表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/352

19話:会沢正志斎、来る

夏の終わり、蝉の声が微かに残る中、一本の駕籠が水戸城下の学問所にゆっくりと近づいた。


 駕籠の戸が開き、老年の男が姿を現す。年齢にして五十を過ぎたであろうか。白く混じった髭を丁寧に整え、着ている羽織は無駄を削ぎ落とした武家の装い。それでも、その背筋の通りと目の光には、尋常ならざる気迫があった。


 ――会沢正志斎。


 水戸学を象徴する大儒であり、天保期には藩政に深く関わり、今も思想界に重きをなす人物。その彼が、長い沈黙を破り、水戸の地に再び姿を現したのだった。


 「……お迎えにあがりました」


 迎えたのは、藤田東湖だった。


 その表情には普段の余裕ある笑みではなく、かすかな緊張が走っていた。なにしろ、会沢正志斎は自らの師であり、水戸学において誰もが頭を垂れる存在である。


 「おぬしか……」


 正志斎は、わずかに目を細め、懐かしむように東湖を見た。


 「お前が、今の水戸を支えておると聞いたが――よもや、あの男を推すとはな」


 「はい……ですが、会っていただければ分かります。彼の中には、言葉を超えた行いがあります」


 藤田は短くそう答えると、静かに手を差し伸べ、老儒を学問所の奥へと誘った。


    ◇


 その頃、町の南端――仮設の水場で、晴人はいつも通りの服装で作業を続けていた。


 木製の桶を抱え、泥の中に足を沈めながら、地面に敷設する水道管の位置を仲間と確認する。今や工事の工程すら頭に入っている。だが、その日、彼の元へ一本の報せが届く。


 「晴人殿、急ぎ学問所へ。東湖先生が呼ばれています」


 伝令役の少年が声を張る。汗に濡れた髪を手拭いで拭きながら、晴人は顔を上げた。


 「学問所? 何か……あったのか?」


 「会沢正志斎様が、お見えとのこと」


 その名を聞いた瞬間、晴人は反射的に息を呑んだ。


 書物の中で幾度となく目にしたその人物。日本思想の骨格を築いたとも言われる大儒が、なぜ自分のために……?


