表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

193/367

162話 :(1869年10月上旬/秋) 三日の猶予

十月の初め、秋の澄んだ空気をも呑み込むかのように、漢江一帯は異様な緊張に包まれていた。朝鮮王都・漢城の上流に日本艦隊が展開し、川面を埋めるように船影が並んでいる。マストの旗は風を孕み、時折きらめく陽光に白と赤がはためいた。


 「砲門、水平に。だが火を吹くな」


 榎本武揚の短い指示が伝えられると、各艦の砲兵は緊張した面持ちで砲口を整列させた。砲弾は込められている。しかし、撃てという命令はない。撃てば一瞬で王都を火の海にできる。だが、それでは後の統治が瓦解する。誰もが理解していた。


 漢城の城壁は重々しく構え、四大門――東大門、西大門、南大門、北大門――それぞれに日本軍の部隊が展開していた。陸路は閉ざされ、川には艦隊。包囲は完全である。


 城内からは太鼓の音が低く響き、兵士たちの動揺を隠すような喧騒が続いていた。



 その最前線に立った西郷隆盛は、重い鎧の胸を大きく上下させながら、通訳官に言葉を託した。


 「王朝に伝えよ。我らは今すぐ攻め落とすこともできる。だが、それは望んでおらぬ。三日の猶予を与える。――勅書を受け取る用意があるなら、王朝自ら返答せよ」


 伝令が馬で駆け、王宮に向かった。包囲軍の間に静寂が広がる。緊張は高まりながらも、不思議な安堵が漂った。攻撃ではなく猶予――それが、すべての兵にとって意外であり、救いでもあった。


