19話:会沢正志斎、来る
夏の終わり、蝉の声が微かに残る中、一本の駕籠が水戸城下の学問所にゆっくりと近づいた。
駕籠の戸が開き、老年の男が姿を現す。年齢にして五十を過ぎたであろうか。白く混じった髭を丁寧に整え、着ている羽織は無駄を削ぎ落とした武家の装い。それでも、その背筋の通りと目の光には、尋常ならざる気迫があった。
――会沢正志斎。
水戸学を象徴する大儒であり、天保期には藩政に深く関わり、今も思想界に重きをなす人物。その彼が、長い沈黙を破り、水戸の地に再び姿を現したのだった。
「……お迎えにあがりました」
迎えたのは、藤田東湖だった。
その表情には普段の余裕ある笑みではなく、かすかな緊張が走っていた。なにしろ、会沢正志斎は自らの師であり、水戸学において誰もが頭を垂れる存在である。
「おぬしか……」
正志斎は、わずかに目を細め、懐かしむように東湖を見た。
「お前が、今の水戸を支えておると聞いたが――よもや、あの男を推すとはな」
「はい……ですが、会っていただければ分かります。彼の中には、言葉を超えた行いがあります」
藤田は短くそう答えると、静かに手を差し伸べ、老儒を学問所の奥へと誘った。
◇
その頃、町の南端――仮設の水場で、晴人はいつも通りの服装で作業を続けていた。
木製の桶を抱え、泥の中に足を沈めながら、地面に敷設する水道管の位置を仲間と確認する。今や工事の工程すら頭に入っている。だが、その日、彼の元へ一本の報せが届く。
「晴人殿、急ぎ学問所へ。東湖先生が呼ばれています」
伝令役の少年が声を張る。汗に濡れた髪を手拭いで拭きながら、晴人は顔を上げた。
「学問所? 何か……あったのか?」
「会沢正志斎様が、お見えとのこと」
その名を聞いた瞬間、晴人は反射的に息を呑んだ。
書物の中で幾度となく目にしたその人物。日本思想の骨格を築いたとも言われる大儒が、なぜ自分のために……?
だが迷っている暇はない。晴人は作業着のまま、手足についた泥だけを払うと、急ぎ足で学問所へと向かった。
◇
静寂な座敷の一室。畳の間に座した会沢正志斎は、目の前に座った青年――藤村晴人をじっと見つめていた。
「……思ったより、若いな」
静かに、しかし重みのある言葉だった。
「はい。……未来から来た者ですので」
冗談のようにも、本気のようにも聞こえるその言葉に、会沢は眉一つ動かさず、茶を啜った。
「……では問う。おぬしの思想は、何に根ざす?」
晴人は躊躇わなかった。
「現場です。民の生活と、生の声です」
「文字ではなく?」
「はい。文は必要です。ですが、それだけでは人は動かせません」
その言葉に、会沢の眼差しが鋭さを増した。
「おぬし、どこまで知って口にしておる?」
「わかりません。ただ……見てきました。苦しみ、泣いていた人たちが、少しずつ笑顔を取り戻していく。人が人に寄り添うことで、町が蘇っていく――それだけは、確かです」
静寂のなかで、時間が止まったように思えた。
そして数息ののち、会沢はわずかに、口の端を上げた。
「……藤田」
「はい」
「おぬし、良き器を見つけたようだな」
その言葉に、東湖が深く頭を下げた。
「はい。先生の教えに、ようやく応えられた気がしております」
「ふん……その心が続くうちは、見守ってやろう」
そのとき、外から寺子屋の子どもたちの声が響いた。笑い声と、板を叩くような音。
学び舎が、再び動き始めている証だった。
会沢は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……この男、民に救われておる」
誰にともなく放たれた言葉に、晴人は静かに、ただ深く頭を下げた。
朝の陽光が柔らかく町を包み、土の匂いと湯気の立つ味噌汁の香りが交じり合う中、会沢正志斎は無言で町を歩いていた。
その傍らには晴人が控え、少し緊張した面持ちで歩調を合わせる。
「……ここが、最初の炊き出し場です。今は拠点が三つに増え、持ち回りで町民が調理を担当しています」
湯気の立ち上る釜の前で、数人の町人が笑いながら大根を刻んでいた。子どもたちも小皿を運び、時折じゃれ合いながらも、自分たちの手で作業をこなしていた。
正志斎は足を止め、しばしその光景を見つめる。厳しい表情は崩さずとも、その瞳には明らかな変化の兆しがあった。
「……なるほど、強制ではないのだな?」
「はい。役割はありますが、押し付けずに“できる者ができるときに”が合言葉です」
