160話 :(1869年8月下旬/晩夏:D+90) 併合令
八月の台湾は、濃密な湿気に包まれていた。台南府庁前の広場には、朝から人々が集まり始めていた。老若男女が入り交じり、顔に汗を浮かべながらも、不安と期待が入り混じった眼差しで壇上を見つめている。広場中央には大きな布告台が据えられ、白布で覆われた掲示板が朝の陽光にきらめいていた。
「静粛に――」
日本語と閩南語の二重の声が響き、群衆のざわめきが徐々に収まる。壇上に立ったのは榎本武揚である。紺色の軍服に身を包み、その眼差しには軍人らしい冷静さと、責務を背負う覚悟が宿っていた。
「本日をもって、ここ台湾は正式に日本国の一部とする」
その言葉が通訳の口から閩南語に変わると、広場にざわめきが走った。耳を澄ませて聞き入る者、互いに顔を見合わせる者。だが混乱ではなく、真剣な沈黙が広がったのは、ここまでの三か月間、日本軍が示した規律と人道が根を下ろしていたからである。
榎本は布告文を掲げ、声をさらに張った。
「藤村軍政長官の名において、県治・司法・警保・教育・税務を日本の制度に統合する。これより、台湾の地は日本と同じ法と秩序の下に置かれる!」
通訳がその一文一文を正確に伝えるたび、広場の空気は重くも引き締まっていく。
壇上には台湾の官僚たちも並んでいた。彼らは複雑な面持ちで布告を聞きながらも、背筋を伸ばしていた。かつての清朝の支配から解き放たれ、新しい秩序の中で自分たちの立場が守られるのかどうか、その一点に彼らの視線は注がれていた。
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一方、遠く東京。江戸城西の一室で、藤村晴人は電信局から届いた速報を広げていた。
「台南府庁前にて『台湾併合令』布告完了。住民反応、静粛にて大きな混乱なし」
紙に刻まれた文字を指でなぞみながら、藤村は深く息を吐いた。胸の奥から広がるものは、安堵と、重みを増した責任感であった。
「……ついにここまで来たか」
障子越しに差し込む夏の光が、机の上の布告草案を照らしている。そこには自らが練り上げた条文の数々――統治の基本原則、衛生と教育を優先する方針、税制の段階的移行――が墨で整然と並んでいた。
藤村は硯に筆を走らせ、追って布告全文を冊子として全国へ頒布するための修正に取り掛かった。机に向かう彼の横顔には、歓喜よりもむしろ慎重な決意が刻まれていた。
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再び場面は台南に戻る。布告式の壇上で榎本は布告を読み上げ終えると、壇下に控えていた現地通訳が続けて説明を加えた。
「日本はこの島を力で支配するのではない。教育と衛生を第一とし、税は急に増やさぬ。子どもたちの学びを保障し、病を減らすために医を広める。それが“併合”の意味である」
群衆の中から、小さな声が洩れた。
「子どもが学べる……ならば悪いことではない」
「病が減るなら、ありがたい」
やがてそれは、広場全体に広がるさざ波のように、安堵の息となった。
壇上にいた榎本はそれを見逃さず、深くうなずいた。隣にいた台湾の旧官僚のひとりも、小さく肩を落として言った。
「面子が立つなら、我らも協力しよう」
その一言に、式典の空気はようやく柔らかくほどけた。
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江戸の執務室に戻る。藤村は報告書を閉じ、机に肘をついた。
「併合は終わりではない。始まりだ……」
彼の耳に、遠い台湾の広場で翻る日章旗の音が届く気がした。
背後では義信と久信が小さな旗を振りながら、「台湾のお兄ちゃんたちも日本だ」とはしゃいでいる。その姿に藤村は目を細めた。
――本土と台湾、その距離はもはや地理ではなく心で測られる。
外は蝉時雨が響き、夏の空は青く澄んでいた。
台南の空気は重く湿り、汗が背を伝って止まらない。だが府庁会議室の中は、外の暑さに劣らぬ熱気で満ちていた。壁際に並べられた木製の掲示板には、黒々とした墨字で「関税特会十五% 台湾運営恒久枠」と書かれていた。
「この十五パーセントは、軍の財布ではなく、衛生と教育に充てる」
榎本武揚総督の低い声が、室内に響いた。
沈黙の後、地元の通訳が閩南語に置き換える。
「この十五分の一の銀は、病を減らし、子どもに学を与えるために使われる」
部屋に集まった現地郷長や旧官僚たちは顔を見合わせ、やがて小さなざわめきとなった。
