1話:歴史の扉が開く日
本作は、もしも一人の地方公務員が幕末に転生したら――
という物語です。
剣ではなく、理と仕組みで国を救う。
倒幕なき維新で、日本を作り替えた男の記録をお届けします。
※本作は2025年7月12日より連載を開始しております。
蝉の声が、耳の奥を突き刺すように鳴いていた。
令和の夏、茨城の奥山。藤村晴人、三十一歳。五日間の有給を使い、ソロキャンプに来ている。
県庁職員として八年。地域振興、防災、財政――どれも地味で、こつこつと積み上げる部署ばかりだった。上司の顔色をうかがい、陳情に頭を下げ、書類を積む。真面目に、ただ真面目に。
けれど、心のどこかが空洞だった。仕事は回る。失敗もない。だが「何かを変えた」手応えが、一度もない。
――このままでいいのか。
胸の底で燻る問いを黙らせるために、晴人は山を選んだ。地図にもない沢のほとり。誰もいない場所で、ただ自分と向き合う。
軽ワゴンに道具を積み、舗装の切れた林道を抜け、沢沿いの平地にタープを張る。焚き火を起こし、アルミポットで湯を沸かす。薪の焦げた匂いが、少しだけ心を落ち着かせた。
「このまま、時間が止まればいいのに」
思わず漏れた独り言。
母は高齢で、実家に一人。結婚の予定はない。友人も減った。地方公務員という肩書きのなかで、自分という人間が“薄まっていく”感覚がある。
コーヒーを唇へ運んだ、その瞬間――地面がかすかに震えた。
「……地震?」
立ち上がる。風ではない。足元の小石が跳ね、タープの支柱が軋む。次の瞬間、地の底から轟音が突き上げた。
「うわっ――!」
大きな揺れ。地面が波打ち、焚き火が弾ける。体は横倒しになり、持ち物が飛び散った。iPadが転がり、iPhoneが地に叩きつけられる。ザックの口が裂け、モバイルバッテリーやライターが散った。
土が崩れ、斜面ごと滑り落ちる。耳鳴り、目の前が白くかすむ。
光。轟音。そして、何もかもが遠ざかった。
* * *
目を開けると、草の匂いがした。頬には乾いた土。吸い込む空気は、ひやりと冷たい。
――あれ、夏だよな?
立ち上がる。空が違う。青が深く、雲が高い。蝉は鳴かず、鶯が声を落とす。
見渡しても、舗装路もガードレールもない。木々の姿、草の丈までどこか古めかしい。
遠くに、城のような建物が見えた。高い木柵に囲まれ、屋根瓦が光る。
「……冗談だろ」
喉が渇き、思考が追いつかない。スマホは圏外。時刻も日付もノイズまみれ。iPadも同じだ。ソーラーバッテリーは無事だが、今は意味をなさない。
木車の軋む音――牛車だろうか。続いた会話は、聞き慣れない日本語だった。抑揚が古い。時代劇の台詞のような文語。
背筋に冷たいものが走る。
“江戸時代”。
その語が脳裏をよぎり、全身が粟立った。
初夜は震えて過ごした。太陽が沈むと、星が異様な明るさで降りてくる。電気の光が一つもない世界。焚き火だけが、自分の存在を確かめてくれる。
――タイムスリップ。そう呼ぶほかない。
* * *
夜明け。鳥の声で目を覚ました晴人は、まず手元の装備を確認した。
水、乾パン、ナイフ、救急セット。電子機器は生きているが、文明は自分ひとりきりだ。
林の奥に小川、谷の反対側には屋根並み。炊煙が上がり、木の塀の向こうで牛が鳴く。教科書の「江戸の絵図」に迷い込んだようだった。
心臓は早鐘を打つ。だが、恐怖より先に理性が立った。
――観察すべき現象だ。
防災や地形調査で身につけた癖が、勝手に働く。気候、植生、水脈、人の動き。把握すれば、生存率は上がる。
晴人は季節を測った。梅は散り、桜が咲き初め。空気はまだ冷たいが、枝々は芽吹いている。
(令和の夏から、江戸の春へ――時空がずれたのか)
ノートを開き、日付・気温・植生・人流を記す。こうして、晴人の“異界の半年”が始まった。
* * *
最初の数週間は、生き延びることで精一杯だった。
テントに葦や蔦で迷彩を施す。昼は音を立てず、夜は焚き火を小さく。光は布で遮る。
食料は川魚と山菜。レトルトはすぐ尽きた。それでも、自然と折り合う術を少しずつ覚える。
服も変える必要がある。ジーンズとポロでは目立ちすぎる。
晴人は村にこっそり入り、畑や荷運びを手伝った。最初は警戒されたが、無言で働き礼を尽くすうち、“旅の者”として受け入れられていく。
古着を手に入れ、髪を結い、草鞋を履く。水面に映る自分は、もう現代人ではなかった。
「異人さま」と笑う者もいた。髪や肌の色合いが、この土地ではわずかに異質なのだ。それでも、その笑いに救われた。
言葉も少しずつ身についた。江戸の言葉は語尾が強く、音が転がる。硬質で、美しい。最初は聞き取れなかったが、やがておよその会話はわかるようになった。
そして、晴人は一つの事実に行き当たる。
ここは水戸藩。時は安政。――まもなく、安政の大地震が来る。
その地震で命を落とすのが、水戸学の中心、藤田東湖。
