151話: (1869年4月上旬/春:D-30)鎮撫令
江戸城本丸。
四月の光は柔らかく、欄干を渡る風には桜の花びらが舞っていた。だが広間に集った面々の表情に、春の浮かれた気配は一片もない。敷かれた畳の上には長机が幾重にも並び、その奥に屏風が立てられ、そこに掲げられたのは台湾遠征の作戦地図である。赤と青の線が絡み合い、港湾、補給線、敵情の推定が細かく記されていた。
沈黙の中、慶喜がゆっくりと立ち上がった。黒紋付きの裾を正し、鋭い眼差しを広間に投げる。その声音は、柔らかさを帯びながらも威厳を失わぬものだった。
「諸君。この遠征は、単なる軍事行動ではない」
広間の空気が一層張りつめた。
「これは、日本が近代国家として歩み出すための試金石である。列強の目が我らに注がれている今、我らが行うべきは“征服”ではなく、“証明”だ。我らが秩序を築き、民を護る力を備えた国であることを、世界に示さねばならぬ」
その言葉に、周囲の武士たちだけでなく、洋服を纏った士官や学者までもが深く頷いた。誰もが、自分たちが歴史の大舞台に立たされていることを理解していた。
慶喜の隣に控えていた藤村晴人が、静かに前に出る。手にした扇を畳に置き、深く一礼してから声を発した。
「責任と権限の明確化こそ、この大事を成功させる鍵でございます」
彼の言葉は低く、しかし一語一語が鮮明に響いた。
「我らは五本の柱で立ちます。慶喜公を政治総司令に戴き、海軍総督・榎本武揚、参謀長・大村蔵六、電信総監・佐久間象山、そして軍政長官として拙者・藤村。この体制により、政治・軍事・情報・行政を一つにまとめ、責任の所在を曖昧にせぬことをここに宣言いたします」
広間にざわめきが走った。従来の日本における軍事行動では、責任が幕府、藩、将官と分散し、敗戦の度に責任のなすりつけ合いが繰り返されてきた。それを打破する新しい仕組みが、今ここで形を得たのである。
榎本武揚が立ち上がる。水兵服を模した青い軍服に、誇り高き眼差し。彼は大きく地図を示し、声を張り上げた。
「海軍は補給と制海を担います。艦艇二十四隻、総兵力二千。これにより、敵の動きを封じ、我が方の兵站を守り抜く。失敗は断じて許されぬ」
榎本の語気には熱がこもり、その背後の若い士官たちの顔も紅潮していた。
続いて、大村蔵六が静かに立った。蘭学医から軍略家に転じた異才、その表情は冷静そのものだ。
「戦の勝敗は、戦場にて決するものに非ず」
広間が息を飲む。
「勝敗は戦う前に決まる。兵站、配置、医療、橋梁……全てが揃えば勝つ。揃わねば敗れる。この遠征では“兵を失わぬ”ことを第一とする。数で敵を圧するのではなく、備えで敵を凌駕する」
彼の言葉は、従来の“数こそ力”と信じる武断派の武士たちに冷水を浴びせるようなものだったが、同時に抗う余地のない説得力を持っていた。
次に立ったのは佐久間象山。黒縁の眼鏡を外し、胸に手を当てる。
「電信は血管であります」
その声は熱を帯び、広間を揺さぶった。
「これまでの戦は、伝令が走り、馬が駆け、旗が翻ってもなお遅れが生じた。だが電信一本あれば、千里の先と瞬時につながる。電信を軽んじる者は、未来を捨てる者に等しい。我は遠征軍の電信全てを統括し、情報の流れを断たぬことをここに誓う!」
場に緊張と興奮が交錯する中、再び藤村が口を開いた。
「諸君、この遠征は“鎮撫”である。暴を抑え、秩序を立て、人を安んずること。それが我らの理念だ。敵を増やす戦ではなく、敵を作らぬ戦である。……だからこそ、権限を明確にし、誰もが己の役割を果たさねばならぬ」
その言葉に、慶喜はゆるやかに頷き、広間を見渡した。
「よいか。この国はもはや、藩ごとに分かたれた小さき国ではない。幕府と朝廷がひとつに動く、ひとつの政府である。ここにいる者すべてが、日本という船の乗組員なのだ。沈めば皆沈む。浮けば皆が救われる」
しんと静まり返る広間。やがて、どこからともなく畳を打つ音が響き、次いで一斉に頭を垂れる気配が広がった。
その瞬間、江戸城本丸の広間には、武士たちの武威ではなく、近代国家を築く人々の決意が満ちあふれていた。
