154話:(1869年5月中旬/初夏:D+7)台南会議
台南府城の大堂は、熱気と緊張に包まれていた。南国の太陽は容赦なく瓦屋根を照らし、堂内の空気は湿り気を含んで重く、扇をあおぐ音が絶えなかった。
長机を挟んで向かい合うのは、台湾側の知府や地方士紳、そして日本から派遣された鎮撫軍の代表団である。
中央に座すのは、常陸藩から抜擢された武士団の長、芹沢鴨。その横には、近藤勇・土方歳三・永倉新八・原田左之助・島田魁・斎藤一が控え、いずれも鋭い眼光を周囲に走らせていた。剣の達人である彼らが、今は剣を脇に置き、会議の場で座している――それ自体が新しい時代の象徴だった。
さらに背後には海軍総督の榎本武揚。水夫姿の副官を従え、書状を手に臨席していた。彼の存在は、ここでの議論が単なる地方会議でなく、海軍と軍政を結ぶ「国家的交渉」であることを示していた。
――
会議の冒頭、芹沢がゆっくりと立ち上がった。日頃は豪放磊落で知られる彼も、この日ばかりは声を低く整えていた。
「我らがここに来たのは、征服のためではない。守るためだ」
通訳がその言葉を漢語に訳した瞬間、台湾側の席にどよめきが広がった。
「守る、だと……?」
「征服ではなく、保護……?」
長年、外敵に苦しんできた彼らにとって、その響きは予想外だった。
芹沢は続けた。
「我らは税を乱さず、村を焼かず、民を追わぬ。ただ、外敵を防ぎ、秩序を保つ。それが任だ」
その横で近藤勇がゆっくり頷き、土方歳三は腕を組んで台湾側の反応を見守る。永倉と原田は筆録と記録を取り、島田魁と斎藤一は周囲の警護に目を配っていた。
――
榎本武揚が席を正し、海軍総督として口を開いた。
「我らの艦は基隆・淡水・打狗の三港をすでに制圧した。しかし砲声は最小限、民家には一発も弾を撃っておらぬ。それが証である。我らは侵略者ではない。秩序を回復する者だ」
榎本の言葉は冷静でありながらも、堂内を震わせる力を持っていた。
――
その時、藤村晴人から江戸で託された布告文が机上に広げられた。斎藤一がその書を差し出し、通訳が声高に読み上げる。
――「日本軍は秩序回復と住民保護を目的とする。略奪や圧政は厳禁とし、違反者は軍律により処罰する」――
その明確な一文に、現地官僚の目が大きく開かれた。
「……本当に、略奪を禁ずるのか?」
「税も三年据え置くと?」
ざわつきの中、芹沢が力強く答えた。
「条約は守る。我らは剣で戦うだけではない。約束で結ぶのだ」
――
会場の外から、ざわめきとともに市場の声が届いた。台南の町は戦の影に怯えながらも、まだ生きている。その息遣いが、この会議の行方を固唾を呑んで見守っていた。
芹沢鴨、そして榎本武揚――剣の武士団と海の軍人。この異色の顔ぶれが並び立ち、歴史の一幕を形作ろうとしていた。
その瞬間、台南会議は「征服」ではなく「協力」という新しい道筋を歩み出し始めたのである。
大堂の空気は、冒頭の「征服ではなく保護」という宣言でわずかに和らいだ。だが、緊張の糸が切れたわけではない。むしろ次に出される条件によっては、この会議そのものが決裂しかねない。
芹沢鴨は、卓上の巻紙を手に取り、重々しく広げた。分厚い和紙の表面には、藤村晴人が江戸で起草した条文が毛筆で整然と記されている。その横には榎本武揚が欧州の条約文を参照し、補足した注釈が添えられていた。
芹沢は一息つき、会場を見渡すと朗々と読み上げた。
「一、海防および治安維持は日本国が担うこと」
「二、租税は現行のまま三年間据え置きとすること」
「三、学校および病院を設け、住民の教育と医療を保障すること」
――これが「三条保護国条約」である。
通訳が漢語で繰り返すと、現地官僚の列からざわめきが走った。
「海防と治安を日本が……つまり軍政はそちらが握るということか」
「だが税を据え置くと明言したぞ。三年間は取り立てが増えぬということだ」
年配の知府が眉をひそめる一方で、地方士紳の一人が安堵の笑みを浮かべた。彼らにとって税制の維持は死活問題だった。過酷な増税さえ避けられれば、民衆は新しい支配者を受け入れる余地を持つ。
――
