18話:藩主の前で
一面に敷かれた白砂が、朝の光に照らされ、粒一つひとつが金粉のように輝いていた。水戸城本丸の奥——ここは、徳川斉昭が政務を私的に裁くために使う、謁見の間。その気配は静謐でありながら、武家の緊張感を孕んでいる。
厳かな沈黙の中、畳の上に足音が一つ、また一つと重なる。
「入れ」
低く、よく通る声。内側から告げられたその一言に、晴人は襖の前で深く一礼し、両手で静かに引き戸を開けた。
畳に差す斜光。その中に三人の影があった。中央には、鋭い眼光を湛えた中年の男——水戸藩主・徳川斉昭。その左に藤田東湖が控え、右にはなぜか、あの土方歳三が立っている。
晴人は息を呑んだ。だが、視線は逸らさない。場違いな若者である自覚はある。それでも、この町を、藩を良くしたいという思いだけは、誰にも負けない。
「百姓の子にございます。藤村晴人と申します。畏れ多くも、町の再建を任されております」
顔を上げると、斉昭の眼がわずかに細くなった。意外な人物に興味を持った時の表情だ。
「ほう……その歳で町を再建と申すか。誰の命を受けた」
「藤田東湖先生と、町の民の声でございます。私自身は未熟。しかし、泥をかぶる覚悟ならあります。町の命を守りたい、その一心で動いております」
その返答に、斉昭は目を細めた。武士の言葉ではない。しかし、むしろだからこそ心に刺さる何かがあったのかもしれない。
「ふん……言うな。目に出ておるわ」
静かに微笑んだその瞬間、室内の空気が少しだけ緩んだ気がした。
「聞こう。何を提案するつもりだ」
晴人は背筋を正し、準備してきた案を口にする。
「倹約・救民・防災。この三つの柱をもって、町を再建し、未来の災いに備えたいと存じます」
東湖が目を伏せ、静かに頷いた。
「倹約とは、どのようなことを想定している?」
斉昭の問いに、晴人は即答した。
「藩の不要な出費の見直しに加え、民から徴収する米や銭に上限を設けることです。取るばかりでは民は育ちません。長期的に見れば、蓄えを許す方が藩にとって得策かと」
「ふむ。して、救民とは?」
「飢えや病を防ぐため、炊き出しや仮設住居の整備を進めております。職のない者には仕事を与え、共に町を支えてもらっています」
「防災は?」
「水路の再建です。先の水害で町の一部が浸水したのは、排水機構が途絶えていたから。石管や排水路を掘り直し、再利用することで、費用を抑えつつ機能を取り戻しております」
斉昭は沈黙した。沈思黙考——その間に、彼の目は何度も晴人の表情を読み取ろうとしていた。
「まるで……この地を知り尽くした者のように話すな」
「私が知っているのは、人の苦しむ姿だけです。ですが、それは学問や役職よりも、確かな“実感”をもっております」
その一言に、東湖が口を開いた。
「殿、彼は口先ではございません。己の手で鍬を振い、薪を運び、膳を並べて民と食を分かち合う者です」
晴人が目を伏せると、土方歳三がふと、独り言のように呟いた。
「見たか……あれが信念ってやつだな」
その声に、斉昭の口元が緩んだ。
「信念か……ならば、その身で示してみせよ。藤村晴人。貴様の町造りが、この水戸の未来にどれだけの価値をもたらすか、我が目で見極めてやろう」
「はい。この命、町のために惜しみません」
晴人の深い一礼に、室内の空気が静かに、しかし確かに、動いた。
城下の広間にて、藤村晴人は徳川斉昭の前に静かに立っていた。身じろぎ一つせず、凛とした姿勢を保ちながら、斉昭の言葉を待っていた。
「三つの柱、倹約・救民・防災……言葉としては美しい。だが、現実にそれを成し遂げるとなれば、金と人と時間が要る。お前はそのいずれも持たぬ身で、どうやって成し遂げるつもりだ?」
斉昭の声には厳しさがあったが、否定ではなかった。試すような視線の奥に、わずかに興味が覗いていた。
「現に、町ではすでに水路の再建が進んでおります。地元の古図と地形を照らし合わせ、使えるものを拾い上げました。多くの者が協力してくれています」
晴人が差し出した紙には、仮設の排水路と給水路の配置が丁寧に描かれていた。裏面には、人数、使用資材、工数、そして一食あたりの炊き出し量までが記されている。