 「三日……か」

 兵士のひとりが呟き、すぐに口を閉ざした。西郷の眼差しは鋭く、それでいて底に温かさを含んでいた。



 一方、王宮では緊急会議が開かれていた。高官たちが集まり、玉座の前で声を張り上げる。


 「戦え! ここで退けば、朝鮮の威信は失われる!」

 「いや、見よ。城外はすでに包囲された。民は飢えに苦しんでいる。ここで降れば、国を守れるやもしれぬ」


 主戦派と和平派が激しく対立した。外の兵の数を見れば、勝ち目はない。だが、降伏は国辱である。その狭間で声は割れ、決断は下されなかった。


 ただ、「三日」という期限が彼らに与えられたことが、議論を延ばす理由を与えていた。



 その頃、包囲軍の一角。坂本龍馬は、兵を率いて王都の城下へと入っていた。肩に担ぐのは銃ではなく、米俵と塩袋。


 「ええか、おまんら! 敵国の民やけんど、飢えさせるわけにはいかん。列に並ばせて、一人ずつ渡すんじゃ」


 配給所が設けられると、恐る恐る住民が集まってきた。最初は怯えた目で遠巻きに見ていたが、子どもが米を受け取り、笑顔を見せた瞬間、空気が変わった。


 「日本軍は思っていたより……優しい」

 年老いた女が小声でつぶやくと、次々と人々が列に並び始めた。


 龍馬は笑みを浮かべ、通訳を通じて声を張り上げた。

 「人の心を掴むのが一番の戦略ぜよ! 腹いっぱい食わせたら、誰も刀を振り上げん」


 兵士たちは黙々と配給を続けた。米を受け取った人々は涙を浮かべ、深く頭を下げて去っていった。



 この一連の出来事は、ただちに電信で東京に送られた。


 《漢城包囲。西郷、三日の猶予を布告。龍馬、米・塩を住民に配給。恐怖より安堵の声多し》


 江戸城の作戦室で報を受けた藤村晴人は、紙面を握りしめ、長く息を吐いた。


 「……武力で圧すは易い。だが、心を得るは難しい。三日の猶予と一握りの米が、百の砲弾に勝るかもしれぬ」


 側にいた陸奥宗光が目を細めて頷いた。

 「急かさず、しかし甘やかさず――まさにその通りです。三日という時間が、相手に選ばせる余地を残す。後に恨みを残さぬための道です」


 藤村は机に広げた地図を見下ろし、赤い線で囲まれた漢城を見つめた。そこには、単なる戦略地図ではなく、人々の息遣いが重なっているように思えた。


 「……戦は人を屈服させるためではない。秩序を築くためにある。その秩序を支えるのは、剣ではなく、人の納得だ」


 窓の外、秋風に揺れる木々の葉が赤みを帯びていた。東京の空と、遠い朝鮮の空が、同じ風で繋がっているように感じられた。

漢城の空気は、包囲の緊張と同時に、不思議なざわめきで満ちていた。西郷隆盛が布告した「三日の猶予」は城内外に瞬く間に広まり、人々はその意味を繰り返し囁いた。


 「三日……本当に三日で決まるのか」

 「攻め込むでもなく、待つでもなく……これはどういうことだ」


 恐怖と疑念、そしてかすかな希望が入り混じる。



 その翌朝、城門の外に設けられた広場には長い列ができていた。列の先にあるのは、兵糧を積んだ荷車と、粗末な机。その背後に立つのは坂本龍馬を筆頭とした配給隊である。


 龍馬は袖をまくり、米俵を割って白米を手桶に分けていた。塩袋も横に並べられ、一家ごとに配られる。


 「並べ、並べ! 一人に一握りの米、一掴みの塩じゃ。足らん者は、明日も来い。腹を空かせたままでは何も考えられんきに!」


 通訳が声を張り上げると、人々は戸惑いながらも一歩前に出た。最初の老婆が恐る恐る米を受け取ると、その場で涙をこぼした。


