159話: (1869年8月中旬/晩夏:D+75) 旗の林
台南の空は、夏の湿気をたっぷり含んだ鉛色の雲に覆われていた。蒸し暑さに汗をにじませながらも、人々は府庁大堂へと集まっていた。その日は、日本統治下で初めての「綬章授与式」が行われる日だった。
壇上に並ぶのは、これまで抵抗的だった地方の里正・郷長たち。彼らは不安げに互いを見やりながらも、正面に置かれた朱塗りの卓に目を注いでいた。そこには鮮やかな赤と金で織られた徽章が並んでいる。
榎本武揚総督が壇に立ち、低く響く声で告げた。
「この綬章は、日本と台南を結ぶ印だ。受け取ることで、諸君の村は日本と共に歩むと世に示すことになる」
場内は静まり返った。そのとき、別席から布告文が読み上げられた。江戸の藤村民政長官から送られたものだ。
「敵を作るより味方を得る方が得策――。面子を立て合い、協力してこそ未来が開ける。諸君の力が必要である」
電信文の短い一節であったが、通訳が慎重に言葉を伝えると、郷長たちの顔色がわずかに変わった。
最初に壇上に上がったのは南部の郷長だった。逡巡しながらも徽章を両手で受け取り、深く頭を下げた。
「……これで村の者たちに顔向けできます」
その一言が合図となり、次々と里正・郷長が壇に呼ばれ、胸に綬章を下げていく。外の広場では、住民たちが安堵の表情でその光景を見つめていた。
榎本は小声で側近に語った。
「剣ではなく、綬章一つで火を消せる……これが懐柔の力だ」
式典の終わりには、日章旗の横に里正旗・郷長旗が並んで掲げられた。台南の風に翻るその旗々は、まるで林のように大堂の前庭を覆った。
その林は分裂ではなく、統合の象徴であった。人々は旗を見上げながら、面子を保ちつつ新しい秩序に加わる未来を感じ取っていた。
八月半ば、台南の空は白く霞んでいた。熱気を含んだ海風が城壁を撫で、港からは波と潮の匂いが強く漂ってくる。その日、台南府庁前の広場には、兵士や役人、技師、そして多くの町人たちが集まっていた。彼らの視線は、中央に立てられた木柱と、その先に繋がる細い銅線へと注がれている。
「……あれが日本と本土を結ぶ命の糸か」
人混みの中から、誰かが呟いた。
柱の根元には、汗にまみれた技師たちが座り込み、最後の調整に没頭していた。手には絶えず油と墨の跡がつき、衣の袖は海水で湿っていた。数週間にわたる工事の末、ようやく長崎との仮接続が完成し、この日が初めての試験送信となる。
壇上に立った榎本武揚総督は、軍服の襟を正して深く息を吸い込んだ。
「これより、台南と長崎を結ぶ電信の試験を行う」
通訳が現地語に訳すと、広場にざわめきが走った。多くの住民にとって、電信はまったく未知の存在だった。電気の線が海を越え、瞬時に言葉を運ぶ――その仕組みを理解できなくとも、彼らは日本人の真剣な表情にただ圧倒されていた。
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広場の一角、仮設の通信室に置かれた電信機の前に、若い通信兵が座っていた。手元のモールスキーに指を置くと、緊張でわずかに震えていた。背後には榎本と芹沢鴨が並び、じっと彼を見守っている。
「落ち着け。お前の一打が、海を渡る」
芹沢が低く励ますと、兵は深く頷いた。
榎本が頷きを返し、口を開いた。
「送れ――『台南発、試験送信』」
カチリ、カチリと短い音が室内に響いた。瞬間、周囲の空気が張り詰める。兵士も役人も、居合わせた商人も、みな息を呑んで指の動きを見つめていた。
数秒後、返答の音が響いた。点と線の組み合わせが紙帯に刻まれ、それを受信兵が読み上げる。
「……長崎受信。文字明瞭。台南に挨拶を送る」
広場がどよめきに包まれた。拍手が次第に大きな歓声に変わり、人々は互いに抱き合って喜んだ。現地の住民たちも不安げに首をかしげていたのが、通訳の「日本と台南は繋がった!」という叫びで一斉に笑顔に変わった。
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榎本はゆっくりと壇から降り、通信機の前に立った。
「諸君、これで台湾と日本は、ひとつの声で語り合える」
彼の言葉は力強かった。すぐそばで記録を取っていた永倉新八が、感嘆の吐息を洩らした。
