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156話 :(1869年6〜7月/初夏:D+30〜45) 道と秤

梅雨の湿り気がまだ空気に残る六月の東京。江戸城勘定所の一角は、朝から人であふれていた。机には大小さまざまな秤が並べられ、升や尺、曲尺に至るまで、全国から持ち込まれた度量衡の見本が所狭しと並んでいる。東北の藩から届いた米升、薩摩の商人が使う独特の秤、越前の布を量るための独自の尺――どれも長さや重さが微妙に異なり、帳簿に記される数字は、まるで別の国の言葉のように通じ合わない。


 「同じ“米一升”で、ここまで違うとはな……」

 藤村は、目の前の二つの升を見比べ、低く呟いた。ひとつは常陸国で長年使われてきた基準升。もうひとつは播磨から送られてきた木升である。見た目はほとんど変わらないが、量ってみると三%近い差が出る。


 傍らで、勘定奉行が渋い顔をした。

 「これでは商人同士が互いに“損をした”と争うのも当然でございますな。……度量衡の乱れは、信用の乱れに直結いたします」


 藤村は頷いた。

 「だからこそ、今日ここで“常陸規格”を国の規格として定めるのだ」


 場内がざわめいた。常陸規格――つまり常陸藩で長年使われ、既に台湾の改革でも導入されつつある統一規格を、そのまま日本全体の標準とするのである。


 「しかし……」と、薩摩から派遣されてきた役人が口を挟む。

 「各地には古くからの伝統もありましてな。農民にしてみれば、代々受け継いできた升や秤を捨てるのは、決して軽い話ではござらぬ」


 藤村は即座に応じた。

 「伝統を否定するわけではない。だが、伝統と規格は別物だ。祭りや風習はそのままにしてよい。だが米や布を売り買いする秤は、国全体で一つでなければならぬ」


 彼は机に置かれた分銅を手に取った。真鍮製で磨かれ、光沢を放つその分銅には、常陸規格を示す印が刻まれている。


 「この分銅は嘘をつかない。どこで量っても同じ重さを示す。信用は“秤の正しさ”から生まれるのだ」


 しんと静まり返った場内に、その言葉は重く響いた。


―――


 昼下がり、藤村は城下の市場へと足を運んだ。梅雨空の下でも活気は衰えず、魚の匂いと青野菜の瑞々しい香りが立ち込めている。だが耳を澄ますと、売り手と買い手の口論があちこちで起こっていた。


 「こっちの秤は軽いぞ!」

 「いやいや、うちのは正しい!」


 その様子に藤村は足を止め、近くの魚商に声を掛けた。

 「秤を見せてくれ」


 魚商は訝しげな顔をしながらも秤を差し出した。皿の上に分銅を置くと、針はわずかに傾いた。藤村は懐から取り出した常陸規格の分銅を置いて比べる。明らかに差があった。


 「なるほど、これでは客が怒るはずだ」

 魚商は顔を赤くした。

 「しかし、こっちの町内では代々この秤を……」


 藤村は笑みを浮かべ、優しく言った。

 「代々の秤を大切にする心は尊い。だが、商いにおいては国が定めた基準が必要なのだ。お前の腕は信用できる。だが秤が違えば、努力も疑われてしまう」


 魚商はしばし黙り込み、やがて深く頭を下げた。

 「……わかりました。新しい秤を受け入れます」


 周囲の買い物客が、そのやり取りを聞いて拍手を送った。


―――


 夕刻、藤村は勘定所に戻り、机に積まれた報告書に目を通していた。台湾からの電信によれば、砂糖の等級分けが新制度で始まり、関税率を等級ごとに変える仕組みが布告されたという。湿度・糖度を測り、票を添付して輸出する。


