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161話 :(1869年9月下旬/初秋) 江華の朝

九月下旬、初秋の朝。黄海はまだ夏の湿気を引きずり、朝靄が水面を覆っていた。その中を進むのは東洋艦隊の一群。台湾遠征の経験を踏まえ、再編成された精鋭艦隊である。


 旗艦の甲板に立つ榎本武揚は、霧の切れ間に現れる島影をじっと見据えていた。そこは江華島。朝鮮王朝の海防の要であり、同時に清朝の影響が色濃く漂う場所であった。


 「江華島、射程内に入りました!」

 見張りが声を上げる。


 榎本は顎を引き、短く命じた。

 「砲門を狙え。だが、民家を壊すな。狙いは砲台だけだ」


 砲術長が敬礼して駆け戻る。甲板に張り詰めた空気の中で、砲門が開き、大砲の口が一斉に砲台へ向けられた。


 「撃て!」


 轟音が朝靄を突き破り、白煙が空を押し広げるように立ち上った。弾丸は砲台の石垣を砕き、黒煙を上げたが、周囲の民家には火は及ばなかった。


 「砲台一、機能停止。被害なし!」

 砲術長の報告に、甲板の空気がわずかに緩む。榎本は深く息を吐いた。


 「台湾で学んだ精密射撃が生きたな……。血を流さず、力を示す」



 その一方で、東京。江戸城の作戦室では、次々と届く電信を藤村晴人が受け取っていた。


 《江華島沖到達、砲台に対し限定射撃開始。民家への被害なし》


 藤村は紙を指先で押さえ、静かに呟いた。

 「これでいい……制圧ではなく、無力化だ」


 作戦室に並ぶ幕府の重臣たちは、緊張の面持ちで藤村の表情をうかがう。かつての戦であれば、砲台ごと村を焼き払うことも珍しくはなかった。だが今回は違う。台湾で得た経験を朝鮮でも活かし、「最小限の武力で最大の効果を上げる」ことが基本方針とされていた。