「……金をかけず、知恵と人手で成したというわけか」
斉昭は紙をじっと見つめ、鼻を鳴らした。
「ふん。悪くはない。だが、町ひとつ動かす程度で満足されては困る。国を背負うとなれば、米一俵の値と、民の腹の数を同時に読めねばならん」
「ですからこそ、倹約と備蓄を基にした新たな流通管理が必要です」
晴人の声には迷いがなかった。
「米の買い付け時期を絞り、藩直轄で一部を管理します。余剰分は倉庫に回し、急な飢饉や水害に備える。炊き出しもその備えの一環として運用しています」
「言うは易し、だ」
斉昭が目を細めた。だが、その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「ならば、試してみよ。三か月の猶予を与える。その間に、この町を“災いに強い町”へと近づけてみせよ」
その言葉に、晴人は深く頭を下げた。
「御意にございます」
斉昭が立ち上がると、部屋の空気が一変する。付き従っていた東湖が、斉昭の背後から一歩だけ前に出る。
「晴人は、まだ半人前です。しかし、目に見えるものではなく、“いない者の声”に耳を傾けて動ける男です。それを器と呼ばずして、何を器と呼びましょう」
東湖の言葉は、決して情に流されるものではなかった。事実を淡々と述べるようでいて、その芯には晴人への信頼が宿っていた。
斉昭はその背を向けかけて、ふと振り返った。
「……士道に励め。愚者には見えぬ景色を見てこそ、道が拓ける」
そう言い残し、斉昭は退出した。
その夜、町に戻った晴人のもとに、道場から使いの者が駆け込んできた。
「晴人様! あの土方様が、町の見回りに同行したいと……」
「えっ、あの……土方さんが?」
「はい。“現場を見たい”と仰っています。今夜、町の西側を歩かれると……」
晴人は頷いた。
町の西側。かつて火事で多くを失い、未だに仮設住居が多く並ぶ一帯だった。
夜半、晴人が提灯を携え、その地区を歩くと、すでに土方歳三の姿があった。無言で路地を見渡し、崩れかけた井戸や、小屋の隙間にまで目を配っていた。
「こんな町にまで足を運んでいただけるとは……」
晴人が口を開くと、土方は顔を上げた。
「目の届く範囲だけ整えて、“良い町”って言われるのは嫌いでね」
その言葉に、晴人は深く共感した。
「俺も、見えない所こそ変えたいと思っています」
「なら、やれるか試してみろ」
土方の瞳には、冷静ながらも熱が宿っていた。
「“信念”ってやつを、な」
夜の町に、冷えた風が吹き抜けていた。焼け跡の残る西側の通りは、かつて人々の暮らしで賑わっていたはずだが、今は崩れた塀と煤けた柱が並び、寂しげな影を落としている。
「……あまりに静かだ」
土方歳三が、提灯をかざしながら呟いた。
「この辺りは特に被害がひどくて、家を失った人も多いんです」
晴人もまた、歩を緩めて焼けた井戸の跡に目をやった。木桶の輪が炭のように黒く崩れており、かつてこの場所で誰かが汲み水をしていた姿が、まるで幻のように脳裏に浮かぶ。
「それでも、人は戻ってきている」
土方が足を止め、暗がりの中に灯る一つの明かりを指さした。
掘っ建て小屋のような仮設の住まい。その前で、年老いた男がゆっくりと薪を割っている。すぐ隣では、少女が鍋の蓋を押さえながら、湯気に顔をしかめていた。
「彼らは、戻ってきたというより……ここを離れられなかっただけです」
晴人は、小屋の隅に置かれた古びた布団と、傍らに寄り添って寝ている小さな犬に目を留めた。
「それでも、生きてる」
土方の声は、低く、しかしどこか希望を含んでいた。
「人が生きる場所を守る。それが“治める”ということなら、お前の仕事も、俺の剣も、根っこは同じだ」
晴人は小さく頷き、風に揺れる髪を押さえた。
「……それでも、簡単ではありません。復興も防災も、すべてが時間との勝負です。藩主様は三か月という期限をくださいましたが、それまでに何ができるのか……」
「お前は“できるかできないか”で物を考えるのか?」
唐突に土方が問いを投げた。
「それとも、“やるかやらないか”で考えるのか?」
晴人は目を見開いた。土方の瞳は、まるで闇夜の奥に光を見出そうとするかのように、まっすぐこちらを射抜いている。
