153話:(1869年5月上旬/初夏:D±0)夜明けの白旗
五月の風がまだ柔らかく、東京城の石垣に新緑の光を映していた。初夏の陽は清々しく、しかし藤村の胸中は重く張り詰めていた。今日は、長き準備の果てに迎える「その日」である。台湾基隆港への本格上陸。数年の歳月と幾百万両の資金を費やし、軍事・外交・経済を総動員して築き上げた国家の総力戦が、いま現実となろうとしていた。
「時刻、午前五時四十五分。基隆沖、上陸部隊配置完了との報」
電信局の若い伝令が駆け込む。息を切らせながら差し出した紙片には、現地から打たれた短い報告が並んでいた。藤村はそれを受け取り、深呼吸をしてから目を通す。インクで刻まれた点と線の羅列は、冷たくもあり、どこか血が通った鼓動のようでもあった。
――「夜明ケノ光、水平線ニ在リ。基隆港岸ニ動揺少シ。上陸準備完了ス」
静かに読み上げると、居並ぶ参謀や文官たちが一斉に息を呑む。戦いの口火を切る前の、凍りつくような一瞬であった。
時をほぼ同じくして、遠く南の海では、榎本武揚率いる艦隊が基隆湾に姿を現していた。空は淡い朱に染まり、朝陽が波頭にきらめく。甲板に立つ兵たちは整然と並び、緊張と興奮を胸に秘めながら、歴史的瞬間を待ち構えていた。艦上に響くラッパの音は、まるで新しい時代を告げる合図のように澄んでいた。
その様子を直接に見ることはできぬ藤村であったが、電信の一文一文が、鮮やかな絵の具のように脳裏に情景を描き出した。港の入り口に漂う白い旗――。それは降伏の印であり、流血を避けようとする意思の表れであった。
「……白旗が掲げられたか」
藤村は誰にともなく呟いた。その声には安堵とともに、深い感慨が滲んでいた。何百、何千の兵が銃を構え、砲門を向けているその前に、一枚の布が差し出されたのである。かつての戦は、力と力が衝突し、町や村が焼かれるのが常であった。しかし今回は違う。準備に準備を重ね、無益な流血を避ける方針を貫いた。その成果が、あの白旗なのだ。
「総裁様、榎本海軍総督からの追報です」
新たな紙片が差し出される。藤村はそれを手に取って目を走らせた。
――「港湾防備兵、抵抗セズ。武装解除ノ意志ヲ表明ス。住民一部、警戒スルモ混乱少ナシ」
その報を読み終えると、重臣たちの間にどよめきが走った。大村蔵六は拳を握りしめ、感慨深げに言葉を洩らした。
「これは……近代戦の幕開けだ。無差別砲撃でなく、交渉と布告で戦を始めるとは」
「流血を避けられるとは、奇跡に等しい」
象山も目を細め、安堵の息を吐いた。藤村は頷きながら、しかし心を引き締めた。
「まだ始まったばかりだ。白旗は入口に過ぎぬ。真価はこれからの統治にある」
窓外の庭には、春の若葉が朝風に揺れていた。藤村の脳裏には、白旗の下に整然と並ぶ兵士たちの姿が浮かぶ。榎本が前に立ち、港の守備隊と視線を交わす。彼らもまた人の子であり、家族や故郷を背にして立っている。敵であろうと、尊厳を踏みにじることは許されぬ。藤村は胸の奥で改めてそう誓った。
「記録せよ。本日、慶応五年五月上旬、台湾基隆港において日本軍上陸。住民抵抗せず、白旗を掲げ受け入れを表明。第一段階、成功」
書記官が素早く筆を走らせる。墨の音が、歴史を刻む音に聞こえた。
やがて新しい電文が届いた。榎本の筆致が目に浮かぶような簡潔さである。
――「白旗確認後、武装解除開始ス。住民保護ヲ厳守スベシ」
藤村は深く息を吸い込み、周囲を見回した。
「これでよい。敵を倒すのではなく、治める。統治とは秩序を築くことだ。これが我らの戦の形だ」
その言葉に、大広間の空気は次第に落ち着きを取り戻していった。戦場は遠く台湾である。だが、ここ東京で下された理念が、海を越えて現地に反映されている。そう実感することが、藤村にとって何よりの誇りだった。