「これまで船で数週間かかった便りが、一瞬で届く……まるで夢のようだな」
原田左之助が頷き、冗談めかして言う。
「これで江戸の上役も、俺たちの怠けっぷりをすぐ知っちまうってわけだ」
周囲に小さな笑いが生まれ、緊張が和らいだ。
榎本も微笑を浮かべた。
「怠ける暇などないさ。これからは電信の速さに合わせ、我らの政治も軍務も一瞬で動かねばならぬ」
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一方、江戸城では同じ時刻、勘定所の片隅に設けられた新設の電信室に人々が集まっていた。
「……来るか」
藤村が扇を手に、机の上の紙帯を見守っていた。
カチリ、カチリと点と線が刻まれ、受信官が声を張り上げる。
「長崎経由――台南より試験送信成功!」
部屋の中に歓声が湧き起こった。藤村は目を細め、静かに頷いた。
「これで、海を隔てても一日と遅れぬ政ができる」
傍らにいた陸奥宗光が、軽く口元を緩める。
「これで外交の足取りも変わりますな。欧州諸国と同じく、遠隔統治が可能になる」
藤村は短く答えた。
「電信は剣より速い。だが、その速さに心が追いつかねばならぬ」
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台南の広場では、続けて暗号運用の説明が行われていた。士官が手にした小冊子を掲げ、兵士や役人に語りかける。
「これは暗号表だ。たとえ敵に線を奪われても、内容は漏れぬ。点と線を組み替え、我らだけの言葉にする」
群衆の中で、現地の若い書記が小さく感嘆の声を上げた。
「まるで秘密の呪文だな……」
榎本はその声に気づき、あえて彼に歩み寄った。
「そうだ。だが呪文ではない。これは信頼の鎖だ。日本と台湾、離れていても同じ約束を守れる証なのだ」
その言葉に、群衆の中から小さな拍手が起こり、それが次第に広がっていった。
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夕刻、広場に提灯が灯された。人々はまだ熱気に浮かされ、電信の音を思い返していた。榎本は高台に立ち、暮れゆく空を眺めながら呟いた。
「この一本の線が、戦を減らすかもしれぬ。速やかに伝わる言葉は、無用の誤解を防ぐ」
芹沢鴨が隣に立ち、短く笑った。
「だが同時に、速やかに命令も届く。俺たちの剣の重さも増すだろう」
榎本はうなずいた。
「だからこそ、剣と共に言葉を磨かねばならぬ。これが近代の戦だ」
潮の香りを含んだ夜風が、銅線を揺らした。その振動は、まるで未来そのものが震えているかのようだった。
南国の陽は容赦なく照りつけ、港の石畳は焼けるように熱かった。基隆港の一角、仮設された木造の会所には、各地から集まった商人たちの熱気が渦巻いていた。彼らの視線の先には、大きな布に描かれた地図――台湾を中心に、マニラ、厦門、そして上海までを結ぶ航路図である。その線の上に、赤い墨でさらに細い線が引かれていた。
「これは、電信線の予定経路である」
榎本武揚総督が低い声で説明した。
ざわめきが起こった。商人たちは互いに顔を見合わせ、信じられないものを見るような目をした。海の向こう、数百里離れた都市と、この基隆で、同じ日のうちに相場を確認できる――そんな夢物語の実現を告げられていたのだ。
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会所の中央には、電信技師の石盤模型が置かれていた。白い板に釘のような小さなピンが立ち、そこに細い糸が渡されている。マニラから厦門、厦門から基隆へと、糸はたしかに繋がっていた。
「朝、マニラで砂糖の値がいくらかと打てば、夕刻にはここ基隆で知ることができる」
技師の説明に、場内は大きなどよめきに包まれた。
「これまで……船で報せが届くまで二十日、三十日はかかっておったのに……」
ひげをたくわえた老舗商人が、震える声で言った。
「二十日の遅れが、一瞬に縮まるのか」
榎本は静かにうなずいた。
「その通りだ。相場の遅れで損をすることも、情報不足で騙されることもなくなる」
