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157話 (1869年7月/盛夏:D+45〜60) 潮と疫と憲兵

七月の台湾は、空そのものが湯気を立てているような蒸し暑さに包まれていた。午前の太陽はまだ斜めに昇ったばかりだというのに、すでに城下の空気は重く、衣の下にはじっとりとした汗が流れ落ちていた。だが、その暑気のただ中で、人々の目を奪う光景があった。


 鎮撫府の衛生官と軍医たちが指揮をとり、台南の街角に新設された木組みの水槽から、透明な水が二筋に分かれて流れている。ひとつは飲料専用、もうひとつは生活用水。竹の筒で仕切られ、どこにも交わらぬよう工夫が施されていた。


 「ほう……こんなにも澄んだ水が」


 桶を受け取った年配の女が驚いた顔をし、両手で掬った水を口に含んだ。彼女の傍らで見ていた子どもが目を輝かせて声を上げる。

 「甘い! 前の水とは全然違う!」


 日本から派遣された軍医が静かに頷き、住民へ説明を繰り返した。

 「飲む水と洗う水を分けること、それが病を防ぐ第一の道です」


 住民たちは目を丸くしながらも、その言葉を真剣に聞き入った。これまで病が蔓延するのは避けられぬものと諦めていた。しかし「水を分ける」という単純な仕組みで防げるのだと知ると、彼らの表情には確かな希望が灯った。


―――――


 水だけではない。街外れの便所に行けば、これまでの悪臭漂う汲み取り式から、新たに導入された水洗式が試験的に稼働していた。水路に流し込まれた清水が、汚物を押し流し、地中に埋設された溝へと導く。臭いは激減し、蠅の群れも散っていた。


 作業を見守っていた男が感嘆の声を漏らす。

 「これなら女や子どもも安心して使える……」


 さらに鎮撫府は寝具の乾燥台を設け、週に二度、住民に布団や敷物を干させた。南国特有の湿気が容赦なく襲い、寝具はすぐに黴と虫に侵される。だが熱い陽の下で天日に晒された布団からは、清々しい草の匂いが立ち上った。子どもたちはその上に転がって笑い声を上げ、母親たちは安堵のため息をついた。


―――――


 午後の集会所。鎮撫府の小会議にて、軍医が記録簿を開き、声を張った。

 「熱病の新規発症、先月比で三割減――!」


 その言葉に場がざわめき、榎本武揚が顔をほころばせた。

 「よし……数値で証明できたな。これこそ文明の力だ」


 記録を見たお琴も、静かに微笑んだ。

 「目に見えぬ敵を退けるには、剣ではなく清潔こそが武器。人々の暮らしを守る戦は、ここから始まるのです」


 彼女の声音には誇りが宿り、その場の空気を柔らかくした。従来の「病が出れば祈祷か薬草」という時代から、予防の思想が根づき始めていた。


―――――


 その日の夕暮れ、台南港に吹き寄せる潮風は、かつてのような腐臭をほとんど含んでいなかった。港湾の脇に設置された検疫所からは、白衣の軍医たちが往来する船を検査する姿が見える。飲料水槽の検分、積荷の消毒、船員の体温測定……。


 港の商人が目を細めて言った。

 「日本軍が来てから、港が“清潔”になった。これなら安心して荷を積める」


 台南の住民にとって、「潮と疫と憲兵」はもはや恐怖の象徴ではなく、秩序と清潔を守る新しい生活の枠組みとなっていた。


―――――


 江戸で報告電信を受け取った藤村は、薄暗い書斎で報告文を読み、深く息をついた。

 「潮を読み、疫を防ぎ、憲兵が街を守る……派手さはない。だが、これこそ真の勝利だ」


 机に広げられた帳簿には、衛生改良に費やした細かな費目が並んでいる。数字は決して大きくはない。だが、その小さな投資が、何百、何千という命を救っているのだ。


 窓の外、盛夏の夜空には、遠雷のように蝉の声が響いていた。

 藤村は筆を取り、静かに次の一文を記した。


 ――「衛生は国を守る第一の武器なり」。


 その文字は、まるで時代の扉を叩く音のように、墨の上で力強く輝いていた。

七月も半ばを過ぎると、台湾の空気はさらに重くなった。港を渡る風は湿り気を帯び、額に触れるだけでじっとりと汗がにじむ。だがその暑さの中で、かつて港町を襲った熱病の猛威は、少しずつだが確実に鎮まっていた。


