166話 :(1869年11月下旬/初冬) 関税同盟
朝鮮半島の西岸、仁川港。初冬の冷たい海風が港を吹き抜け、湾内に停泊する船のマストを揺らしていた。
11月下旬の空は澄み渡り、低い太陽の光が海面に反射して銀色の波をきらめかせている。船の汽笛が遠くで鳴り響き、今日という日の歴史的な意味を告げるかのようだった。
仁川の埠頭に、紅い毛氈を敷いた壇が設けられていた。壇の中央には長机が据えられ、両国の国旗が交互に掲げられている。日本の日章旗が白地に赤を映し、朝鮮の八卦旗が青と黒を誇らしげに風に揺らしていた。港の周囲には朝鮮の官僚、日本の使節団、商人や職工までが集まり、人垣をなしていた。誰もが息を呑み、この瞬間を見守っていた。
調印式の開幕を告げる太鼓が鳴ると、会場のざわめきがぴたりと止んだ。進み出たのは朝鮮側代表の高官で、重厚な黒い官服を纏い、手に巻紙を持っていた。彼は壇上に立ち、深々と一礼した。
「本日、仁川港において――日朝両国は、互いの信義に基づき、関税同盟を締結する」
その声は静かだったが、港の喧騒をも消し去るほどに強く響いた。
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次に壇上に進み出たのは陸奥宗光だった。濃紺の羽織に身を包み、眼鏡の奥の瞳は鋭い光を宿している。彼は壇上から広場を見渡し、落ち着いた声で口を開いた。
「この協定は、ただの条約ではございません。両国が対等に立ち、共に発展するための基盤であります。密貿易を断ち、正規の交易を通じて繁栄を分かち合う――これこそが近代国家の道筋であります」
その言葉に人々がざわめいた。商人たちの表情が次第に明るさを帯びてゆく。「正規の交易」という言葉が、彼らの胸に安堵をもたらしたのだった。
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そして、壇の脇から坂本龍馬が大股で進み出た。羽織を翻し、笑みを浮かべながら観衆に手を挙げる。彼の声は快活で、潮風に乗って広場の隅々まで届いた。
「諸君! 商売に国境はないぜよ!」
彼の一声に、商人たちがどっと笑い声を上げた。
「互いに儲けられる仕組みが一番なんじゃ。今回の同盟で、正しい道を通せば、船は安心して港に入れるし、荷も堂々と積める。商人にとっちゃ、これ以上の福音はないろう!」
龍馬の声には、ただの政治的な説明ではなく、商人たちの実感に寄り添う温かさがあった。そのため彼の言葉は観衆の心にすぐに届き、商人たちの間から拍手が湧き上がった。
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続いて、朝鮮側の交渉代表がゆっくりと壇上に立った。彼は頬に深い皺を刻んだ老官僚で、白い衣に黒い笠をまとっている。声は震えていたが、その言葉には確かな重みがあった。
「我ら朝鮮は、長きにわたり不当な密貿易に苦しみ、税を奪われてまいった。しかし、今日この場にて、新たなる道が開かれた。……これで我が国も、関税自主権を取り戻すことができる」
会場の空気が一変した。沈黙ののち、拍手と歓声が広場を覆った。官僚や兵士だけでなく、集まった一般の商人や職工までもが、声を上げて喜びを表した。
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机の上には、赤い封蝋で閉じられた条約文書が置かれていた。筆を取った朝鮮代表は、一字一字を確かめるように署名し、朱印を押した。次に陸奥宗光が署名をし、鮮やかな墨跡が文書に刻まれる。最後に坂本龍馬が署名し、にやりと笑いながらペンを置いた。
その瞬間、港に停泊していた艦隊から礼砲が鳴り響いた。空を揺らす轟音に、群衆の歓声が重なり、仁川の町は大きな祝祭の渦と化した。
港に立つ一本の柱には、新しく設けられた旗が翻っていた。日の丸と八卦旗、二つの旗が並んで風にはためく姿は、まさに「経済統合の象徴」だった。
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壇上で陸奥が小さく呟いた。
「これで両国は、対等なパートナーとして歩み出せる」
その横で龍馬が豪快に笑った。
「これからは、船が港に入るたびに、両国が潤うぜよ。これがほんとの同盟じゃ!」
朝鮮代表の老官僚も、深い皺を刻んだ頬に笑みを浮かべ、両国の代表に向かって頭を下げた。
「今日、この港で結ばれた信義が、末永く続くことを願う」
こうして仁川港において、日朝関税同盟は正式に調印された。
仁川港の調印式から数日後、朝鮮沿岸の小港町。かつて密貿易の温床となっていた埠頭に、日本と朝鮮の合同税関隊が姿を現した。
初冬の海は重たく、灰色の雲が低く垂れ込め、風に混じって潮と魚の匂いが強く漂っていた。
