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1.5話:地鳴り、火の海、瓦礫の都



 嘉永七年改め、安政二年十月二日――西暦一八五五年十一月十一日。暦の上ではすでに冬に差しかかっていたが、江戸の夜は妙に蒸し暑く、風もない不気味な静寂に包まれていた。


 丑三つ時。人々は灯を落とし、眠りに落ちていた。


 だが、地下で何かが“目を覚ました”のは、そのわずか数刻後だった。


 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。


 初めは、遠雷のような低い地鳴りだった。まるで大地の奥底を、巨大な何かが這いずるような、耳に届くより前に胸に響くような、重苦しい音。


 「……今の音、なんだ?」


 江戸城本丸の奥、吹上庭園に面した御殿の一角で、将軍・徳川家定が寝所の布団の中で眉をひそめた。


 次の瞬間――。


 ドォンッ!


 地面が、爆ぜた。


 まるで、何十もの大砲が地の底で一斉に撃たれたかのような衝撃とともに、江戸の大地全体が“波打った”。


 「な……なにごとじゃああっ!!」


 家定が身を起こすと同時に、御殿の柱がきしみ、襖が外れ、屏風が倒れ、燭台が床に落ちて火花を散らす。


 「御台様! お逃げくだされ!」


 側近が叫ぶが、声がかき消されるほどの轟音と揺れが続く。石垣が崩れ、櫓が倒壊し、庭の池の水が噴き上げる。


 将軍家の権威の象徴である江戸城が、夜の闇の中で“崩れ始めていた”。


 


 城の外では、より地獄に近い光景が始まっていた。


 神田の長屋では、瓦が宙を舞い、土壁が剥がれ、人々の悲鳴が響く。瓦礫に押し潰され、叫ぶ子どもを抱えて立ち尽くす母親。寝巻き姿のまま逃げ惑う人々は、橋の崩落や門の倒壊に行く手を阻まれ、追い詰められていく。


 「助けてくれえええッ!」


 「娘が! 娘が瓦礫の下にッ!」


 火事場泥棒を防ぐためにと閉じられていた大門は、逆に逃げ道を奪った。逃げ場をなくした群衆が折り重なり、阿鼻叫喚の修羅と化す。


 


 だが、それは始まりに過ぎなかった。


 ――ゴウッ!


 雷鳴に似た轟音が、浅草の方向から轟いた。地面に亀裂が走り、そこから突如として“光柱”が噴き上がる。地割れの中から吹き上げたのは、天然ガスか、はたまた地熱か。それはまるで、天を貫くような蒼白い閃光となり、夜空を照らした。


 「な、なんだ……あの光は……」


 「神の怒りか……? 終わりだ……これは末法の世だ……」


 目撃した人々は震え、崩壊した町並みに膝をついた。


 


 本所、深川、吉原、下谷――江戸の下町一帯では、崩れた家屋の台所や行灯から、火が出た。


 夜風がなく湿度が高かったせいで燻っていたその炎は、火薬をまいたように次々と延焼していく。特に深川では、川沿いの材木置き場が火に包まれ、巨大な火柱が上がった。


 火は通りを、橋を、寺を呑み込み、煙が月を隠し、空が赤黒く染まった。


 


 「江戸は……地獄になった……」


 江戸の町を見下ろすように佇む上野の山から、それを見ていた僧侶が、震える声で呟いた。


 あまりの異様な光景に、人々の理性は限界を迎えていた。


 「これは……人ではない“何か”が起こしたんだ!」


 「地の底で、何かが目覚めたんだ……!」


 「化け物だ! 大蛇だ! 龍が怒ったのだ!」


 怒号と悲鳴の中には、現実と非現実の境が曖昧になった叫びが混じり始める。


 庶民の心に巣食っていた迷信や恐怖が、炎とともに膨れ上がり、「怪異」として形を成し始めていた。


 