 鎮撫府の軍医局から届いた日次報告書には、数字が整然と並んでいる。発症件数、発熱率、死亡率――。いずれも下降曲線を描いていた。


 「予想以上の効果だ……」


 報告書に目を走らせた軍医長が小さく息を吐く。机上には前月の記録簿も置かれており、その差は歴然だった。水の分離、便所の改良、寝具乾燥――これらの取り組みが静かに、だが確実に病の流れをせき止めていたのだ。


―――――


 城下の家々を回る憲兵たちは、ただ武装して秩序を保つだけでなく、衛生指導員の役割も担っていた。


 「子どもには必ず煮沸した水を与えるように」

 「病人が出たら、この札を門に掲げ、我らに知らせよ」


 住民たちは最初こそ怪訝な顔をしていたが、やがて従い始めた。理由は単純だった。――従った家では病が減り、逆らった家では病が残ったからである。


 「日本軍が来てから、病気が減った……」


 町の年寄りが市場の片隅でそう呟くと、周囲の人々もうなずいた。目に見えぬ成果が、人々の口の端から口の端へと伝わっていった。


―――――


 お琴は台南の養生院で、現地の女たちとともに子どもを診ていた。痩せ細った体に触れ、熱の有無を確かめ、清潔な水で額を拭く。


 「病に国境はありません。敵も味方もありません。……困っている者を助けるだけです」


 そう口にする彼女の言葉は、通訳を介さずとも女たちの胸に響いていた。目に見える慈愛が、言葉を越えて伝わるからだ。


 ある母親が子を抱きしめながら言った。

 「この子を救ってくれたのは、刀ではなく水と布でした」


 その言葉に、お琴は微笑み、静かに首を振った。

 「救ったのは、母の愛情です。私たちは、その手助けをしただけ」


―――――


 夕刻、榎本武揚は城の高台から街を見下ろした。赤く染まる空の下で、憲兵と地元の保正たちが協力して検疫所を巡回し、住民は列を作って煮沸水を分け合っている。


 「砲声を上げずとも、人は従う。……これこそが文明の戦だ」


 傍らの記録係が頷きながら書き留める。榎本はしばし黙し、遠く海の彼方を見やった。西へと沈む夕陽は、ゆっくりと潮の中へと沈み込み、そこから立ちのぼる霞が街を柔らかく包んでいった。


―――――


 江戸。藤村の机に届いた電信報告には、こう記されていた。


 「熱病発症率、先月比大幅鈍化。住民、衛生改革を評価。日本軍、医者の軍と呼ばれる」


 報告書を読み終えた藤村は、胸の奥で深く息を吸い込んだ。


 ――目に見えぬ敵を退けるには、剣でも砲でも足りぬ。必要なのは、人の知恵と清潔だ。


 その確信は、数字の列以上に重く、未来を切り拓く力となって彼の胸に刻まれていた。

七月の盛夏。台南の空は白く燃え、石畳に照り返す陽光は歩く者の影を溶かしてしまいそうだった。その熱の中、日本軍鎮撫府の会所には各国の領事たちが集っていた。英国、米国、仏国――台湾に商館を置き、清朝との交易で利を得てきた国々である。