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会議室の一角、財政担当の主計官が机の上に分厚い帳簿を広げた。
「歳入総額を三十六万両と見積もれば、その十五%は五万四千両。これを恒久枠とし、支出科目は『衛生・教育』の二項に限定する。軍政費とは一切混ぜぬ」
その言葉に、榎本がうなずき、さらに言葉を重ねた。
「軍政は一時のこと。しかし教育と衛生は未来を形づくる。今日の兵糧より、明日の学問こそ国を強くする」
通訳が丁寧に言葉を伝えると、沈黙していた郷長の一人が立ち上がった。
「……税が急に増えるのではないか」
榎本は首を振り、机を軽く叩いた。
「既存の負担は据え置く。新たに取り立てるものではない。むしろ配分を明確にすることで、銀の行き先が見えるようになるのだ」
別の郷長が頷きながら口を開いた。
「……ならば民も安心する。子が学べるなら、我らも納得する」
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その場に同席していた陸奥宗光が筆を取り、議事録に書き付けていた。墨の香りが漂う中、彼の筆先は軽やかだった。
「衛生・教育優先の恒久枠を設けると公に示せば、清朝官僚の面子も立ちますな。『民のため』と掲げれば、反論は難しい」
榎本は苦笑しつつも頷いた。
「面子を立てつつ実を取る――外交も財政も同じだ」
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一方その頃、東京。江戸城の会計局にも同じ内容の電信が届いていた。藤村晴人はそれを読み、机の上の算盤に指を走らせた。
「十五パーセント……年間で計算すれば、相当の蓄えになる」
彼の口調は淡々としていたが、胸の奥には確かな熱があった。これまで戦費に消えていた銀を、未来へと投じることができる。その意義の大きさを、彼は誰よりも理解していた。
傍らにいた勘定奉行小栗忠順が感嘆の息を漏らした。
「藤村様、これで台湾は一時の遠征地ではなくなりますな。正真正銘、国の一部として扱える」
藤村は頷き、筆をとった。
「衛生と教育――この二つを柱に据えれば、併合の正統性は揺るがない。数字こそがその証となる」
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再び台南。会議室の外では、蒸し暑い空気の中、住民たちが広場に設けられた布告板の前に集まっていた。新しい布告が貼り出され、書記が大声で読み上げている。
「関税収入の十五分の一は、学校と病院に使われる!」
人々の顔に驚きと安堵が広がる。
「子が学べる……」
「病が減る……」
ある母親が幼子を抱きしめながら小さく呟いた。
「ならば、納めた銀も報われる」
その声は周囲の人々の心を静かに打った。
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夜、榎本は会所の灯火の下で陸奥と向かい合っていた。机の上には、住民からの要望をまとめた帳面が広げられている。
「子どもの学び舎を増やせ」
「病人を隔離できる小屋を建てよ」
榎本は帳面を閉じ、深く息を吐いた。
「十五パーセントの枠……重いが、確かな責任だな」
陸奥は頷き、言葉を返した。
「ですが、この責任を担うことでこそ、統治は根を張ります。数字が人の信を繋ぐのです」
榎本は窓の外を見た。暗い夜空に、日章旗が月明かりを受けて揺れていた。
「旗だけでは国は成り立たぬ。数字がそれを支える……。これでようやく、台湾は本当に日本の一部となった」
台南の鎮撫府会所。その広間には、夕刻の柔らかな光が格子窓から差し込み、帳簿を広げた机を朱に染めていた。扇風機も氷室もない蒸し暑さの中で、役人や主計官たちは背筋を正し、墨の匂いと汗の混じる空気に耐えながら一心に数字と向き合っていた。
「遠征特会決算、最終報告を申し上げます」
若い主計官が立ち上がり、緊張で声を震わせながらも、一枚の巻紙を掲げた。
「総計四十八万六千両、外貨七万九千ドル。……当初の予算枠五十万両/八万ドル以内に完全に収まりました」
その瞬間、場内に静かなどよめきが走った。長月の湿気を忘れさせるほどの衝撃だった。
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榎本武揚は深く腕を組み、目を閉じた。
「……予算内か。わずかに残し、無駄を出さず」
隣席の陸奥宗光がにやりと笑い、筆を走らせた。
「前例のないことですな。これまでの戦争や遠征といえば、必ず数万両単位での超過がつきもの。だが、この決算には赤がない」