榎本武揚が椅子を引き、ゆるやかに立ち上がった。軍服のボタンが光を反射し、堂内の視線が集まる。
「海防は我らが引き受ける。だが、それは民の自由を縛るためではない。外敵――清も、あるいは西洋諸国も――からこの地を護るためだ。そなたらの土地を守ること、それが我らの務めである」
その言葉に、会場のざわめきは少し静まった。榎本の落ち着いた声は、戦火を恐れる官僚たちの胸に届いた。
――
芹沢が再び条文を指で示す。
「学校と病院は、ただの飾りではない。我らの軍医団はすでに基隆で救護所を開き、負傷兵も住民も分け隔てなく治療している。教育においても、文字を学ぶことは権利だ。子が学べば、親の暮らしも変わる。これが我らの考える“保護”だ」
近藤勇が横から口を添えた。
「武士は剣で国を守る。だが、国を長く支えるのは学問と医である。俺たちがここへ来たのは、ただ戦うためじゃない」
土方歳三は無言で腕を組んでいたが、その眼差しは強く相手を射抜き、言葉以上に「条約は守らせる」という圧を放っていた。
――
会場の空気が揺れ動く中、若い士紳が恐る恐る口を開いた。
「もし、三年後に税を上げられたら……我らの民はどうなる」
榎本はその声に穏やかに答えた。
「三年の猶予は、ただの先延ばしではない。その間に産業を整え、交易を開く。豊かになれば、税を上げる必要はない。逆に、税を軽くする余地も生まれるだろう」
その説明に数人の官僚がうなずいた。経済の安定が彼らの最大の関心事だったのだ。
――
永倉新八が筆を取り、議事録を走らせる。原田左之助は現地の警護兵に注意を払い、島田魁は会場の入口で住民代表の入室を制御していた。斎藤一は、誰よりも静かに、鋭い眼で会場全体を観察していた。
彼らの存在そのものが、条約をただの紙切れではなく「守られる約束」に変えていた。
――
やがて、現地知府が立ち上がった。緊張した面持ちで、日本側の机に歩み寄る。その手には印章が握られていた。
「……よかろう。我らはこの三条に従う。外敵を防ぐこと、税を据え置くこと、学校と病院を設けること――この三つを信じよう」
通訳が伝えると、会場にどよめきが広がった。芹沢が深くうなずき、力強く応じた。
「約束は必ず守る。これより、台南と日本は“敵”ではなく“盟”である」
榎本も立ち上がり、右手を差し出した。知府がその手を握ると、大堂に大きな拍手が響いた。
――
その瞬間、「三条保護国条約」は締結された。
従来の征服とは違う、新しい統治の形――軍事・経済・教育・医療を分担し、相互に利益をもたらす体制。
台南の大堂で交わされた握手は、武力ではなく「約束」で結ばれた最初の絆だった。
会議の緊張が一段落すると、次に取り上げられたのは「経済」であった。
台南府城の奥の一角、大堂脇の広間には長机が並べられ、その上には砂糖の塊や樟脳の樹脂、麻の繊維が山のように積まれていた。外に控える農民や職人たちのざわめきが、障子の向こうから絶え間なく伝わってくる。
芹沢鴨が短く顎をしゃくり、近藤勇と土方歳三に目配せする。二人は即座に周囲の警戒に散った。斎藤一は相変わらず壁際に立ち、鋭い視線で部屋全体を監視している。榎本武揚は文机の前に座し、準備してきた契約書案を広げていた。
その場の中心に進み出たのは、海運と商業を担う若き商人――岩崎弥太郎であった。
――
岩崎は小柄ながらもぎらりと光る眼を持ち、まるで獲物を見定める鷹のようだった。机の上の砂糖の塊を指先で弾くと、にやりと笑った。
「甘いな。これだけあれば、長崎でも横浜でも高値で売れる。だが――」
彼は声を落とし、現地の生産者代表に向けて言葉を続けた。
「売るだけでは駄目だ。安いときに買い叩かれ、高いときに損をする。だから“前受け契約”だ。我らが先に金を払う。お前たちは品を必ず納める。互いに損をせず、先を見通せる。どうだ」
通訳が伝えると、生産者たちの間にざわめきが広がった。長年、清の役人や外国商人に不当に値を決められてきた彼らにとって、「契約」という言葉は未知の響きだった。
榎本が口を添える。