陽は高く昇り、障子の影を鮮やかに映し出した。白旗から始まった一日は、すでに新しい歴史の幕を開けていた。藤村は机上の地図を見下ろし、まだ記されていない未来の線を指でなぞった。
――この道は、必ず日本を次の時代へ導く。
江戸城二の丸電信局。藤村は窓際の長椅子に腰を下ろし、立ち働く伝令たちを見守っていた。広間の中央には巨大な地図が据えられ、台湾の海岸線に赤い印が並んでいる。基隆、淡水、打狗。今日はそのうち基隆が焦点だった。
「新着電文!」
報告とともに差し出された紙片を、藤村は受け取った。墨の点と線で刻まれた短い文章を目で追い、静かに読み上げる。
――「武装解除開始。敵兵、整列シ銃ヲ降ス。乱無シ」
室内の空気がわずかに和らぐ。榎本以下、現地部隊が混乱なく投降を受け入れている様子が目に浮かんだ。
「……兵を人として扱う。それが我らの方針だ」
藤村の声は柔らかかったが、確かな重みを持って響いた。
さらに数分後、次の報が入る。
――「銃二百余、刀槍三百余、丁寧ニ収容完了。捕虜兵士ハ食糧配給中」
読み上げる書記官の声に、驚きの色が混じった。「捕虜に食糧」とは、これまでの戦場ではまずあり得ぬ処遇だったからだ。
「敵兵といえど飢えたまま放置すれば、再び暴発する。食を与え、礼を示せば、秩序は保たれる」
藤村の言葉に、若い官僚が深く頷いた。人道と実利を兼ね備えたやり方に、誰もが感心していた。
次の電文は、ひときわ重要であった。
――「現地高官二名、身ノ安全確保済。官邸保護完了」
藤村はその文字を見て、ようやく深く息を吐いた。
「これでよい。支配の継続性は人を守ることから始まる。高官を処刑すれば民は混乱し、統治は瓦解する。彼らを守ることこそ、秩序を守ることだ」
背後で大村蔵六がうなずき、短く言葉を添えた。
「旧来の“皆殺し”や“焦土”では、戦は続いても国は滅ぶ。……ようやく我らは、近代の戦を歩み始めたな」
その間にも電信機はカタカタと鳴り、伝令の声が飛び交っていた。
――「捕虜兵士、二百五十名。順次、臨時収容所へ移送中」
――「住民一部、港周辺ニ避難。騒乱無シ」
報告は淡々としていたが、そこに込められた意味は重い。命が失われず、秩序が保たれているという事実。
藤村は地図の上に視線を落とし、指で基隆の港をなぞった。
「白旗から始まった一日は、今、三段階目に進んだ。武器を収め、人を守り、秩序を築く――これが我らの戦だ」
やがて一人の若い書記官が、感極まったように声を漏らした。
「総裁様……戦争で、ここまで丁寧に人を扱うことができるとは……」
藤村はその顔を見やり、静かに微笑んだ。
「人を粗末にすれば、勝っても禍根を残す。人を守れば、負けても未来が残る。我らは、勝ち、そして未来も残す。そのための道を歩いている」
障子の外では、春の陽がいっそう明るさを増していた。基隆の海にも、きっと同じ朝陽が差しているに違いない。だが、その光は、銃口や炎ではなく、白旗と人々の安堵の顔を照らしている。
藤村は心の中で、遠く南の海に立つ榎本たちへ言葉を送った。
――よくやった。この道は正しい。
基隆の町に、まだ煙の匂いが漂っていた。砲声はすでに止み、銃は降ろされ、港には白旗がはためいている。それでも人々の心には不安が根を張り、家々の扉は半ば閉ざされたままだった。
そんな中、町の広場に臨時の配給所が設けられた。机の上には籠に詰められた焼き立ての小麦パン、そして木箱に並べられた薬瓶や包帯。人々は半信半疑のまま距離を取り、その様子を見つめていた。
「さあ、始めましょう」
前に立ったのは、お琴だった。白い外套の裾をきりりと整え、声を張る。彼女の隣には楓が立ち、薬箱を抱えて控えている。二人の女性が戦場のただ中で配給を指揮する姿は、それ自体が異例だった。
