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152話: (1869年4月下旬/春:D-10)三港同時封鎖

春まだ浅い東京の夜明け。二の丸に設けられた作戦本部には、地図と航路図が壁いっぱいに張りめぐらされ、蝋燭の炎がゆらめいていた。時刻はまだ五つ半(午前五時前)。城内の空気は凍りつくような緊張に包まれている。


 作戦机の前に立つ藤村晴人は、掛時計を見上げた。針は確かに「六時」に近づいている。まもなく榎本総督率いる東洋艦隊が台湾近海で同時行動に移るはずだった。


 ――基隆、淡水、打狗。三つの港を一挙に封鎖する。


 これまでの日本にはなかった規模と精密さを要する作戦。藤村の胸の奥では、鼓動が波のように早まっていた。


 「電信、入ります!」

 象山が声を張り上げ、短打を紙に記して藤村へ差し出した。そこにはただ一行、榎本の名と共に刻まれている。


 《時刻0600 全艦一斉行動開始》


 室内にどよめきが走った。参謀の大村は眼鏡を押さえ、静かに頷いた。勝海舟は腕を組み、「いよいよだな」と呟く。


 藤村は紙を見つめ、深く息を吸った。

 「……動いたか」


 次々と電信が舞い込む。

 「基隆方面、分艦隊出航」

 「淡水方面、予定通り行動」

 「打狗方面、異常なし」


 伝令が読み上げるたび、室内の人々は顔を見合わせ、黙って頷いた。誰も声を荒げない。ただその緊張と期待が、蝋燭の火よりも強く燃えていた。


 藤村は地図に目を落とし、指先で三つの港をなぞった。

 ――今、この瞬間に、台湾の三つの港で砲声が響こうとしている。だがそれは破壊のためではない。新しい戦の在り方を示すためだ。


 「記録に残せ」

 藤村が低く命じると、書記役たちが筆を走らせた。


 榎本は現地で艦隊を操り、大村は参謀として全体を組み上げる。だが藤村の務めは、ここ東京で全体を統御し、戦いを「数字」と「制度」に置き換えて未来へ繋ぐことだった。


 ――歴史は二つの場所で同時に動いている。遠い台湾の海と、この東京城の作戦机の上で。


 窓の外では、春の陽が差し込み始めていた。桜の花びらが散る庭を、かすかな風が渡っていく。藤村はその光景を目にしながら、心の奥で呟いた。


 「近代戦の幕開けだ……」

午前九時過ぎ、作戦本部に新しい電信が届いた。象山が素早く点と線を紙に写し取り、大村へ手渡す。


 「基隆方面より報告――『砲撃開始。砲台機能停止。民家被害ゼロ』」


 場に一瞬、静寂が落ちた。誰もが息を呑む。やがて勝海舟がうなずき、低い声でつぶやいた。

 「……やりおったか。あの短時間で砲台だけを潰すとは」


 続けて淡水方面からも入電があった。

 《砲撃限定。砲門三基沈黙。弾薬庫爆発回避成功。被害軽微》


 「よし!」と誰かが声を上げた。だが藤村は静かにその紙を受け取り、じっと目を通した。


 ――威嚇はするが、破壊は最小限。これまでの戦争とは全く異なる姿だ。


 机の上の地図に視線を落としながら、藤村は独り言のように言った。

 「民家を焼けば恨みを買う。だが砲台を黙らせれば、港は安全になる。……これが“鎮撫”の実践だ」


 傍らの大村が補足するように言った。

 「砲術長からの報告では、狙撃の角度・炸薬の量をぎりぎりまで調整したとのこと。『砲台を無力化するのみ』と」


 「兵も緊張したでしょうな」象山が小さく笑った。「一発の誤射が取り返しのつかぬ火種になりますからな」


 藤村は深く頷いた。

 「だが、成し遂げた。……最小限の武力で最大の効果。これが我らの理念を証明する第一歩だ」



 昼過ぎ、三つ目の報告が舞い込む。打狗方面のものだった。

 《砲台制圧完了。砲兵降伏。港内損害軽微》


 藤村はその紙を見つめ、目を閉じた。胸の奥に静かな熱が広がっていく。


 「三港同時――すべて成功か」


 参謀や勘定方の顔に、ようやく安堵の笑みが広がった。これまでの無差別砲撃や焼き討ちとは正反対の方針。それを兵たちが現場で実行できたという事実が、何よりの成果だった。