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前列に座っていた岩崎弥太郎が、ぐっと身を乗り出した。
「諸君、商売とは何か――それは情報だ。品物の値も、人の心も、すべて情報で決まる」
その声は会場を震わせるほどの迫力を帯びていた。
「朝の相場を夕刻に知ることができれば、我らは上海の商人と互角に渡り合える。いや、彼らより先に動くことすら可能だ!」
言葉に応じるように、商人たちの目に次第に輝きが戻っていった。最初は半信半疑であった彼らも、岩崎の熱を帯びた説得と榎本の冷静な説明に引き込まれていく。
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一人の福建系の若い商人が立ち上がった。
「だが……電信は金がかかると聞く。これまでのように手紙なら、ただ船賃だけで済む」
榎本が応じるより早く、陸奥宗光が口を開いた。
「確かに一通の電信は金がかかる。だが考えてみよ。情報が二十日早ければ、それで救われる金がいくらあるか。損失を避けることこそ、最大の利益だ」
その理路整然とした言葉に、会場は静まり返った。若い商人はうなずきながら腰を下ろし、代わりに別の男が声を上げた。
「確かに……去年の砂糖暴落も、知らせが早ければ、あれほどの損はせずに済んだ」
頷く者が増え、ざわめきが熱に変わっていく。
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その後、技師が実際の電信機を持ち込み、短い送信実演を行った。カチリカチリと鳴る音に合わせて紙帯に刻まれた点と線が、通訳の口から「砂糖一斤三銭五厘」と読み上げられると、商人たちは一斉に息を呑んだ。
「本当に……一瞬で伝わるのか」
「魔法のようだ……」
ざわめきは次第に歓声に変わり、やがて拍手が広間に響き渡った。
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会議が終わった後、榎本は岩崎と並んで港へ歩いた。海は夕日に染まり、沖合いに停泊する船の帆が赤く輝いていた。
「弥太郎殿、商人たちの反応はどう見えた」
「最初は疑い、次に驚き、最後には欲を燃やした……悪くない流れです」
岩崎は口元に笑みを浮かべた。
「情報が早ければ、商機は広がる。遅ければ奪われる。それを彼らもようやく理解したのでしょう」
榎本は頷き、遠く霞む水平線を見やった。
「電信の線は、ただの金属ではない。国と国を結ぶ“見えぬ道”だ。我らは今、その道を拓いている」
港の風は潮の香りを運び、やがて夜の帳が降りてきた。灯台に火が入り、船の影が黒く揺れる。その中で二人の視線は揺るがなかった。
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一方、東京の藤村のもとには、可行性調査の報が早馬と電信で同時に届いていた。机の上に広げられた報告書には、赤い印で「実現可能」と記されている。藤村は扇を静かに閉じ、深く息を吐いた。
「朝の相場を夕刻に知る……これこそ文明の利器だ。商人にとっては剣より強い」
彼の声は低かったが、そこには確かな自信があった。情報の速さが富を呼び、富が国を支える。その循環がいま、確実に形になろうとしていた。
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夜の基隆港。技師たちはまだ線の確認作業を続けていた。灯火の下、細い銅線が海へと伸びていく様子は、まるで未来を照らす光の道のように見えた。
その横で、岩崎がふと呟いた。
「情報は金より重い。……だが、だからこそ扱い方を誤れば国を滅ぼす」
榎本はその言葉に黙ってうなずいた。
「我らはその重みを背負わねばならぬ。電信は国の背骨となる」
遠くで波が砕け、潮の匂いが濃く漂った。夜空には幾つもの星が輝き、その間を走る見えない線が、すでに台湾と世界を結んでいるかのようだった。
台南の空は、夏の陽射しに焼かれて白く霞んでいた。石畳は熱を孕み、歩けば靴の底からじりじりと焦げるような感覚が伝わってくる。そんな盛夏の昼下がり、鎮撫府会所の一室では、蝉時雨の声も届かぬほど張りつめた空気が漂っていた。机上には、墨でぎっしりと数字が記された帳簿と算木が並び、数人の主計官が真剣な眼差しで紙面を追っていた。
