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164話 :(1869年10〜11月/秋→初冬) 灯台と線路

秋が深まり、漢江の川面に冷たい風が渡りはじめた頃、朝鮮半島の各地では、これまでにない規模の工事が同時並行で進んでいた。日本からの技師団と現地の職人たちが肩を並べ、灯台や電信線路の敷設に取り掛かっていたのである。


 仁川の港は、工事の中心地のひとつだった。潮の満ち引きが激しく、岩礁が点在するこの港は、古くから船乗りにとって恐れられる場所だった。だが、港の防波堤の先にはすでに石材が積み上げられ、太い丸太が基礎を支えていた。そこに新しい「光の塔」が建てられようとしていた。


 「礎石、もう少し右だ! 波が来るぞ、支えろ!」

 現場監督の声が響く。日本人の技師が水平器を覗き込み、合図を送る。数人の朝鮮人職人が汗を流しながら石を転がし、位置を合わせた。


 横でそれを見ていた郷長が、ほっと胸を撫で下ろした。

 「日本の技術はすごいものだな……だが、我らの手で積んだ石も、きっとこの塔を支える」


 通訳を介してその言葉が日本人技師に伝わると、技師は小さく頷いた。

 「塔は誰か一人のものではない。ここで働くすべての者のものだ。――海を照らす光は、国の境を選ばない」



 一方、内陸では電信線路の敷設が始まっていた。


 既存の駅逓所――馬と人が交代で文書を運ぶ古い制度があった。その建物や路線を生かしつつ、柱を立て、銅線を張り、電信機を設置する工事が進められていた。


 「破壊ではなく改良、それが肝要だ」

 陸奥宗光が説明に訪れた役人にそう語ると、現地の官僚は深く頭を下げた。

 「既存の制度を活かしてくださるのはありがたい。これなら住民も反発せぬでしょう」


 長年の制度を一掃するのではなく、積み重ねの上に新しい仕組みを築く。その姿勢が、朝鮮の役人たちの心を和らげていった。



 工事の合間、子どもたちが興味津々に柱を見上げていた。

 「これは何になるのだ」

 「天まで届く糸のようだな」


 通訳を通して説明役の技師が答えた。

 「これは声を運ぶ道だ。遠くにいても、声が瞬く間に届く」


 子どもたちは目を丸くし、手を叩いた。

 「声の道……!」


 現場で汗を拭っていた職人たちも、思わず笑みを洩らした。



 やがて夕刻、仁川港の基礎工事現場には、赤い夕陽が差し込んだ。海面は黄金色に染まり、積み上げられた石と丸太が影を落としていた。作業を終えた職人たちが並び、互いに手を叩き合う。


 「今日もよくやった!」

 「明日にはさらに高く積めるぞ!」


 その声は潮騒と混ざり合い、まるで港全体が生き物のように脈打っているようだった。



 その報はすぐさま東京へ電信された。


 江戸城の執務室で紙を受け取った藤村晴人は、報告を読み終えて目を閉じた。

 「破壊ではなく改良……この言葉を胸に刻もう。新しい国づくりとは、すでにあるものを捨てるのではなく、光と線を足すことだ」


 机の上には、地図が広げられていた。港から港へ、街から街へと線が描き加えられていく。その線がやがて朝鮮半島全体を覆い、海を越えて日本と結ばれる未来を、藤村は心に描いていた。

秋の陽は短く、山の端に傾くと一気に冷え込みが増してきた。だが、江華からソウルへ続く街道沿いの村では、不思議な温かさが漂っていた。軒先に集められた子どもたちが、簡素な机を囲んで声を合わせていたからだ。


 「いち、に、さん!」

 「し、ご、ろく!」


 幼い声が夕空に響き渡り、通りを歩く農夫たちが思わず足を止めた。


 寺子屋式の算術・衛生講座――それが、日本から持ち込まれた新しい教育の形であった。黒板代わりの板に白墨で「一」「二」「三」と大きく書かれ、子どもたちがそれを指差しながら声に出して読む。