 藤村は立ち上がり、作戦本部の壁に張られた布告草案を指差した。

 「見よ。『鎮撫』とはこのことだ。制圧ではなく、秩序の回復だ」


 その声に、若い将校たちの目が輝いた。彼らは初めて知ったのだ。砲声の向こうに、人を生かす戦の在り方があることを。

昼下がりの東京城。春の陽が障子越しに差し込み、作戦本部の広間に柔らかな光を投げかけていた。しかし、部屋の空気は張り詰めていた。机上には山のように積み上げられた紙束があり、その表紙には大書されている。


 《軍政暫規 三箇条》


 一、略奪を禁じ、違反は軍法会議に付す。

 一、必要物資は現金にて正当対価を払い、徴発を禁ず。

 一、敵味方を問わず、負傷者は等しく救護する。


 藤村はその紙を両手で掲げ、集まった参謀や役人たちに静かに語りかけた。


 「これは、単なる命令ではない。我らが行う戦いを“侵略”ではなく“鎮撫”とするための基盤である。兵が飢え、敵地の民を襲えば、我らはただの野盗と変わらぬ。……だが、この三箇条を守れば、日本軍は規律をもって進軍する軍隊と世界に示せる」


 勝海舟が、いつもの豪放な笑みを浮かべつつも真剣な声で言った。

 「いやはや、こりゃ兵には重い縛りだぜ。だがな、藤村、縛りがあるからこそ“軍”なんだ。好き勝手やる連中は兵じゃねえ。ただの暴徒だ」


 その言葉に若い将校たちは居住まいを正した。彼らの多くは、まだ実戦を経験していない。だが今ここで、戦の意味を知ろうとしていた。



 「とはいえ……兵たちが従えるでしょうか」


 一人の若い士官が不安げに口を開いた。彼は常陸藩出の新任で、顔にはまだ少年らしいあどけなさが残っている。


 「特に『略奪厳禁』は……これまで戦といえば“兵の勝手”が常でございました。腹を満たすために田畑を荒らすのが当たり前だったはず。それを禁ずれば、兵は飢えます」


 藤村はゆっくりと頷いた。

 「だからこそ、徴発ではなく“現金払い”を制度にするのだ。物を奪うのではなく買うのだ。商人や農民にとってもそれは新たな市場となる」


 机上の紙束をめくり、藤村は数字を示した。

 「この遠征のため、正規の銀貨十万枚を準備した。物資購入はすべて会計監査を通し、記録を残す。……一銭たりとも、無駄にはできぬ」


 「ほう、軍の中にまで勘定所を持ち込むとは」象山が目を細める。「これまでの戦は“奪ってまかなう”が常識だった。だが今や、兵站も帳簿で戦う時代だ」


 「まさにその通りだ」藤村は力を込めた。「略奪を禁ずることは、軍の胃袋を律することだ。胃袋を律すれば、戦も律せられる」



 そこへ新しい電信が届いた。象山が素早く解読し、声を張る。


 《打狗方面より:規則通達に戸惑いあり。兵士ら「戦といえば奪うもの」との声。だが、指揮官は厳正に徹底中》


 広間にざわめきが走った。やはり現場の兵たちには抵抗がある。だが同時に、指揮官たちが毅然と規則を守らせていることも伝わってきた。


 「ほら見ろ」勝が口を挟む。「兵ってのは、最初はぶつぶつ言うもんだ。だが、飯が出りゃ黙る。金が出りゃ笑う。人間なんざ単純なもんさ」


 「いや、だからこそ恐ろしいのです」藤村は表情を引き締めた。「一度でも規則が崩れれば、群衆は雪崩のように乱れる。最初の一歩を踏み外させてはならぬ」


 榎本からの補足電文も届いた。

 《現地商人、現金払いに驚愕。だが即座に供給応諾。兵は戸惑うも、買えば食えると理解しつつある》