 だが迷っている暇はない。晴人は作業着のまま、手足についた泥だけを払うと、急ぎ足で学問所へと向かった。


    ◇


 静寂な座敷の一室。畳の間に座した会沢正志斎は、目の前に座った青年――藤村晴人をじっと見つめていた。


 「……思ったより、若いな」


 静かに、しかし重みのある言葉だった。


 「はい。……未来から来た者ですので」


 冗談のようにも、本気のようにも聞こえるその言葉に、会沢は眉一つ動かさず、茶を啜った。


 「……では問う。おぬしの思想は、何に根ざす?」


 晴人は躊躇わなかった。


 「現場です。民の生活と、生の声です」


 「文字ではなく?」


 「はい。文は必要です。ですが、それだけでは人は動かせません」


 その言葉に、会沢の眼差しが鋭さを増した。


 「おぬし、どこまで知って口にしておる?」


 「わかりません。ただ……見てきました。苦しみ、泣いていた人たちが、少しずつ笑顔を取り戻していく。人が人に寄り添うことで、町が蘇っていく――それだけは、確かです」


 静寂のなかで、時間が止まったように思えた。


 そして数息ののち、会沢はわずかに、口の端を上げた。


 「……藤田」


 「はい」


 「おぬし、良き器を見つけたようだな」


 その言葉に、東湖が深く頭を下げた。


 「はい。先生の教えに、ようやく応えられた気がしております」


 「ふん……その心が続くうちは、見守ってやろう」


 そのとき、外から寺子屋の子どもたちの声が響いた。笑い声と、板を叩くような音。


 学び舎が、再び動き始めている証だった。


 会沢は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


 「……この男、民に救われておる」


 誰にともなく放たれた言葉に、晴人は静かに、ただ深く頭を下げた。

朝の陽光が柔らかく町を包み、土の匂いと湯気の立つ味噌汁の香りが交じり合う中、会沢正志斎は無言で町を歩いていた。


 その傍らには晴人が控え、少し緊張した面持ちで歩調を合わせる。


 「……ここが、最初の炊き出し場です。今は拠点が三つに増え、持ち回りで町民が調理を担当しています」


 湯気の立ち上る釜の前で、数人の町人が笑いながら大根を刻んでいた。子どもたちも小皿を運び、時折じゃれ合いながらも、自分たちの手で作業をこなしていた。


 正志斎は足を止め、しばしその光景を見つめる。厳しい表情は崩さずとも、その瞳には明らかな変化の兆しがあった。


 「……なるほど、強制ではないのだな?」


 「はい。役割はありますが、押し付けずに“できる者ができるときに”が合言葉です」


 正志斎はふと目を細め、釜戸の隅で小さく手を合わせる老婆に視線を向けた。


 「信心も、腹が満ちてこそか……」


 その言葉に、晴人は小さく頷いた。


 「人は空腹のままでは、祈ることすらできません。だから、まず命を支える。それから希望を、と思っています」


 さらに歩を進め、町の裏手にある簡易住宅の並びへ。


 「こちらが仮設の住居です。材料は土と藁、そして一部は間伐材を使っています。断熱の工夫も多少入れてはいますが……やはり冬は厳しいかもしれません」


 粗末ながら整然と並んだ住居には、すでに数十人の避難者が生活を始めていた。庭先では子どもたちが縄跳びをし、縁側では男たちが釘打ちや修繕作業をしている。


 「ほう……これは、土の壁か。まるで江戸以前の農村のようだが……」


 「ですが、住まいとしての機能は保っています。地元の職人にも手伝ってもらいました」


 晴人は地面に膝をつき、足元の土を指で擦る。


 「泥は冷たいけど、生きています。人の手で固めた分、誰かの“居場所”になると思ってるんです」


 正志斎はしばらく黙していたが、ふと口を開く。


 「思想とは、人の上に立つためにあるものだと、かつての私は信じていた」


 「……」


 「だが、こうして民の中に歩を進めると分かる。“上に立つ”のではなく、“共にある”思想が、ここには息づいている」


 晴人は、微かに笑んだ。


 「僕が何かを成したわけではありません。ただ、小さなきっかけをいくつか渡しただけです。動いたのは、町の人たちなんです」


 その言葉に、正志斎の口元がわずかにほころぶ。


 「……そうか。君の言葉に、民が応えた。君は民に救われておるのだな」


 「はい。何度も、何度も」


 ふと風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。町の中央にある水路からは、かすかに水音が響いていた。


 水路整備中の作業現場へ向かうと、男たちが笑い声を上げながら土を掘っていた。汗をかきながらも、互いに冗談を飛ばし合う声が絶えない。


 その風景に、正志斎は足を止め、深く目を閉じた。


 「……この町、まだ完成には遠い。だが、芽はある。確かな芽だ」


 「はい。時間はかかると思います。でも、どれだけ時間がかかっても、無駄な日なんて一日もないって信じてます」


 会沢正志斎はゆっくりと頷いた。


 「晴人。私は君を見に来たのではない。君の背後にいる者たちを見に来たのだ」


 「それは……」


 「……そして、彼らを信じた。ゆえに、君も信じよう」


 そう語った老学者の声は、どこまでも静かで、確かだった。

会沢正志斎は、静かに町の通りを歩いていた。


 風に揺れる洗濯物の下をくぐり、井戸の水を汲む娘たちに会釈を返す。土埃舞う道に足を取られながらも、彼の足取りは確かだった。


 「……なるほど。思想が根づく、というのはこういうことか」


 目に映るのは、ただの復興途上の町ではない。小屋の軒先には小さな薬草棚が並び、男たちは土嚢を積み上げ、女たちは炊き出し場の周囲で談笑している。年寄りが子どもに字を教えていた。


 「正志斎先生。こちらへ」


 案内したのは晴人だった。自ら汗と泥にまみれた衣服のまま、町を歩いていたという。客人が来るからと装うこともない。その姿に、正志斎は少なからず感銘を受けていた。


 二人は、町外れにある仮設の集会所へと向かう。道中、町の各所に掲げられた手書きの掲示板が目に入る。


 「これは?」


 「仕事の分担表です。できる人が、できる時間に、できることを。無理なく支え合うための仕組みです」


 「無理なく、か。理想は立派だが、実行するとなると難しい」


 「ええ。だからこそ“決めすぎない”ようにしています。強制ではなく、提案。評価ではなく、共有。誰かの頑張りが、自然と誰かの背中を押すように」


 正志斎は目を細めた。


 「……“教え”を掲げるより、行いが先にあるのだな。まるで陽明学そのものではないか」


 晴人は笑って首を傾げる。


 「すみません。陽明学は、名前しか知りません。ただ――」


 彼は歩みを止め、井戸端の老女と子どもたちのやり取りに目をやった。


 「人が生きる場には、必ず“思想”がある。生きるって、どういうことか。何が嬉しくて、何が悲しいのか。……それを考え続けることが、僕にとっての“現場の思想”なんです」