障子越しに春の陽が差し込み、桜の花びらが一枚、畳の上に舞い落ちる。まるで新しい時代の幕開けを告げるかのように――。
四月の江戸。桜は散り、若葉が風に揺れる季節。だが江戸城西丸の奥に設けられた政務室には、春らしい和やかさは微塵もなかった。机の上に広げられたのは、海図だけではない。列強各国の公使館から届いた分厚い覚書、翻訳された外交文書の束が山のように積まれていた。
藤村晴人はその中央に座し、深く息を吐いた。
「軍が動く前に、まず“言葉”を動かさねばならぬ」
机上の蝋燭の灯が、彼の真剣な表情を照らし出していた。
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会議に列席していたのは、陸奥宗光、岩瀬忠震、そして勝海舟である。三人はそれぞれ外交、条約実務、軍政に通じた顔ぶれだ。
陸奥が紙束を指で叩きながら口を開いた。
「英米仏への通牒文、草案が整いました。“中立の保証”を明文化し、我が遠征をあくまで“内政の秩序回復”と位置づける。これならば、表向きは彼らも口出しできぬはずです」
「なるほど」藤村は頷いた。
「つまり、我らは“外国との戦争”をするのではない。“自国の秩序を正す”のだと示すわけだ」
勝海舟が口の端を上げ、煙管を弄びながら呟いた。
「列強は鼻が利く。武力の匂いにはすぐに群がるが、“面倒ごと”と見りゃ、意外と退く。こいつぁ悪くない策だ」
その言葉に、陸奥が薄く笑った。
「もっとも、油断はできません。特に清国の面子をどう立てるかが肝要です。台湾の地は清の版図と見なされている。もし彼らが“侵略”と叫べば、英仏も口実を得るでしょう」
場の空気が重くなった。
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その沈黙を破ったのは藤村だった。
「だからこそ“面子条項”だ。清にはこう通報する――『日本は秩序回復を支援するため、現地に軍を送る。だが領土を奪う意図はなく、住民の安全と交易の安定を第一とする』。……彼らの威信を守ってやるのだ」
「威信を守る、ですか」岩瀬が小さく笑った。
「なるほど、こちらは兵を動かしながら、相手には“顔を立ててやっている”と受け取らせるわけですな。これは、なかなかしたたかな一手です」
陸奥がすぐさま補足する。
「同時に、通報文の最後に“清国官吏が秩序回復に参加する余地を認める”と添える。実際には名ばかりの役割でもよい。だが、そうすることで彼らは“自分たちが排除されていない”と理解する」
藤村の目が光を帯びた。
「そうだ。戦とは、敵を増やさぬことから始まるのだ」
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勝海舟がゆっくりと煙を吐き出しながら、皮肉気に言った。
「お主は戦を“商売”のように語るな」
藤村は静かに笑みを返した。
「商売と戦は似ている。仕入れがあり、取引があり、利益がある。戦で得るものは土地や資源ではない。“信用”だ。信用を失えば、勝っても滅ぶ」
広間に沈黙が落ちた。だがその沈黙は、誰もが言葉を失ったのではなく、胸の奥で深く頷いている沈黙だった。
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やがて陸奥が再び口を開く。
「各国公使へは誰が届けるのですか」
「わたしが行こう」藤村は迷わず言った。
「軍政を担う者が直接言葉を運ぶことで、彼らも我らの本気を知るだろう」
陸奥は目を細め、低く言った。
「危険ですぞ。失言一つで全てが崩れる。ですが……藤村様なら、言葉の重みを正しく扱えるはず」
勝海舟が膝を叩いた。
「よし、決まりだ。通牒は正午に英公使館から始め、順に米、仏へと渡す。清への通報は同時に行う。こちらは使者を立て、江戸にいる清国代理に渡すのがよかろう」
「うむ」藤村は力強く頷いた。
「外交の場では刀も砲も不要。ただ一枚の紙、一つの言葉が、千の兵に勝る」
