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168話: (1869年12月中旬/初冬) 顧問団

初冬の風は乾いて鋭く、朝鮮半島の野に吹き渡っていた。空気は冷たく澄んでいるが、訓練場には湯気のような熱気が立ち上っていた。砲声こそ鳴り響かぬものの、号令と靴音が地を揺らし、三カ国の言葉が交錯する活気に満ちていた。


 「En avant, marche!」

 「前へ、進め!」


 フランス軍事顧問団の少佐マクレールが声を張り上げ、日本人通訳がすかさず翻訳する。さらに西郷の副官が朝鮮語で簡潔に繰り返すと、整列した朝鮮兵たちが一斉に足を踏み出した。冬の硬い地面を打つ靴音は見事に揃い、列は少しの乱れもなく進んだ。


 野外に設けられた射撃場では、別の一団がフランス式銃の分解組立てを繰り返していた。金属の冷たい光沢が薄い冬日を反射し、兵士たちの指は凍えながらも素早く動いている。フランス教官が手本を示すと、日本の教官が補足し、最後に朝鮮語で要点が伝えられる。伝言のような三段階の指導であっても、兵たちの理解は早かった。


 「思った以上に飲み込みが早い」

 マクレール少佐は目を細めて呟いた。

 「朝鮮兵は体格に恵まれているだけでなく、規律を重んじる気質がある。これならば短期間で近代軍に仕上がる」


 傍らにいた西郷隆盛が、大きな腕を組んで頷いた。

 「軍の背骨は規律と技術。そこに志を加えれば立派な官軍になる」


 その言葉を通訳が伝えると、朝鮮兵たちの胸が張り、瞳に光が宿った。



 訓練場の一角では、野営の準備が進められていた。日本式の帳幕を張り、野営炉を設け、食事の配給方法を実演する。兵士たちは興味津々に鍋を覗き込み、乾パンや塩漬け肉の保存方法を学んでいた。


 「食は軍の力ぜよ」

 坂本龍馬が笑いながら見回った。

 「腹が減っちょったら戦にならん。銃より大事なのは飯、ぜよ」


 冗談めかした口調に周囲の兵がくすりと笑った。だが、その笑いは緊張を和らげ、教えられる知識をすっと心に染み込ませていった。



 衛生の講習も行われていた。軍医が水を煮沸する実験を示し、汚れた水と澄んだ水を並べる。次に簡易手洗い桶を設置し、兵士たちに手を洗わせる。


 「病は敵より恐ろしい」

 軍医が強調すると、通訳を介して兵士たちは深く頷いた。


 この場にいたフランス軍医ブラウン大尉は、満足げに言った。

 「これまで我々が血で学んだことを、彼らは短時間で理解している。命を救うのは剣でも銃でもなく、清潔さだ」


 藤村から託された方針――「兵站と衛生は武器に勝る」を体現する場面だった。



 午後になると、統合演習が始まった。銃列射撃、行進、野営展開、そして衛生処置。全てが三カ国混成の教官陣によって指揮され、朝鮮兵は汗だくになりながらも必死についていった。


 夕暮れ、訓練を終えた兵たちが整列した。吐く息は白く、顔は煤で汚れていたが、その背筋は伸び、表情には誇りが宿っていた。


 マクレール少佐は帽子を取り、兵士たちを見渡した。

 「これほど短期間での進歩は奇跡的だ」


 その言葉を聞いた西郷は頷き、龍馬は笑みを浮かべて口を開いた。

 「教える側も、教わる側も、みんなが成長しちゅう。これが国際協力の力ぜよ」


 整列する兵士たちの列の向こう、冬の空に日章旗と朝鮮の旗、そしてフランスの三色旗が並んで翻っていた。それは、これまで誰も見たことのない光景――三つの国が手を携えて未来を作ろうとする象徴であった。


 榎本武揚が遠くから歩み寄り、静かに呟いた。

 「この光景を見よ。三カ国の旗が並ぶのは、侵略でも支配でもない。共に学び、共に進む印だ」


 その言葉を聞いた兵士たちの胸に、見えない火が灯った。

訓練場から少し離れた倉庫前では、別の光景が広がっていた。木箱が山のように積まれ、その側面には太い墨字で「小栗ライン」と記されている。箱の封を斧で割ると、内部からは整然と並べられた銃器、野営用具、背嚢、調理器具まで一式が現れた。