 広間の正面には榎本武揚総督が姿を見せ、その傍らには鎮撫府の文官たちが並んでいた。机上には地図と検疫配置図、そして英仏語に訳された布告文が整然と置かれている。


 「まず、ご覧いただきたいのは我が方の検疫線と補給体制です」


 榎本の言葉が通訳によって英語と仏語に変換される。地図の上では、赤い線が港湾の出入口を覆い、青い印が仮設検疫所を示していた。


 「飲料水と生活水を分け、検疫所で船員の体温を測定する。発熱者は即座に隔離。物資は消毒を経て港内へ。――これらはすべて、国際規範に基づいた処置であります」


 英領事が顎に手を当て、驚いたように呟いた。

 「清国の港では未だに病者が野に放たれているのに……ここは、ロンドンやマルセイユと同等の水準だ」


 仏領事も深く頷いた。

 「確かに、ここには文明的秩序がある。住民も兵も区別なく治療を受けているとは……信じがたい」


 会所の空気がざわめき、記録係の筆が忙しく走った。


―――――


 やがて、各国領事は署名簿の前に進み出た。そこには「日本統治下における開港・検疫・補給体制を是認する」という文言が並んでいた。


 「この署名は、台湾における日本の統治が国際基準を満たしていることを正式に認めるものです」


 榎本の宣言に、静かな拍手が広がった。異国の指が一つ、また一つとペンを走らせていく。


 署名を終えた米国領事が、榎本に近寄り言った。

 「総督閣下、あなた方の統治は文明的統治の模範例といえる。……この地においては、我々も安心して商人を送り込めるだろう」


 榎本は深く一礼した。その背筋には誇りと共に、計り知れぬ責任の重さが宿っていた。


―――――


 会議の場を去るとき、通訳官がふと榎本に囁いた。

 「閣下、彼らの目には、今の日本が“列強の仲間入りをした”ように映っております」


 榎本は短く息を吐き、しかし微かに笑みを浮かべた。

 「仲間入りではない。我らは我らの道を歩む。だが、その道が彼らの目にも“文明”と映るならば、それでよい」


―――――


 同じ時刻、江戸の執務室。藤村は遠路を経て届いた電信を手にしていた。


 《英米仏領事、開港・検疫・補給体制を正式是認。文明的統治の模範例として評価》


 紙の上の黒い文字を見つめながら、藤村は胸の奥で深く頷いた。

 ――剣も砲も要らぬ。ただ秩序と衛生と法があれば、世界は認める。


 窓の外で蝉が鳴き、夏の光が差し込んでいた。その音はまるで、新しい時代の到来を告げているかのように響いていた。

七月の盛夏、台南の空は白く焼け、港の水面はぎらつく陽光を反射して目を細めさせた。その灼けるような熱の下で、日本の旗を掲げた商船がゆっくりと接岸していく。新たに開設された「台南―長崎―上海」連絡航路、その第一便だった。


 桟橋には砂糖や樟脳を抱えた現地商人たちが列をなし、汗をぬぐいながら積み荷の順番を待っていた。白い布で覆った俵、木箱、麻袋が積み重なり、甘い香りと樟脳の刺激的な匂いが混じり合って潮風に流れていく。


 榎本武揚総督が港の高台に姿を現し、周囲にいた日本兵や役人、現地商人たちが一斉に頭を下げた。榎本は声を張り上げた。

 「本日より、この港から日本本土、さらに大陸への連絡が始まる。台湾の産物はもはや孤立せず、世界と結びつくのだ!」


 その言葉に、商人たちの間から歓声が上がった。


―――――


 積み込み作業は厳格に行われた。秤の前には鎮撫府の役人が立ち、一俵ごとに重さと湿度を測定する。砂糖は白砂糖、赤砂糖、黒糖に等級を分け、湿度票を添付して木箱に収めた。