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その日の午後、江戸の街は快晴だった。
藤村は陸奥、岩瀬を伴い、馬車に揺られて築地の英公使館へと向かった。沿道には桜吹雪が舞い、子どもたちの笑い声が響く。しかし馬車の中の三人の顔は硬い。
「……もし拒絶されたら?」陸奥が問う。
「その時は?」
藤村はしばし目を閉じ、そして答えた。
「その時は、戦う覚悟を示すだけだ。だが、わたしは信じている。彼らも利を計算する。利に背いてまで敵対する愚は犯すまい」
岩瀬が小さく頷いた。
「外交とは、結局“損得”の釣り合いですからな」
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英公使館。重厚な門が開き、応接室に通された藤村は、整えた通牒文を机に差し出した。
「日本政府は、台湾における治安回復を目的とし、遠征を行う。これは内政であり、他国の利益を害するものにあらず。――よって、中立を求む」
英国公使は一読し、眼鏡の奥で目を細めた。しばし沈黙したのち、短く言った。
「……理解した」
その瞬間、藤村の胸に重いものが少しだけ下りた。だが油断はできない。
同じ文を米国、仏国へも手渡す。いずれも即答はなかったが、明確な拒絶もなかった。沈黙はときに肯定よりも強い意味を持つ。
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夕刻、江戸城へ戻った藤村に、陸奥が耳打ちした。
「清への通報も無事届けられました。反応は……沈黙。ただし激怒の色は見えませぬ」
藤村は静かに頷いた。
「よい。面子を潰してはいない証だ。――これで第一の門は開いた」
障子越しに西の空が赤く染まり、遠く鐘の音が響いていた。
藤村は胸の内で呟いた。
――戦は外交の延長。敵を作らず、利を示し、面子を立てる。
――これが、近代の戦争を生き抜く術だ。
四月の江戸は、花びらがすでに地面を覆い、春の風に若葉が混じり始める季節だった。だが江戸城勘定所の大広間には、花も香もなく、ただ重苦しい緊張だけが漂っていた。広間の壁一面に並んだ掲示板。その表面には、白布を張り付け、その上に大書された文字が黒々と並んでいる。
――「遠征特会 五十万両」「外貨 八万ドル」
数字の大きさが、そのまま事の重大さを物語っていた。
「……本日より、台湾遠征の戦費はこの勘定に基づき執行される」
勘定奉行の読み上げる声は、冬を引きずるように冷たく、広間の隅々まで響き渡った。
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列席しているのは、幕府の勘定方、藩からの派遣監査役、商人の代表、そして軍の参謀や医師たちまで。これまでの戦争準備ではあり得なかった顔ぶれである。
その中央に立つ藤村晴人は、一歩前に進み出た。手にした扇をゆっくりと広げ、数字の列を示す。
「諸君、これが“日本の戦費”だ」
ざわり、と空気が揺れた。戦費をこのように公に示すなど、これまで誰も考えもしなかった。軍の財布は軍が握り、商人に渡せば闇に消える――それが常だったのだ。
「これまでの戦は、帳簿の陰に隠れてきた。誰がいくら使ったか、どこに流れたか、誰も知らなかった。だが、それでは国はもたぬ」
藤村の声は低く、しかし鋼のように固かった。
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監査役の一人、薩摩藩から派遣された若い士が手を挙げた。
「総裁様……この帳簿、本当に一般に公開されるのでございますか?」
「公開する」藤村は即答した。
「この戦は国の戦だ。国の金で行う。ゆえに、その使い道は国民に明らかにしなければならぬ」
「国民に……」士は思わず呟き、周囲に視線を走らせた。まだ“国民”という言葉は馴染み薄い。だが藤村の口から語られると、それは新しい現実の響きを帯びた。