陸奥の言葉に、年配の主計監督が震える声で続けた。
「一銭、一分まで帳簿に残っております。これほどの正確さ、幕府にも、清朝にも例はありません」
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報告はさらに続いた。
「物資調達費、二十万六千両。内訳は米・塩・酒・医薬。全て相場で買い上げ、徴発による不満はゼロ」
「輸送費、八万両。船主には定額を支払い、臨時値上げは一切認めず」
「兵士給与、十二万両。全額銀で手渡し、遅配なし」
「工事費、七万両。港湾整備・通信線設置・倉庫建設。すべて契約書に基づき執行」
細かい数字が読み上げられるたびに、場内は感嘆と驚きに包まれた。
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榎本は机に拳を置き、低く呟いた。
「……これが“近代組織”というものだ。剣で戦うだけでは勝てぬ。数字を制してこそ、国を制する」
その声に、現地の郷長たちも顔を見合わせ、うなずき合った。通訳を介して伝えられた意味は単純だった――「約束した金を守る国は信用できる」。
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一方、東京の会計局でも同じ報告が電信で伝えられていた。藤村晴人は巻紙を読みながら、静かに扇を閉じた。
「四十八万六千両、七万九千ドル……。これほど精緻な決算を、誰が三年前に想像できただろう」
机の向かいで小栗忠順が頷いた。
「藤村様、これで台湾統治は“財政的に持続可能”であると証明されました。浪費なき統治は、列強との交渉においても強力な武器となりましょう」
藤村は深く頷き、目を細めた。
「数字は冷たく見えるが、人の汗と信頼が積もってこそ生きる。……この決算は、ただの簿記ではない。台湾統治の“証文”だ」
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再び台南。決算報告の最後に、主計官は声を強めて言った。
「無駄は一銭もございません。余剰は千四百両、外貨二百ドル。次月の備蓄へと回します!」
場内に拍手が広がった。兵士も役人も、現地商人も。誰もが同じ思いだった。――「この国は、約束を守る」。
榎本は立ち上がり、壇上に歩み出て言葉を発した。
「戦争をしてなお赤字を残さぬ。これこそ新しい日本の戦い方だ。……この道を続け、台湾を、そして日本を守る」
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夜。決算簿を閉じた榎本は、城の楼上に立ち、月に照らされた港を見下ろしていた。静かな海面に船影が揺れ、遠くで波が砕ける音が響く。
「四十八万六千両……その重みは数字以上だな」
副官が静かに言った。
「はい。浪費をせず、規律を守ることで、兵も住民も安心いたしました」
榎本は目を細め、遠い海の向こうを見つめた。
「数字で戦を終わらせた。我らは、次の時代を歩み始めたのだ」
台南の街角に、ひときわ人だかりの絶えない場所があった。白壁の庁舎の前に据えられた大きな布告板である。板には新しく貼られた紙が何枚も重なり、その最上段には大書された四文字が踊っていた――「台湾併合令」。
昼下がりの強い日差しに照らされて、紙はわずかに反り返り、墨の黒が白地に映えていた。集まった人々は庶民ばかりでなく、学者風の男や農民、商人、そして子どもたちまで混ざっていた。
「ほら、声に出して読んでみろ」
年配の父親が息子の肩を押し、布告板を指差した。
少年は小さな指で文字を追いながら、たどたどしい声をあげる。
「にっ……ぽん……がっ、こう」
それは布告文の中ほど、「日本式学校設立」の文言だった。集まった人々の間から、小さな笑いと温かい拍手が起こる。
「おお、子どもが日本の字を読むようになった」
「これからは学も国の力になるのだな」
父親は息子の頭を撫で、誇らしげに笑った。
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布告板の脇には、通訳兼教師の役人が常駐し、文字がわからぬ者に説明をしていた。
「ここに書かれているのは、税はすぐには増えないということ。むしろ教育と病院に力を入れるとある」
農民の女が眉を上げる。
「子どもが学べるのかい? 私らの代では文字は夢だったが」
役人は笑みを浮かべ、頷いた。
「はい。子どもたちに学び舎を建て、先生を置きます。読み書きと計算、それに衛生の知識を」