 「これが……日本製の装備か」

 朝鮮軍の若い将校が目を丸くして声を上げる。


 西郷隆盛は頷き、手にした小銃を兵の前に差し出した。

 「小栗上野介が設計した統一規格じゃ。銃も背嚢も鍋も、全部が計算されておる。同じ部品で直せる、同じ寸法で組める。つまり、戦場で困らんのだ」


 銃の分解が始まった。金属の部品は磨かれ、寸分の狂いなく組み合わさっている。フランス顧問団のスミス中尉が興味深げに覗き込み、感嘆の声を上げた。

 「部品がこれほど正確に仕上げられているとは。まるで我々の工廠の製品と同じ水準だ」


 日本の教官が微笑んで答える。

 「水戸と横須賀で鍛えた技術を朝鮮にも届ける。これが“小栗ライン”の力です」


 兵たちは次々と背嚢を背負い、野営用の小鍋を取り付け、火床に並べてみせた。全てが同じ形で収まり、使い方の説明も最小限で済む。雑多な旧式装備に慣れていた兵士たちは驚きの声を漏らした。


 「これまでのものとはまるで違う」

 「重さが均一で、背負っても体が傾かぬ」


 榎本武揚が近づき、兵たちの列を見回した。

 「装備が揃えば補給も揃う。銃も鍋も靴も、全部が一つの“流れ”の中にある。これこそ近代軍の背骨だ」


 フランス軍医ブラウン大尉も、衛生器具の箱を手にして頷いた。

 「消毒液の瓶も規格化されている。これなら戦場での取り違えがなくなる」


 岩崎弥太郎が帳簿を手に一歩進み出た。

 「在庫を数えるのも楽になりますぜ。百挺の銃に百個の部品、千の兵に千の背嚢。数字で揃えば、管理も儲けも簡単です」


 その言葉に、周囲から小さな笑いが起きた。だが兵士たちの表情には、笑いと同時に新しい自信が芽生えていた。


 日が傾く頃、整然と並べられた兵士たちが新装備で立ち上がった。背嚢が揃い、銃口が揃い、足元の靴底までが一様に整列する。その光景は、まるで一枚の絵のように美しかった。


