汚れたまま立ち上がり、村人たちに再び一礼する。
「どうか、力を貸してください。皆で、変えていきましょう」
その夜、竹槍は焚き火の傍に置かれたまま、誰一人、振るうことはなかった。
そして翌日、正式に藤村晴人は「民政補佐役」として藩の役職に就くこととなる。
会沢正志斎はその報を受けながら、筆を走らせていた。
「……これを幕府が黙って見ているはずがない。だが――民の声を、聞くべき時が来たのかもしれぬ」
その筆跡は、どこまでも静かで、しかし力強かった。
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