 そして夜明け――。


 揺れが止んだのは、発生から三刻(約六時間)後。もはや江戸は、かつての華やかな大都市の姿を留めてはいなかった。


 町の三分の一は焼け、瓦礫の山と化し、空にはなおも黒煙が立ち昇る。


 生き残った者たちは、誰とも知らぬ手を取り、泥だらけの顔で天を仰いだ。


 「……生きている、のか……」


 だが、その喜びは長くは続かない。


 江戸が崩れたという事実は、やがて“権威の崩壊”をも意味する。


 災厄は自然だけではない。“時代”そのものが、大きく揺らぎ始めていた。

火鉢に焚かれた炭の赤が、寺の白壁を不規則に揺らしていた。


 その静けさを裂くように、ひとりの使者が駆けこんできた。


 「……江戸が……江戸が、燃えております!」


 門前で土下座する男の着物は、ところどころ煤に焦げ、腕には細かな裂傷が走っていた。馬の腹帯にはまだ血のような泥がこびりつき、長旅の険しさを語っていた。


 報を受けた侍僧が「中へ」と促すが、その声すらかすれていた。何かが、“常ならぬ”空気を連れてきたのだ。


 「江戸城の吹上が、崩れたそうじゃ……」


 「本所は、地割れに呑まれたと……」


 「月が、赤く染まったらしい……火の粉と、煙と、血で……」


 不確かな噂と共に、火事場のようなざわめきが城下を覆っていく。


 晴人は、寺の本堂に身を寄せていた登勢のもとへ、湯を運ぶ途中だった。使者の言葉を耳にし、思わず立ち止まる。


 (江戸が……?)


 あの広がる石畳、行き交う駕籠、屋台の賑わいが――瓦礫に変わったのか。


 血の気が引いたまま、彼は静かに襖を開ける。


 「……登勢様、湯が沸きました」


 襖越しに見えた登勢は、正座したまま動かず、蝋燭の灯に照らされた横顔には、影が深く刻まれていた。


 「聞こえましたよ……江戸が、火の海だと」


 細い声は、まるで誰かの記憶をなぞるようだった。


 「……あの子も、見たでしょうね。あの空を」


 “あの子”とは、藤田東湖のことだ。


 水戸へ戻っていたはずの彼も、きっと今頃は、己の無力さを噛みしめているに違いない。


 晴人は膝をついた。


 「私には……まだ、何もできません。城でも町でも、人々が慌てふためいているのに……」


 その瞬間、天井の梁がかすかに鳴った。


 (また……揺れてる?)


 目に見えぬほどの微震。だが、足元から這い上がってくるような、“呼吸する地”のような感覚。


 それは、ただの地震の余波ではなかった。


 寺の外では、老人が「神が目覚めたのだ」と呟いていた。誰かは「地下に封じられし怨霊が怒った」と言った。


 晴人はそんな言葉に首を振るが、内心のざわめきは消えない。


 (違う……これは、“何か”が、確かに動いている)


 登勢が、ふっと顔を上げた。


 「晴人さん。……あなたは、東湖にとっての“杖”になりなさい。いまはただ、傍にいることです」


 彼女の言葉は柔らかくも、確かに響いた。


 「私が? ……でも、私は、ただの世話係で」


 「世話をするというのは、命に寄り添うことですよ。それを“ただ”とは言わない」


 外では、鐘の音が鳴り響いていた。地震避難の合図だ。しかし、その音に混じって、不協和音のような「鳴動」が、地の底から響いていた。


 (これは、本当に自然の災害なのか……?)


 夜空は雲に覆われ、月は赤黒く滲んでいた。


 火事の煙が、ここ水戸まで届いているという噂もある。


 「江戸が崩れたなら……幕府の力も、揺らぐかもしれませんね」


 登勢が、静かに告げた。


 晴人はその言葉に、胸の奥がざらりとした感触に包まれるのを感じた。


 ――時代が、動き出している。


 それは、歴史という名の巨人が、重い腰を上げた音だった。

安政二年十月二日、未明の余震は、すでに焼け落ちた江戸の上空を、今なお覆っていた。


 地面の奥から“うねるような震動”が押し寄せ、土塀が傾き、崩れかけた蔵の壁に亀裂が走る。音もなく、しかし確かに“地の底が生きている”と感じさせる揺れが、市中に広がっていた。