 西郷は腕を組み、低く言った。

 「軍を変えるのは数でも声でもない。装備と規律、これが揃えば国は変わる」


 坂本龍馬がその横で笑った。

 「なるほど。まるで商売やの。品揃えを揃えて、在庫を減らして、客を安心させる。軍も経済も、道理は同じぜよ」


 その冗談に兵たちの間からまた笑いが漏れた。だが、彼らの胸には新しい誇りが確かに刻まれていた。


 ――雑多な寄せ集めではなく、一つに揃った「官軍」の姿。

 その背後には、小栗が築いた技術の流れと、日本が積み上げた工業力があった。

十二月の冷たい雨が江戸の街を濡らしていた。藤村邸の書斎では、分厚い帳簿が机いっぱいに広げられ、灯油の匂いの中でペンの走る音だけが静かに響いていた。


 「……これでよい。『保護国特会』、歳入歳出を完全に本土財政と切り離す」


 藤村は新たに綴じた簿冊の表紙に力強く墨字を刻んだ。そこには「朝鮮特会」と記されている。


 「朝鮮の統治は朝鮮の税収で運営する。本土の銭を削らぬことで、国内の安定も守れる。――この一本の線を引くことで、両国が共に発展できるのだ」


 報告のために呼ばれていた渋沢栄一が眼鏡を押し上げ、頁を覗き込む。

 「内地財政と切り離すとは、思い切った決断ですな。だが透明化できれば、誰も異を唱えられぬでしょう」


 藤村は頷き、窓の外に目をやった。雨粒が硝子を叩き、庭に黒い斑点を描いていた。

 「国を守るのは剣だけではない。帳簿もまた国の盾だ」


―――


 一方、漢城ソウルに駐在する岩崎弥太郎は、濡れた帳面を抱えて西郷隆盛の陣営を訪れていた。

 「西郷どん、この二重帳簿を御覧あれ。朝鮮の米税、塩税、関税……これらを合算しても、運営費用は十分に賄えます」


 西郷は腕を組み、深く頷いた。

 「なるほど……つまり内地から金を引かずとも、朝鮮の収入で朝鮮を動かせると」


 「その通りです。内地も安堵し、朝鮮も“自らの税で国を治す”と誇りを持てる。両方に利益があるのです」


 帳簿を覗き込んでいた陸奥宗光が、筆先を止めて口を開いた。

 「外交の上でも意義深い。『財政が自立している保護国』と示せば、欧米諸国も軽々しく干渉はできまい」


 彼の声は冷静だったが、その目には確かな光が宿っていた。


―――


 朝鮮の役所で新しい仕組みが説明されると、現地官僚の一人が思わず声を洩らした。

 「これまでのように本国に伺いを立てる必要がないのか。税は税、支出は支出、ここで完結する……それなら我らも責任を持とう」


 会議の場に居合わせた通訳が笑みを浮かべ、補足する。

 「要するに、“朝鮮のことは朝鮮の税で”。これが新しい約束です」


 静まり返っていた場に、次第に安堵のざわめきが広がった。


―――


 江戸の夜。雨が止み、冷えた月光が瓦屋根を照らす。藤村は書斎の窓を開け、遠い朝鮮の地を思った。


 「内地の財を守り、朝鮮の自立を育てる。これこそが持続可能な統治の道だ」


 その呟きに、篤姫が茶を運びながら微笑んだ。

 「未来を見据える帳簿は、どんな剣よりも鋭いのですね」


 藤村は頷き、墨痕の残る新しい帳簿を閉じた。


 ――保護国特会の設置。

 それはただの制度ではなく、両国が並び立つ未来の礎石であった。

冬の海は暗く重たかった。灰色の雲が南から流れ込み、漢江の河口を過ぎた日本郵船の甲板には、冷たい風が絶えず吹きつけていた。その船腹には、先日締結されたばかりの「検疫相互通報覚書」を載せた公文書が、厳重に桐箱で守られていた。


 江戸・東京の藤村邸。書斎でその報告電信を受け取った藤村は、眉をわずかに上げた。

 「……ついに繋がったか。日本と台湾、そしてマニラの航路が、疫病の季節を越えて結ばれる」


 渋沢栄一が脇に控え、報告文を読み上げた。

 「マニラ当局と合意。コレラ流行期には、毎週相互に発症状況を通報。症例の増加があれば直ちに航路を制限し、清浄証明を発行した船のみ入港を許可するとのこと」


 藤村は静かに頷いた。

 「病は砲弾より早く、兵を倒す。だが、通報と隔離で流れを制御できれば、貿易は途絶えない」


―――


 一方、台南鎮撫府では軍医と役人が地図を広げ、南方航路の検疫体制を検討していた。

 「マニラでコレラ発生の報があれば、即座に台南港に伝わる。その情報がなければ、ただの噂に振り回されていた」


 軍医長は深い皺の額に手を当て、安堵の息をついた。

 「これで予防のための準備が前倒しでできる。薬も、隔離用幕舎も、事前に用意しておける」


 現地商人が帳簿を捲りながら口を挟んだ。

 「病が広がらねば、商売も止まらぬ。……安心して砂糖を積める」


 彼らの声には、初めて心底からの安心が宿っていた。


―――


 漢城の臨時総督府でも会議が開かれていた。榎本武揚が書類を叩きながら声を張る。

 「この覚書で、我々は単に軍事や経済ではなく“生命の安全”を国際的に守る一員となった。アジア全体の貿易航路が、この一枚の紙で守られるのだ」


 西郷隆盛は太い腕を組み、うなずいた。

 「兵が病に倒れれば、戦は始まる前に終わる。戦の備えとは、刀や銃だけではない。清潔と隔離、これが最大の兵站じゃ」


 その言葉に場内の空気が一層引き締まった。


―――


 江戸へ届いた次の電信は短く、しかし力強かった。

 《相互通報覚書発効。これにより南航の安全確保。商人・漁師・兵、皆に安心広がる》


 藤村は書斎で筆を取り、帳簿の余白に小さく書き留めた。

 「病の予防は国境を越える。疫病を制す者は、交易を制す」


 その墨跡は薄明の光に照らされ、冷たい冬の空気の中でかすかに輝いた。


―――


 その夜、篤姫が湯気の立つ茶を持ってきた。藤村は窓辺に立ち、北極星を仰ぎながら静かに言った。

 「南の海から来る病に備える網を張った。これはただの覚書ではない。国を守る新しい盾だ」


 篤姫はそっと頷き、湯を差し出した。

 「剣も砲もなく、人の命を守る盾。……あなたの戦は、こうして続いてゆくのですね」


 藤村は茶を受け取り、夜気を吸い込んだ。遠いマニラの港と、この江戸の静かな夜が、一本の見えない糸で確かに結ばれていた。

初冬の夕暮れ、訓練場にはまだ銃声の余韻が漂っていた。凍った大地に靴音が整然と響き、日・朝・仏の三つの旗が西風にたなびいている。訓練を終えた日朝仏混成部隊が、整然と二列に並び立った。兵士たちの頬には汗が光り、その胸の上下は大きな息遣いを刻んでいたが、眼差しは揃って真っ直ぐだった。