女の目に光が宿った。彼女は布告板を振り返り、声を震わせた。
「……ならば、納める銀も報われる」
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商人の一団も布告を覗き込んでいた。彼らの視線は「関税」の文字に釘付けになっていた。
「三年据置……か」
「ならば今の商売を続けられる。日本は筋を通すのだな」
通訳が加えた説明に、彼らは顔を見合わせて安堵した。
「税をいじらず、品質を整える。これなら輸出も安定する」
ある商人が小さく呟いた。
「清の時代は賄賂次第でどうにでも変わった。だが、ここには数字と約束がある」
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日が傾き始めるころ、子どもたちが布告板の前に群がった。墨で書かれた漢字を指差し、声を揃えて読み上げる。
「にっぽん」「びょういん」「すいせん」
その声は夕暮れの街に広がり、大人たちの心に静かな驚きを刻んだ。教育が確かに始まっていることを、誰もが実感した瞬間だった。
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その報はすぐに電信で東京へと送られた。江戸城の執務室で藤村晴人は紙片を読み、静かに笑みを浮かべた。
《布告板に集まる群衆、子どもが声に出して日本語を読む。住民から好評》
机の上にはすでに台湾併合の布告冊子が置かれていたが、この一文ほど彼を安心させるものはなかった。
「数字だけでは国は築けぬ。声を出して読む子どもの姿こそ、未来の礎だ」
その言葉に、傍らの小栗忠順も頷いた。
「藤村様、これで台湾は人の心から日本へとつながっていきますな」
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夜、台南の布告板の前。松明に照らされ、紙面は黄金色に輝いていた。子どもたちはまだ名残惜しそうに文字を追っている。母親が呼び戻し、子を抱き寄せる。
「もう遅いよ。だが明日も読みに来ような」
子は眠い目をこすりながらも、小さく頷いた。
その後ろ姿を見送った老人が呟いた。
「征服ではなく、教えで国を結ぶのだな……」
旗が夜風に揺れ、松明の火が影を作る。台湾の夜は、かつてないほど静かで、希望に満ちていた。
東京の藤村邸。夏の盛りも過ぎ、庭には赤々とした陽光と蝉時雨が降り注いでいた。義信と久信は並んで立ち、小さな手に大きすぎる日章旗を握っていた。
「たい……わん! おにい……ちゃん!」
義信がつっかえながら声を張る。
「がんば! がんば!」
久信も真似して旗を振り、同じ言葉を繰り返した。
幼い声は庭木を揺らす風に混じって空へ昇っていく。縁側に座る篤姫とお吉は目を細め、静かにその光景を見守っていた。
「まだ言葉も拙いのに……父上の働きを感じ取っているのでしょうね」
篤姫が扇を動かしながら呟く。
「ええ。旗を振る姿は、まるで誇りを知っているようです」
お吉が柔らかく答えた。
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その日の午後。藤村邸に台湾からの電信報が届いた。
《台南併合令布告後、住民安堵。子どもが布告板を声に出して読む姿あり》
紙を手にした藤村はしばし目を閉じた。庭からは、まだ義信と久信の声が響いている。二人の幼い声と、遠く台湾の街角で布告を読む子どもたちの声が、見えない糸で結ばれているように思えた。
「日本の未来は、この庭と、海の向こうで同じように育っている……」
その呟きに、篤姫は静かに頷き、子らの背中を見つめた。
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夕暮れ。空は茜に染まり、庭の影が長く伸びた。義信は旗を畳み、久信と並んで縁側に座った。小さな手の中の旗は、一日振り続けて汗を含み、しっとりと柔らかくなっている。
「おとーさま……たいわんのひと、いっしょに、ごはん?」
藤村は微笑み、頭を撫でて答えた。
「きっと食べている。米も塩も、皆で分け合ってな」
久信が目を輝かせる。
「じゃあ……あした、おにぎり、とどける!」
藤村は笑いを含んで首を振った。
「おにぎりは海を越えられぬ。だが、その気持ちは届く」
二人は顔を見合わせ、幼い声で笑った。その笑いは夏の風に混じり、蝉の声とともに茜空へ吸い込まれていった。
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その夜。藤村は書斎に戻り、灯火の下で台湾統治の帳簿を広げた。数字の列を追いながらも、耳には子どもたちの旗を振る声が響いていた。