 「ただの数字ではないぞ。数は畑の収穫を数え、家族の口を守る力になる」

 師範役の通訳兼教師がそう言うと、子どもたちは大きな目を輝かせた。



 算術だけではない。机の横には桶と手拭いが置かれ、「手を洗え」と大きな文字が貼り出されていた。


 「飯を食う前は手を洗え。病はここから広がる」

 日本から派遣された軍医が、身振りを交えて説明する。


 子どもたちは笑いながら、ぎこちなく手を擦り合わせた。


 「冷たい!」

 「でも、きれいになった!」


 その声を聞いていた親たちは、戸口から静かに頷いた。

 「これなら、うちの子らも病に倒れずに済むかもしれぬ」



 江戸では、この教育改革を監修するため、慶篤が教材の監修を行っていた。


 書斎の机に向かい、墨痕新しい算術帳をめくりながら呟く。

 「ただの読み書き算盤では足りぬ。衛生を合わせて教えてこそ、国は変わる」


 筆を執り、図解を添えた教材の草稿を書き加えていく。そこには、算術の例題と並んで「手を洗う図」「煮沸する水壺の絵」が描かれていた。


 その教材はすぐに海を越え、朝鮮各地の講座で使われる。現地の子どもたちが「一、二、三」と日本語で数を数える声は、やがて地域全体に広がりつつあった。



 ある村の母親が、講座の後に教師へ声を掛けた。

 「子どもが文字を覚えられるだけでなく、病気を防ぐ知恵まで授かるとは思わなんだ。――この学びがあれば、将来の暮らしは違ってくるに違いない」


 その言葉は、記録係を通じて東京にも伝えられた。


 藤村は報告書を読み、静かに頷いた。

 「教育とは、未来への投資そのものだ。数字を読む子らの声は、国の明日を照らす灯火になる」



 夕暮れの村道を、帰り道につく子どもたちが列を作って歩く。小さな声で「いち、に、さん」と繰り返す声が、秋風に混じって遠くまで響いていった。


 それはただの数唱ではなく、新しい時代の始まりを告げる歌声であった。

仁川港の波止場は、いつもより多くの人で賑わっていた。潮風に混じって、墨を刷いたばかりの紙の匂いが漂ってくる。机の上に整然と並べられたのは、日本からもたらされた新しい通関手形――検疫・税関・保険の三点がひとつにまとめられた用紙であった。


 「これ一枚で済むのか?」

 顔に皺を刻んだ老商人が手形を掲げ、驚いたように声を上げた。


 役人が頷き、説明を添える。

 「はい。まず検疫印を押され、そのまま税関へ。検査を通れば保険印が加わり、そのまま倉庫へ運べます。三つの手続きを一度で済ませられるのです」


 「……今までは三日もかかっていたのに」

 老商人の呟きに、周囲の商人たちがざわめいた。



 釜山港でも同様の仕組みが導入されていた。


 坂本龍馬が港の倉庫で手形を指差しながら笑う。

 「見てみい。台湾でうまくいった仕組みを、そのまま持ってきただけぜよ。それでも、ここでは大きな変革になるがや」


 「確かに、これで荷が止まらんのはありがたい」

 地元の行商人が感嘆の声を漏らした。

 「手続きが簡単なら、こっちも正直に払う方が楽だ」


 その言葉に、龍馬は満足げに頷いた。

 「商売は流れや。水と同じく止まれば腐る。流れを塞がん仕組みこそが、商人を生かすきに」



 仁川の倉庫では、岩崎弥太郎が荷積みの様子を見守っていた。


 「砂糖、樟脳、木綿……台湾で育った商品も並んでおる。これで日本と朝鮮、そして大陸をつなぐ三角の貿易網が形になる」


 商人たちが荷車を押し、印紙を貼られた箱を次々と倉庫に運び込む。その動きは整然としていて、以前の混乱が嘘のようだった。


 記録係が報告を読み上げる。

 「通関時間、従来の半分以下――およそ一日で終了」


 弥太郎は大きく笑った。

 「これなら誰も不満は言うまい。効率は力ぜよ」



 港の外れでは、若い商人が小声で話し合っていた。

 「密貿易で儲けていた連中も、これでは割に合わん」

 「正規の手続きが早くて安いなら、誰も袖の下を払わなくなるだろう」


 彼らの声には、不満よりもむしろ安堵が混じっていた。



 東京にもその報告は届いた。


 藤村晴人は江戸城の作戦室で電信を受け取り、短く読み上げた。

 「“商人より『手続き簡単で助かる』との声あり”……か」


 地図に視線を落とし、藤村は静かに言葉を続けた。

 「商いに安心を与えることは、兵を百人送るよりも強い。――経済の道は、血を流さず国を繋ぐ」


 部屋にいた幕臣たちは、その言葉を心に刻むように深く頷いた。



 夕暮れの港に立てられた新しい税関旗が、海風に揺れた。その旗は、もはや日本のものだけではなく、共に商いを続ける朝鮮の商人たちの希望をも映していた。

十月も終わりに近づいた頃、朝鮮の内陸部を結ぶ街道沿いに立つ駅逓所えきていしょには、新しい光景が広がっていた。従来は馬や人夫が文書や荷を運ぶだけの場所だったが、いまやそこに木柱が立ち並び、銅線が張り巡らされ、壁際には電信機が据え付けられていた。