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勝海舟が立ち上がり、扇子を肩に当てながらにやりと笑った。
「おう、藤村の言う通りだ。銭勘定を隠す時代は終わった。隠した銭は腐るだけだ。出すなら明るみに出して使え。そうすりゃ商人も安心する」
その言葉に、列席していた大坂の豪商・鴻池の番頭が深々と頭を下げた。
「はい。これならば我らも金を貸すに躊躇はいたしませぬ。使途が明らかであれば、利息も下げられる。正直さこそ最大の信用にございます」
藤村は番頭に向けて軽く頷き、再び壇上から広間全体を見渡した。
「よいか。戦は金で動く。だが金は“信”で動く。信なくしては、一銭も集まらぬ。――だから我らは数字に正直でなければならぬ」
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会議の後半には、勘定所の役人たちが帳簿を机に並べた。墨痕鮮やかな明細書。費目には「船舶改修費」「医療資材費」「橋梁材購入費」「兵糧費」など細かく分けられていた。
「監査役は、ここに押印する前に必ず一行一行を確認せよ。疑わしきは問い、納得するまで動かすな」
藤村の厳しい言葉に、若い役人たちの背筋が伸びる。
陸奥宗光が横から言葉を添えた。
「欧州では、戦費の監査は民会の義務とされています。監査がなければ、国王の戦は“私闘”と見なされる。……我らも同じですな」
「その通りだ」藤村は深く頷いた。
「監査なくして戦はできぬ。我らは武士である前に、国の奉公人である」
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やがて、一人の年配の代官が手を挙げた。
「総裁様……これほどまでに戦費を晒せば、逆に敵に弱みを握られることはございませぬか」
藤村は扇を閉じ、静かに答えた。
「確かに、数字は弱みだ。だが、隠すことこそ最大の弱みになる。民に疑われ、商人に背を向けられ、兵に不信を抱かせる。……その方が、よほど恐ろしい」
代官はしばし沈黙し、やがて深く頭を垂れた。
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夕刻。会議が散じ、役人たちが去った後も、藤村は勘定所の机に残っていた。机上には、一日の終わりを告げる西陽が射し込んでいる。数字の列が金色に照らされ、まるでそれ自体が宝のように輝いて見えた。
「一銭一銭に、人の命がある」
藤村は紙に手を置き、静かに呟いた。
外からは江戸の街のざわめきが聞こえてくる。子どもたちの笑い声、魚売りの呼び声、商人が暖簾を下ろす音。すべてが、この帳簿に記された数字と結びついている。
――だからこそ、この帳簿は裏切ってはならない。
その夜、藤村は筆を取り、帳簿の余白に小さく書き記した。
《金は血である。正直に流せば国を生かす。不正に流せば国を殺す》
墨が乾く頃、外の空には一番星が淡く光っていた。
江戸城の桜が散り、若葉が枝を染め始めた頃、南方へ向けた経済の動きは静かに、しかし確実に形を取り始めていた。
藤村晴人が姿を見せたのは、横浜の異国商館街。その一角に新たに設けられた「日本南方出張所準備室」である。海風にさらされた煉瓦造りの建物は、まだ塗りたての白壁の匂いを残していた。室内では、岩崎弥太郎と陸奥宗光が机を挟んで向かい合っている。机の上には航路図、交易品目の目録、そして契約書の草稿が山と積まれていた。
「藤村総裁、ようこそ」
陸奥が立ち上がり、深く一礼する。彼の目の下には濃い隈が刻まれていたが、その瞳はむしろ冴え冴えと輝いていた。
「やあ、陸奥。お前が眠らぬ夜を過ごしたのは、この紙の山のせいだな」
藤村が軽く笑うと、陸奥も肩を竦めてみせた。
「外交とは、時に帳簿との格闘に他なりませんから」
岩崎弥太郎は黙って煙管を置き、分厚い帳簿を叩いた。
「総裁、戦だろうが商売だろうが、要は“金が回るかどうか”です。南方は宝の山ですよ。砂糖、樟脳、アバカ……欲しがる国はいくらでもある。こっちは銭と船を持ち込むだけでよい」