正志斎はふと目を細め、釜戸の隅で小さく手を合わせる老婆に視線を向けた。
「信心も、腹が満ちてこそか……」
その言葉に、晴人は小さく頷いた。
「人は空腹のままでは、祈ることすらできません。だから、まず命を支える。それから希望を、と思っています」
さらに歩を進め、町の裏手にある簡易住宅の並びへ。
「こちらが仮設の住居です。材料は土と藁、そして一部は間伐材を使っています。断熱の工夫も多少入れてはいますが……やはり冬は厳しいかもしれません」
粗末ながら整然と並んだ住居には、すでに数十人の避難者が生活を始めていた。庭先では子どもたちが縄跳びをし、縁側では男たちが釘打ちや修繕作業をしている。
「ほう……これは、土の壁か。まるで江戸以前の農村のようだが……」
「ですが、住まいとしての機能は保っています。地元の職人にも手伝ってもらいました」
晴人は地面に膝をつき、足元の土を指で擦る。
「泥は冷たいけど、生きています。人の手で固めた分、誰かの“居場所”になると思ってるんです」
正志斎はしばらく黙していたが、ふと口を開く。
「思想とは、人の上に立つためにあるものだと、かつての私は信じていた」
「……」
「だが、こうして民の中に歩を進めると分かる。“上に立つ”のではなく、“共にある”思想が、ここには息づいている」
晴人は、微かに笑んだ。
「僕が何かを成したわけではありません。ただ、小さなきっかけをいくつか渡しただけです。動いたのは、町の人たちなんです」
その言葉に、正志斎の口元がわずかにほころぶ。
「……そうか。君の言葉に、民が応えた。君は民に救われておるのだな」
「はい。何度も、何度も」
ふと風が吹き抜け、木々の葉を揺らす。町の中央にある水路からは、かすかに水音が響いていた。
水路整備中の作業現場へ向かうと、男たちが笑い声を上げながら土を掘っていた。汗をかきながらも、互いに冗談を飛ばし合う声が絶えない。
その風景に、正志斎は足を止め、深く目を閉じた。
「……この町、まだ完成には遠い。だが、芽はある。確かな芽だ」
「はい。時間はかかると思います。でも、どれだけ時間がかかっても、無駄な日なんて一日もないって信じてます」
会沢正志斎はゆっくりと頷いた。
「晴人。私は君を見に来たのではない。君の背後にいる者たちを見に来たのだ」
「それは……」
「……そして、彼らを信じた。ゆえに、君も信じよう」
そう語った老学者の声は、どこまでも静かで、確かだった。
会沢正志斎は、静かに町の通りを歩いていた。
風に揺れる洗濯物の下をくぐり、井戸の水を汲む娘たちに会釈を返す。土埃舞う道に足を取られながらも、彼の足取りは確かだった。
「……なるほど。思想が根づく、というのはこういうことか」
目に映るのは、ただの復興途上の町ではない。小屋の軒先には小さな薬草棚が並び、男たちは土嚢を積み上げ、女たちは炊き出し場の周囲で談笑している。年寄りが子どもに字を教えていた。
「正志斎先生。こちらへ」
案内したのは晴人だった。自ら汗と泥にまみれた衣服のまま、町を歩いていたという。客人が来るからと装うこともない。その姿に、正志斎は少なからず感銘を受けていた。
二人は、町外れにある仮設の集会所へと向かう。道中、町の各所に掲げられた手書きの掲示板が目に入る。
「これは?」
「仕事の分担表です。できる人が、できる時間に、できることを。無理なく支え合うための仕組みです」
「無理なく、か。理想は立派だが、実行するとなると難しい」
「ええ。だからこそ“決めすぎない”ようにしています。強制ではなく、提案。評価ではなく、共有。誰かの頑張りが、自然と誰かの背中を押すように」
正志斎は目を細めた。
「……“教え”を掲げるより、行いが先にあるのだな。まるで陽明学そのものではないか」
晴人は笑って首を傾げる。
「すみません。陽明学は、名前しか知りません。ただ――」
彼は歩みを止め、井戸端の老女と子どもたちのやり取りに目をやった。
「人が生きる場には、必ず“思想”がある。生きるって、どういうことか。何が嬉しくて、何が悲しいのか。……それを考え続けることが、僕にとっての“現場の思想”なんです」
正志斎は、晴人の横顔をじっと見つめた。
若い。未熟だ。だが、口先ではない。行動に裏打ちされた言葉には、奇妙な重みがあった。
「君は……民に救われておるな」
ぽつりと漏らした言葉に、晴人は一瞬だけ驚いたような顔をした。
「僕が……?」