「これは一方的な搾取ではない。品質と数量を明確にし、対価を先に保証する仕組みだ。日本ではすでに港での取引に用いている。安心せよ」
――
生産者の一人、中年の砂糖問屋が恐る恐る口を開いた。
「……だが、もし嵐や病で収穫が減ったら? 納められねば、我らはどうなる」
岩崎はすかさず答えた。
「だから“品質保証”を加える。減った分は翌年に繰り越せばよい。そのための“長期契約”だ。三年、五年と続ければ、損得はならされる。今までのように博打のような商売をする必要はない」
土方が低い声で呟いた。
「筋が通っている。これなら農民も飢えずに済む」
その言葉に、生産者たちの顔にわずかな安堵が広がった。
――
次に取り上げられたのは「樟脳」だった。
机の上に置かれた白い塊からは強い香りが漂い、部屋全体に清涼な気配が満ちる。岩崎はそれを掴み、鼻先で確かめると力強く言った。
「これは銃の火薬にも、薬にもなる。世界が欲しがる品だ。だが、今のままでは中間の商人に取られ、村に残る金はわずかだ。直接契約しよう。日本が買い、日本が売る。その代金はまっすぐお前たちの村に届く」
生産者たちの目が見開かれる。中間搾取を排した直接契約――それは夢物語に等しい提案だった。
――
最後に、芭蕉科の繊維「マニラ麻」、現地ではアバカと呼ばれる束が机に置かれた。斎藤一が無言で刃を抜き、繊維を切って強さを確かめる。
「……強いな。これなら艦の索具にも使える」
榎本がうなずいた。
「艦の命綱に使える。これを大量に仕入れられれば、我らの艦隊は西洋に劣らぬ航海を続けられる」
岩崎は笑みを浮かべた。
「砂糖で金を作り、樟脳で武器を支え、麻で船を走らせる。三つそろえば、この島の価値は計り知れん」
――
会議の場にいた現地官僚の一人が声を上げた。
「だが、日本がすべてを買えば、我らはまた新しい支配者に縛られるのではないか」
芹沢がぐっと前に出て、机を拳で叩いた。
「違う! 我らは“奪う”ために来たのではない。互いに得るために来たのだ。約束を守らぬ者は、我らが斬る。だが、約束を守る者は、我らが護る」
彼の豪放な声に、場の空気が揺れた。だがその目に宿る真剣さが、言葉を飾り物ではなく「誓い」に変えていた。
――
榎本が立ち上がり、契約書の雛形を机に置いた。
「この契約は、ただの商売ではない。戦と平和を分ける礎だ。飢えを避け、税を増やさずに暮らせるようにする。これこそが、我らが示す“保護”の形だ」
やがて、生産者代表が筆を取り、震える手で署名を記した。続いて岩崎が力強く署名を加え、榎本が公印を押した。
――ここに、日本と台湾の初めての正式な商業契約が成立した。
――
外に控えていた農民たちの間に、その知らせが広まると、大きな歓声が上がった。
「これで作物を捨てずに済む!」
「村に金が残るぞ!」
兵士たちも微笑を浮かべ、彼らの喜びを見守った。
岩崎は煙管を鳴らし、榎本に向かって言った。
「これで一歩進んだ。戦はまだ続くが、商売はもう始まった」
榎本は静かに答えた。
「戦と商いを同じ天秤にかけること。……それが本当に近代国家の証なのだろう」
芹沢隊の面々は互いに目を交わし、無言でうなずいた。彼らは剣を携えた護衛であると同時に、この新しい約束を守る証人でもあった。
――
夕刻、台南の空に赤い陽が沈む頃、契約書の写しが掲示され、住民たちが群がって読んでいた。読み書きできない者のために、若い兵士が声に出して読み上げる。
「……日本が先に金を払い、村は必ず品を納める……」
その声に、群衆から小さなどよめきが起こる。誰もがこれまでにない取引の形に驚き、そして期待を抱いた。
――
この日を境に、台湾の砂糖・樟脳・麻は「日本契約品」として出港することになる。
それは単なる商取引の始まりではなく、日本と台湾が「利益を分かち合う」最初の証であった。
午後、台南府城の大堂には再び人が集まっていた。朝の条約締結と経済契約に続き、今度は「金融システムの導入」に関する説明会である。机の上には、墨で描かれた図解が並べられていた。港の倉庫を模した絵、荷船の積み荷、銀貨の袋、そして見慣れぬ「紙片」の図――。