 「……この年寄りにまで、恵んでくれるのか」


 龍馬はその背を軽く叩いた。

 「恵んでるんじゃない。これは人が生きるために必要な分や。敵味方は関係あらへん。腹を満たしてこそ、明日を考えられるんじゃ」



 配給は昼を過ぎても続いた。最初は遠巻きに見ていた人々も、子どもが米を頬張って笑う姿を見て次々に列へ加わっていった。


 「日本軍は恐ろしい鬼だと聞いていたのに……」

 「違う、違うぞ。子に米を与えてくれた」


 噂は瞬く間に城下に広がり、夕刻には三百を超える家族が配給を受けていた。



 龍馬は休む間もなく米俵を担ぎ、兵に指示を飛ばした。

 「一番大事なんは“見せ方”や。配給は正面で堂々と、隠れては絶対せん。誰が見ても“正しいこと”をしてると分かるようにするんや」


 副官が首をかしげた。

 「敵国民にここまで……兵糧は尽きませんか」


 龍馬は笑った。

 「兵糧が尽きても、人の心を得られたら勝ちじゃ。弾薬よりもよっぽど価値がある。人の心があれば、戦わずして道が開けるきに」



 同時に、配給所の周囲には軍医たちが仮設診療所を設けていた。体の弱った老人や咳き込む子どもが列に並び、消毒薬を塗布され、清潔な布を巻かれる。


 「手を洗え。水は煮て飲め。病人は別の寝床に置け」


 軍医のお琴が通訳に言葉を託すと、住民たちは真剣に耳を傾けた。


 「病が広がるのは“悪霊”のせいではない。清潔にすれば防げる」


 これまで迷信に縛られてきた人々の顔に、新しい知識への驚きが浮かんだ。



 包囲下にもかかわらず、町の広場には笑い声が少しずつ戻ってきた。子どもたちは配給された米を握り飯にして頬張り、母親は薬を抱えて安堵の表情を浮かべる。


 城門の上からそれを見下ろす兵たちは、押し殺した声で囁き合った。

 「……あれが敵軍か?」

 「いや、あれは……救援隊ではないのか」


 兵士たちの心にも揺らぎが生まれていた。



 その日の夕方、電信が東京へ送られた。


 《漢城包囲下、米・塩配給順調。住民の恐怖、安堵に変化。城内兵にも動揺の兆し》


 江戸城で報告を受けた藤村晴人は、長い息を吐いた。

 「……龍馬のやり方は奇抜だが、的を射ている。恐怖で押さえれば一時、だが心を掴めば百年。戦は人の心で決まる」


 小栗忠順が横から加えた。

 「費用は増えますが、それ以上の効果があるでしょう。反乱の芽を摘むには、力よりも安心を与える方が早い」


 藤村は頷き、筆を走らせた。

 「“安心を与えることは最大の戦略”。この一行を、今日の記録に残しておこう」



 夜。漢江の川面に映る灯火の下、龍馬は疲れた体で空を仰いだ。


 「三日の猶予は、こっちにも与えられたもんじゃな……。どんな戦より、よっぽどしんどいが、よっぽど価値がある」


 西郷が隣に立ち、低く笑った。

 「龍馬どん、ようやる。民が米を食う姿は、兵が剣を振るうより強いもんだ」


 龍馬は肩で息をしながらも、目は笑っていた。

 「人の心を掴めば、戦は半分終わったも同じぜよ」

漢城を取り巻く秋風は乾いていた。包囲軍の野営地では、夜になっても電鍵の音が絶えない。短く、長く――点と線の組み合わせが、まるで戦場の鼓動のように鳴り響く。


 岩崎弥太郎は臨時設営された通信幕舎の中で、机に広げられた伝票を睨んでいた。背後では、郵便局員に任命された若い兵たちが木製の電鍵を叩き続け、インクで濃く染まった記録紙が次々と積み重なっていく。