名は知っている。尊皇攘夷を唱え、後の明治維新に思想的影響を与えた男。だが、安政の地震で母を庇い、屋敷の下敷きとなって亡くなった。
もし彼が生きていれば、日本の近代化は、きっと違う相を見せたはずだ。
(救えるかもしれない)
胸の底で小さな火が灯る。はじめは妄想に近かった。だが、半年の適応の果てに、それは確信へと変わった。
――藤田東湖を救う。
それが、この時代で生きる意味になる。
春が過ぎ、夏が来た。
晴人は山深い谷間で、ひっそりと暮らし続けていた。テントは雨風にさらされて布が薄くなったが、竹を組み、木の枝を交差させて補強した。周囲に葦や蔦を絡ませ、遠目には薪小屋のようにしか見えない。
食料は川魚と山菜、乾燥させた木の実。現代の味――レトルト食品やカップ麺はとっくに底をついた。それでも晴人は、自然と共存する術を身につけ、生き延びていた。
そして、観察を続けていた。
ノートには、毎日の記録がびっしりと書かれている。天候、気温、人の往来、村の様子。そして――藤田家の動き。
藤田東湖の屋敷は、水戸城下の東端にある。彼の母・登勢は長らく床に臥しており、使用人が薬草を買いに来る。
晴人はその使用人の行動を観察していた。どこから来て、何時ごろ現れるか。どんな言葉を使い、どんな物を買っていくか。そのすべてを記録する。
接触の機会を見極めるためだ。
だが、動けば怪しまれる。この時代、他所者への疑心は深い。下手をすれば、他藩の密偵と疑われて投獄される。
それでも、動かなければ何も変わらない。
晴人は、慎重に、しかし確実に、計画を進めていた。
* * *
秋が深まる頃、晴人は決意した。
もう時間がない。安政二年十月二日――その日が、迫っている。
ある雨上がりの午後、晴人は薬屋の裏通りで待っていた。
やがて、見慣れた男が店から出てきた。背筋を伸ばし、年の頃は五十代。髷をきちんと整え、衣の縫い目にも無駄がない。藤田家の家臣だ。
男は店内で薬包紙を受け取り、胸元に押し込んで外へ出る。空を見上げて呟いた。
「……母君のお身体が悪うては、あの方も心安らかではおれぬ」
――やはり、藤田家の者だ。
晴人は意を決し、薬屋の裏手に回り込んだ。ほどなくして、男が裏口から姿を現す。
泥のついた草履を履き直し、笠を被る瞬間――声をかけた。
「……お話を、少しだけ。お耳を拝借できますか」
男の目が鋭く光る。刀の柄にかけた手が、微かに動いた。
「何者だ、お主」
「旅の者です。ただ……あるお方の安否を案じております」
「誰のことだ」
「藤田東湖さま――そして、その母君のことです」
男の顔が強張った。だが、次の瞬間、声を荒げる。
「不敬である! 無闇に名を口にするな!」
「どうか落ち着いて聞いてください!」
晴人は両手を上げて制し、言葉を絞り出す。
「近く、大きな地震が来ます。屋敷が崩れ、人が――命を落とすほどの」
男は一歩詰め寄り、晴人の胸倉を掴んだ。
「不吉なことを言うな! 誰かに聞かれたらどうなるか分かっておるか!」
「だからこそ、今言っているんです!」
胸を押さえながら、まっすぐに男を見据えた。
「母君だけでも、屋敷を離れてください。ほんのわずかな間でいい。寺でも、旅籠でも構わない。どうか――それまでだけでも」
その言葉に、男の瞳が揺れた。怒気が薄れ、眉の奥に迷いの影が差す。
「お主……なぜそんなことを知っておる」
「理由は話せません。ですが、確かなんです」
声が震えていた。信じてほしい。その一心だった。
やがて男は、沈黙ののちに低く呟いた。
「……母君を、寺に移す理由をつけよう。拙者一人の裁量では決められぬが、掛け合ってみる。……そなた、名は?」
「名乗るほどの者ではありません。旅の風聞の士とお呼びください」
男は小さく頷き、笠を深くかぶる。
「もしも……もしも、これが本当なら。拙者は、生涯そなたを忘れぬ」
そう言い残し、雨の残る道を去っていった。
その背中を見送りながら、晴人は深く息を吐いた。
(動いた……これで、きっと)
湿った土の匂いが立ちのぼる。空は重く曇っていた。
* * *
地震が起きたのは、それから七日後の夜だった。
安政二年十月二日――西暦一八五五年十一月十一日。
「……うっ」
最初は、足元がわずかに沈む感覚だった。次の瞬間、地面が唸りを上げた。
家々の柱がきしみ、屋根瓦が音を立てて崩れ落ちる。闇の中で、悲鳴と怒号が交じり合う。
晴人は外に飛び出し、高台へ駆け上がった。地鳴りが地を割き、火の粉が風に舞う。水戸城下が、まるで獣のように身を震わせていた。
「東湖……!」
目を凝らす。屋敷の屋根が、崩れていくのが見えた。瓦が飛び、梁が折れる。
晴人の胸に、一つの懸念が浮かんだ。
(母は寺に避難しているはず。なら、東湖も――)
しかし、次の瞬間、遠くで男の叫び声が聞こえた。
「東湖様が! 東湖様が書院に!」
晴人の血の気が引いた。
(なぜ……母は無事に避難したはずなのに!)