 「……よし」藤村は息を吐いた。「これでいい。兵たちが金の重みを知れば、民の顔を見て物を受け取る。そこに“戦と経済の新しい形”が生まれるのだ」



 さらに第三の規則――負傷者救護の報告も届いた。


 《基隆方面より:敵兵負傷者を収容。日本軍衛生幕舎に搬入。兵の間に困惑あるも、軍医主導で実施》


 若い士官が驚いた顔をした。

 「敵兵まで救うのですか? それでは……味方の負担が増えるのでは」


 お琴がすっと前に出て、その声に答えた。

 「負傷者を救うのは、人道のためだけではありません。伝染病を防ぐためでもあるのです。傷を放置すれば腐り、疫病を広めます。敵兵をも救うことが、結局は我らの兵を守るのです」


 士官ははっとしたように頭を下げた。


 藤村は続ける。

 「この三箇条は“弱き者を守る”ためだけではない。我ら自身を守るためでもある。規律は枷ではなく盾だ」



 その時、暗号担当の兵が新しい報告を持ってきた。

 《基隆・淡水・打狗、三港にて暗号通信開始。符号表徹底。情報漏洩なし》


 象山が目を輝かせる。

 「よし。これで三港がひとつの声で繋がった。……情報こそが血脈だ。血脈が通えば、軍は生きる」


 「暗号まで徹底すれば、兵たちの意識も変わるだろう」藤村は静かに言った。「もはや野戦軍ではない。近代軍である」



 夕刻。作戦本部の広間に、蝋燭の炎が揺れていた。紙束を前に、藤村は深い声で締めくくった。


 「略奪は禁ず。物は買え。負傷者は救え。――この三箇条を守る限り、我らはただの戦争屋ではない。日本軍は秩序をもたらす軍隊だ」


 若い士官たちは深く頷き、胸の内に新しい熱を覚えていた。従来の戦争では味わえなかった誇りの芽生え。


 藤村はそれを見て、心の奥で確信した。

 ――この規則を守り抜くことこそ、日本が近代国家となる第一歩だ。


 障子の外では、春の夕闇が城下を包み始めていた。遠くで祭囃子が響き、桜の花びらが散っていた。

 だがその散りゆく花の下で、新しい戦の作法が静かに芽吹こうとしていた。

春の夕暮れ、東京城の勘定所はまだ明かりに包まれていた。障子越しの光が金色の筋を畳に落とし、広間には書記官や商人たちが列をなし、帳簿を前に緊張した面持ちを浮かべている。遠く海の彼方では三港封鎖作戦が進行しているが、この部屋もまた戦場であった。


 机上に並ぶのは、保険会社から送られてきた英文契約書、検疫条項、貨物目録、そして戦時臨時保険特約の覚書である。墨と蝋燭の匂いが入り混じり、紙の上には無数の数字と印判が躍っていた。


 藤村は扇を畳み、静かに言葉を落とした。

 「戦が始まろうとも、船は止めぬ。貨物は動き続けねばならぬ。――戦争とは国の息遣いだ。息を止めた者が先に倒れる」


 居並ぶ者たちの背筋が伸びた。



 まず議題に上ったのは、戦時保険料率の問題であった。通常、戦時に入れば海上保険は急騰する。危険が増せば保険会社は利率を跳ね上げ、商人たちは輸送をためらう。だが今回、藤村はその常識を覆そうとしていた。


 「臨時保険条項に“検疫遵守条件”を加えよ」


 そう言い渡すと、場内にざわめきが広がった。


 「検疫……でございますか?」商館に出入りする一人の通詞が尋ねた。

 「そうだ」藤村は頷く。「我らの軍は戦地でも清潔を守る。兵の糞尿も土に埋め、飲料水も煮沸し、病者は隔離幕舎に収容する。――その証拠を示せば、病疫による船舶損害の危険は最小限になる」