「本日の集計……統治費用、五千両と二千ドル相当。これにて今月分の予算、確定であります」
若い主計官が読み上げると、室内にざわめきが広がった。これほどの成果は、誰も予想していなかったのだ。
「僅か五千両……しかも港湾整備、通信網、治安維持、名誉職設置まで全てを含んで、だと?」
年長の会計監督官が声を震わせる。
「前例がない……これまでの遠征統治は、いずれも浪費の連続であったのに」
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榎本武揚総督は黙って報告を聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「数字は嘘をつかん。これは兵も役人も、皆が“倹約”を理解した証だ」
その言葉に、部屋にいた誰もが深く頷いた。かつての戦は、勝ったとしても財政を食い潰すものだった。だが、この台湾統治は違う。透明な帳簿と明確な支出、そして現地住民の協力。すべてが合わさり、最少の費用で最大の効果を生んでいた。
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午後、藤村からの電信が届いた。
《江戸も数値を確認。極少の費用にて成果顕著。今後も緊縮と効率を徹底せよ》
読み上げられたその短文に、室内の緊張がさらに引き締まる。
「東京も我らの歩みを注視している……」
ある官僚が小さく呟き、背筋を伸ばした。
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夕刻、鎮撫府の広間では、役人と現地の郷長たちが顔を揃えていた。机の上には、今日までの収支が記された大きな掲示板が置かれ、誰でも見られるように公開されている。
「見よ、この数字を」
書記官が指し示す。
「収入と支出が明確に記されておる。余計な取り立ても、隠された費用もない。すべてがここにある」
郷長の一人が唸るように言った。
「清朝の頃は、上に収めた銀がどこに消えるのかわからなかった。だが、これならば安心できる」
別の郷長も頷き、言葉を継いだ。
「我らの面子を立て、数字を隠さぬ。これならば民にも“従え”と言える」
その声に、榎本は深く頷いた。
「透明こそが、最大の武器である」
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その夜、主計官たちは灯火の下で最後の数字合わせをしていた。細かく記された項目の一つひとつは、ただの墨字に過ぎない。だがその裏には、人々の汗と労苦が隠れていた。
「米の配給……二千石」
「港手形発行……千枚」
「電信技師への報酬……四百両」
ひとつひとつの声が静かに積み重ねられる。数字は冷たいが、その響きには確かな温度があった。
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榎本は帳簿を閉じ、窓の外を見やった。台南の夜風は湿っていたが、どこか心地よい涼しさを含んでいた。街の灯が整然と並び、治安が保たれていることを示していた。
「費用を抑え、効果を上げる。……容易いことではない。だが、これこそが近代統治だ」
彼の独白に、傍らにいた副官が応えた。
「住民の協力も、数字に現れております。彼らも日本のやり方を認め始めたのでしょう」
榎本は静かに頷き、夜空を見上げた。
「旗だけでなく、数字もまた国の象徴となる……」
夜空には無数の星が瞬き、その下で台湾の統治は、かつてないほどの効率と透明さをもって進んでいた。
台南の夏は、日が落ちてもなお熱気を孕んでいた。だが、その夕暮れの空は、不思議なほど清らかに澄み渡っていた。高台に立つ台南城の楼上からは、広場に集まった人々の姿が一望できた。そこには、色とりどりの旗が林のように立ち並んでいた。日章旗を筆頭に、各地の里正・郷長に授与された旗が風に揺れ、夏の空気を切り裂いてはためいている。
「まるで森のようだな……」
榎本武揚が、城壁に手を置きながら呟いた。
彼の隣に立つ副官も、感慨深げに答える。