港の一角には木造の小屋があり、かつては密輸業者が夜陰にまぎれて品を隠した場所だった。だが今は小屋の入口に赤い札が貼られ、合同税関隊の監視のもとで封鎖されている。
先頭に立つのは日本人税関吏の若い役人と、朝鮮人の新任通訳兼職員であった。彼らは互いに視線を交わし、短くうなずいた。
「荷を開けよ」
日本側役人の号令に、漁師風の男たちが渋々木箱を担ぎ出した。蓋を外すと、中からは乾魚の山に隠された銀貨や外国製の布が出てきた。
現場にいた朝鮮側の老書記官が深いため息をつき、周囲の商人たちに向かって声を張った。
「このような不正は、これより一切許されぬ。正規の通関を通せば、後の揉め事は起きぬのだ!」
商人たちは最初、不満げにざわついた。
「だが正規通関は面倒だ」「役人に賄賂を渡す方が早い」
そんな声も上がった。
すると、そこに坂本龍馬が現れた。黒い羽織をひるがえし、にやりと笑って群衆の真ん中に進み出る。
「面倒かもしれんがのう……おんしら、騙し合いをしてどれだけ損をしたか覚えちょるか?」
彼の声に、商人たちが一瞬押し黙った。
「密輸の荷は途中で盗まれる。偽札を掴まされる。船が沈んでも誰も補償してくれん。――だが正規の道を通せば、保険が付いて、港で堂々と取引できる。どっちが結局得になるかは、考えるまでもないぜよ!」
その言葉にざわめきが変わった。ある商人が小さくうなずき、仲間に囁いた。
「確かに……正規で通せば、後で泣かされることはないかもしれん」
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午後になると、合同訓練が始まった。税関職員たちは荷役場に集められ、帳簿と印紙を用いた模擬検査を実施する。
「まず荷主の名前を記し、次に貨物の種類と数量。印紙を貼り、双方が署名する」
日本側指導官が説明すると、朝鮮側職員も真剣に筆を走らせる。
最初は戸惑いも多かったが、繰り返すうちに動作は滑らかになり、検査の列は整然と流れ始めた。
通訳が説明を補い、商人たちも少しずつ協力的になっていく。
「正規ルートの方が早いぞ!」
検査を終えた商人が思わず声を上げた。
「以前は二日も待たされたが、今日は半日で済んだ!」
その声に周囲がどよめき、他の商人たちも興味深そうに手続きを見守った。
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夕刻、合同税関隊は港の一角で摘発品を焼却した。煙が立ち上る中、隊長役の朝鮮官僚が群衆に向けて叫んだ。
「これよりは、法を守る者が得をする! 不正は必ず暴かれる!」
炎に照らされた群衆の顔には、驚きと同時に新しい秩序への期待が浮かんでいた。
その横で龍馬が腕を組み、ぽつりと呟いた。
「人は損得で動く。だが正しい道を通す方が得だと気づかせるのが、政治の仕事じゃ」
港の空は茜色に染まり、煙の向こうに並ぶ旗が夕風に揺れていた。
そこには日章旗と八卦旗が並び立ち、両国が共に歩む未来を示しているように見えた。
仁川港の波止場は、これまでにないほど整然としていた。
帆船と蒸気船が入り混じって停泊し、荷役夫たちが声を掛け合いながら木箱や俵を次々と積み下ろす。海鳥の鳴き声、縄のきしむ音、蒸気の吐き出す白煙――混然とした音と匂いの中に、どこか新しい秩序の律動が芽生えていた。
日本・朝鮮合同の港湾監督官が手にした砂時計を返しながら、記録簿に数字を書き込む。
「停泊から出港までの時間……三時間短縮。平均停泊時間、十八時間から十五時間へ」
その言葉に、隣の日本人役人が満足げに頷いた。
港の作業場には、赤い印紙が貼られた新式の通関票が整然と積み上げられていた。荷主が署名し、税関職員が確認し、検疫印を押す。すべてが一本化された手順で進む。
ある老商人が手続きを終え、笑みを浮かべて言った。
「わしらの頃は、賄賂を渡して三日は待たされたものだ。今はどうじゃ、一日で荷が出る。……年寄りには信じられぬことよ」
別の若い商人も声を上げた。
「保険会社も“停泊が短ければ損害も減る”と言っておる。保険料が下がれば、その分こちらの儲けも増える!」
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埠頭の一角で、坂本龍馬が商人たちを相手に談笑していた。
「みんなの儲けが増えりゃ、港も賑わう。港が賑わや、国も栄える。要は“無駄を削って皆で得をする”っちゅうこっちゃ」
豪快に笑う龍馬の周囲に、商人たちの笑い声が重なった。彼らの目に宿る光は、恐れや疑念ではなく、未来への期待そのものだった。
港の中央に立つ岩崎弥太郎は、帳簿を手にして計算を進めていた。
「停泊時間の短縮で船の回転率は向上、港湾収入は一割増。……効率化がすべてを良くする。この仕組みを広げれば、上海でも長崎でも同じ成果が出せる」