最初に近寄ってきたのは、痩せた少年だった。裸足の足は泥にまみれ、頬はこけている。彼の手に、恐る恐るパンが渡された。
「食べてごらん。安心していいのよ」
お琴が柔らかく言うと、少年は一口かじり、目を見開いた。香ばしい香りと温もりが口いっぱいに広がったのだ。
その様子を見ていた周囲の人々の間に、ざわめきが走る。やがて数人の老人や女たちが、おそるおそる列を作り始めた。
楓はその列に近づき、ひとりひとりの顔を確かめながら薬を手渡す。
「熱が出ていませんか。咳は?……この薬は、熱や痛みを抑えます。心配はいりません」
彼女の声は静かだが、確かな安心感を与えた。
港の外れには検疫線も設けられていた。白布に赤い印が描かれ、兵士たちが人々を順に案内する。そこで身体の具合を確認し、伝染病が広がらぬようにしていた。
「これほど早く検疫線を敷いた軍は、かつて見たことがない」
現地の老人が驚きの声を上げる。
「占領軍ではなく、まるで救援軍のようだ……」
別の商人がつぶやいた。
その声を耳にした藤村の家臣の一人が、胸を張って答えた。
「我らは敵ではない。秩序を保ち、共に生きるために来たのだ」
夕刻近く、広場には配給を受けた人々の小さな笑顔が増えていた。子どもたちはパンを分け合い、老人たちは薬を手に安堵の息をついている。
お琴はその光景を見つめ、そっと呟いた。
「敵も味方もない。ただ困っている人を助けるだけ……」
その言葉に楓が頷き、柔らかく笑んだ。
「ええ。今日ここにあるのは、剣よりも薬とパンの力ですね」
二人の姿は、兵士たちにも深い影響を与えていた。武器を携えた彼らでさえ、「戦い」とは何かを問い直す瞬間となったのだ。
その夜、臨時本部に届いた報告書にはこう記されていた。
《住民救済活動、順調ニ進ム。反発少ナク、協力姿勢見エ始ム》
紙の上の簡潔な一文。しかし藤村が東京でそれを読んだとき、胸の奥に熱いものが広がった。
――戦の勝敗は、刀や銃だけで決まらない。心を得られるかどうか、それが未来を左右する。
基隆の夜空には、新しい火が灯っていた。炎ではなく、人々の心に芽生えた安堵と希望の灯であった。
基隆の港は、まだ上陸作戦の余韻を残してざわめいていた。
瓦屋根の下から顔を覗かせる商人や行商人、荷駄を抱えた人足、そしてそれを取り囲む日本兵たち。いつ流血に変わるかわからない緊張の空気を、榎本武揚は冷静な目で見渡していた。
「よいか、ここで乱れを許せばすべてが瓦解する」
彼は肩越しに控える主計官へと短く告げた。
兵士たちが手にしているのは銃ではなく、紙束だった。墨で「臨時港湾手形」と大きく記された帳票である。これこそ藤村総裁が事前に練り上げた制度だった。物資の売買はすべてこの手形を通し、適正価格を幕府側が保証する――混乱に乗じた暴利を防ぐ仕組みである。
「手形なぞ、にわかに信じられるものか」
最前列に立つ現地商人の一人が腕を組み、疑わしげに眉をひそめた。
主計官は一歩前に進み、穏やかな声で答えた。
「値は我らが定め、支払いは現銀で即日。品を納めればその場で引き替える。騙しはない」
その背後で、兵士たちが帳場を設え、銅銭と銀貨の秤を並べていく。通りの人々の間に、ざわ……とさざめきが走った。
榎本は静かに頷いた。
「これはただの紙切れではない。――信用の証だ」
やがて、一人の魚商人が恐る恐る前に出てきた。彼の手には桶いっぱいの干魚がある。
「……では、これを」
差し出すと、兵士が品を検分し、主計官が手形に印を押す。銅銭の音がじゃらりと響き、商人の掌に重みが落ちた。
「……本当に、受け取れた」
商人の声が震え、それを聞いた周囲の者たちが一斉にどよめいた。
「次はわしだ!」
「薬草を売る、見てくれ!」
行列が伸び、兵士たちは忙しく印を押し続けた。