榎本武揚が立ち上がり、開口一番に言った。
「これからお見せするのは、“商いのやり方”そのものだ。刀や銃よりも、むしろ人の暮らしを守る力を持つものだ」
彼の言葉に、現地商人たちはざわついた。武器ではなく紙切れが人を守るというのか――その疑念を、岩崎弥太郎が笑い飛ばす。
「心配するな。紙と言っても、ただの紙じゃない。これは“約束を守らせる紙”だ」
――
机の上に広げられたのは、江戸から持ち込まれた新しい様式の文書だった。表には「船荷証券(Bill of Lading)」の文字と、印紙を貼る欄がある。
榎本が指先で印紙欄を示しながら説明した。
「これが“B/L”――船荷証券だ。船に積んだ荷の種類と量を記し、署名と印を押す。この紙を持つ者こそ、その荷の正当な持ち主となる」
通訳が言葉を伝えると、現地商人たちの目が一斉に開かれた。
「……紙が荷を縛るのか?」
「では、紙を盗まれたら荷も盗まれるのか?」
岩崎は大きく頷いた。
「そうだ。だからこそ紙には印紙を貼る。印紙は国の証だ。偽造すればすぐに見抜かれる。これで盗人の余地はなくなる」
――
現地の一人の若い商人が手を挙げた。
「しかし、我らはこれまで“顔”で商いをしてきた。互いの信用だけで荷を預け、銀を払ってきた。紙を入れると、かえって疑いが生まれるのではないか」
その問いに、榎本が静かに答えた。
「顔は大事だ。だが顔は年を取る。信用は時に裏切られる。だが紙に残された約束は、百年後でも変わらぬ。顔を守るために、紙を用いるのだ」
その言葉に、静かな納得のうねりが広間を満たした。
――
続いて、岩崎が保険について語った。机の上に置かれた銀貨の袋を叩き、声を張る。
「船は沈む。火は燃える。病が流行れば積荷は腐る。だから“保険”だ。前もって少しの金を出しておけば、もしも船が沈んでも、荷主は金を受け取れる」
商人たちの間にざわめきが広がる。
「もしも……損をしても金が戻る?」
「そんな夢のような話があるものか」
榎本が笑みを浮かべ、懐から欧州の保険証券の写しを取り出した。
「これはロンドンで用いられている実物の写しだ。嵐に沈んだ船の荷も、これで金に替わった。欧州の商人は皆これを使っている」
岩崎が言葉を継ぐ。
「我らはそのやり方を学び、さらに“検疫遵守”を条件に加えた。病を防げば保険料は安くなる。つまり“清潔”が“安さ”を生むのだ」
会場にどよめきが走った。衛生と商売を結びつけた発想は、彼らにとってまったく新しかった。
――
机の端で控えていた土方歳三が、低い声で一言添えた。
「つまり――規律を守れば、銭が浮く。乱れれば、銭を失う。それだけの話だ」
彼の簡潔な説明に、商人たちの顔が一斉に引き締まった。軍人が言うからこそ、その重みが違った。
――
説明の最後、榎本が紙に太く三本の線を引いた。
一、略奪ではなく正当な取引
二、B/Lと印紙による権利保護
三、保険による損失補填
「この三つを守れば、商いは必ず成り立つ。奪うより稼ぐほうが早い。戦の時も、商いは続けられる」
岩崎が力強く宣言した。
「日本は剣でなく、紙で富をつくる!」
――
その瞬間、広間にどよめきが走り、やがて拍手が湧き起こった。生産者も商人も官僚も、これまでにない確信を抱いたのだ。奪われるだけの土地ではなく、稼ぐことで栄える島――台湾が新しい姿を見せ始めていた。
夕暮れ、台南の空に茜色が差し込む中、芹沢隊の面々は会場を後にする商人たちの背を見送っていた。永倉新八がぽつりと呟く。
「剣の出番はなかったな」
土方が口の端を上げる。
「剣より紙が効く時代ってことさ」
榎本は空を仰ぎ、胸の内でつぶやいた。
――これでようやく、戦と商いが一つの輪になった。
午後の陽射しが傾き始めた台南府城の大堂は、まだ熱気を帯びていた。午前の条約締結と午後の金融説明を経て、最後に控えるのは「経費の透明化」の議題であった。会場に詰める現地官僚や商人たちは、刀や銃ではなく帳簿を前にして軍が議論する光景に、半信半疑の面持ちを浮かべていた。