 深川の空き地では、焼け跡に仮小屋を建てていた男たちが、震えとともに道具を投げ出し、空を仰ぐ。


 「……まただ!」


 「こんどは崩れるぞ、離れろ!」


 だが、すでに逃げ場はなかった。すぐ脇の長屋の残骸が、グラリと揺れて音を立てて崩れ落ちる。そこにいた子どもが悲鳴を上げて走り出す。


 「おかあちゃぁん!!」


 母親が駆け寄り、子どもを抱きかかえる。尻もちをついたまま、しばらく動けずにいた。


 遠く、焼け残った浅草寺の五重塔が、まるで幽霊のように霞んで見えた。瓦が剥がれ、柱に亀裂が走り、もはやその身を保っているのが奇跡のようだった。


 煙は晴れつつあったが、街の空気には“焦げと血と埃”がまだ漂っている。足元には焼け焦げた着物、炭となった樽、潰れた提灯、そして黒くなった小さな手のひら。


 「神も仏もないのか……」


 そう呟いた老人は、深川の米問屋の主だったという。今は家も財も失い、ただ河原で瓦礫を掘り返していた。


 夜になると、空が不気味に赤黒く染まり、空気が変わった。


 焼け残った瓦屋根の上を、ぼうっと光る“揺らぎ”が走る。それはまるで、見てはいけない何か――“目に見えぬ力”の痕跡のようでもあった。


 「見たか? あれ……空が、裂けるようだった」


 「ありゃ人の業じゃねえ……何か、出たんだよ」


 「“封じてた”もんが、地の底から出てきたに違ぇねぇ」


 巷にはそんな怪談めいた噂が流れ始めていた。怪物、鬼火、神罰、そして“空を焼いた眼”――。


 こうした“現実と非現実の境界”が崩れたことで、人々の心はより一層、不安定になっていた。


 そしてその夜、水戸の藩邸に伝令が飛び込む。


 「江戸より火急の知らせ!」


 風のように駆け込んだその若者は、羽織も襦袢も煤けて破れ、顔には疲労と焦燥が刻まれていた。


 応対に出た役人が言葉を飲み込む中、伝令は震える声で叫ぶ。


 「江戸は……江戸は、壊滅寸前です。……火の海で、道が、町が、全部、焼けました」


 水戸城内ではすぐさま緊急会議が招集され、城下の町でも、噂が広がり始めた。


 「江戸が、焼けた……?」


 「じゃあ、うちの婿は……奉公先は……」


 「将軍家は!? 幕府は無事なのか!」


 誰もが親類や知人の名を口にしながら、情報を求め、空を見上げた。


 水戸の空は穏やかで、星すら見えていた。しかし、人々の心には、“目に見えぬ何か”がひたひたと迫っている気配があった。


 江戸の混乱と、その背後にある“異常な自然現象”。


 水戸城下の町では、地鳴りに似た音を聞いたという農民が、慌てて城門を叩き、


 「……夜中に、地面が唸っていた!」


 と証言する場面もあった。


 まるで、日本列島そのものが、何かを警告しているかのようだった。

寺の境内に、ぼんやりと朝日が差し込んできた。灰と煤の混じった空気の中、それでも光は確かにあった。


 「藤村様、炊き出しの準備が整いました」


 寺の庫裏くりから声がかかる。晴人は焚き火の前で臼を洗っていた手を止め、頷いた。


 「ありがとう。汁物はできたかい?」


 「はい。根菜と干し飯を戻したものですが……今朝はお椀が足りません」


 「なら、葉っぱでも竹でも使って。喉に入れば十分だ」


 江戸の地震から五日が過ぎていた。寺には避難民が次々と押し寄せ、いつの間にか百名近くが身を寄せ合っていた。寺の本堂は寝床となり、庫裏は炊き出しの拠点。鐘楼には火の見役が立ち、余震への警戒が続いている。