 フランス軍事顧問団長マクレガー少佐が一歩進み出て、翻訳を待たずに口を開いた。

 「これほど短期間で、これほどの統合を成し遂げた例を、私は見たことがない」


 彼の声は感嘆を押し隠せなかった。背後のスミス中尉は、帳簿のように整然と並ぶ訓練記録を手にし、細かく目を走らせている。

 「射撃精度、初日から二割以上向上。整列・隊形変換、誤差三歩以内。野営衛生規則、遵守率九割超――」

 几帳面な報告に、周囲の兵士たちがざわめいた。彼らは自分たちが数字の上でも“戦力”となり得ると、初めて実感していた。


 その光景を眺め、坂本龍馬が腕を組んで笑った。

 「教える側も、教わる側も、みんなが育っとる。国境も言葉も越えて、こうして一緒に汗をかけば、不思議と心も一つになるもんじゃ」


 榎本武揚が横で頷き、真剣な表情で言葉を継いだ。

 「技術移転だけではない。生活や文化をも共にすることが、真の統合を生む。今日一日で、我々は軍隊だけでなく“共同体”を作った」


 整列する兵たちの間から、小さな拍手が自然に湧き上がった。最初は戸惑い、ぎこちなかった動作が、今では規律の中に力強さを持っている。


 その拍手を受けるように、マクレガー少佐は声を張った。

 「この成功は奇跡ではない。日本が培った規律、朝鮮の兵の学習力、そして我々フランスの経験が交わって生まれた当然の成果だ」


 夕陽が地平に沈みかけ、兵たちの影が長く訓練場に伸びていた。その影は三カ国の人々を包み込み、一つの黒い帯のように大地に広がっている。


 藤村は遠く東京の執務室でその報告電信を受け取り、静かに紙を握りしめた。

 「顧問団の真価とは、銃の操作ではない。人と人を結びつけること。……この成果こそが、東アジア安定の礎になる」


 灯火に照らされた文字を追いながら、彼は確信した。剣や砲ではなく、知識と信頼が国を結びつける。今その証が、目の前の報告書に刻まれているのだ。


 訓練場の空には、夜の星が一つまた一つと瞬き始めていた。旗は風に揺れ、兵士たちは静かに整列を解いた。今日という日が、未来の東アジアに新しい光をもたらす――その実感が、誰の胸にも宿っていた。

夜の帳が下りた江戸。藤村邸の書斎には、淡いガス灯の光が揺れていた。机上には今日届いた電信報が幾重にも重なり、インクの黒い文字が生々しく記されている。――「日朝仏合同訓練成功」「顧問団評価最高」。


 藤村はその紙を指でなぞりながら、深く息を吐いた。

 「奇跡ではない……か。だが、これを奇跡と呼ばずして、何と呼ぶ」


 彼の耳には、遠く朝鮮の訓練場で整列する兵士たちの靴音が響いてくるようだった。日本語、朝鮮語、フランス語――異なる声が同じ号令に応じ、ひとつに動く。その光景を思い描くだけで、胸の奥に熱が広がっていく。


 ふと襖が開き、篤姫が茶を運んできた。

 「また遅くまで……」

 「すまぬ。だが、どうしても目を離せなかった」


 藤村が茶を受け取り、湯気越しに微笑む。義信と久信はすでに眠っているという。二人の寝息を思うと、戦や統治の数字の裏にある「守るべきもの」が鮮やかに胸に浮かんだ。


 「剣や砲ではなく、学びと協力で未来を築く……顧問団の報告は、その証だ」

 藤村の声は、湯気に溶けて静かに消えていった。


 庭に出ると、初冬の星が冴え冴えと光っていた。東の空には、まだ昇りきらぬ月が白く滲んでいる。その下で、子どもたちが旗を振る夢でも見ているのだろうか――藤村はそんな光景を思い浮かべ、口元を緩めた。


 「技術と文化が交われば、人は敵ではなく仲間になる。……その輪を、もっと大きくしてみせよう」


 冷たい夜気の中で誓うその声は、誰に向けたものでもない。だが確かに、東京と朝鮮とフランスを結ぶ見えない線の上に、未来への決意を描き出していた。


 ――顧問団が残したのは、兵の動き方だけではない。

 ――人と人をつなぐ「背骨」そのものだった。


 藤村は背筋を正し、静かに屋敷の灯を落とした。

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