「はい。反発していた郷長たちも、旗を受けて面子を保ち、それでいて日本に協力している。実に見事な策でございます」
榎本は静かに頷き、目を細めた。旗の一本一本は、それぞれが異なる土地の色を持っている。だが、それらが並んで風に揺れるさまは、まるで一つの林のように統合されていた。
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広場では式典が続いていた。壇上に立つ書記官が、里正・郷長の名を呼び上げるたびに、人々の視線が注がれる。名を呼ばれた者が壇上に上がり、旗を授かり、深く頭を下げる。その瞬間、かつて反抗を示した彼らの表情に、僅かではあるが誇らしさが浮かんだ。
「郷長の顔が立つ。だから村も従うのだ」
傍らの通訳が呟いた。
現地住民の一人が、群衆の中で隣の男に話しかける。
「清の官が我らを顧みたことはなかった。だが日本は旗を与え、名を呼ぶ。これなら従う甲斐もある」
隣の男は頷き、旗を見上げながら答えた。
「面子を守り、民の暮らしを整える。……それができるなら、新しい主も悪くはない」
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そのころ、城内の作戦室では別の光景があった。暗号電信機が小さな音を立て、紙帯に黒い点と線を刻んでいる。
「長崎経由――“台湾統治、順調”」
報告を読み上げた電信兵に、榎本は小さく笑みを返した。東京からの承認を得たことで、彼の胸に溜まっていた重石が少し外れたようだった。
「本土も、この旗の林を見ているようなものだな」
榎本は広場を見下ろしながら呟いた。旗はただの布切れではない。それは住民の誇りであり、面子であり、そして協力の証だった。
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夕日が傾き、城下の瓦屋根を朱に染める。その下で、子どもたちが旗の影を追って走り回っていた。母親が声を上げ、子を呼び寄せるが、その笑い声はどこか安心に満ちていた。かつて不安と恐怖が支配していた街に、今は日常が戻りつつあった。
「旗が立てば、人の心も立つ。……恐怖よりも、誇りで人は動くのだ」
榎本は心の中でそう確かめた。
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夜になると、広場の旗は風に揺れ、松明の炎に照らされて黄金色に輝いた。日章旗の赤が夜の闇に浮かび、周囲の旗と共にひとつの大きな象徴となる。
副官がそっと榎本に告げる。
「これほどの旗が並び立つのは、台湾の歴史でも初めてのことでしょう」
榎本は目を閉じて答えた。
「この旗の林は分裂ではない。多様性を保ちながら、一つの方向に進む象徴だ。――それが、我らの目指す統治である」
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翌朝。城門の外に集まった住民の間では、昨夜の光景が話題となっていた。
「旗が並んだ。あれは我らがこの地の主人である証だ」
「いや、違う。旗を与えたのは日本だ。だが、それを掲げるのは我ら自身だ」
議論は尽きなかったが、その声に怒りや憎しみはなかった。代わりに芽生えていたのは、新しい秩序を受け入れようとする静かな合意であった。
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台南城の楼上に再び立った榎本は、夜風を受けてはためく旗を見下ろした。その姿は林のように豊かで、一本一本が異なる枝を伸ばしながらも、根を同じ大地に下ろしているかのようだった。
「旗の林……これが我らの築いた統合の証だ」
その呟きは、蝉の声とともに夏の空に吸い込まれていった。
盛夏の東京は、蝉の声とともに朝から熱気が街を包んでいた。だが江戸から改称されてまだ間もない「東京」という響きには、すでに新しい首都としての威厳と躍動が漂っていた。城下の往来を見渡せば、人力車や荷車が絶えず行き交い、町人たちの声はどこか浮き立っていた。