 勝海舟がにやりと笑った。

 「なるほどな。つまり“戦場にあっても病は広がらぬ”と証明してやれば、保険屋は利率を上げる理由を失うわけだ」


 藤村は扇を机に置き、きっぱりと言った。

 「我らは砲だけでなく、規律と衛生で信用を得る。――信用こそが最大の割引券だ」



 翌日、横浜から急報の電信が届いた。


 《保険会社会議:日本軍の規律・衛生管理を評価。保険料率、戦時上昇0.3ポイントを据置に決定》


 その文を読み上げた瞬間、広間にどよめきが起こった。驚きと安堵の声が交錯する。


 「戦時にもかかわらず、料率が据置とは前代未聞でございます!」

 「これならば商人も航路を止めずに済む……!」


 豪商の鴻池番頭は深く頭を下げた。

 「これで我らも胸を張って積荷を運べます。戦があっても経済は回る。――いや、戦だからこそ回さねばならぬのですな」


 藤村は静かに頷いた。

 「そうだ。兵は戦場で血を流す。だが、国は後ろで銭を流さねばならぬ。血だけでは国は生きられぬのだ」



 続いて取り上げられたのは、石炭・灯火・弾薬の三大資源管理であった。机上の帳簿には「石炭四万両」「灯火一万両」「弾薬一万両/一万五千ドル」の数字が並ぶ。


 主計官が額に汗を浮かべつつ報告した。

 「各港封鎖のための弾薬使用、従来の見積りでは過剰が多すぎました。しかし、今回“精密射撃”に徹したことで消費は予定の三分の二に収まっております」


 藤村は満足げに頷く。

 「無駄弾を撃たぬ。それは節約であると同時に、命の節約でもある。……弾が尽きては兵を守れぬ。兵を守れぬ軍は、国を守れぬ」


 さらに灯火の配置報告が読み上げられた。

 「夜間作戦用の灯火は計算のうえ配置され、油の消費量は二割削減に成功。加えて光の角度を一定に保つことで、信号誤認も減少しました」


 「いいぞ」藤村は声を低め、だが力強く言った。「節約とは、吝嗇ではない。智慧の証だ。智慧ある軍こそ、強き軍となる」



 日が暮れかけた頃、江戸城作戦本部に再び電信が届いた。榎本からの報告である。


 《基隆封鎖中、商人来訪。“現金払い”に驚愕。だが即座に米・塩を供給。兵士も買って食うことを理解》


 その報を聞き、藤村は机を拳で軽く叩いた。

 「よし。これだ。兵は奪わず、買う。民は怯えず、売る。――そこに秩序が生まれる」


 象山が感慨深げに呟いた。

 「秩序は砲ではなく、貨幣で築かれるのですな」


 「その通り」藤村は微笑んだ。「金は血だ。だが、血を流さずに済む金こそ、もっとも尊い」



 夜。勘定所の障子の外には春の月が浮かび、庭には桜の花びらが静かに散っていた。帳簿を閉じ、藤村はひとり呟いた。


 「戦中にあって経済を止めぬ。むしろ、戦中だからこそ信頼を積み上げる……。この道を歩めば、日本は“戦える商人国家”となる」


 その言葉を、傍らにいた若い会計官が深く心に刻み込んでいた。彼にとって今日の議論は、数字ではなく生きた教えだったのだ。


 藤村は庭を見やり、散る花びらに目を細めた。

 ――桜は散っても、種は残る。経済もまた然り。一時の戦があろうとも、信用の種を蒔けば、十年先、百年先に必ず芽吹く。


 静かな決意が、春の夜気とともに胸に広がっていった。

春の夜気はまだ冷たく、江戸城勘定所の広間には油灯がともされていた。机の上には厚い帳簿がいくつも開かれ、墨のにおいと紙の擦れる音が絶え間なく響く。外では桜が散りはじめていたが、この部屋に集う人々に季節を愛でる余裕はなかった。彼らが向き合うのは、石炭・灯火・弾薬という三つの資源、すなわち戦を支える命綱だった。