「俺は……」
答えを探す間もなく、遠くで軋む音がした。細い通りの向こう、瓦礫の影から、小さな足音が駆けてきた。
「――あっ、お兄さんだ!」
声を上げたのは、まだ十歳にも満たないと思しき男の子だった。粗末な綿入れを羽織り、手には折れた竹刀を握っている。
「こないだ水を運んでくれたお兄さんでしょ? ありがと!」
満面の笑みを浮かべて、少年が跳ねるように駆け寄ってくる。
晴人は一瞬、言葉を失った。その笑顔が、あまりにまぶしくて。
「……どういたしまして。遅くまで、ひとりで大丈夫かい?」
「大丈夫! 父ちゃんの代わりに、火の見回りやってるんだ!」
「見回り?」
晴人と土方が顔を見合わせると、少年は胸を張った。
「火事、もうイヤだから! ちゃんと見張らないと、って……父ちゃんも言ってた!」
その言葉に、晴人の胸が締めつけられる。
「そうか……偉いな」
「お兄さんたちも、がんばって!」
少年は手を振って、通りの奥へと駆けていった。晴人はその背を、しばらく見つめていた。
「……信念、ってやつがあるなら、今のがそうだな」
土方が、ぼそりと呟く。
「俺の剣は、まだ何も守れてない。でも……お前は、もう誰かの希望になってる。自覚しろ」
晴人は、返す言葉が見つからなかった。
夜の町はまだ傷だらけだ。それでも、そこには人がいて、火を灯し、声をあげていた。
そのひとつひとつを、護りたいと思った。
「三か月で……やってみせます。どこまでできるかは分かりませんが、やると決めました」
風が吹き抜け、仮設の家々の間を通っていく。
その音は、かすかな応援のように、晴人の背中を押していた。
夕暮れの空に、かすかに朱が差し始めたころ、晴人は控えの間から外へと出た。白砂の庭に足を踏み出すと、途端に張りつめていた肩の力が抜けていくのを感じた。
……終わった。いや、始まった、か。
背後から、静かな足音が近づいてきた。振り向けば、藤田東湖が手を後ろに組んで佇んでいる。
「晴人。よい面持ちだな。……まるで、武士のようだ」
その一言に、晴人は思わず笑った。
「自分は、武士ではありません。……ただ、町に生きる一人の人間です」
東湖の目が細められる。
「それでよい。むしろ、それでなければならぬ。——我々が忘れかけていた“民のため”という言葉。その本義を、君が思い出させてくれた」
二人はしばらく、静かに庭の風を感じていた。
「倹約、救民、防災。どれも、藩の存続に不可欠だ。だが……それを説く者が、土を掘り、汗をかくとはな」
「自分には、それしかできませんでした」
「だからこそ、斉昭公は耳を傾けたのだろう。……言葉は力を持たぬ。だが、行いが伴えば、時に剣以上の重みを持つ」
そのとき、遠くから馬蹄の音が聞こえた。
ふと顔を上げると、馬上の男がひとりこちらに向かってくる。装束は質素ながら、背筋は真っ直ぐ伸び、気品が漂っていた。
「……あれは?」
「村田蔵六だ。君の提案に刺激を受けたと聞いて、戻ってきたそうだよ。藩医の制度改革に携わる意向らしい」
晴人は思わず目を見開いた。確かに彼は長州に戻ったはずだった。
村田は馬から降りると、晴人の前で軽く頭を下げた。
「藩主に進言したそうだな。……君の話を聞いて、どうしても見過ごせなくなった」
「ありがとうございます。でも、もう戻られたのでは?」
「……まだ、志半ばだ。君のような若者が動いている。ならば、年長の我々も、黙ってはおれん」
その背に、強い決意があった。晴人は、深く礼をした。
その夜。
町では焚き火が灯され、人々がそれを囲んでいた。
晴人のもとには、政次郎や登勢、そして道場から戻ったばかりの土方と近藤の姿もあった。
「謁見、緊張しただろう?」近藤が酒を片手に笑う。
「はい。心臓が喉まで出るかと思いました」
皆が笑う。
だがその輪の中に、確かな一体感があった。
土方が一言、ぽつりと呟く。
「……見たか、あれが“信念”ってやつだ」
晴人は、皆の顔を見回した。東湖、村田、政次郎、近藤、土方、登勢——。
支えられてきたのは、間違いなくこの人たちの温かさだった。
だからこそ、もう一度心に誓う。
自分の歩むこの道は、決して独りではない。皆の想いを背負って進む、未来への道なのだと——。