 「品質を科学で測る。これこそ近代経済の始まりだ」

 藤村はそう呟き、筆を走らせた。


 背後で控えていた若い書記が声を上げる。

 「総裁様、これで台湾の砂糖は欧州市場でも競争力を持つでしょうか」

 「必ず持つ。規格は信頼を生み、信頼は価格を押し上げる」


 書記の目が輝いた。藤村は続ける。

 「やがては日本のあらゆる産物が“常陸規格”で示されることになる。度量衡も、砂糖も、鉄も布も。統一の旗の下で、国がひとつにまとまるのだ」


 外はすでに薄闇が広がり、灯がともり始めていた。


 藤村は机の端に置かれた新しい秤を見つめながら、心の内で呟いた。

 ――秤は嘘をつかない。だが人は嘘をつく。だからこそ秤を国の道とせねばならぬ。


 その瞳には、来たるべき「国規格の時代」への確かな光が宿っていた。

梅雨が明け切らぬ六月の夕刻、江戸城の一室には紙束の山が積み上げられていた。湿り気を帯びた空気の中でも、蝋燭の炎は揺るがず、紙の上に影を落としている。藤村はその山のひとつを開き、細かく書かれた仮名交じりの報告を目で追った。送り主は台南鎮撫府、署名は榎本武揚。台湾で実施された新たな「製糖標準票制度」についての第一報であった。


 紙には、港ごとに収められた砂糖の荷姿や湿度測定の数値、糖度の範囲が表形式で記されている。これまで「白糖」「黒糖」と大雑把に呼ばれていたものが、今や数字と等級で明確に分けられていた。


 「湿度十二以下、糖度七五以上――一等」

 「湿度一五以下、糖度六五以上――二等」


 藤村は声に出して読み、眉をわずかに上げた。

 「まるで欧州の証券票のようだ。……ついに台湾でも“数字”が商品の顔になる日が来たか」


 横に控えていた若い書記が、思わず身を乗り出した。

 「総裁様、つまり砂糖に“点数”をつけるということでしょうか」

 「そうだ。これまでは買い手の目と舌に頼るしかなかった。だが湿度計と比重計で測った数字は嘘をつかない。商品を公平に示す鏡となる」


 書記は感心したように頷きながらも、ふと疑問を口にした。

 「しかし、現地の商人は納得するのでしょうか。古い習慣を改めるのは容易ではないかと」


 藤村は苦笑を浮かべ、報告の末尾に記された一文を指差した。榎本の筆跡でこう記されていた。

 ――「港倉に湿度計を据え付け、入荷のたびに商人立会いで計測。結果をその場で票に記すと、誰もが黙った」


 「数字の前では言い争いは消える。――まるで新しい裁判官のようなものだな」

 藤村の言葉に、部屋の空気が少し柔らかくなった。


 窓の外では、しとしとと雨が降り始めていた。水滴が障子を濡らし、墨の匂いと混じり合う。藤村は机に肘を置き、さらに報告を読み進めた。


―――


 翌朝、藤村は城内の会議に出席した。出席者は財政官、通商担当の役人、そして横浜商館から呼ばれた商人代表たちである。机の上には、台湾から届いた砂糖の標準票の写しが配られた。


 「これが、新しく導入された“等級票”でございます」

 藤村が声を張ると、場内にどよめきが走った。票には出荷港、湿度、糖度、等級、そして日付が整然と記されている。


 「まるで銀札のようだ……」と、ある商人が呟いた。

 別の商人は驚いた顔で首を振った。

 「これでは値を誤魔化せませぬな。買う側も安心ですが、売る側も覚悟が要りますぞ」


 藤村は頷き、言葉を続けた。

 「だからこそ意味がある。品質の安定こそ、価格の安定に直結する。今や欧州では“規格票”なしの商品は信用されぬ。台湾砂糖がこの票を携えて港を出れば、必ず高値で取引される」