 小栗忠順が口を開いた。

 「藤村様、江華島の砲台はすでに二基沈黙とのこと。残存も間もなく鎮まりましょう」


 藤村は頷き、地図の上に視線を落とした。

 「よし。だが油断は禁物だ。ここは清朝の影響下だ。砲声ひとつが、大国を動かす」



 江華島では、西郷隆盛が上陸の準備を進めていた。大きな体を揺らしながら、兵に向かって声を張る。


 「よかか! この戦は血を流すためのもんではなか。砲台はすでに静まった。これからは降伏兵を礼をもって扱い、民には一指も触れるな」


 兵たちは深く頷き、武器を握る手に力を込めた。西郷はさらに続ける。

 「わしらは侵略者ではない。国を正すために来たのだと、行いで示せ」


 その声は、海峡を渡る風に乗って兵士たちの胸に染み込んだ。



 東京に戻る電信は次々と届いた。


 《江華砲台二基無力化。流血なし。降伏交渉開始》


 藤村は深く息を吐き、机に置かれた地図を見つめた。台湾で始まった「人道的統治の実践」が、朝鮮の地でも試されている。


 「この戦は、単なる軍事行動ではない。新しい時代を切り開く試金石だ……」


 その声に、傍らにいた陸奥宗光が頷いた。

 「国際社会も見ています。大義なき行動は、すぐに非難を呼ぶ。だが今回の形ならば、正当性を示せるでしょう」


 藤村は陸奥を見やり、静かに応じた。

 「だからこそ、無駄な血を流してはならぬ。台湾で流した汗と知恵を、ここでも使うのだ」



 黄海の霧は少しずつ晴れ、江華島の稜線に朝日が差し始めていた。砲台は沈黙し、兵たちの声が波間にこだました。


 東京の空もまた、同じ朝日で赤く染まり始めていた。藤村は窓辺に立ち、遠い海の向こうを思いながら、胸の内で呟いた。


 「江華の朝は、新しい時代の始まりだ」


 その言葉は、書類に記された墨字以上に強い確信を帯び、やがて日本の進むべき道を照らす光となっていった。

江華島からの砲声が収まった直後、東京の江戸城作戦室では次なる一手が練られていた。重厚な机の上に広げられた紙面には、墨で大きく三行が記されている。


 《通信使再開》

 《通商妨害の是正》

 《難民保護》


 藤村晴人が扇を置き、その三つを指先で示した。

 「これが我らの大義だ。武力のための武力ではない。この三点を、朝鮮王朝にも、国際社会にも明確に示す」


 小栗忠順が深く頷き、筆録役に目を向ける。陸奥宗光が前に出て、用意した布告草案を声に出した。

 「日本は朝鮮との古き友好を重んじ、通信使の往来を再開することを望む。通商を妨げる不法を改め、漂着民を保護し、互いの国益と人命を守る」


 淡々とした声だったが、言葉の背後には国際法を熟知した陸奥らしい鋭さがあった。



 一方、現地・江華島の浜辺。降伏のために集まった朝鮮守備隊の前に立ったのは西郷隆盛である。陽に照らされた巨体を揺らしながら、彼は朝鮮語の通訳を介して語りかけた。


 「我らは朝鮮を征服しに来たのではない。通信使の往来を取り戻し、通商を整え、海で命を失った者を守るために来た。――正当な理由なき侵略ではない」


 兵たちの顔に緊張が残る。それでも、血の匂いをまとわぬこの言葉は、確かに彼らの胸に届き始めていた。



 さらに釜山に設けられた臨時補給所では、岩崎弥太郎が現地商人を前に演説していた。粗い木机に両の手をつき、低い声で言う。


 「商売は戦とは別物だ。だが、我らは戦の名の下に略奪をするつもりはない。正当な価格で取引し、互いに利益を分かち合う。経済は武器ではなく、橋だ」


 その言葉に、年配の商人が小声で応じた。

 「……確かに、日本人は印紙を貼り、値を定める。前より分かりやすい」


 弥太郎は口元に笑みを浮かべた。

 「そうだ。値も手続きも明朗であることこそが、信頼を生むのだ」



 東京に戻る電信には、これらの動きが次々と記されていた。


 《西郷将軍、降伏兵に礼遇示す。血の流れなし》

 《陸奥布告、国際法に則り正統性を説明》

 《岩崎、補給所で正当価格を明言。現地商人安堵》


 藤村は紙面を重ねて読み、深く頷いた。

 「武力・外交・経済――三本の柱が揃えば、乱れはない。……これで、我らの戦は正義の名の下にある」


 陸奥が静かに言葉を添える。

 「国際社会も見ています。清も、欧州列強も。今は一つの過ちも許されぬ時。ですが、この三大義ならば、彼らも非難はすまい」


 藤村は立ち上がり、作戦室の障子を押し開けて外を見た。秋の朝日が城の瓦を照らし、白く輝いていた。

 「大義は示した。あとは実を伴わせるのみだ」

江華島砲台の沈黙から三日後。海峡の波は依然として荒く、時折冷たい風が霧を巻き込んでいたが、艦隊の船腹は安定したまま、南と東に向かって新たな拠点を築こうとしていた。