 机の前に座るのは、若い朝鮮人の書記官。日本から派遣された電信技師の指導を受けながら、真剣な眼差しでモールス電鍵を叩いていた。


 「トン、ツー、トン……これは、“京”か?」

 「そうだ。“京”だ。――次は“城”を試してみよ」


 指導役の日本人技師はにこやかに頷いた。緊張で肩を固くしていた書記官は、ふっと息を吐き、再び電鍵を押した。


 カタカタと記録紙に打ち込まれた点と線が、目の前に文字として浮かび上がると、書記官の顔は驚きと喜びで赤くなった。

 「これで……我らも、遠くの声を受け取れるのか!」



 駅逓所の奥では、別の若者たちが電柱を立てる訓練をしていた。縄を掛け、掛け声を合わせ、柱を引き起こす。その様子を見守っていた郷長が、そっと技師に問いかけた。


 「我らにも、やがて自分たちの手だけで線を敷けるようになりますか?」


 技師は笑みを浮かべ、力強く頷いた。

 「教えながら働く。それが一番の近道だ。必ずできるようになる」


 郷長はしばし黙し、それから真剣な表情で頭を下げた。

 「ならば、我らも全力で学びましょう。この技術は、国の未来を変える」



 その日の夕刻、初めての試験送信が行われた。送信地は仁川の駅逓所、受信地は数里離れた村の臨時局。送信係の朝鮮人青年は緊張で手を震わせながらも、電鍵を押した。


 《仁川ヨリ送信》


 数息置いて返答が戻ってきた。

 《受信ス、明瞭ナリ》


 その瞬間、室内に歓声が上がった。青年は思わず椅子を立ち上がり、隣の仲間と肩を抱き合った。


 「……これで、我らも電信を扱える」


 彼の目には涙が光っていた。



 記録係はこの様子を逐一書き留め、翌朝の船便で東京へ送った。


 江戸城の執務室でその報告を受け取った藤村晴人は、文を読み進めるうちに深く頷いた。

 「教えながら働く方式――よく浸透している。技術は武力と違い、奪うものではなく渡すものだ。渡した分だけ、相手も強くなる」


 同席していた陸奥宗光が口元を引き締めた。

 「近代の国際関係は、強制より協力で築くべきだ。彼らが自らの力で通信を担える日が来れば、日本にとっても大きな力となりましょう」


 藤村は窓の外に目を向けた。秋の空は高く澄み、遠くに霞む富士の稜線が夕陽に染まっていた。

 「技術移転は、未来への種蒔きだ。今日芽吹いた芽は、十年先、百年先に森となる」



 仁川の駅逓所では、その夜も灯火の下で訓練が続けられていた。カタカタと響く電鍵の音は、もはや日本人技師だけのものではなく、朝鮮の青年たちの指先からも確かに生み出されていた。


 それは単なる通信音ではなく、未来を告げる鐘の音に思えた。

十一月の冷たい風が仁川の港を吹き抜けていた。海辺に積まれた石材と木材はようやく片付けられ、防波堤の先に真新しい塔が聳えていた。夕刻、太陽が沈むのを合図に、その塔の頂きで灯がともされた。


 白い壁を背景に、初めての光が放たれる。レンズを通した光は鋭く遠くまで伸び、海の水平線を照らし出した。港に停泊していた船乗りたちは、一斉に顔を上げ、その光を見つめた。


 「……見えるぞ! あれが新しい灯台の光だ!」

 歓声が波止場に広がる。漁師の一人が目を細めて呟いた。

 「これで夜の海も怖くない。嵐のときも、帰る場所がわかる」


 港町の子どもたちも、その光を指差してはしゃいだ。

 「星みたいだ!」

 「いや、星よりも近い。手を伸ばせば届きそうだ!」



 一方、港から内陸へ延びる道では、柱に張られた電線が夕陽に赤く光っていた。試験送信を終えた電信線は、すでに仁川から漢城へ向けて動き始めていた。線路沿いの駅逓所には新しい看板が掲げられ、そこには「郵便電信取扱所」と墨字で記されていた。