 勝海舟が腕を組み、にやりと笑った。

 「ほう、砂糖にまで軍律のような統制を敷くか。だが藤村、お前の狙いは砂糖そのものより“信用”だな」


 藤村は扇を開き、笑みを返した。

 「その通り。砂糖はただの甘味料にすぎぬ。だが“信用”は国家を動かす力を持つ」


 会議の空気が引き締まり、出席者たちの目に新しい可能性の光が宿った。


―――


 数日後、横浜港にて。英国保険会社の代理人が台湾砂糖の等級票を手に取り、驚いた顔をしていた。

 「これが本当に現地で測定された数値か? 湿度まで記してあるとは……」


 通訳を介しながらも、彼の声には明らかな驚嘆が混じっていた。

 「我々にとって最大の問題は、積荷が途中で劣化することだ。だが、この票があれば保険の条件を細かく設定できる。リスクを正確に計算できれば、保険料率は下げられる」


 藤村は静かに頷いた。

 「だからこそ常陸規格を国規格とし、台湾でも同じ秤を用いるのだ。――国の隅々まで一つの基準で繋がる。それが信用を生む」


 代理人は深く頭を下げた。

 「日本の取り組みには驚かされます。欧州でも、ここまで徹底した国は少ない」


 その言葉を耳にした瞬間、藤村は胸の奥で小さな炎が灯るのを感じた。かつて「借金地獄」と嘲られた国が、今や規格と信用で欧州を驚かせているのだ。


―――


 夜、藤村は執務室に戻り、机に広げた等級票をじっと見つめていた。蝋燭の炎に照らされ、紙面の数字が光を帯びる。


 「湿度十二、糖度七五――これが一等か」


 彼はゆっくりと筆を取り、帳簿に書き込んだ。そこに並ぶ数字はただの墨跡ではない。未来への道を示す指標であった。


 やがて筆を置き、窓の外を眺める。江戸の空には星がわずかに瞬き、梅雨の切れ間の涼風が頬を撫でた。


 「道と秤……国を繋ぐのは、この二つだ」


 その呟きは、静かな夜に吸い込まれていった。

六月の終わり、梅雨の晴れ間を狙って江戸城の庭園で体操演武が行われた。梅雨空を押しのけた陽光は、葉の上で宝石のように光り、庭の芝を鮮やかに照らしていた。参列する重臣たちが並ぶ前で、藩主・慶篤が白い道着姿で立っていた。


 「殿、準備はよろしいですか」

 師範役の医師兼教練官が柔らかく声を掛ける。


 慶篤は真剣な眼差しで頷き、両足を肩幅に開いた。額に光る汗は、緊張と決意の証だった。


 「一、二、三!」


 号令と共に腕が伸び、深い呼吸とともに胸が大きく膨らんだ。体操は単なる遊戯ではない。西洋式の衛生観念を取り入れた新しい「体の教育」であった。四肢の動きは血の巡りを促し、呼吸法は病を防ぐ。重臣たちはまだ見慣れぬ動作に目を細めながらも、そこに未来の兵士、未来の国民教育の芽を見出していた。


 列席していた藤村は縁側に腰を下ろし、黙って見守っていた。主君の体が全力で動き、汗を流し、数を数えながら形を整えていく。その姿に彼は声を掛けず、ただ胸の奥で思った。


 ――教育とは、金を積むことではない。日々の動きに意味を与えることだ。


 演武が終わると、慶篤は深々と頭を下げ、参列者の前に立った。師範がにこやかに告げる。

 「殿の歩数、先月よりさらに一八%向上いたしました」


 その報告に場内が小さな驚きと拍手に包まれる。慶篤の頬は赤く、目には誇らしさが宿っていた。


―――


 同じ頃、台湾・台南の城下でも、もうひとつの「教育」が始まっていた。鎮撫府が設置した掲示板の前に、町の人々が集まっている。掲示されたのは、鮮やかな色刷りの絵と短い文字で書かれた「衛生守則」であった。


 「手を洗え」「水を煮よ」「病人は隔てよ」――その一つひとつは簡単なことだが、疫病に悩まされてきた人々にとっては目から鱗の知識だった。


 ある年配の女が、掲示板の絵を見ながら隣の娘に言った。

 「病人の寝床を別にする……そんなこと考えたこともなかったよ」

 娘は目を丸くし、笑顔で答えた。

 「日本の先生方は、こうすれば病が広がらないと教えてくださったのです」


 掲示板の前には医師や通訳が常駐し、質問があれば誰でも答えてくれた。子どもたちは鮮やかな絵を指差しながら「手、洗う!」と真似をし、大人たちは紙を写して自宅へ持ち帰った。


 榎本は城の高台からその様子を見下ろし、記録係に向かって呟いた。

 「砲火よりも、この一枚の掲示が命を救うだろう。――戦とは、病と飢えとの戦いでもある」


―――


 江戸に戻る報告電信には、こう記されていた。

 「衛生掲示板の周囲に人だかり。住民の反応良好。――今や彼らは日本軍を“医者の軍”と呼ぶ」


 藤村はその文を読んで小さく息をついた。机上に置かれた帳簿の横で、数字の列と並んで「人々の笑顔」が確かに価値を持つことを感じ取ったのである。


 夜、灯火の下で彼は家族に語った。

 「殿の体操も、台南の掲示も、同じ道を歩んでいる。――体を健やかにすることが、国を健やかにするのだ」


 その声に、久信が幼い声で真似をした。

 「て、あらう!」


 家族の間に笑いが広がり、静かな夜の中に新しい時代の息吹が確かに響いていた。


―――


 こうして江戸と台湾で同時に進められた「教育」と「衛生」は、見えない一本の糸で繋がっていた。それは剣や大砲よりも静かに、しかし確実に人々の心と体を変えていったのである。