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机上の地図には、フィリピン諸島の一角――マニラ湾が赤い丸で囲まれていた。
「ここに“出張所”を開く。形式は商館、だが実質は我らの南方統治の触手だ」
藤村の言葉に、岩崎の口角が大きく吊り上がった。
「商人にとっては夢のような話です。マニラで契約を結べば、砂糖は前受け、こちらは銭を流す。荷は我らの船で運び、利益は二重三重に膨らむ」
陸奥はその言葉に頷きつつ、冷静な調子で付け加えた。
「外交上も意味は大きい。清にとっては“台湾を侵す口実”と見えるかもしれませんが、同時に“南方経済圏の拡大”と説明できる。英米仏も商売の匂いを嗅げば、容易には口を出せまい」
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窓の外では港のクレーンが唸りを上げ、荷を積み込む人夫たちの掛け声が響いていた。藤村はその声を耳にしながら、机上の契約草稿に目を落とす。
「これは……“砂糖千俵、前受金二万ドル”とあるな」
「ええ」岩崎が即答した。
「相手はスペイン商館の一派。表向きは敵だが、金に色はありません。相互に前受けする形なら、彼らも断れないでしょう」
藤村は顎に手を当てた。
「なるほど、戦を前にしても商いは止めぬ。むしろ戦と並行して商いを進める……か」
「そういうことです」
陸奥が真剣な眼差しを向ける。
「戦は必ず終わります。しかし商いは終わらぬ。戦が終わった後も利益を生み続ける仕組みを作らねば、勝利は一時の幻に過ぎません」
「戦争も商売の一部、というわけか」
藤村の呟きに、岩崎が嬉しそうに頷いた。
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会議はさらに具体的な補給体制の話へと移った。
「スービック湾。ここを拠点にすれば、台湾からの航路と自然につながる。給炭地としても申し分ない。英の船会社とも仮協定を結んであります」
陸奥が差し出した地図には、赤鉛筆で丸印がつけられていた。
「給炭は命だ。これが滞れば艦は動かん」藤村が低く言う。
「ただの商売ではなく、軍の血流でもある。……よし、仮協定を本協定にするよう進めよ」
「御意」陸奥が深く頭を下げる。
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夕刻。会議が一段落すると、藤村は窓際に立った。港の空は茜色に染まり、遠くには出港を待つ蒸気船の煙がゆらめいていた。
「南方は、ただの市場ではない。ここからはじまるのは“日本の南の翼”だ」
彼の言葉に、岩崎と陸奥は同時に頷いた。
「翼……」岩崎が口の中で転がすように呟いた。
「ええ、悪くない。商人にとっても、翼が広がれば利も広がる。あとは飛び方を間違えぬことですな」
「飛び方を間違えれば墜ちる」藤村は微笑んだ。
「だからこそ、我らは羽を揃えて飛ばねばならん」
その言葉に、室内の空気が静かに引き締まった。
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夜。準備室を出た藤村は、港を歩きながら独りごちた。
「戦を前にして商いを進める……武と商が一つになる時代が来るのかもしれん」
彼の視線の先、夜の海には点々と灯が瞬き、波に映えて揺れていた。その灯は、これから日本が南へ伸ばす道筋を照らすかのように、確かに続いていた。
春の陽気に包まれた江戸の城下。だがその一角、海軍病院の仮設棟では、空気が一段と張りつめていた。白木の棟瓦に囲まれた広間に、軍医、看護役、そして衛生係の若者たちが一堂に会している。壁際には新調の医療箱や薬瓶、煮沸器、白布に包まれた外科用器具が整然と並び、窓から差し込む光が銀色のメスの刃を鋭く光らせていた。
「これまでの戦では、病で命を落とす者が戦場で斃れる者を上回った」
軍医総監の声は低く、しかし鋼のように固かった。
「それを断ち切るのが我々の使命である。今回は兵が二千を超える。台湾の湿気、熱病、悪水――すべて敵だと思え」