 報告電信が東京・江戸城の作戦室に届いたのは、昼下がりのことである。


 《釜山仮補給所設置完了。現地商人、通関印紙の運用に安堵の声》

 《仁川港、臨時荷揚げ場開設。物資搬入、現地民と協力》


 藤村晴人は紙面を押さえ、細かい字で記された補給物資一覧を確認した。石炭、米、塩、木材――すべてが数と印で明確に記されている。


 「よし。通関印紙を臨時に使わせたのは正解だったな」


 小栗忠順が頷き、補足した。

 「複雑な通関を即日で処理できる。現地商人からは“前より簡単だ”との声。交易は続く、占領の不安は和らぎましょう」


 藤村は深く頷いた。

 「武力で恐れさせれば、商人は隠れる。だが秩序を見せれば、商人は現れる。――我らが欲するのは、血の港ではなく、生きた港だ」



 現地・釜山では、岩崎弥太郎が自ら補給所に立っていた。簡素な小屋の前に長机を据え、商人や漁民を呼び寄せる。


 「この印紙を見よ。数と値はここに記す。納めるものも受け取るものも、すべて一目でわかる」


 通訳を介して掲げられた紙に、商人たちは目を凝らした。印紙には墨で数字が記され、朱の印が鮮やかに押されている。


 「これまでの役人のやり方よりずっと早い。駄賃を取られることもない」

 ひとりの商人が驚いたように言った。


 弥太郎は口元を緩め、力強く答えた。

 「我らは占領軍ではない。貿易の仲間だ。だから不正も賄賂も要らぬ。正しい品には正しい値がつく」


 その言葉に、ざわついていた空気が少し和らいだ。



 仁川では、西郷隆盛が上陸した兵を率い、民と共に荷揚げを手伝っていた。大きな米俵を肩に担ぎ、笑いながら言う。


 「おい、これは日本の兵糧だ。だが食うのはお前らと一緒だ。わしらは同じ釜の飯を食う仲よ」


 現地の若者たちは最初こそ警戒していたが、西郷が土埃にまみれて働く姿に、自然と手を貸すようになった。俵を降ろす手が増え、荷揚げ場は活気に包まれた。


 仁川の商人の一人は、港の片隅で手続きを済ませながら呟いた。

 「日本のやり方は、軍人でも商人でも同じ帳簿を使うのか……不思議だが、これなら騙されずに済む」



 東京に戻った電信には、次々と報が積み重なった。


 《釜山・仁川に仮補給所設置。物資輸送滞りなし》

 《通関簡素印紙臨時運用。現地商人、利便性を評価》

 《現地経済活動継続。民心の動揺最小限》


 藤村は報告を読み上げ、重臣たちに向かって言った。

 「見よ。彼らは我らを“占領軍”とは呼んでいない。“取引の相手”と呼び始めている」


 陸奥宗光が手元の文書を閉じ、目を細めた。

 「経済の継続こそが最大の懐柔策……。これで欧州列強からの非難も避けられるでしょう。むしろ“文明的な占領”と評価されるはずです」


 藤村は静かに頷いた。

 「経済の秩序は血よりも強い。これで第一の橋頭堡は確立した」

九月の黄海を覆っていた霧が晴れるころ、江華島から東京へ届く電信は途切れることなく続いていた。江戸城の作戦室に集められた報告紙を前に、藤村晴人は一枚一枚を丁寧に目で追った。


 《西郷将軍、降伏兵を礼遇。地上の混乱なし》

 《陸奥布告、国際法準拠の正統性を説明。清側反応静観》

 《岩崎、補給所設置により現地商人安堵。経済活動滞りなし》


 藤村は扇を置き、傍らの重臣たちに向かって言った。

 「見よ。三人が三様の役割を果たし、互いを補っている。西郷は軍事の威をもって秩序を保ち、陸奥は法理の盾を掲げ、弥太郎は商の網を広げて民をつなぐ。……これが我らの望んだ“三頭体制”だ」


 小栗忠順が深く頷いた。

 「確かに、従来の戦では軍が暴れ、経済が潰え、外交が遅れて非難を招くものでした。しかし今は違う。すべてがひとつの方針に沿って動いております」



 一方、江華島の浜辺。西郷隆盛は鎧を解き、兵と共に俵を担ぎながら降伏兵に声を掛けていた。

 「お主らの武器は預かる。だが命までは取らん。家に戻り、家族を守れ」


 その声は荒々しいが温かく、兵たちは戸惑いながらも深々と頭を下げた。血を流さぬ勝利――それを兵士に実感させるのは、他ならぬ西郷の人柄であった。



 その頃、仁川の補給所では岩崎弥太郎が机を叩きながら現地商人に呼びかけていた。

 「見よ、この印紙。これがあれば商いは早い、騙されぬ、争わぬ。――商売は正直であれば儲かる。今後はそういう世にする」


 年配の商人が目を丸くし、通訳を通じて声を上げた。

 「戦の只中で、このように商いを守ろうとする国があるとは思わなんだ……」


 弥太郎は笑い、帳簿を指で叩いた。

 「戦も商いも、嘘は続かぬ。正直に積み重ねるほうが長く得をするのだ」



 そして、釜山の臨時会所。陸奥宗光は現地官僚と向き合い、淡々と条文を読み上げていた。

 「国際法に則り、占領下にあっても住民の財産と命は守られる。日本の行動は正統であり、列強に非難される筋合いはない」


 理路整然とした言葉は、朝鮮の役人たちにとって難解であったが、同席していた欧州人通商顧問が頷いたことで説得力を持った。彼らは互いに目を合わせ、「日本はただの侵略者ではない」と理解し始めた。



 東京。江戸城の作戦室に再び報告が届く。


 《三地補給順調。住民反発なし》

 《国際社会反応、非難声明なし》


 藤村は紙を畳み、低く言った。

 「三人が現地で役を果たし、東京が全体を統べる。混乱はなく、秩序は保たれた。……これが我らの“新しい戦”の姿だ」


 障子の外から秋の風が吹き込み、朱に染まりかけた夕陽が作戦室を照らした。

その日の夕刻、江戸城に再び電信が届いた。


 《基隆・淡水・打狗の三港封鎖、完了。江華島砲台、無力化済。流血最小限》


 報告を読み上げる役人の声が広間に響くと、集まった重臣たちの間からは安堵の吐息が洩れた。誰もが緊張の日々の終わりを実感していた。だが藤村晴人は、報告紙を指先で折り畳みながら、静かな沈黙を保った。