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昼過ぎには、混乱は完全に鎮まっていた。
港の広場には臨時の掲示板が設けられ、「通関六〇分目標」と墨で大書されている。手形を持つ者はそのまま列に並び、検査と計量を終えれば一時間以内に荷が捌ける仕組みだった。
「これなら……安心して商いができる」
行列の中からそんな声が上がり、別の商人も頷いた。
「今までは誰に袖の下を払えばよいかも分からず、いつ取られるか怯えていた。これなら公正だ」
榎本はその言葉を聞きとめると、背筋を伸ばした。
「藤村総裁の狙いはそこにある。秩序ある経済こそが統治の第一歩だ」
その日の夕刻、基隆港から一本の電信が東京へ送られた。
《基隆港 臨時手形制度 即日実施 混乱収束 通関六〇分達成》
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東京・総裁府。
藤村晴人は、薄明かりの差し込む執務室でその報告紙を受け取った。窓の外にはまだ春の冷気が漂い、庭の桜は風に吹かれて散り始めていた。
彼は文面を静かに読み上げ、目を閉じた。
「……よし、計画通りだ」
机上には、かつて書き上げた制度草案の控えが広げられている。そこには走り書きで「略奪を禁じ、正価で買う」と赤字が引かれていた。
「戦場にあっても秩序を保てるならば、それはすでに戦場ではない。そこにはもう市場と生活が戻っている」
藤村の呟きに、側近の官僚が深く頭を下げた。
「総裁。民の声を裏切らぬ制度が、ここに息をしております」
藤村は静かに筆を取り、報告紙の余白にひと言だけ書き加えた。
《戦場を市に。征服を協力に》
墨痕鮮やかなその文字は、淡い春の日差しの中で黒々と輝いていた。
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その頃、基隆港の広場では、陽が傾くと共に人々の顔に笑みが戻りつつあった。商人は手形を携えて帰路につき、子どもたちは兵士に手を振り、兵士はその小さな掌を握り返していた。
榎本は胸の奥で思った。
――この秩序を築いたのは藤村だ。だが、それを実際に動かすのは我らだ。
港の防波堤の上に立つ白い旗は、もはや「降伏の印」ではなかった。
それは「新しい秩序が芽生え始めた」証として、夕焼けに照らされて揺れていた。
基隆港の白旗から始まった一日は、夕刻には落ち着きを取り戻し、港の通りには規律あるざわめきが戻っていた。だが榎本武揚と共に臨港庁に詰める主計官たちにとって、ここからが本当の仕事だった。
机の上に広げられたのは分厚い帳簿。墨でびっしりと数字が並び、そこに赤鉛筆で「三万両/〇・六万ドル」と大きく記されている。これは上陸作戦にあてられた予算の総額だった。
「大将、これが本日の支出です」
主計官が榎本に一礼して紙束を差し出す。榎本は受け取り、黙って目を通した。
項目は細かい。パンの配給にかかった粉代と焼き窯の燃料費、薬品調達に充てられた銀貨、港湾手形発行に伴う紙と印刷代、そして燃料である石炭と灯油の費用――。
「無駄弾、一発も撃っておらぬな」
榎本が目を細めた。砲術長が横から即座に頷く。
「はい。砲台への威嚇射撃も、最小限の弾で済ませました。計算上の消費弾薬量はわずか三分の一です」
「よし。残弾を温存できれば、それだけ補給線の負担も減る。……だが報告は東京に即送せねばならぬ」
榎本は視線を電信兵に向けた。若い兵が背筋を正し、送信器に手を置く。
《基隆上陸作戦費 三万両/〇・六万ドル以内執行 浪費無 予算内運営完了》
打鍵の乾いた音が、臨港庁の天井に規則正しく響いた。
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一方その頃、東京・江戸城総裁府。