七月初旬、江戸城勘定所の広間はいつにも増して静まり返っていた。障子の外では蝉の声がけたたましく鳴いているのに、室内はただ筆の音と紙の擦れる気配だけが支配している。机に並んだ帳簿の山を前に、勘定方たちが一心に算盤を弾いていた。


 「本日の報告を」

 総裁役の藤村が扇を閉じて声をかけると、帳簿を抱えた勘定奉行が立ち上がった。


 「六月から七月にかけての統治関連費用、合計八千両にて収まりました。内容は、配給二千両、治安維持千五百両、教育千両、医療千二百両、経済支援三千三百両……以上でございます」


 広間の空気がわずかに揺れた。数字は冷たい墨で書かれているのに、その背後には血肉を持った人々の暮らしが息づいている。


 藤村は帳簿に視線を落とし、静かに頷いた。

 「八千両……。戦時の臨時費用としては、むしろ奇跡的に小さな額だ」


 後列にいた若い勘定方が驚いた顔をして囁いた。

 「従来の出兵では、一月に一万両を超えるのが常でございましたのに……」

 隣の先輩役人が頷く。

 「無駄を削ぎ落としたからこそだ。だが、それだけではない。物価の乱高下を抑えたのが大きい」


 藤村は二人の会話に耳を傾け、口を開いた。

 「その通りだ。統治とはただ兵を置くことではない。物価を安定させ、商いを続けさせる。それこそが戦費を節約し、民心を得る道である」


―――


 この日の議題の一つは、経費の「公開方法」についてであった。従来の戦費管理は内々の帳簿で済まされるのが常であったが、藤村は違った。


 「支出の内訳を台南の会所に掲示せよ。誰でも見られるようにするのだ」


 この提案に一瞬ざわめきが走った。

 「民にまで見せるのですか? 兵糧や軍資の数字まで……?」


 藤村は穏やかながらも確信に満ちた声で返した。

 「隠せば必ず疑念が生まれる。だが公開すれば、たとえ小さな不満があっても、それはやがて信頼に変わる。数字は嘘をつかない。ならば堂々と示すべきだ」


 議場に沈黙が落ちた。やがて一人の老代官が立ち上がり、深く頭を下げた。

 「承知いたしました。民に正直であることが、我らの力となりましょう」


―――


 一方、台湾・台南の鎮撫府でも同時に会計報告会が開かれていた。榎本武揚総督の隣に座した主計官が、板図を広げて数字を示す。


 「配給費二千両により米と塩を二万口分確保。治安維持費千五百両は憲兵の給与と地元保正の協力金。教育費千両は学校・掲示板・教材費用。医療千二百両は養生院と予防接種に充当。経済支援三千三百両は港湾手形と小規模融資に――すべて使途明確に記録済みです」


 榎本は頷き、列席する現地官僚の方に視線を向けた。

 「ご覧の通りだ。占領の費用は、ただ兵のために使われるのではない。住民の生活、教育、医療にも等しく割かれている」


 通訳が言葉を伝えると、現地官僚たちは顔を見合わせ、深く頷いた。

 「これほど明快に数字を示されたのは初めてだ」

 「我らも住民に説明できる。疑念が少なくなるだろう」


―――


 会議の終盤、榎本は椅子から立ち上がり、厳しい声で告げた。

 「諸君、勘違いしてはならぬ。これは贅沢ではない。すべては“必要最小限”だ。――一銭たりとも浪費は許されぬ」


 主計官が深く頷き、帳簿を固く閉じた。


 その後、台南の街角では早速「会計掲示板」が立てられ、配給や予防接種の費用が簡潔に書かれて貼り出された。住民たちはそれを覗き込み、「金の流れが見える」「これなら安心だ」と口々に言った。