兵たちの間に緊張が走る。誰もが、戦場よりも熱病や赤痢の恐ろしさを噂で聞いていた。
壇上に立つ藤村晴人が、静かに前へ進み出た。
「戦は、刀や銃だけでは決まらぬ。命をつなぐか否かは、こうして汗を流す者たちの手にかかっている。だからこそ、我らは銃と共に石鹸を積む。弾薬と同じほどに煮沸器を重んじる」
彼の言葉に、若い衛生係が顔を上げた。
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この日の集会では、実際の器具が使われての訓練が始まった。
まずは検疫幕舎の設営訓練。竹と帆布を組み合わせた移動式の幕舎が、数刻のうちに庭に立ち上がる。風を通し、雨を避ける構造。入口には石灰粉を撒き、通る者の足を浄める。
「入口で一人ひとりを止め、体温を測り、皮膚の発疹を確かめる。疑わしき者はここで休ませ、決して本隊に入れるな」
軍医が鋭く指示を飛ばす。
続いて医療箱の実習。新たに統一された木製の箱には、消毒液、包帯、薬瓶、針糸、止血鉗子が規格通りに収められていた。若い看護役が蓋を開けると、まるで算盤玉のように整然と道具が並び、誰が見てもすぐに必要な物に手が届く。
「この並びが命を救う。慌てたときに迷わず手を伸ばせるよう、順序は絶対に崩すな」
藤村は箱を手に取り、皆に見せた。
「これこそ規格の力だ。どの艦にあっても、どの陣地にあっても、同じ並び、同じ道具。同じように命を守れる」
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その場に、お琴も姿を現していた。淡い桃色の羽織を肩に掛け、凛とした表情で壇に上がる。
「皆さま、覚えてください。清潔な環境こそが最強の武器です」
声は柔らかかったが、響きは強かった。
「手を洗い、布を煮沸し、水を濾す。ただそれだけで、兵の半数を守れるのです。人は刃で斃れるより、汚れで斃れる方が多いのです」
彼女の言葉に、場内が静まり返る。若い兵士が小さな声で「石鹸が命を救うなんて……」と呟くのを、藤村は聞き取った。
「そうだ。銃は人を倒すが、石鹸は人を生かす。両方を持ってこそ、軍は強くなる」
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午後には橋梁部隊の訓練が始まった。
「戦地では川を渡れずに敗れることもある」
工兵頭が大声を張る。
「これが橋材だ。木材、鉄具、縄、そして布。これらを組み合わせて一夜にして橋を渡す」
男たちが丸太を担ぎ、杭を打ち、縄を張る。数刻のうちに幅広い仮設橋が庭に姿を現した。兵士たちが渡り、荷車を押し、重さに耐えるかを試す。
「橋は兵站の血管だ。血が流れねば体は死ぬ。橋が落ちれば軍も落ちる」
藤村は仮設橋を渡る兵の姿を見つめ、深く頷いた。
「1万8千両の投資。だがこれで多くの命が救われる。戦いは始まる前に決まる――兵站と医療こそが勝敗を定める」
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夕刻。訓練が終わり、皆が汗を拭っている頃、藤村はお琴と並んで歩いていた。
「お琴、見事な講義だった」
「いえ、私は当たり前のことを申しただけです。ただ……ようやく皆が耳を傾けてくれるようになったのが、嬉しいのです」
藤村は微笑んだ。
「戦を知る者ほど、命の重さを知る。だからこそ、そなたの言葉は胸に届くのだ」
お琴は小さく息を吐き、空を見上げた。春の夕空に、細い月が浮かんでいた。
「どうか皆が生きて帰れる戦でありますように」
その言葉に、藤村もまた、静かに頭を垂れた。
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夜更け、藤村は帳簿を開き、今日の費用を記録した。検疫幕舎、医療箱、仮設橋梁材――数字は容赦なく墨で刻まれていく。だが彼の胸にあるのは、金を使った悔いではなく、救われる命への確信だった。