 「ふむ……船荷証券から陸送伝票に連結。これを確かめんと意味がないのう」


 弥太郎は書類を指で叩き、横に立つ技師に声をかけた。

 「この伝票番号、ちゃんと船から荷を降ろした順に繋がっちょるか? 途中で抜けとらんか?」


 技師は慌てて帳簿をめくり、首を振った。

 「はい、すべて番号順に。長崎から仁川経由の荷も、基隆から直接の荷も、同じ様式で処理できております」


 弥太郎はにやりと笑った。

 「よし。これで海から陸まで“ひとつながり”や。戦の最中でも商いは死なせん。むしろ、こういう時こそ正直な取引が必要ぜよ」



 そこへ龍馬が幕舎に入ってきた。長い夜勤で煤けた顔を拭いながら、口に笑みを浮かべている。


 「おう、弥太郎。まだ帳簿とにらめっこかい」


 弥太郎は肩をすくめた。

 「戦場で一番怖いんは銃でも砲でもない。取引が止まることよ。通信と帳簿が途切れたら、兵も商人も腹を空かす」


 龍馬は笑いながら腰を下ろし、電信紙をひょいと持ち上げた。

 「“朝の相場を夕方に知れる”――そう書いてあるが、本当か?」


 通訳役を兼ねた通信官が答えた。

 「はい。マニラや厦門の相場を、数時間遅れでここ漢城でも確認できます。これまで数十日かかっていた情報が、半日で届くのです」


 龍馬は目を丸くした。

 「ほう……そりゃあ商人も腰を抜かすのう。朝の値を夕刻に知れるがは、まるで未来を覗くようなもんじゃ」


 弥太郎は力強く頷いた。

 「情報は血と同じぜよ。止めたら死ぬ。流せば活きる。これで商人は安心して金を回せる。……戦のさなかに相場が動くがは怖いが、情報が届けば怖くはない」



 電信幕舎の外では、兵士と郵便局員が肩を並べ、仮設の投函箱に手紙を入れる人々を誘導していた。


 「戦の最中でも手紙を出せるのか?」

 不安げに尋ねた現地商人に、若い兵が答える。

 「はい。日本郵便と朝鮮駅逓の連携で、平常どおりの通信が可能です。届ける先がどこであろうと、伝票に番号があれば追えます」


 商人は驚き、深く頭を下げた。

 「これで安心して商いができる……。戦があっても暮らしが続くのだな」


 その言葉に弥太郎は横目で笑みを浮かべた。

 「そうよ。戦やけん言うて暮らしを止めたら、国は死ぬ。通信を保てば、戦も暮らしも両立できるがじゃ」



 夜半、幕舎の隅で龍馬と弥太郎が肩を並べた。


 龍馬は腕を組み、低く言った。

 「弥太郎。戦も商いも同じじゃの。人の心を掴み、情報を流せば、銃を撃たんでも勝てる」


 弥太郎は机を叩いた。

 「せや。情報の流れを止めたら、商売も政治も死んでしまう。逆に流れを作れば、国は強くなる。……この電信の線は、ただの鉄線やない。人の心を繋ぐ“命の線”や」


 龍馬は大きく笑い、肩を叩いた。

 「まっことええこと言うのう。戦場で一番大事なんは、腹と心と情報や。三つが揃えば、戦わんでも勝てる」


 二人の笑い声が、電鍵の音に重なり、秋の夜気の中で軽やかに響いた。



 その報は電信を通じて、ただちに東京にも届いた。


 《通信維持成功。郵便連携、商人に好評。岩崎・龍馬、情報流通の重要性を強調》


 江戸城で報告を受けた藤村晴人は、紙を読みながら静かに呟いた。

 「三日の猶予が、三日の恐怖を和らげた。そして通信が、その心をつなぎとめた。……戦は剣でなく、線で決まる」


 秋の夜風が障子を揺らし、墨の香りが静かに広間に漂った。

漢江の水面は静かに波を刻んでいたが、その向こうに聳える朝鮮王宮の中は荒れていた。西郷隆盛が布告した「三日の猶予」は、王宮に大きな混乱をもたらしたのである。


 勅書を受け入れるか、抵抗を続けるか――その選択肢を前にして、主戦派と和平派の声が火花を散らしていた。



 王宮の広間。高官たちがずらりと並ぶ中、主戦派の将軍が怒声を放った。


 「卑しき倭人に屈してはならぬ! 三日の猶予など欺瞞にすぎん! 彼らは必ず攻め入ってくる。ならば、ここで一戦を交えて国威を示すべし!」


 その声に若い武官たちはうなずき、剣の柄を叩いた。しかし、年配の文官は声を震わせて反論した。


 「見よ。城外を囲むは数千の兵、漢江には艦船が並ぶ。勝ち目はない。戦えば民は飢え、血は流れる。三日という言葉は、我らに最後の選択を与えているのだ。降りて国を保つこともまた忠義である!」