 「これで品質が保証される。長崎に着いても、上海に着いても、誰が見ても同じ品だ」


 役人が説明すると、そばで見守っていた現地の糖商が頷いた。

 「今まで我らは“台湾の砂糖は当たり外れが大きい”と馬鹿にされてきた。だが、これならば価格も安定する。日本のやり方は確かだ」


 榎本はその会話を聞き、記録係に低く告げた。

 「書き留めよ。現地の声こそが、この制度の成否を決める」


―――――


 午後になると、岩崎弥太郎が港に現れた。羽織を脱ぎ、汗を拭いながら商人たちと笑顔で握手を交わしていく。


 「皆さん、この契約は戦争のものではない。商売だ。互いに利益を得るための約束だ」


 彼の声は、潮騒にかき消されぬよう大きく張られていた。通訳が言葉を現地語に変えると、周囲の商人たちはざわめき、やがて安堵の笑みを浮かべた。


 「我らの砂糖が適正な値で買われるなら、戦争は恐ろしいものではない」

 「港が安定すれば、村も暮らしも落ち着く」


 人々の表情は、戦の恐怖よりも新しい取引への期待に染まっていた。


―――――


 一方、榎本は港の片隅で仏国領事と短い会談を行っていた。


 「貴国の商人も、この航路を利用できます。ただし規則は我らのものに従っていただく」

 「もちろんだ。衛生も秩序も、この地では御国の方が整っている。安心して投資ができる」


 領事の返答に、榎本はわずかに口元を緩めた。国際的な承認が、ここでも静かに積み重なっていく。


―――――


 夕刻。積み込みを終えた船が汽笛を鳴らし、錨を上げた。甲板の上には砂糖俵の山、樟脳の木箱、アバカ繊維の束。港に集まった人々が手を振り、子どもたちが歓声を上げる。


 「行ってこい! 台湾の品を世界に見せてこい!」


 榎本は帽子を胸に当て、静かに船を見送った。蒸気船の黒い煙が空に広がり、沈む陽を背景に太くたなびいていく。


 「これで台湾は孤島ではない。海を通じて、日本と、世界と繋がったのだ」


 その言葉に、周囲の役人たちも深く頷いた。


―――――


 その夜、台南城の執務室で榎本は筆を取り、江戸への電信文をしたためた。


 《台南―長崎―上海連絡便開設。第一便出航。現地商人の協力的態度顕著。交易安定化の兆しあり》


 短い報告ではあったが、そこには確かな自負が込められていた。


 榎本は窓を開け、夜風に汗を冷やしながら空を仰いだ。星々は熱気を透かして輝き、南国の夜に凛とした光を放っていた。


 ――砲声ではなく、秤と帳簿が未来を開く。

 ――それが、この戦の真の意味だ。


 榎本は静かに胸中でそう繰り返した。

七月の台南は、空気そのものが濡れているかのようだった。朝から蒸すような熱気が漂い、石畳は照り返しで靴底を焦がすように熱い。そんな中でも鎮撫府の会計所では、汗を拭いながら帳簿を繰る音が絶えなかった。


 机上には、分厚い勘定帳が幾冊も積まれ、その表紙には「統治関連費用 一万一千両/五千ドル」と墨書されている。紙の上には、細かく引かれた線と、きっちりとした数字の列。兵糧、配給、医薬、治安、教育、港湾整備――費目ごとに正確な数字が並び、無駄な余白はひとつもない。


 主計官の一人が額の汗をぬぐいながら報告した。

 「総費用一・一万両、そのうち配給に三千、医療・衛生に二千、治安維持に千五百、教育・掲示板・学校設置に千、港湾・通商整備に残り……予算内に収まりました」


 その場にいた監査役が即座に確認し、声を上げる。

 「重複計上なし! 数字の整合も取れております」


 居並ぶ役人たちの間に小さな安堵の息が漏れた。


―――――


 その場に同席していた榎本武揚総督は、帳簿を手に取り、細い眼をさらに細めた。

 「わずか一・一万両で、これだけの成果か……」


 彼は窓の外に目を向けた。港には保安灯が点り、検疫幕舎の白布が夕陽を受けて赤く染まっている。市場では米と塩が配給券で整然と配られ、子どもたちが新設の掲示板を指差しながら衛生の絵を読んでいる。