弥太郎は眼鏡を外して額の汗を拭い、にやりと笑った。
「損をしない商いこそが、永続する商いじゃ」
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夕刻、港の上空に赤く大きな夕日が沈み始めた。船のマストが黄金色に染まり、帆布の影が波間に長く伸びている。
監督官が最終報告を読み上げた。
「本日の作業、事故ゼロ。荷損ゼロ。――保険料、〇・二ポイント改善」
報告を受けた陸奥宗光は、海を見つめながら静かに呟いた。
「制度を整え、人を整えれば、数字も整う。……これこそが近代の貿易だ」
彼の言葉に、龍馬が笑いながら肩をすくめた。
「数字も大事じゃが、人の顔も忘れんことぜよ。手続きを楽にして、笑顔で送り出せりゃ、それが一番の信用になるきに」
日章旗と八卦旗が並んではためく港に、整然とした新しい秩序の姿が刻まれていた。
それは単なる効率化ではなく、日朝双方に「協力すれば両方が得をする」という確信を与える光景でもあった。
仁川港の税関庁舎は、海風に晒されながらも活気に満ちていた。木の梁に煤が染みつき、床には幾度も靴で踏み固められた跡が残る。だが、その古びた建物の中で、新しい秩序が確かに芽吹いていた。
日朝混成の税関チームが机を並べ、通関業務をこなしていた。日本の役人が印紙を貼り、朝鮮の職員が荷主に説明を加える。横に置かれた帳簿には双方の署名欄があり、片方の欄に「朴」、もう片方に「佐藤」と並ぶ文字が記されていく。
「次の荷は米二十石、行き先は釜山」
朝鮮人職員が帳簿を読み上げ、日本人役人が頷きながら印を押す。
作業は流れるようで、言葉の壁があるとは思えなかった。最初は互いに戸惑い、誤解も多かった。だが、数週間の共同勤務で、手振りと簡単な単語で意思が通じるようになったのだ。
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昼休憩、港の片隅で二人の若い職員が同じ弁当を広げていた。
一人は日本から赴任したばかりの若手、もう一人は地元の朝鮮人通訳である。
「これは何という食べ物だ?」
朝鮮人職員が指差したのは、握られた白い飯の塊だった。
「おにぎり、という。海苔で巻くと旨いんだ」
日本人職員は笑って手渡した。
恐る恐る口に入れた朝鮮人職員は、目を丸くして言った。
「塩気がちょうどよい。……なるほど、これは働く者の食べ物だな」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
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午後、庁舎には長蛇の列ができていた。荷を抱えた商人たちが次々と窓口を訪れるが、処理は滞らなかった。日本人と朝鮮人が二人一組になり、印紙と帳簿を手際よく捌いていたからだ。
「以前は役人ごとに手続きが違ったが、今は誰に聞いても同じ答えだ」
列に並ぶ商人が仲間に囁いた。
「これなら安心して取引できる」
別の商人がうなずいた。
「制度だけでなく、人も変わったのだろう。日本と朝鮮が肩を並べて働いている姿を見ると、こちらも信用したくなる」
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夕刻、業務を終えた庁舎の一室。机を片付けていた朝鮮人職員が、日本人同僚に声をかけた。
「今日はありがとう。お前から学んだことは多い」
日本人職員は照れくさそうに笑い、帳簿を閉じた。
「いや、俺も学んでいる。互いに助け合えば、どんな仕事も早くなる」
ふと窓の外を見ると、港には日章旗と八卦旗が並んではためいていた。風に揺れる二つの旗は、まるで一枚の布の両端を持ち合うように見えた。
その光景を前に、年配の監督官が静かに呟いた。
「制度だけでは、人は動かん。人と人との信頼が、制度を生かすのだ」
その言葉に場の誰もが頷いた。
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こうして仁川港の税関では、制度の枠を越えた「人のつながり」が生まれていた。
それは単なる実務の効率化ではなく、未来の経済統合を支える無形の財産であった。
日が沈みかけた仁川港は、静かな海風に包まれていた。夕陽は波間を赤く染め、停泊する船の帆や煙突を黄金色に照らしていた。港の広場には、日章旗と八卦旗が並んで掲げられている。二つの旗は、それぞれの国の誇りを示しながらも、同じ風に吹かれてひとつの方向に靡いていた。
その下で、調印を終えたばかりの坂本龍馬と陸奥宗光が肩を並べて立っていた。手元には、今日締結された「日朝関税同盟」の調印書が収められた木箱が置かれている。墨の匂いがまだ新しく、朱印の赤は夕陽の色と溶け合って鮮やかに映えていた。