後で知ったことだが、東湖は藩の重要文書を守るため、あえて屋敷に残っていたのだ。母は無事に寺へ避難していたが、東湖自身は「藩政の機密を置いていくわけにはいかぬ」と、書院で文書の整理をしていた。
武士としての責任感が、彼を危険な場所に留めていたのだ。
晴人は走った。瓦礫を飛び越え、崩れかけた門をくぐる。
「東湖様! どこですか!」
声を張り上げると、奥から微かな応答があった。
「……こ、ここだ……」
書院の前。梁が崩れ、瓦が積み重なっている。その隙間から、東湖の手が見えた。
「今、助けます!」
晴人は瓦を一つずつどかしていった。手が切れ、血が滲む。それでも止めなかった。
やがて、東湖の姿が見えた。梁の下敷きになりかけているが、運良く柱が支えになって空間ができていた。
「腕を!」
晴人は手を伸ばし、東湖の腕を掴んだ。力を込めて引っ張る。
「うっ……」
東湖が身を捩り、狭い隙間から這い出てきた。
その瞬間、梁が完全に崩れ落ちた。土埃が舞い上がり、二人を包む。
晴人は東湖を支え、屋敷の外へ出た。
* * *
夜が明けた。
瓦礫の山の向こうに、人々の列ができていた。負傷者を背負い、傷を包み、互いに声をかけ合う。
そしてその中に――藤田東湖の姿があった。衣は土まみれだったが、その眼光は鋭いままだった。
彼の横には、寺から駆けつけた母・登勢がいた。無事だった。東湖は母の手を取り、静かに頷いている。
「……本当に、助かったのか」
晴人は草の上に座り込み、額を押さえた。喉が焼けるように乾いている。
ノートを取り出し、そこに書かれていた「藤田東湖 安政二年十月 死亡」の文字に、赤鉛筆で大きく×を引いた。
歴史が、変わった。
自分のしたことは、家臣への一言と、瓦礫の中からの救出。それだけだ。だが、それが命を救った。
「……やったんだ、俺は……」
呟きながら、空を見上げる。青空が、眩しいほどに広がっていた。
* * *
数日後、藤田邸を訪れた。
迎えに出たのは、あの日の家臣――吉田安右衛門。
「お待ちしておりました」
奥から現れた東湖は、静かに晴人を見つめた。頬に傷跡を残しながらも、その目には深い光があった。
「……貴殿の言葉が、我が母を救った。そして――拙者をも。礼を言う」
「いえ、俺はただ――」
「いや、礼は言わせてもらう」
東湖はゆっくりと頷いた。
「貴殿のような者が、この国には必要だ。異人か、漂流者かなど問わぬ。名を、聞かせてくれ」
「藤村晴人。遠国の者ですが、仕える覚悟はあります」
その言葉に、東湖は微笑を浮かべた。
「ならば、まずは母の世話を頼もう。そなたには“理”がある。民を思う理だ」
晴人は深く頭を下げた。
この瞬間、確かに感じた。過去はもう“他人の物語”ではない。自分の生きる現在であり、未来を形づくる戦場だ。
――歴史は、救える。
その確信だけが、胸の中で静かに燃えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本章は、初期版から構成と描写を見直した改稿版です。
藤村晴人の「なぜ動くのか」を軸に、感情の流れと時代の息づかいを丁寧に描き直しました。
また、舞台となる水戸藩の空気や生活の手触りを強め、物語の“始まりの温度”を少し上げています。
出来事の流れは変えていませんが、心の在り方を一行一行積み直しました。
晴人の孤独や決意が、以前よりも近く感じられたなら幸いです。
――ここから、藤田東湖との出会いと、制度を巡る戦いが始まります。
改めて、読んでくださった皆様に感謝を。
気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。
感想も大歓迎!読者さんの声、めちゃくちゃ励みになります!