長机の中央には、分厚い帳簿が積まれていた。表紙には「台湾統治費 明細」と墨で大書され、赤い印章が押されている。榎本武揚がその束を両手で掲げ、声を張り上げた。
「これが、我らが今日ここで示す“帳簿”だ。軍の経費、会所の費用、通訳の賃金、すべて記す。……占領軍が自ら金の流れを公開するなど、これまで世界のどこでも前例はあるまい」
通訳が言葉を伝えると、広間にざわめきが走った。現地の文官のひとりが驚きの声を洩らした。
「兵が経費を我らに見せる……? これは本当なのか」
岩崎弥太郎が即座に笑みを浮かべ、机に帳簿を叩きつけた。
「本当だとも! 俺たちは隠し立てはしない。銀一枚、米一俵、すべてここに記してある。もし疑うなら、目を皿にして読みなさい」
その挑むような言葉に、現地商人たちは顔を見合わせ、やがておそるおそる帳簿を手に取った。
――
帳簿の中には、細かな数字が整然と並んでいた。
一、会所設営費 八千両
二、通訳雇用費 三百両
三、接遇・応接費 一千両
四、保険準備金 二千両
桁ごとに仕分けされ、用途の説明まで細かく記されている。
「これは……驚いた」
とある高官が呟いた。
「ここまで明細を公開されたことは、我らの政庁でもなかった。ましてや軍が……」
榎本は静かに頷いた。
「これが我らの方針だ。金は民の血と汗である。それを隠すことは、民を欺くことと同じだ。我らは軍である前に、統治者として正直であらねばならぬ」
――
その言葉を聞いた芹沢鴨が、低く笑った。
「なるほどな。剣で押さえつけるより、帳簿で納得させた方が早いってわけか」
土方歳三が脇から皮肉を飛ばした。
「お前のように酒代を誤魔化す輩には厳しい世の中になるな」
場内がどっと笑いに包まれ、重苦しかった空気が少し和らいだ。
――
しかし、現地商人の一人が腕を組んで言った。
「だが、軍の帳簿が本当に正しいと、どう証明するのだ? もし偽りがあれば、我らは知るすべもない」
その問いに、岩崎がすかさず返した。
「だから監査役を置く。日本人だけではない、お前たち現地の者からも選ぶ。双方で帳簿を突き合わせ、もし誤りがあれば即座に正す。それが“公開監査”だ」
会場が再びざわついた。監査役に現地の人間を入れるなど、誰も想像すらしていなかったからだ。
榎本は続けた。
「戦はただ武で勝つものではない。心で勝たねばならぬ。透明な帳簿は、その心を証すものだ」
――
やがて帳簿の中に「保険準備金」の項目を見つけた年配の商人が首を傾げた。
「これは何のための金だ?」
岩崎がにやりと笑い、図を描き始めた。
「船が沈むこともある。病で荷が腐ることもある。その時に備えて、前もって積む金だ。つまり、もしもの時に現地の商人や民が損をしないよう、我らが保障する積立金だ」
商人たちの顔が驚きで広がった。
「軍が、我らを保障する……?」
「まるで親のようではないか」
その声に、芹沢鴨が笑って肩をすくめた。
「親かどうかは知らんが、奪うより守った方が得だってことだ」
――
夕刻、会議の締めくくりに榎本が改めて宣言した。
「会所費、通訳費、接遇費――総額一万二千両。この金の流れは全て公開する。そして保険準備金は、必ず現地のために使う。……これを今日、この場で約す」
彼は机に手を置き、現地代表の目を真っ直ぐに見つめた。その眼差しに嘘はなく、誰もがその誠意を感じ取った。
やがて、年老いた文官が立ち上がり、深々と一礼した。
「これほどまでに明確な会計を見たことはありません。これならば民も安心しましょう」
その言葉に、会場から大きな拍手が巻き起こった。
――
会議が終わる頃、夕陽が台南城の白壁を朱に染めていた。芹沢隊の面々は門の前に立ち、帰路につく商人たちを見送った。永倉新八がぼそりと呟いた。
「金を公開する軍……奇妙だが、悪くねぇ」
斎藤一が静かに応じる。
「武よりも数字が人を縛る。それが新しい戦の形なのだろう」
榎本は空を仰ぎ、胸中で思った。
――これでようやく、台湾統治の“信”を得た。剣も砲も必要だ。だが数字が示す信頼こそ、人心を繋ぐ鎖となる。
暮れかけた空に、赤く染まった雲が流れていた。それはまるで、新しい時代の灯が台南から立ち上るかのように見えた。