 「石炭四万両、灯火一万両、弾薬一万両と一万五千ドル」


 主計官が声を張り上げ、最新の執行額を読み上げる。数字の列が壁に掛けられた掲示板へ次々と書き加えられ、居並ぶ役人や商人の目に映る。


 藤村は扇を閉じ、静かに一言を添えた。

 「金は血だ。だが、血を流さずに済む金こそ、もっとも尊い。――だからこそ、一銭の誤差も許してはならぬ」



 まず議題となったのは石炭の消費であった。

 横須賀工廠から届いた報告によれば、三港封鎖に従事する外輪砲艦群の燃費は、従来予測より二割低く抑えられている。改修で導入された新式ボイラーと燃焼効率改善が功を奏したのだ。


 「石炭庫の在庫は十分。だが油断は禁物だ」


 藤村は石炭係へ視線を向けた。

 「風向きが変われば消費は一気に増す。必ず余剰三割を確保せよ」


 係官は緊張した面持ちで頷き、記録簿に余剰枠を書き込んだ。



 続いて灯火の報告が読み上げられる。

 「夜間作戦用の灯火は、配置を計算のうえ変更。従来の四十基を三十基に縮減。だが光の角度を一定にしたため、信号誤認は大幅に減少」


 報告を聞いた若い士官が感嘆の声を漏らした。

 「灯を減らして、かえって精度を上げるとは……」


 藤村はうなずき、言葉を添える。

 「数を増やせば良いのではない。智慧を重ね、工夫を積む。節約は吝嗇ではない――効率という名の力だ」


 その一言に、部屋の空気がわずかに和らいだ。



 最後に弾薬の報告が届く。現地からの電信紙を読み上げる書記官の声には緊張がこもっていた。


 《基隆・淡水・打狗、各港砲台への射撃、最小限にて制圧完了。総消費弾薬、予定の三分の二》


 「よし……!」


 広間に小さなどよめきが走った。砲撃による被害は最小限、しかも弾薬の消費は大幅に節減されたのだ。


 勝海舟が口元を緩めて言った。

 「無駄玉を撃たずに済んだ。こりゃあ、士気も上がるだろう。兵は自分たちが“計算の上で動いている”と知れば、安心するもんだ」


 藤村は深く頷いた。

 「弾は兵の命と同じだ。余計に撃てば、余計に死ぬ。節約は臆病ではなく、勇気の証明なのだ」



 会議の終盤、藤村は立ち上がり、掲示板に視線を投げかけた。そこには黒々とした数字が整然と並び、石炭・灯火・弾薬の執行額が一目でわかるようになっている。


 「これが近代の戦だ」


 低く、しかし広間に響き渡る声で語りかける。

 「刀や槍で突く時代は終わった。勝敗を分けるのは、規律と計算だ。数字を制する者が、戦を制する」


 沈黙のあと、誰からともなく力強いうなずきが広がった。



 夜、会議が終わった後も藤村は執務室に残っていた。障子の外には春の月が浮かび、庭には散り残った桜が白く照らされている。机の上には一日の記録簿が広がり、数字が列をなして並んでいた。


 「数字は嘘をつかぬ。だが数字を扱う人間は嘘をつく。――だからこそ、記録を明らかにする」


 彼は筆を取り、最後の記録欄に「監査済」と墨書した。


 それは、戦場に立つ兵たちへの約束であった。

 ――弾は足りる、石炭も灯火も切れぬ。心配なく戦え。後ろは我らが守る。


 静かな夜気の中、桜の花びらがひとひら、帳簿の上に舞い落ちた。藤村はそれを指で取り上げ、そっと閉じた。


 「数字もまた、花のように散ることがある。だが根がしっかりしていれば、また咲く。……それが財政だ」


 独りごちたその言葉は、灯の揺らめきに溶けていった。

江戸城の奥にある作戦室。春の夕刻、障子の隙間から差し込む光は赤く、机の上に広げられた電信紙の列を照らしていた。部屋の中央には大きな地図が据えられ、台湾の海岸線と三つの港――基隆、淡水、打狗――が朱で印されている。