龍馬が大きく息を吐き、空を仰いだ。
「関税同盟っちゅうのは、ただの条約じゃないぜよ。こりゃあ運命共同体の始まりじゃ。日本も朝鮮も、儲けを分け合う仕組みを作った。これが長く続けば、互いに恨み合う理由なんざ無くなる」
彼の言葉に、陸奥が静かに頷いた。
「確かに。経済の統合が、やがて政治の統合を呼び込む。武力で結ばれる同盟は脆いが、利益で結ばれる同盟は強い。これは両国の未来を守る礎になる」
少し離れた場所では、現地商人たちが集まり、歓談の輪が広がっていた。
「税が明確になれば、密貿易に頼らずとも商いはできる」
「これで堂々と取引ができる。……正しい道が一番楽だと、ようやく分かった」
笑い声と安堵の吐息が交じり合い、港の広場に柔らかな空気が流れた。
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やがて港の見張り台から、灯台の火がともされた。橙色の光が夜の訪れを告げると同時に、港の未来を照らし出しているように思えた。船の甲板に立つ船員たちがその光を見上げ、旗を振って答える。港と海が、光によってひとつに結ばれる瞬間だった。
陸奥が灯台の光を見つめながら言った。
「龍馬、今日の同盟は小さな一歩かもしれない。しかし、この一歩がやがて大きな橋になるだろう。日本と朝鮮を結ぶ橋に」
龍馬は笑みを浮かべ、胸を張った。
「その橋を渡るのは、商人であり、学者であり、子どもたちぜよ。戦じゃなく、学びと商いで人が行き来する国にする。それが俺たちの目指す世の中じゃ」
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日章旗と八卦旗が暮れなずむ空に高く翻り、その姿はまるで未来への誓いのようであった。
龍馬と陸奥は互いに視線を交わし、短く言葉を重ねた。
「経済で結ぶ絆は、剣よりも強い」
「そして、その絆を育てるのは、我らの責務だ」
その決意は港に集う人々の心と重なり、仁川の海に、静かながら確かな波紋を広げていった。
東京の藤村邸。初冬の冷たい風が、庭の木々の葉を一枚一枚落としていく。
その静けさの中、書斎の机には電信紙が広げられていた。新しい報告が、仁川から届いたのだ。
《日朝関税同盟調印、無事完了。港商人ら、制度の透明化を歓迎。両国旗並立の下、信頼の絆を確認》
藤村は指で文字をなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……ついに、ここまで来たか」
その声は誰に向けたものでもなく、しかし部屋全体に響いた。
三年前、破産寸前だった財政を立て直し、台湾での統治を実践し、そして今、朝鮮との経済統合の礎が築かれた。数字と制度の積み重ねが、国を変える力となったのだ。
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障子の向こうから、義信と久信の声が聞こえてきた。
「いち、に、さん!」
「もう一回!」
庭で小さな旗を振りながら数を数えているのだろう。篤姫とお吉が見守り、笑い声が交じる。
その響きは、遠い仁川の港で人々が交わした笑い声と不思議に重なって聞こえた。
藤村は机から立ち上がり、縁側に出た。庭に舞い落ちる葉の向こうで、義信が小さな旗を高く掲げていた。久信も隣で真似をする。二つの旗が風に揺れ、かすかな夕陽に透けて光った。
「旗はただの布ではない。人の誇りと絆を映すものだ」
藤村は低く呟き、二人の子を見守った。仁川で翻る日章旗と八卦旗も、今まさに同じ風に吹かれている。
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夜、書斎に戻ると藤村は帳簿を広げた。
関税配分の案が墨で記されている。
「海軍に四割、繰上返済に三割五分、衛生と教育に一割五分、そして予備に一割……」
その配分は冷たい数字の羅列でありながら、人々の生活を温める血の流れに他ならなかった。
「数字は国の骨を形づくる。だが、それを動かすのは、人と人の信頼だ」
その独白は、遠く仁川で旗を見上げた龍馬や陸奥の言葉と重なった。
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墨を置き、窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。
東京の空には、細い月が浮かび、庭からは子どもたちの寝息がかすかに届く。
藤村はその音に耳を澄ませながら、心の奥で改めて誓った。
「経済で結んだ絆を、未来へ渡す。――これが、次の十年の礎となる」
帳簿の上に置かれた灯火が静かに揺れ、長い影を壁に映した。
その影は、やがて大きな国の姿に広がっていくかのようであった。