「併合とは数字ではなく、人の心を結ぶこと……。東京と台湾、旗と旗、声と声。それが結ばれた時、初めて国となる」
余白に筆をとり、小さく書き付けた。
「――心の距離を縮めよ」
墨は夜風で速やかに乾き、淡い光沢を放った。書斎の窓の外では、虫の声が夏の終わりを告げていた。
夜の江戸。八月の空気はまだ湿り気を帯びていたが、藤村邸の書斎は静謐そのものだった。障子を通して差し込む月明かりと、机上に置かれた油灯の光とが重なり、帳簿と文書の影を鮮やかに浮かび上がらせていた。
机には二つの冊子が並んでいる。一つは「遠征特会決算帳」、もう一つは「台湾恒久財政枠布告録」。墨でびっしりと数字や条文が書かれているが、そこに記されているのは単なる金や銀の収支ではなかった。数字の裏には、兵士の汗、現地の人々の不安、子どもたちの笑顔――無数の生活と未来が重なっていた。
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藤村は深く息を吐き、筆を置いた。庭からは、義信と久信の幼い寝息がかすかに聞こえてくる。日中、小さな旗を振りながら「たい……わん!」と声を上げていた二人の姿が、まぶたの裏に蘇る。その声は、夕暮れの電信で届いた「台南の子どもが布告を声に出して読む」という報告と重なっていった。
――東京と台湾、旗と旗、声と声。遠く離れていても、心は一本の糸で結ばれている。
藤村は胸の奥に湧き上がる熱を抑えきれず、独り言のように呟いた。
「併合とは、支配ではない。数字ではなく、人と人を結ぶこと……。これを間違えてはならない」
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そのとき、書斎の戸を叩く音がした。小栗忠順が姿を見せ、帳簿を一冊抱えている。
「藤村様、今月の速報をお持ちしました。恒久財源、衛生・教育への初回配分が順調に進んでおります」
藤村は帳簿を受け取り、ざっと目を通す。墨の列は整然と並び、無駄な支出の跡はない。
「……見事だ。これならば、十年先にも耐えうる仕組みとなろう」
小栗は静かに頭を下げ、言葉を添えた。
「かつての幕府には、ここまでの規律はありませんでした。ですが今や、透明な会計と明確な方針が人心を動かしている。……この道は必ず、国を強くいたします」
藤村は深く頷き、しばし帳簿を撫でるように眺めた。
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再び一人になると、彼は机の引き出しから小さな紙片を取り出した。それは昼間に書き付けた短い言葉――
「心の距離を縮めよ」
その文字を見つめながら、藤村は未来を思った。台湾の街角で布告を読む子ども、江戸の庭で旗を振る子ども。その両方が、やがて一つの国の未来を支える人材となるだろう。
「旗を揺らす幼い手が、やがて国を揺るがす力になる」
藤村は窓を開け、夜風を吸い込んだ。夏の名残を含んだ風は湿っていたが、そこには確かな涼しさもあった。
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遠い南の海では、榎本や陸奥が汗を流しながら布告の運用を支えている。電信線は海底を走り、数日の遅れで台湾の声が東京へ届く。海を隔てた統治であっても、数字と声が結びつくことで「一つの国」としての形が整っていく。
「この九十日で、台湾は未知の島から日本の一部へと変わった。だが併合は終わりではない……始まりだ」
藤村は独りごちる。
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庭先で虫の声が始まり、季節の移ろいを告げていた。藤村は灯火を少し絞り、帳簿の余白に筆を走らせた。
「――海の工廠で軍事力を、陸の市政で統治力を。この両輪で次の十年を戦い抜く」
墨痕が乾き始めたころ、外の風はひときわ強くなり、庭木を揺らした。
藤村は窓辺に立ち、遠い南の空を見つめる。月明かりの下、想像の中で台南の街角が浮かび上がる。そこでは住民と兵が協力し、布告を守り、子どもが声をあげて文字を読む。
「日本の未来は、ここから始まる」
藤村の胸に、静かな決意が宿った。数字も剣も越えた、新しい国のかたち。その確信が、晩夏の夜風に溶け込んでいった。
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