―――


 江戸、勘定所の夜。藤村は一日の報告書を読み返しながら、机の上で静かに筆を置いた。障子の外では夏の虫が鳴いている。


 「八千両……数字だけを見れば小さい。しかし、その一つひとつが人の命と笑顔に結びついている」


 彼は小さく呟いた。


 ――戦は兵の剣で勝つのではない。数字で、秩序で、そして民心で勝つのだ。


 その夜、蝋燭の光に照らされた帳簿の墨跡は、ただの数字ではなく、未来への誓いのように見えた。

七月半ば、台南の港倉庫には甘い香りが満ちていた。積み上げられた砂糖俵の山、そのひとつひとつに貼られた札には、これまでに見たことのない文字と数字が記されている。


 《湿度:12% 糖度:78度》

 《等級:上白 一等》


 台湾鎮撫府が導入した「糖等級票」であった。


―――


 倉庫の奥では、現地の糖商と日本の技師が並んで俵を開き、真新しい計測器で白い砂糖をすくい上げている。湿度計の針が静かに振れ、温度計の液がじわりと上昇する。


 「これが……科学で砂糖を見るということか」

 年配の糖商が低く呟いた。長年、色や舌触りでしか判断できなかった品質を、数字で示されるのは初めてだった。


 横に立つ日本の役人が、札を掲げながら言う。

 「等級は湿度と糖度の二本柱で決まります。湿度が高ければ輸送中に固まり、糖度が低ければ値が下がる。これを数字で明らかにするのです」


 通訳が言葉を重ねると、糖商たちは互いに顔を見合わせた。ある者は眉をひそめ、ある者は感心したように頷いた。


 「つまり、これからは値を釣り上げる駆け引きではなく、数字で値が決まるということか」

 「そうだ。等級票を国印で保証する。――だからこそ、等級の高い品は確実に高値で売れる」


―――


 榎本武揚総督は、そのやり取りを黙って見守っていた。彼の隣には、主計官と技師たちが控えている。


 「榎本様、港倉庫の全てに湿度計を標準装備といたしました。これで品質管理は徹底できます」

 「よし……」榎本は深く頷き、低く呟いた。

 「戦は砲で勝つ。しかし、国は砂糖で勝つ。――この票が国を富ませるのだ」


―――


 会議室では、現地の糖商と日本の役人が机を囲み、真新しい関税布告文を前に議論を交わしていた。


 「等級一等は関税率二分の一、二等は標準、三等は二割増――」

 「等級ごとに差をつけるのか!」

 驚く声に、日本の役人は静かに答えた。

 「品質の高いものほど負担を軽くする。これは輸出を促進するためだ。品質を上げれば上げるほど、民の利益も増える」


 沈黙ののち、年若い糖商が口を開いた。

 「……ならば我らも改良を試みよう。湿気除けの倉を建て、乾燥を工夫すれば、一等の値で売れるということだな」

 榎本は即座に頷き、にこりと笑みを浮かべた。

 「その通りだ。科学は敵ではない。君たちの努力を正しく値に換える“秤”なのだ」


―――


 江戸、藤村のもとにも「砂糖等級票制度施行」の報が届いた。勘定所の机上には、初めての等級別収入試算が並んでいる。


 「糖一等輸出、六月実績にて二割値上がり……」

 藤村は報告を読みながら、胸中に小さな炎が灯るのを感じた。


 「どんぶり勘定では世界に勝てぬ。数字と規格が国を強くする――」


 彼は机に置いた算盤を静かに弾き、次の世代に残すべき「財政の作法」を確かめるように目を細めた。


―――


 再び台南。市場の一角では、初めての「等級票付き砂糖」が公開されていた。見物人が群がり、俵を覗き込む。


 「ほら見ろ、等級票が貼ってある。湿度十二、糖度七十八!」

 「国が保証するんだろう? なら高値でも買えるさ」


 買い付けに来た洋商が頷き、契約書に署名する。

 「これで安心して船積できる。日本の制度は実に明快だ」


 その様子を見た一人の台湾人糖商は、胸の内で小さく呟いた。

 ――これまで我らは、買い叩かれるか騙すかのどちらかだった。だが、数字の前では誤魔化しは通じぬ。これこそ公平というものかもしれぬ。


―――


 夕暮れ、榎本は港を歩きながら、赤く染まる海を見渡した。遠くに積み出しを待つ砂糖俵の列が影を伸ばしている。


 「砲も鉄も必要だ。だが、人々の暮らしを豊かにするのは、こうした小さな票と数字の積み重ねだ」


 彼は静かに呟き、帽子の庇を押さえた。潮風に揺れる旗が赤く輝き、その下で新しい経済の秩序が生まれつつあった。


―――


 その夜、藤村の書斎に届いた榎本の電信はこう締めくくられていた。


 「糖等級票、住民・商人ともに好評。『科学の秤』にて信頼生まる。――これより台湾経済の近代化、確信す」


 藤村はその文を何度も読み返し、灯火の下で深く頷いた。


 ――信頼こそが、富の源泉である。

六月の終わり、台南鎮撫府の会議室には分厚い帳簿が並べられていた。机の上に広げられた紙には、米・塩の配給数、学校の建設費、養生院の医薬品代、治安維持の経費、そして経済支援の予算配分が細かく記されている。