夕陽が台南城の城壁を赤く染めていた。南国の陽光はなお強いが、海風が吹き込む大堂の中には、一日の熱気を洗うような涼しさが漂っていた。
広間の中央には、竹竿に結わえられた二本の旗が掲げられている。ひとつは日の丸、もうひとつは台湾府の旗印。赤と白の布が並んで風に揺れ、その様子を見上げる人々の目に、新しい時代の予感が映っていた。
「……ついに、並んで立ったか」
榎本武揚が低く呟いた。目の奥には疲労が深く刻まれている。それでもその声は、確かな手応えに満ちていた。
傍らの芹沢鴨が、無骨な腕を組んで城壁を仰いだ。
「白旗を揚げさせるより、並んで掲げさせたほうがよほど難しい。だがやってのけたな」
「難しいからこそ、価値があるのだ」
榎本は口元にかすかな笑みを浮かべた。
「この旗は征服の印ではない。協力の証だ。……藤村様が東京で言っておられた。“統治とは人心を得ること”と」
その名が出ると、場にいた者たちの顔が引き締まった。彼らは皆、遠く東京に残る藤村の指示を受け、この台南会議に臨んでいたのだ。
――
現地官僚の代表が、一歩前に進み出た。年老いた文官で、薄い灰色の衣をまとい、震える手を合わせながら深々と礼をした。
「これほどまでに我らの声を聞いてくださった軍勢は、かつてございませんでした。民もまた安心するでしょう」
通訳を介した言葉に、芹沢は一瞬きょとんとした顔を見せ、すぐに豪快に笑った。
「安心だと? 俺たちは恐れられてばかりの連中だったがな。まあ、たまには褒められるのも悪くねえ」
土方歳三が横から小さく咳払いした。
「芹沢さん、口が過ぎる。……だが、本当にそうだな」
彼の眼差しもまた、赤く染まる旗を見つめていた。
――
夕暮れの大堂に机が運ばれ、最後の署名が行われた。三条条約の写しが広げられ、現地代表と日本側の指導者たちが、ひとつずつ筆を走らせる。
「海防治安、日本軍が担う」
「税制、三年間据置」
「学校と病院の設置」
条文は短いが、その中に込められた意味は重い。榎本は署名を終えると、深く息をついた。
「これで、戦は終わった。ここからは共に治める時だ」
署名を終えた現地高官たちが互いに顔を見合わせ、やがて静かに頷いた。
――
夜が近づくと、広場に篝火が焚かれた。光に照らされた人々の顔は、昼間の緊張から解き放たれ、どこか安堵の色を帯びている。子どもたちが恐る恐る日本兵の近くに寄り、渡されたパンを受け取って笑顔を見せた。その光景に、兵たちの表情も緩んだ。
「征服軍ではなく、救援軍……」
永倉新八が低く呟いた。
「俺たちがこんな役を担うとはな」
斎藤一が焚き火の向こうから答えた。
「剣だけで世を変える時代は終わったのかもしれん。今は、信頼と秩序で戦を制すのだ」
――
その夜、榎本は帳簿を前に一人で筆を取った。今日の経費、配給数、救護者数――すべて細かく記録する。墨の匂いが漂う書面を見つめながら、彼はふと遠く東京を想った。
「藤村様……。我らはここで、人心を得ました。剣ではなく、数字と約定で」
彼は筆を置き、静かに窓の外の旗を見上げた。闇の中でも、篝火に照らされた日の丸と台湾府旗が並んで揺れている。その姿はまるで、ひとつの大きな灯となって夜を照らしているかのようだった。
――
一方その頃、東京でも藤村は報告の文を読んでいた。夜更けの執務室で、手元の蝋燭に照らされた紙を見つめる。そこには「台南会議無事終了」「三条条約締結」「現地安堵」と記されていた。
藤村は静かに頷き、胸の奥で呟いた。
――これこそが、新しい日本の姿だ。征服ではなく協力。恐怖ではなく信頼。
窓の外には江戸の夜桜が散り、月明かりが庭を白く照らしていた。その光景は、遠く台湾の篝火と重なって見えた。
――
台南の空には星が瞬いていた。榎本たちの背後で旗が揺れ、商人も兵も子どもたちも、同じ灯の下に集まっていた。
「台南会議は征服の終わりではなく、協力の始まりだ」
榎本は静かに言った。
その言葉は、海を越えて東京に届くかのように広がっていった。
――こうして、異民族同士が理解し合い、共に歩む新時代の第一歩が刻まれたのであった。