「人を導くのではない。人の中にあって、共に動く。民衆の中にいて、その鼓動を聞く。……それが、今の君の強さなのだろう」
そのとき、足音が近づいた。藤田東湖と土方歳三だった。
「おお、先生。お見えでしたか」
「ちょうどよかったな。会沢先生、こちらが天然理心流の……」
「近藤勇、土方歳三と申します」
土方が簡潔に挨拶する。正志斎は彼らにも視線を向けた。
「なるほど。剣の者もまた、志をもって動いておるのか」
「剣は武ではなく、盾にあらねばならぬと教えています。町を守る盾として、この流派を根づかせたい」
晴人の言葉に、土方が目を細めた。
「……あれが信念ってやつだな」
その一言に、正志斎の頬がわずかに緩んだ。
控えの間での語らいの後、夕暮れの空気が水戸の町に静かに降りていた。
陽が落ちかけた城下町を、藤村晴人は足早に歩いていた。提灯に火を入れる者、軒先で桶を洗う女、井戸端で語り合う老婆たち――そのひとつひとつが、どこか安堵と変化の兆しを含んでいた。
彼の脳裏には、先ほどの会沢正志斎の最後の言葉が、まだ熱を持って残っている。
「思想は、民の中にある。……そのことを、わしに思い出させた男だ」
それは、誉め言葉などではなかった。厳しい観察の末に発された、静かな肯定――まさしく、“評価”だった。
「……なら、俺はやるだけだ」
呟くように口にしたその言葉は、夜風に溶けるように消えていった。
町の広場では、今日も子どもたちが走り回り、簡素ながらも再建された長屋からは、味噌の香りと夕餉のざわめきが流れていた。晴人は立ち止まり、その光景を見渡した。
「この場所が、変わっていく」
彼の心に、ひとつの確信が宿った。
そこへ、軽く走り寄る足音がした。
「晴人さん!」
政次郎だった。額には汗を浮かべている。
「どうした?」
「東湖先生が……会沢様と少し話したいそうです。もしよければ、今夜、囲炉裏の場を設けたいと」
「……俺で、いいのか?」
「はい。東湖先生が、そう言ってました。“お前が語ればよい”と」
晴人は、深く頷いた。
「わかった。準備する。今夜は――きっと、大事な夜になる」
その言葉どおり、その夜の囲炉裏端は、普段とは違う空気に包まれていた。
炭がくすぶる中、会沢正志斎、藤田東湖、そして晴人の三人が座る。その場には松陰と象山の姿もあり、政次郎や町の有志たちは少し離れた場所から控えていた。
「……この囲炉裏も、実に良い」
会沢がぽつりと言った。
「火を囲み、顔を照らす。人が人を“知る”場として、これ以上のものはない」
東湖が笑う。
「我らも昔は、ここで夜な夜な議論を戦わせたものです。だが、今夜は“未来の言葉”を聞きましょうか。藤村晴人、お前が語る番だ」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
晴人は、静かに口を開いた。
「民を守るには、法と制度が必要です。でも、それだけじゃ足りない。俺は……人と人が信じ合える場所が必要だと思うんです」
「信じ合える……?」
松陰が問い返す。
「はい。火を囲み、共に飯を食う。雨の日も、苦しい日も、互いを支える。……そんな場所を、町の隅々に作っていきたい」
「言葉にすると、実に単純なことのようだな」
会沢の目が鋭く細められた。
「だが、それを“続ける”のは難しい。人の心はすぐに冷える」
「だから……制度と、空間と、習慣を作るんです。井戸端を整えて、炊き出しを日常にして、行事にして、記憶にする」
象山が目を丸くした。
「記憶にする……か」
「そうすれば、言葉にしなくても伝わります。町が“自分たちのものだ”って、皆が思えるようになる」
誰かが、小さく息を飲んだ。
会沢正志斎が、じっと晴人を見据えている。その目はもはや試すものではなかった。むしろ、かつての己を、鏡のように映し出されたかのような戸惑いを含んでいた。
「……民に救われておるのは、むしろ我らの方かもしれんな」
東湖が、うなずいた。
「晴人は、語るだけではない。行動する。そして、その行動に、理がある。ならば――器となろう」
囲炉裏の火が、静かに揺れた。
その夜の終わりに、政次郎が小さな声で尋ねた。
「……会沢様の目が、少し潤んでた気がしました」
「そりゃあ、きっと煙のせいだよ」
晴人は笑った。
だが、心の奥では、別の確信があった。
会沢正志斎という“時代の理”が、確かに何かを託してくれたのだと。
そして、また一歩、未来へと踏み出せる気がしていた。