 榎本武揚総督はその一枚一枚を丁寧に目で追い、深く頷いた。

 「配給、治安、教育、医療、経済……いずれも予定どおりか」


 主計官が即座に答える。

 「はい。総額九万両、外貨にして一万二千ドル。予定内に収まりました。余剰は備蓄に回しております」


 榎本は扇を閉じ、静かに笑った。

 「戦場にありながら赤字を出さぬ。これは奇跡ではない、積み重ねの成果だ」


―――


 午後、城下の広場では米と塩の配給が行われていた。住民は整然と列をなし、一人ひとりに配給券が手渡される。


 「番号を確認、はい、次!」

 「一人分の米と塩、確かに渡しました!」


 子どもを抱いた母親が米俵を受け取ると、安堵の笑みを浮かべた。

 「これで、今夜は飢えずに済む……」


 その光景を見守っていた現地官僚の一人が、榎本に小声で語りかけた。

 「これほど公平に分ける配給は初めてです。従来ならば上役の倉で目減りし、末端には届きませんでした」


 榎本は真っ直ぐに応じた。

 「人は飢えれば盗み、絶望すれば刃を取る。配給とは兵糧であると同時に、治安維持の武器でもあるのです」


―――


 次に榎本が視察に向かったのは、町外れの養生院だった。仮設ながら白い壁に窓が並び、庭には洗濯物が風に揺れている。中では医師が子どもの腕に針を刺し、痘苗を注射していた。


 「これで、この子も病に倒れずに済む」

 医師の言葉に、母親が涙を浮かべて頭を下げる。


 榎本はその場で帳面を開いた。

 「接種人数、何名だ」

 「本日で千二百名に達しました」

 「よし。予算は予定どおりだな」


 彼は深く頷き、胸の内で藤村の言葉を思い返した。

 ――金は血であり、汗であり、涙である。ゆえに一銭も粗末にしてはならぬ。


―――


 夕刻、台南の市場では港手形の効果が現れ始めていた。屋台の商人が声を張り上げる。

 「この手形があれば、検問を通れる! 値も決まっているから、誰も損をしない!」


 住民が笑顔で米や布を買い、商人は安心して取引を続ける。混乱や便乗値上げはほとんど見られなかった。


 榎本は通りを歩きながら、兵と住民が肩を並べて笑い合う光景に目を細めた。

 「これが……鎮撫の本質か」


―――


 その夜、城壁の上から榎本は台南の街を見下ろしていた。夕焼けの赤が屋根瓦を染め、人々の声が柔らかく響いてくる。兵士たちは槍を下ろし、子どもに水を配っていた。


 側に立つ副官が小声で報告する。

 「住民の協力度、予想以上です。反乱の兆しはほとんどありません」


 榎本は深く息をつき、胸の内で呟いた。

 「鎮撫府とは、恐怖で支配する場所ではない。希望を与える組織なのだ」


 彼の視線の先には、住民と兵士が共に瓦を積み直す姿があった。笑い声と掛け声が混じり、街は少しずつ、しかし確実に立ち直っていく。


―――


 同じころ江戸では、藤村が榎本からの報告電信を読んでいた。

 《住民の協力度高し 配給公平 衛生掲示効果顕著 “恐怖でなく希望”を基盤とす》


 藤村は深く頷き、帳簿の横にその文をそっと置いた。

 「数字と人心が、ようやく一本の道で繋がったか」


 彼は窓の外に広がる江戸の街を見下ろし、静かに決意を固めた。

 ――ここで築いた統治の作法を、必ず未来へ渡す。


―――


 夜風が城壁を撫でる台南の丘にて、榎本は独り言のように呟いた。

 「鎮撫とは、剣を抜くことではない。人の心に灯をともすことだ」


 その言葉に応えるように、街のあちこちで灯火が揺れ、初夏の夜をやさしく照らしていた。

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