 「……ここからが始まりだ」


 低い声で漏らした一言に、周囲の視線が集まった。


 窓辺に歩み寄り、秋の空を仰ぐ。西に傾いた陽が江戸の瓦屋根を朱く染め、霞の向こうにうっすらと海が光っていた。その先に朝鮮半島がある。報告にある「江華の朝」とは、まさにこの光景と連なるものだった。


 藤村は扇を閉じ、深く息を吐いた。

 「台湾で学んだことを、今度は朝鮮で試されている。流血を最小限に、秩序を守り、民を守る。――これこそ新しい戦だ」


 小栗忠順がうなずき、陸奥宗光も言葉を添えた。

 「国際社会は我々の行動を注視しています。だが今回は非難声明もない。むしろ“文明的な統治”として評価されましょう」


 藤村はゆっくりと頷いた。

 「剣で勝つのは一時。だが秩序と信頼で勝つのは百年。朝の光がそれを示している」


 視線の先には、まだ見ぬ朝鮮の大地があった。霞の向こうで陽に照らされるその姿を想像しながら、彼は胸の奥で静かに言葉を結んだ。


 「江華の朝は、新しい時代の始まりだ。日本は、もはや一国に閉じた島国ではない。東アジアの秩序を担う国へと歩み出したのだ」


 その声は広間の誰に向けたわけでもなく、夕暮れの光そのものに語りかけるようであった。


 障子の外から、虫の声が涼やかに響いてくる。季節は秋、だが歴史は確かに春を迎えようとしていた。

夜半、江戸城の作戦室。油灯の明かりが帳簿の紙面に揺らぎ、墨の黒が淡く光った。藤村晴人は机に残された報告の束を整え、ひとつひとつを丁寧に重ね直した。


 《江華島砲台、機能停止》

 《釜山・仁川補給順調》

 《現地商人、通関印紙に安堵》

 《国際社会、非難声明なし》


 数字も事実も、余白に並ぶ簡潔な言葉が物語っていた。流された血は最小限、交易は維持され、国際的孤立も避けられた。書き並べればただの墨字にすぎない。だがそこには兵の汗、民の声、現地で奔走する仲間たちの息遣いが宿っていた。


 「……ここまで来たか」


 小さく呟いた言葉に、誰も答える者はいない。広間はすでに片付けられ、残るのは灯と書類と彼ひとりだけだった。



 同じ頃、江華島の海辺。西郷隆盛は兵と共に焚き火を囲み、俵を下ろした肩をほぐしていた。兵たちは硬い飯をかじりながらも、安堵の笑みを見せている。流血が少なかったことが、何よりの慰めだった。


 少し離れた補給所では、岩崎弥太郎が商人と帳簿を突き合わせていた。灯に照らされた紙に、朱の印が次々と押される。商いは戦に勝る力を持つ――その確信が彼の目を鋭く輝かせていた。


 さらに釜山の臨時会所では、陸奥宗光が現地役人と条文を確認し合っていた。冷静な声で「国際法準拠」を繰り返すその姿は、江華島の火薬の匂いとは無縁の静けさを纏っていた。



 東京の藤村は窓を開け、秋の風を受けた。遠い海の向こうで働く仲間たちの姿が、報告の文字を超えて鮮やかに脳裏に浮かぶ。


 「剣、法、商――三つの道を束ね、秩序を築く。これが我らの戦か」


 庭の方から、義信と久信の小さな声がかすかに響いた。幼い子らはまだ旗を振る遊びに夢中なのだろう。その声は、台湾の街角で布告板を読み上げる子どもたちの声と重なり、さらに江華の浜辺で兵を労う西郷の声とも重なっていった。


 見えぬ糸で結ばれた声と声が、国を超えてひとつの布を織り上げている――藤村はそう感じた。



 「江華の朝は、ひとつの始まりに過ぎぬ」


 独り言のような声が夜の作戦室に響く。灯の火がゆらぎ、紙の上の墨字を照らした。


 藤村は筆を執り、報告書の余白に小さく書き添えた。


 ――未来は声の重なりに宿る。


 墨はすぐに乾き、秋の夜気の中で光を帯びた。

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