 声は重なり、罵声と悲鳴が広間を渦巻いた。



 一方、城外の陣営。陸奥宗光は幕舎にて報告を受け取りながら、冷静に状況を見極めていた。


 「主戦派と和平派が割れておる……」


 書記が記した情報には、城内で意見が真っ二つに割れている様子が細かく記されていた。陸奥は筆を走らせ、短く言葉を記す。


 《急かさず、しかし甘やかさず》


 これこそが彼の外交戦術であった。敵に選ばせる余地を残し、だが逃げ場を奪う。両方を同時に与えることで、内部から揺さぶるのだ。


 陸奥は小声で側近に告げた。

 「時間が彼らを蝕む。三日の間に民心は揺らぎ、兵の心も揺らぐ。王宮の中はもはや城壁より脆い」



 その頃、西郷隆盛は龍馬と並んで漢江の河畔を歩いていた。夕日が赤く川を染め、包囲陣の焚火が煙を上げる。


 「龍馬どん……三日で決まると思うか」

 西郷の声は低く、風に混じって聞こえた。


 龍馬は肩をすくめ、笑みを見せた。

 「三日いうんは短いようで、長いぜよ。人が腹を満たして考えれば、剣よりも言葉の方が重くなる。あの王宮でも、今ごろは怒鳴り合いじゃろう」


 西郷は頷き、太い腕を組んだ。

 「うむ。猶予は情けではない。選ばせることで、後に恨みを残させぬ。降るも戦うも、彼らの選択であるとな」


 龍馬の瞳に炎が映り、その声は熱を帯びた。

 「恨みを残さぬ統治……それが一番難しい。だがそれをせんと、百年の後に戦は続く。今止めるがは、わしらの役目ぜよ」



 夜、王宮の一角。和平派の一人が密かに文をしたためていた。


 《三日の猶予に感謝。降ることで国を守るべし》


 文は伝令に託され、闇に紛れて城を出た。これを待っていたかのように、日本軍の通信隊が受け取り、ただちに本営に届けた。


 陸奥はそれを読み、静かに微笑んだ。

 「割れ始めたな。……三日の猶予は、彼ら自身を追い詰める」



 東京。江戸城の執務室で、藤村晴人は漢城からの報告電信を受け取っていた。


 《城内、和平派優勢になりつつあり。主戦派と対立激化》


 藤村は書状を握りしめ、深く息を吐いた。

 「西郷どんの“猶予”は戦わずして人の心を動かしている……。戦とは剣の刃でなく、時間と心で決まるものだ」


 窓の外、秋の月が白く輝き、庭の木々を照らしていた。藤村の胸には、遠い漢城と東京が一本の見えぬ糸で結ばれているような確信があった。



 その夜更け、漢江の包囲陣では、兵たちが火を囲みながら囁いた。


 「あと二日……どうなる」

 「戦わずに済むなら、それが一番だ」


 兵の声は川を渡り、王宮に届くかのようだった。


 そして三日目の朝を迎える頃、王宮の広間には疲れ切った顔が並び、和平派の声が少しずつ重みを増していった。

漢江の水面は夕陽を映し、黄金の筋を幾筋も走らせていた。包囲する日本軍の陣地では、三日のうち二日が過ぎようとしていた。川沿いの葦は風に揺れ、遠く王宮の屋根は静まり返っている。だが、その沈黙は決して安らぎではなく、煮えたぎる葛藤の重さを孕んでいた。


 西郷隆盛は河畔に立ち、腕を組んで王宮の方角を睨んでいた。隣には坂本龍馬が立ち、両手を袂に突っ込み、川面をじっと見つめている。兵たちの足音や鍋をかき回す音は背後に聞こえるが、この二人の周囲はなぜか隔絶された静けさを湛えていた。


 「龍馬どん……」

 西郷が低く口を開いた。

 「あと一日や。彼らがどう出るかは分からん。だが、攻め落とすはたやすい。火をかけ、突入すれば一刻のうちに城は落ちる」


 龍馬は顎を撫で、にやりと笑った。

 「一刻で落ちても、百年の怨みを買うぜよ。大砲で門を吹き飛ばすのは簡単じゃ。けんど、その後、誰がこの地を治める? 血の海になった町で商いはできん。学びも芽吹かん」


 西郷の眼光が少し和らぎ、川風にひげを揺らした。

 「三日の猶予……これは情けか、それとも策か」


 龍馬は真っ直ぐに答えた。

 「策じゃ。けんど、情けも混じっちゅう。人に選ばせることが一番大事ぜよ。わしらが剣で強いるんじゃない。彼らが自分で“降りる”と選べば、その後に恨みは残らん」


 西郷はしばらく黙り込み、視線を落とした。足元の小石を拾い上げて川へ投げると、水面に小さな波紋が広がった。

 「なるほどな……。武力で屈せさせるんは簡単やが、納得して屈してもらうんは難しい。けんど、その難しさを越えねば未来は繋がらんか」


 龍馬はにっこりと笑い、肩を軽く叩いた。

 「西郷どんはよう分かっちょる。あの王宮の中でも、今ごろ和平を望む声が大きゅうなっちゅうはずじゃ。三日という刻限は、戦う意地と生き延びたい気持ちを両方煮詰める鍋みたいなもんや。時間が味を出すきに」



 一方その頃、王宮の奥。火の灯る大広間で、和平派の重臣が机に手をつき、声を張り上げていた。


 「見よ! 外には敵軍が包囲し、城下では民が飢えておる。だが日本軍は米と塩を配り、病を癒やしている! 彼らが我らを滅ぼすために来たのなら、なぜ民を助ける必要があるか!」