 「費用は最小に、効果は最大に。これぞ我らが目指した統治の形だ」


 榎本の呟きに、居並ぶ役人たちが深く頷いた。


―――――


 夕刻になると、会計所の脇庭に村の代表たちが呼ばれ、統治費用の公開帳簿が掲げられた。大きな木札に墨で書かれた数字と用途。


 「米・塩配給 三千両」

 「医療・衛生 二千両」

 「治安維持 千五百両」

 「教育・学校 千両」

 「港湾・通商 二千五百両」

 「予備費 千両」


 農民の老人がそれを見上げ、隣の若者に囁いた。

 「これほど細かく、我らに見せる政は初めてだ」

 若者は驚いた顔で頷く。

 「これなら、どこに金が使われているか一目でわかる。……信用できる」


 人々のざわめきは、疑念ではなく感嘆に満ちていた。


―――――


 その様子を見ていた一人の地元商人が榎本の前に進み出た。

 「総督、これほど明朗な会計を見せられれば、我らも安心して商いできます。嘘もごまかしもないとわかれば、商売は自然と回ります」


 榎本は柔らかく笑みを返した。

 「金は血のようなものだ。淀ませれば腐る。流れを正せば、命をつなぐ。――統治もまた同じだ」


―――――


 夜、台南城の執務室。灯火の下で榎本は改めて帳簿に目を通し、筆を取った。江戸への電信文の下書きである。


 《統治関連費 一万一千両/五千ドル。衛生改善・配給・教育・治安・通商、全て計画内。予算透明化により住民信頼向上。費用対効果、予想以上》


 書き終えた榎本は、深く息を吐いた。机の上に広げられた紙束の重みは、戦場での勝利よりもはるかに重く感じられた。


 ――戦いを制するのは、剣でも砲でもない。帳簿であり、数字である。

 ――それを人々に見せ、納得させることこそ、真の統治の力だ。


 榎本は心の中でそう繰り返し、灯火を吹き消した。外ではまだ夜風が湿り気を帯び、南国の虫の声が絶え間なく響いていた。

七月の夕暮れ、台南港は一日の喧噪を終えて、ゆるやかな静けさに包まれつつあった。西の空はまだ赤く染まり、海面には黄金色の光が帯のように伸びている。波間には砂糖俵を積んだ小舟が並び、港の倉庫からは荷を担ぐ声が途切れなく響いていた。


 白い麻袋に詰められた台湾産砂糖は、検査所で湿度と糖度を確認され、等級票が貼られてから船積みされる。荷役夫たちが規律正しく列をなし、憲兵が遠巻きに見守る中、現地の商人と日本の通訳が手形を交わしていた。港の灯台には早くも灯火がともされ、日章旗とともに、台湾の青い海に穏やかな影を落としている。


 榎本武揚総督はその光景を城の高台から眺めていた。背後には鎮撫府の幕僚、そして現地官僚の姿があった。

 「住民の協力度が、予想以上に高い。彼ら自身が、この統治を“自らのもの”として受け入れ始めている」

 榎本の言葉は、夕風に溶けるように静かだったが、その中に確かな手応えがあった。


 憲兵が取り締まるのは略奪や暴力ではなく、秩序を乱す小さな摩擦だった。水汲み場では列を守らせ、配給所では券を確かめる。だが誰も彼らを恐れてはいなかった。むしろ「秩序を守るための味方」として見られているのが、住民の表情から明らかだった。


 港の一角では、検疫幕舎の白布が夕陽に赤く染まり、そこに並んだ薬箱と清潔な寝具が整然と積まれていた。軍医と現地の若い助手たちが笑顔でやり取りし、熱病の患者が運び込まれると、即座に処置が施された。


 ――潮の流れを読み、疫病を防ぎ、憲兵が秩序を守る。

 榎本は胸の内でそう反芻した。これは派手な戦勝報告にはならない。だが、これこそが真の勝利だった。


 その夜、電信線を通じて江戸の藤村に報告が届いた。榎本の文面は簡潔だった。

 《台南港、砂糖輸出順調。衛生改善により疫病流行せず。住民協力度向上。統治安定化、確実に進行中》


 藤村は東京の執務室でその電文を読み、机上の地図に視線を落とした。地図の片隅、台湾の港に灯る赤い印が、まるで夜空に輝く星のように見えた。


 「派手ではないが、確かな勝利だ……」

 彼はそう呟き、深く息を吐いた。


 江戸の窓の外では、夏の夜風が庭の梧桐を揺らしている。遠くの空に、雷雲がかすかに光った。だが藤村の胸の奥には、不思議と静かな安堵が広がっていた。


 ――戦いは終わらぬ。だが、統治の勝利はすでに始まっている。


 台南港の荷役の掛け声と、江戸の虫の声が、時空を超えてひとつに重なるように響いていた。

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