 藤田東湖の母、登勢もこの寺に身を寄せていた。


 彼女は晴人を「藤村様」と呼び、常に距離を取って接した。だが、夜半に布団をたたみ、朝一番に炊き出しの水を汲む彼の背を見つめる視線は、どこか柔らかかった。


 「その、藤村様……お腰のほうは大丈夫ですか?」


 登勢が尋ねたのは、彼が薪を抱えて戻ってきたときだった。


 「ええ、大丈夫です。昔、腰をやってからは、こういう作業には少し慎重になってますけどね」


 「無理はなさいませぬように。あの、晴人さま……ではなく、藤村様」


 少し照れたように言い換えると、登勢は手にした塗椀を見つめながら、言葉を継いだ。


 「こんな時、息子の東湖がいたらと、つい考えてしまいます。あの子が大名にでもなったわけでもないのに……まるで、天下を背負ってるような顔をしていましたから」


 「藤田先生は、ご無事なんですね」


 「はい。すぐそばの屋敷におります。けれど……あの子は、自らを責めています。江戸の混乱に際し、なぜ自分が都にいなかったのかと」


 晴人は言葉を探したが、見つからなかった。


 地震が水戸を襲ったのは、江戸の被災からわずか数日後のことだった。城の石垣がいくつか崩れ、古い町家は軒並み歪んだ。だが、江戸の被害とは比にならない。


 江戸では火災が三日三晩も続き、死者の数は正確には把握されていなかった。だが、民衆の間では「一万人を超えた」とささやかれ、将軍・家定の所在すら噂の対象となっていた。


 「天が怒っておられるのでは、と言う者もおります」


 登勢がぽつりと言った。


 「末法の世、とはよう申しますが……」


 「違いますよ」


 晴人ははっきりと言った。


 「これは、自然の理です。たとえ誰がどこで何をしたからといって、地は揺れ、火は燃えます。神の怒りではありません」


 登勢は少し驚いたような目で彼を見た。そして、ふっと笑った。


 「はっきりと、言い切られるのですね。まるで、あの子のようだ」


 そのとき、鐘楼の鐘が鳴った。続いて寺の門のほうから、ざわめきが届いた。


 「役所からの使いが来たそうです! 江戸からの報せだと!」


 人々が集まり始める。晴人も、登勢の袖を取って立ち上がった。


 門の前には、馬に乗った使者がいた。羽織の裾は泥にまみれ、顔には疲労の色が濃かった。


 「水戸城下の皆々様! 江戸城よりの布告である!」


 緊張が走った。使者が開いた文を読み上げる声は、かすれていた。


 「……大地震により、江戸市中の三分の一が焼失。死傷者数千。将軍・家定公は無事なれど、城郭に被害甚大。幕府より、諸藩へ援助の命、下されたり……」


 周囲から息を呑む音が聞こえた。ある者は顔を覆い、ある者は膝をついた。


 晴人は、使者の文を聞き終えたあと、目を閉じて小さく息を吐いた。


 (この国は、変わる。いや、変わらざるを得ない)


 崩れた石垣、焼け落ちた町、恐怖に震える人々。そのすべてが、現実の裂け目だった。かつて自分がいた「令和の日本」では、災害後に「何が変わったか」を問う声が繰り返された。


 ――だが、ここでは「何を変えねばならぬか」が先に来る。


 そして今、目の前には炊き出しの列がある。怯えた子どもが、かじかんだ手で湯気の立つ粥をすする。老人が、うなだれていた頭をわずかに上げる。


 小さな命が、この寒空の下で、ただ「生きる」ために並んでいた。


 晴人は臼の水を捨てると、ひとつ深呼吸をして言った。


 「皆さん、寒い中ありがとうございます。少しずつしか配れませんが、必ず一人ひとりに行き渡ります。どうか、焦らずに……」


 彼の声は小さかったが、確かに届いた。


 「藤村様! 追加の粥ができました!」


 「ありがとう、次をお願い!」


 手が、また動き始めた。


 火はまだ消えていなかった。だが、誰かの手が薪をくべる限り、希望は絶えない。


 夜が明ければ、また瓦礫の上に“新しい一日”が始まる。

気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。

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