 正志斎は、晴人の横顔をじっと見つめた。


 若い。未熟だ。だが、口先ではない。行動に裏打ちされた言葉には、奇妙な重みがあった。


 「君は……民に救われておるな」


 ぽつりと漏らした言葉に、晴人は一瞬だけ驚いたような顔をした。


 「僕が……?」


 「人を導くのではない。人の中にあって、共に動く。民衆の中にいて、その鼓動を聞く。……それが、今の君の強さなのだろう」


 そのとき、足音が近づいた。藤田東湖と土方歳三だった。


 「おお、先生。お見えでしたか」


 「ちょうどよかったな。会沢先生、こちらが天然理心流の……」


 「近藤勇、土方歳三と申します」


 土方が簡潔に挨拶する。正志斎は彼らにも視線を向けた。


 「なるほど。剣の者もまた、志をもって動いておるのか」


 「剣は武ではなく、盾にあらねばならぬと教えています。町を守る盾として、この流派を根づかせたい」


 晴人の言葉に、土方が目を細めた。


 「……あれが信念ってやつだな」


 その一言に、正志斎の頬がわずかに緩んだ。

控えの間での語らいの後、夕暮れの空気が水戸の町に静かに降りていた。


 陽が落ちかけた城下町を、藤村晴人は足早に歩いていた。提灯に火を入れる者、軒先で桶を洗う女、井戸端で語り合う老婆たち――そのひとつひとつが、どこか安堵と変化の兆しを含んでいた。


 彼の脳裏には、先ほどの会沢正志斎の最後の言葉が、まだ熱を持って残っている。


「思想は、民の中にある。……そのことを、わしに思い出させた男だ」


 それは、誉め言葉などではなかった。厳しい観察の末に発された、静かな肯定――まさしく、“評価”だった。


「……なら、俺はやるだけだ」


 呟くように口にしたその言葉は、夜風に溶けるように消えていった。


 町の広場では、今日も子どもたちが走り回り、簡素ながらも再建された長屋からは、味噌の香りと夕餉のざわめきが流れていた。晴人は立ち止まり、その光景を見渡した。


「この場所が、変わっていく」


 彼の心に、ひとつの確信が宿った。


 そこへ、軽く走り寄る足音がした。


「晴人さん!」


 政次郎だった。額には汗を浮かべている。


「どうした?」


「東湖先生が……会沢様と少し話したいそうです。もしよければ、今夜、囲炉裏の場を設けたいと」


「……俺で、いいのか?」


「はい。東湖先生が、そう言ってました。“お前が語ればよい”と」


 晴人は、深く頷いた。


「わかった。準備する。今夜は――きっと、大事な夜になる」


 その言葉どおり、その夜の囲炉裏端は、普段とは違う空気に包まれていた。


 炭がくすぶる中、会沢正志斎、藤田東湖、そして晴人の三人が座る。その場には松陰と象山の姿もあり、政次郎や町の有志たちは少し離れた場所から控えていた。


「……この囲炉裏も、実に良い」


 会沢がぽつりと言った。


「火を囲み、顔を照らす。人が人を“知る”場として、これ以上のものはない」


 東湖が笑う。


「我らも昔は、ここで夜な夜な議論を戦わせたものです。だが、今夜は“未来の言葉”を聞きましょうか。藤村晴人、お前が語る番だ」


 囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。


 晴人は、静かに口を開いた。


「民を守るには、法と制度が必要です。でも、それだけじゃ足りない。俺は……人と人が信じ合える場所が必要だと思うんです」


「信じ合える……?」


 松陰が問い返す。


「はい。火を囲み、共に飯を食う。雨の日も、苦しい日も、互いを支える。……そんな場所を、町の隅々に作っていきたい」


「言葉にすると、実に単純なことのようだな」


 会沢の目が鋭く細められた。


「だが、それを“続ける”のは難しい。人の心はすぐに冷える」


「だから……制度と、空間と、習慣を作るんです。井戸端を整えて、炊き出しを日常にして、行事にして、記憶にする」


 象山が目を丸くした。


「記憶にする……か」


「そうすれば、言葉にしなくても伝わります。町が“自分たちのものだ”って、皆が思えるようになる」


 誰かが、小さく息を飲んだ。


 会沢正志斎が、じっと晴人を見据えている。その目はもはや試すものではなかった。むしろ、かつての己を、鏡のように映し出されたかのような戸惑いを含んでいた。


「……民に救われておるのは、むしろ我らの方かもしれんな」


 東湖が、うなずいた。


「晴人は、語るだけではない。行動する。そして、その行動に、理がある。ならば――器となろう」


 囲炉裏の火が、静かに揺れた。


 その夜の終わりに、政次郎が小さな声で尋ねた。


「……会沢様の目が、少し潤んでた気がしました」


「そりゃあ、きっと煙のせいだよ」


 晴人は笑った。


 だが、心の奥では、別の確信があった。


 会沢正志斎という“時代の理”が、確かに何かを託してくれたのだと。


 そして、また一歩、未来へと踏み出せる気がしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
京都に浪士組は誕生するけど、近藤さん達が京都に行かなさそうだから史実以上に京都がヤバそう
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