 その地図を前に、藤村は静かに立ち尽くしていた。背筋は真っ直ぐに伸び、だが指先はわずかに緊張で震えていた。彼の周囲には勝海舟、榎本武揚からの使者、大村蔵六、陸奥宗光、さらに勘定所の主計官らが集まり、皆が次の一報を待っている。


 やがて、控えていた伝令が駆け込んできた。手にした電信紙を掲げ、声を張る。

 「基隆港、封鎖完了!」


 部屋の空気が一気に動いた。勝海舟が大きく息を吐き、腰に手を当てて笑みを浮かべる。

 「よし、まずは一つだ。基隆を押さえれば、北の出入り口は塞がる」


 続けて、別の伝令が入ってくる。紙を差し出す手は汗で濡れていた。

 「淡水制圧、電信にて確認!」


 ざわ、と人々がどよめいた。淡水は台湾北西の要衝であり、ここを制圧できなければ封鎖は片手落ちに終わる。藤村は目を閉じ、深く頷いた。

 「これで二つ……。残るは打狗」



 しばしの沈黙が訪れた。刻限はすでに酉の刻に差しかかり、空は群青に染まり始めている。障子の外からは、夜を告げる鐘の音が遠く響いた。


 そのとき、三人目の伝令が息を切らせて駆け込んできた。顔は煤に汚れ、だがその瞳は輝いていた。

 「打狗港確保――全艦異常なし!」


 瞬間、作戦室に歓声が弾けた。勝が机を叩き、陸奥は握り拳を固め、大村は深く息を吐いて天井を仰いだ。


 藤村は掲げられた三枚の電信紙を受け取り、机に並べた。その上に重ねるように扇を置き、低く言葉を発する。

 「基隆封鎖完了。淡水制圧。打狗港確保――三港同時封鎖、成功」


 重い沈黙ののち、誰もがその言葉をかみしめるようにうなずいた。



 勝海舟が口火を切る。

 「三港を一度に封じるとは、まさに史上初めての業だ。おぬしの計算通りだな、藤村」


 藤村は小さく首を振った。

 「いや、計算だけではない。兵の規律と、士官の采配、工廠の努力、財政の支え……すべてが輪となって噛み合った結果だ」


 その言葉に、陸奥宗光が深く頷いた。

 「これで国際社会も、日本の軍が無秩序な暴力ではなく、規律ある近代軍であることを理解するでしょう」


 勘定所の主計官が続ける。

 「弾薬消費、予算内で収まりました。浪費は一発もなし。これまでの戦とは一線を画すものです」


 藤村は静かに扇を閉じ、手にした電信紙をじっと見つめた。薄い紙に刻まれた点と線。それは、遠い海を越えて届いた声であり、未来を切り開く証でもあった。



 その夜、城の中庭に出ると、空には星が瞬いていた。春の夜風はまだ冷たいが、藤村の胸の内には確かな温もりがあった。


 勝が隣に立ち、低くつぶやく。

 「第一段階は、見事な成功だ。だが……」

 「……本当の戦いはこれからだ」


 二人の声が重なった。


 「港を封じるのは始まりに過ぎない。統治こそが真の勝負」


 藤村は遠く南の海を思い描きながら、言葉を続けた。

 「十日後には上陸が始まる。そこからが、我らの試練だ」


 夜風に桜の花びらが舞い、月明かりに白く浮かんだ。藤村はその光景を見上げ、静かに拳を握りしめた。


 ――三港同時封鎖成功。だが、これはただの序章である。

 ――次に待つのは、民を治め、土地を育てるという、真の戦の始まりだ。


 江戸の夜空に、鐘の音が再び響き渡った。

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