藤村邸の書斎は、障子を半ば開け放ち、夏の風を取り込んでいた。机上には報告電信の束が積まれ、黒いインクで書き付けられた点と線が白い紙面を覆っていた。側に置かれた帳簿には「台湾統治進捗」と記され、各月の費用や収入、住民数の変動がきっちりと記録されている。
藤村は背筋を伸ばしてその報告を読み、やがて深く息を吐いた。
「……旗が林のように並んだ、か」
報告電信に添えられていた榎本武揚の言葉を目で追いながら、藤村はしばし黙考した。彼の眼前には広場に林立する旗の姿が鮮やかに浮かぶ。それはただの軍事的勝利でも経済的成果でもない。人の誇りを重んじることで、統治が「支配」から「協調」へと変わっていく、その象徴だった。
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午後、勘定所からの使いが来た。真新しい帳簿を差し出し、報告を始める。
「統治費用、七月分は五千両……過去最少でございます。それでいて、旗の授与、電信仮線の開通、各地里正の懐柔まで成果は多岐にわたっております」
藤村は帳簿を手に取り、指で数字をなぞった。墨の黒は確かに小さく、それが意味するところは大きかった。
「少ない費用で大きな成果……。まさしく“政治の技術”だ」
そう言うと、使いの若い書記官が感極まったように頭を下げた。
「総裁様、これほどの成果を示せれば、我らも誇りを持って働けます」
藤村は柔らかく頷き、言葉を返した。
「数字はただの墨ではない。その裏には民の暮らしと、兵の汗と、役人の知恵が宿っているのだ」
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夕暮れになると、庭の縁側に腰を下ろした。風鈴が涼やかに鳴り、庭の草むらでは虫の声が早くも響いている。そこへ小姓が走り寄り、電信紙を差し出した。
「総裁様、台湾から新たな報が――」
藤村は受け取り、目を通した。そこには「現地住民、統治に協力的。里正旗を自ら掲げ、治安維持に参加」と書かれていた。さらに「本土との通信安定。台湾統治順調」とも。
読み終えた藤村の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「旗は林となり、民は秩序を受け入れた……。よし」
彼はゆっくりと立ち上がり、庭先の空を見上げた。東京の空もまた、夕陽を浴びて朱に染まっていた。
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夜。書斎に戻った藤村は、机上の地図を広げた。台湾の地図の上には、基隆・台南・打狗を結ぶ赤い線、さらに長崎へ、上海へと伸びる電信網が描き込まれている。その線はまだ仮初めではあるが、確実に一つの体系を築きつつあった。
彼はその線を指でなぞりながら呟いた。
「旗は人心を繋ぎ、電信は国を繋ぐ。これでようやく、台湾は日本の中に組み込まれていく」
蝋燭の灯が揺れ、影が地図の上で波のように揺らめいた。その影の中に、藤村は十年先、二十年先の未来を見ていた。
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庭からは、子どもたちの笑い声が聞こえてきた。久信が「いち、に、さん!」と数を数えながら駆け回り、侍女たちがそれを見守っている。教育と統治、両輪は着実に回り始めていた。
藤村は書斎の窓からその声に耳を澄まし、深く息を吸った。
「江戸から東京へ。……そして、台湾へ。旗が林のように立つならば、この国もまた林のように多様で強くなれるはずだ」
その声は小さな呟きに過ぎなかったが、彼の胸には確かな実感が宿っていた。
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真夜中。机の上の電信機が小さな音を立てた。点と線が紙に刻まれていく。
「台南より報告――住民協力度上昇。抵抗ほぼ沈静化。……旗の林は秩序の象徴」
藤村はその文字を見つめ、筆を取り、余白に一行書き加えた。
「旗は林となり、林は森となる。――その森こそが、未来の国家だ」
墨が乾くのを待ちながら、彼はゆっくりと椅子に身を沈めた。夏の夜風が障子を揺らし、外からは蝉の声が響いていた。東京の夜は静かでありながら、確かな未来への胎動を秘めていた。