藤村晴人は、報告電文が届くのを待ちわびていた。机の上には遠征特別会計の原簿が開かれ、紙面には「支出上限 三万両/〇・六万ドル」と太い墨で書き込まれている。
伝令が息を切らして駆け込み、紙片を差し出した。藤村は無言で受け取り、目を走らせる。
「……やったな」
思わず吐き出すような声だった。手の中の報告紙には「予算内運営完了」の文字。余分な支出は一切なく、想定どおりの範囲内で作戦が終結したことを示していた。
「総裁、従来の戦では、戦費は常に倍額に膨れ上がるものでした。しかし――」
脇に控えていた監査役が、紙を握りしめたまま感嘆を漏らす。
「今回は違う」
藤村は机に指を置き、静かに言った。
「一銭の無駄も許さない。戦争は血を流す場であると同時に、金を流す場でもある。……その金を律せぬ国は、結局、戦でも負ける」
窓の外には、春の雨上がりの空が広がっていた。石畳に反射した光が執務室に揺れ込み、帳簿の墨跡を淡く照らした。
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夜。再び電信が届いた。
《主計官談 本作戦 最も効率的資金運用 士気高揚》
藤村はそれを読み、胸の奥で深く頷いた。
――戦争だから浪費してよいわけではない。むしろ戦争だからこそ、最も厳しく管理せねばならぬ。
その理念が、現場で実際に形となり、兵士たちの士気にさえ影響を与えている。金の流れが正しければ、心も乱れない。秩序ある戦費運営は、戦場全体の規律そのものに直結するのだ。
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基隆の臨港庁。
夜灯に照らされた机の上で、主計官たちは最後の計算を終え、そろって大きく息を吐いた。
「ここまで細かく勘定をつけた戦は、聞いたことがないな」
ひとりが笑うと、別の者も頷いた。
「だが……やってみれば、戦の姿も変わるものだ。銭勘定を正せば、兵もまた正しく動く」
榎本は窓辺に立ち、暗い海を見下ろしていた。波間に灯るのは、港に設けられた検疫灯火。整然と並ぶその光を眺めながら、彼は思った。
「金も光も、秩序の象徴だ。乱れぬ光が港を護り、乱れぬ勘定が軍を護る」
彼の背後では、主計官が報告書を封じていた。封蝋の赤が夜灯に照らされ、ほのかに輝いた。
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東京の藤村は、その報告が届く前に机上の帳簿を閉じた。
「明日の朝には詳細が届くだろう。だがもうわかっている」
彼は胸の内で呟いた。
――この戦争は、武力だけでなく、数字の上でも勝利しつつある。
灯心を絞ったランプの光が、机の端で小さく揺れた。墨の匂いと油の焦げる匂いが混じり、静かな夜を満たしていた。
藤村の耳には、遠く基隆の海で響くはずの波音が、不思議とはっきりと届いているように思えた。
その日の夕刻、東京・江戸城総裁府の執務室には、ひときわ重い沈黙が流れていた。窓の外は茜色に染まり、春とはいえまだ冷えを残す風が障子を揺らす。机の上には、基隆から届いた電信の写しが何枚も重ねられていた。
《基隆港上陸完了/抵抗なく白旗掲揚/投降兵武装解除済/現地高官保護完了》
《パン三千斤配給/基礎薬品五百箱配布/検疫幕舎設置済》
《港湾手形臨時発行/通関六十分内運営開始/混乱なし》
《作戦費用三万両/〇・六万ドル/予算内運営完了》
一枚一枚の紙に刻まれた文字を、藤村はじっと見つめていた。墨跡は冷たく無機質だが、その背後にある光景は、鮮やかに彼の脳裏に浮かんでいた。
――港に掲げられた白旗。
――投降兵の武器を丁寧に回収する兵士たち。
――飢えた住民へパンを配るお琴と楓の姿。
――医師が検疫幕舎を組み立て、子どもに薬を手渡す場面。