 カタカタ……と小さな電信機の音が響く。受信紙に刻まれた点と線を見て、書記官が叫んだ。

 「漢城よりの受信、明瞭!」


 周囲にいた人々が拍手を送る。近くにいた若者が、興奮気味に声を上げた。

 「光は船を導き、線路は声を運ぶ! これで我らも本土と繋がったのだ!」



 その場に立ち会っていた坂本龍馬は、港を見渡しながら腕を組んだ。

 「灯台は船を導き、線路は人の心を繋ぐ。この二つが揃えば、朝鮮は必ず変わるぜよ」


 隣にいた岩崎弥太郎も頷き、記録帳に書き込んだ。

 「商いも同じです。船の安全と情報の早さ、これさえあれば取引は確実になる。……灯台と電信、これが一番の資本ですな」



 その報は、すぐさま東京へ電信された。


 江戸城の執務室で報告を受け取った藤村晴人は、文を読み終えると深く息をついた。

 「光と道――この二つが揃ったか。……朝鮮の近代化は、いよいよ始まった」


 窓の外では、秋から冬へ移ろう空が静かに染まっていた。東京の街にも新しいガス灯が並び、夜の通りを照らし出している。藤村はそれを眺めながら、遠く仁川の灯台を思い浮かべた。


 「灯は国を導き、線は人を結ぶ。その先にあるのは、一つの未来だ」



 仁川港の灯台から放たれた光と、内陸に延びる電信線。その両方が、初冬の冷たい風の中で確かに存在を主張していた。


 それは、ただの建造物や機械ではなかった。朝鮮の人々にとっては希望の光であり、未来へ続く道の始まりだった。

東京・江戸城の執務室では、秋から冬へと移ろう季節を映すように、灯がひとつ、またひとつと点り始めていた。机上には仁川からの電信報が重ねられ、そこには「灯台点灯成功」「電信試行良好」「住民協力度上昇」といった報告が整然と並んでいた。


 藤村晴人は椅子に深く腰を下ろし、手にした報告書を黙読した。紙面に踊る数字や記録の背後に、現地で汗を流す技師や兵士、そして未来を託す子どもたちの姿が透けて見えるようだった。


 「台湾で芽吹いた制度が、朝鮮でも根を張り始めた。……灯と線、この二つがある限り、国は暗闇に沈まぬ」


 独りごちた声は、広間の静けさに吸い込まれていった。



 その夜、藤村邸の居間でも同じ話題が交わされていた。篤姫が暖炉の火を眺めながら口を開く。

 「仁川に灯台が立ち、電信が走ったそうですね。……あの地の人々も、これで安心して夜を越せるのでしょうか」


 藤村は頷き、子どもたちの背に視線をやった。義信は木の積み木を積み上げ、久信は紙に太い筆で「一」「二」となぞっている。

 「安心だけではない。未来を選ぶ道が見える。灯台は航路を守り、電信は人と人を繋ぐ。あの光と線は、必ずや彼らを次の時代へ導く」



 一方、仁川の港ではまだ工事が続いていた。灯台の下で作業を終えた朝鮮の青年技師が、夜空に伸びる光を見上げていた。

 「日本の技術を学んだ我らの手で、この国を変えられるのかもしれない」


 隣に立つ日本人技師は笑い、肩を叩いた。

 「変えるのは技術ではなく、人の意志だ。……だが、その意志を運ぶのが、灯と線なのだ」



 東京に戻る電信線には、すでに日々の生活の情報が乗り始めていた。米の値、漁の成果、村の疫病の報せ――それは戦の勝敗よりもむしろ、人々の暮らしを支えるためにこそ必要とされた。


 藤村は報告書の余白に、そっと一文を書き留めた。


 「灯は航路を守り、線は心を結ぶ。その交わる場所に国の未来は築かれる」


 墨はわずかに滲んだが、その言葉は確かな重みを持って紙に刻まれた。



 こうして、秋から初冬にかけて築かれた灯台と線路は、ただの施設ではなく、新たな時代の象徴となった。海と陸を結び、国と国を繋ぐその存在は、未来の地図を描くための最初の一線であった。

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