「銃も砲も、病に勝つ力は持たぬ。だが石鹸一つが軍を支える。……これが、我らの新しい戦の作法だ」
燈火に照らされたその横顔は、静かでありながら、未来を切り拓く者の決意を映していた。
四月の風は柔らかく、江戸城の桜は散り際を迎えていた。薄紅の花弁が舞い、石畳の上に薄い絨毯を敷くように積もっている。その光景を見下ろしながら、本丸大広間では最後の作戦確認が行われていた。
列席するのは慶喜をはじめ、榎本武揚、大村蔵六、象山、そして藤村晴人。幕府と朝廷を一つに束ねる指揮官たちが一堂に会している。机上には遠征計画の全図が広げられ、赤い線が航路を、青い線が補給線を示し、黒い印が病院や検疫所の予定地を刻んでいた。
「本日をもって、遠征作戦は最終確認に入る」
慶喜の声が大広間に響いた。かつては公方と呼ばれた男の声音には、いまや一国を近代国家へと導く責任が滲んでいた。
「我らが掲げるは『鎮撫令』。これは征伐ではなく、秩序の回復を意味する」
榎本が頷き、言葉を継ぐ。
「海軍は上陸兵を輸送し、通信線を確保する。だが、我らの役目は銃火をもって現地を脅すことではない。住民が安心して暮らせるように道を拓くことだ」
大村蔵六が眼鏡越しに地図を指さす。
「橋梁、医療、兵站、すべて整えてある。だが最も肝要なのは“兵を暴走させぬこと”だ。規律を守らねば、どれほどの準備も一夜で無に帰す」
藤村は静かに口を開いた。
「諸君、鎮撫とは武力を誇示することではない。秩序を示し、恩恵を分け与えることだ。もし略奪一つあれば、それは我らが侵略者に堕ちた証となる。――だからこそ、一兵一兵の振る舞いこそが国の顔となるのだ」
その言葉に、場内は静まり返った。
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確認が終わると、一同は城外に出た。庭には散り始めた桜が舞い、夕暮れの光が石垣を黄金色に照らしている。遠くには江戸の町並みが見渡せ、川面がきらめいていた。
慶喜は桜の枝を見上げ、ぽつりと口を開いた。
「武力は最小限に、恩恵は最大限に」
その言葉は、風に乗って柔らかく広がった。榎本も、大村も、象山も、そして藤村も、それぞれの胸に深く刻んだ。
藤村は桜の花弁を手に取り、静かに呟いた。
「剣を抜く前に、秩序を示す。砲を撃つ前に、道を築く。――これが我らの戦である」
花弁は指の間から滑り落ち、地面に舞い落ちた。その姿は、血ではなく、春の息吹が地を染める象徴のように見えた。
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その夜。城内の執務室では、灯火の下で最後の確認が続けられていた。帳簿、配置表、監査印、すべてが整然と机の上に並べられている。
藤村は書類を閉じ、しばし窓辺に立った。夜空には細い月が浮かび、江戸の町に無数の灯が瞬いていた。
「三年前、借金に沈んでいた国が、いまや遠征を指揮するまでに立ち上がった。……だが、忘れてはならぬ。これは侵略ではない。鎮撫、すなわち平和を築く戦だ」
背後から榎本が近づき、静かに言った。
「総裁。海軍もその理念を忘れませぬ。砲を撃つよりも、旗を掲げる方が尊いことを心得ています」
藤村は小さく頷き、再び窓外に目をやった。花街の明かりも、町家の灯も、皆が等しく夜を照らしていた。
――その光を、台湾の地にも灯さねばならぬ。
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翌朝。江戸城の石垣の上に、兵士たちの列が並んだ。銃を肩に、背を伸ばし、顔には緊張と期待が交錯している。
藤村は彼らを見渡し、声を張り上げた。
「諸君、覚えておけ。我らは侵略者ではない。我らは平和を運ぶ者である。――鎮撫令とは、剣でなく、秩序を携えて行けという天の声だ!」
兵たちの瞳に光が宿る。やがてその声は、大地を震わせるような鬨の声となった。
桜はなお散り続けていたが、その花びらは敗北の象徴ではなかった。むしろ、新たな道を切り拓く者たちを祝福するかのように、柔らかく彼らの肩に降り注いでいた。