――商人たちが手形を掲げて列に並び、規律正しく取引を始める光景。
数字の背後にある「人の営み」が、紙の向こうから藤村の胸を打った。
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「総裁」
控えていた監査役が、報告の束を差し出した。
「本日の基隆港上陸に要した費用、三万両/〇・六万ドル、予算内にて完全処理済みとのこと。主計官は『これまでの戦で最も効率的な資金運用』と申しております」
藤村は頷き、帳簿を開いた。そこには、精密に刻まれた数字が整然と並んでいた。弾薬消費量、灯火油、石炭、配給費――。すべてが収まるべき所に収まり、一銭の浪費もなかった。
「数字は正直だな」
彼はぽつりと呟いた。
「流血を避け、住民を救い、経済を保ち……しかも予算を守った。これはただの戦争ではない。“近代国家の戦”だ」
監査役は深く頷いた。
「はい。これならば列強にも胸を張れましょう。乱暴狼藉どころか、規律と節度をもって作戦を進めているのですから」
藤村は窓外を見やった。空は朱から群青へと移ろい、遠くには江戸の町灯りが瞬き始めていた。
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その頃、基隆港でも夕暮れが訪れていた。
崩れた防波堤を修繕する作業に、日本兵と現地住民が肩を並べて汗を流していた。傷ついた船板を釘で留める音、荷を運ぶ掛け声、そしてパンを頬張る子どもの笑い声――。
日章旗は港の丘に高く掲げられ、潮風にはためいていた。だがその旗の下で繰り広げられていたのは、征服の光景ではなく、協力の光景であった。
榎本武揚は、その様子を見ながら小さく呟いた。
「これこそが、我らの目指した統治だな」
現場の兵もまた、それを肌で感じ取っていた。誰もが「戦っている」というより、「築いている」という実感を持ち始めていたのだ。
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江戸城。
藤村は、基隆から届いた最後の電報を手にした。
《現地住民 復旧作業参加 協力的雰囲気形成 白旗は“降伏”でなく“共生の始まり”》
藤村はその紙を胸に押し当てた。
「白旗は、屈辱の印ではなかった。……新しい時代の夜明けを告げる旗だったのだ」
その声は、執務室にいた者全員の胸を震わせた。
「我らは征服者ではない。秩序をもたらす者であり、救済をもたらす者だ。……この理念を忘れてはならぬ」
彼の言葉に、侍従も書記官も深々と頭を下げた。
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夜。
藤村は執務机に向かい、日記帳を開いた。そこに墨で、静かに記した。
《本日、基隆港上陸。白旗より始まり、血を流すことなく制圧完了。
民を救い、秩序を保ち、経済を動かす。これぞ我らが“鎮撫”の実践。》
筆を置き、彼はしばし灯火を見つめた。炎は小さく揺れながら、しかし確かに周囲を照らしている。その姿に、彼は日本の未来を重ねた。
「武力ではなく、人道で勝利する。これが、我らの戦だ」
障子の向こうで、初夏の虫が鳴き始めていた。静かな音が夜気に溶け、やがて新しい季節の訪れを告げていた。
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こうして台湾作戦の第一日目は終わった。
それは、ただの戦闘記録ではなく、人道と経済、そして理念によって「新しい統治の形」を世界に示した一日だった。
藤村は深く息を吐き、最後に心の中で呟いた。
――この旗の下にあるのは、征服ではなく協力だ。
――そしてそれこそが、近代国家日本の夜明けなのだ。