 その声に若き武官が沈黙した。反論しかけたが、心の中に芽生えた疑念を打ち消すことはできなかった。


 主戦派の大将はなおも剣を叩き、怒声をあげた。

 「彼らは狡猾に民心を奪うのだ! 降れば二度と立ち上がれぬ! 戦って死ぬこそ忠義!」


 だが、その声はかつてのように広間を圧する力を持たなかった。和平派の声が重なり、広間の空気は次第に傾いていった。



 東京・江戸城の執務室。報告電信が届き、藤村晴人は紙面を食い入るように読んでいた。


 《王宮内、和平派の発言力増大。主戦派との対立続く》


 藤村は筆を取り、余白に短く書き付けた。


 ――戦は剣ではなく、心の揺らぎで決まる。


 その横で小栗忠順が深く頷いた。

 「西郷殿も龍馬殿も、敵の剣を折るのではなく、心を折ろうとしておられるのですな」


 藤村は静かに答えた。

 「心を折るのではない。心に“選ばせる”のだ。納得づくで降るのと、強いられて降るのとでは百年の差がある」


 窓の外、秋の月が白々と輝き、庭に伸びる影を長くしていた。藤村の胸には、遠い漢城と東京が同じ光で照らされているという確信が広がった。



 翌日の夜明け前、漢江の対岸。西郷と龍馬は再び並んで立ち、王宮を見つめていた。空は薄紫に染まり、川面に金色の道が伸びていた。


 「龍馬どん、あと一日じゃな」

 「そうぜよ。けんど、その一日が重い。ここから先は、わしらが何もせんでも勝手に転ぶ。……心の勝負は、剣よりも長いけんど、結果は深い」


 二人は黙って朝の空気を吸い込み、その冷たさに身を震わせた。



 この三日の猶予は、単なる時間の浪費ではなかった。


 それは王宮を分裂させ、兵を揺るがせ、民に未来を選ばせる時間だった。


 そして、遠い東京でも、藤村は静かに確信を深めていた。


 「三日という猶予は、人の心を試す鏡である。鏡に映った心が“降る”と選べば、そこに新しい時代が始まる」


 秋の朝、漢城の空に一羽の鴎が舞い上がり、川面を渡って消えていった。

十月の空は高く、漢江を包む風は冷たさを増していた。三日目の朝、城を囲む日本軍の陣地には、張りつめた緊張とわずかな期待が漂っていた。誰もが「今日こそ答えが出る」と感じていたからである。


 西郷隆盛は本営の天幕の中で鎧を外し、深く息を吐いた。外から伝令の声が響き、城門に白い旗が掲げられたと告げられた。


 「……来たか」


 彼は立ち上がり、外へ出る。川向こうの城壁に揺れる旗は、日の光を受けてゆっくりと波打っていた。それは敗北の印ではなく、決断の印だった。抵抗をやめるという王宮の意志。


 龍馬が隣に歩み寄り、口元に笑みを浮かべる。

 「三日の猶予は無駄じゃなかったのう。剣を交えずに心を動かせた」


 西郷は静かに頷いた。

 「血を流さずに済んだのなら、これ以上の勝ちはない」



 王宮内では、和平派の重臣が疲れ切った声で降伏の書状を読み上げていた。主戦派の将軍たちは目を伏せ、無言で立ち尽くした。勝敗は剣で決まらず、時間と心で決まったのだ。


 城外の民は、戦の恐怖から解き放たれたかのように涙を流し、子を抱いて街路に集まった。配給所では坂本龍馬が兵と共に米俵を運び出し、子どもたちに塩とパンを手渡していた。


 「よしよし、もう大丈夫じゃ。腹いっぱい食べい」


 涙を浮かべた母親が深く頭を下げる。その姿に兵たちの表情も和らいだ。



 一方、東京・江戸城。藤村晴人は漢城から届いた電信報を読み、長く目を閉じた。


 《三日目朝、白旗掲揚。降伏の意志を確認》


 紙面に踊る文字は冷たい墨にすぎない。しかし、その裏には、無数の人々の心の動きと、血を流さずに済んだ未来があった。


 「……猶予とは、時を与えることではない。心を選ばせることだ」


 呟いた声は、広間に漂う秋の光に溶けていった。



 その夜、漢江の陣営では兵たちが焚き火を囲み、笑い声を交わしていた。三日前、剣を構えていた相手が今は捕虜として静かに座り、温かい粥を啜っている。敵と味方の境が、ひとときだけ薄れていた。


 西郷は火の明かりを見つめながら龍馬に言った。

 「剣で勝つより、心で勝つ方が骨が折れるのう」

 龍馬は笑い、大きく頷いた。

 「せやけど、その勝ちは長続きするきに」



 東京の夜。藤村邸の庭では、義信と久信が小さな旗を振っていた。幼い声で「がんばれ」と叫ぶ声が、遠い朝鮮の地にまで届くように響いた。


 藤村は縁側に立ち、遠い東の空を見つめた。

 「江華の朝は新しい時代の朝……。戦は剣でなく、選択で決まる。猶予はそのためにある」


 秋の夜気に混じって、子らの笑い声が高く澄んだ。



 こうして「三日の猶予」は終わった。

 それは戦を遅らせたのではなく、戦を終わらせる時間であった。


 白旗の下で交わされた決断は、後の統治に深い安定をもたらす――それを西郷も、龍馬も、そして東京の藤村も確信していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