150話: (1869年3月/早春)海の工廠、陸の市政—次の十年へ
春の光が横須賀の丘に差し込んでいた。
まだ朝の空気は冷たく、潮の匂いに混じって冬の名残りが肌を刺したが、それでも海から吹き上げる風には、どこか柔らかな匂いが混じっていた。早春の草が芽吹きはじめ、港町の屋根の上には薄い霞がかかっている。
横須賀工廠の巨大なドックでは、すでに数百の職人たちが列を成していた。手にするのは鋼の工具、真新しい歯車、巨大なボルト、蒸機を据え付けるための木枠。三年にわたって進められてきた建設工事も、ついに残り二割。ここから据付けられる精密機械こそが、この工廠を「ただの石と木の箱」から「国家の心臓」へと変貌させる仕上げであった。
藤村は、胸に手を当てて深く息を吸った。潮風が肺を満たし、鼻の奥に鉄の匂いが広がる。振り返ると、勝海舟や榎本武揚をはじめとする海軍首脳、そして常陸から呼び寄せた工師たちの顔が並んでいた。皆、疲労と同時に期待の光を宿した瞳をしている。
「三年越しの夢が……ついに、ここで完成する」
藤村の呟きは、誰に向けたものでもなかった。だが近くにいた職人頭がその言葉を耳にし、頷いてから低く答えた。
「総裁様。われらの槌音が、これからはこの国の未来を叩き出す音になります」
その声に続くように、職人たちが手を胸に当て、一斉に頭を下げた。汗と煤にまみれた顔は、誇りに満ちていた。
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起工式は簡素ながらも厳かに行われた。壇上に設けられた台の上には、分厚い設計図と、据付け用の最終稟議書。そして銀色に光る一つの歯車。直径は人の胸ほどもある。これが据え付けられる時、工廠の心臓部が動き出す。
藤村は扇を閉じ、堂々と前に進み出た。
「ここにいる者たちよ、耳を傾けてほしい。三年前、我らはただの設計図しか持たなかった。資金は乏しく、借財に苦しみ、諸外国からは笑われた。だが今ここに、堂々と立派な工廠が姿を現している。これは夢ではない。現実だ」
集まった職人や兵士たちの顔に、力強い光が宿る。藤村はさらに声を張った。
「この工廠はただの建物ではない。海を守り、国を支え、未来を築く城である! ここから出る艦は、日本そのものの象徴だ。――皆の努力がその礎を成す!」
拍手が湧き上がり、木槌の音が響く。港に停泊していた小型艦からは、祝砲として空砲が放たれ、白煙が青空に立ちのぼった。
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その後、フランス人技師ヴェルニーが壇上に上がった。白い手袋をはめ、分厚いノートを抱えた姿は、どこか学者のようでもあった。彼は流暢なフランス語で言葉を述べ、通訳がそれを追った。
「諸君。日本の工業は、もはや西洋の模倣ではない。今日からは自らの力で前へ進む。私が誇るのは、自分の仕事ではない。皆の忍耐と情熱である」
通訳が言葉を終えると、ヴェルニーは藤村の前に歩み寄り、右手を差し出した。藤村も迷わずその手を握り返す。
「日本の工業力は、ここから始まる」
二人の握手は固く、長かった。拍手が再び広場に広がる。
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午後になると、据付工事が始まった。巨大な蒸気機関がクレーンで吊り上げられ、ゆっくりと所定の位置に降ろされる。鉄の軋む音が港に響き渡り、見物に訪れた町人や商人たちが息を呑む。
「おい……あれが動けば、鉄の船を造れるんだとよ」
「江戸どころか、欧羅巴にだって負けねぇぞ」
人々の囁きが伝わり、興奮が広がっていく。
作業を見守る藤村の背後で、勝海舟が肩をすくめて言った。
「お前さん、本当にやってのけたな。三年前は『夢物語』と笑った連中も、今頃は青ざめてるだろうさ」
藤村は小さく笑った。
「笑われるくらいでなければ、国を変える仕事ではない。だが、笑い声は今や、驚きと称賛に変わった」
榎本武揚も隣に立ち、鋭い目で機械を見上げていた。
「これで艦隊は変わります。いや、日本そのものが変わる。砲を載せ、電信を積み、蒸気で進む――近代の海軍がここから生まれるのです」
藤村は深く頷いた。
「その通りだ。――この瞬間から、日本の未来は確かに動き出した」
港の海は陽光を受けてきらめき、波頭が金色に光っていた。その輝きは、まるで未来からの祝福のように見えた。
江戸城本丸御殿の広間には、早春の冷たい光が障子を透かして射し込んでいた。畳の上に敷かれた緋毛氈は少し冷たく、座に並んだ重臣たちの顔も張りつめていた。外では梅がほころび始めているというのに、ここには一片の春気もない。緊張のせいか、誰もが息を詰めるように黙り込んでいた。
「遠征特別会計――五十万両」
勘定奉行の声が、広間の静けさを切り裂いた。続けて、横に控える通詞が外国貨幣の報告を重ねる。
「加えて外貨八万ドル。すでに手形にて確保済みにございます」
広間をざわめきが走った。五十万両と八万ドル――どちらも常陸藩や幕府の歴史を振り返っても、これほど一度に動かす例は稀である。重さは金銀そのものではなく、国の未来を背負う重さだった。
藤村は静かに扇を閉じ、視線を巡らせた。勝海舟、榎本武揚、大久保一翁、勘定奉行、海軍奉行、そして商人代表。誰もが一様に真剣な眼差しで彼を見ている。
「諸君」
藤村の声は穏やかだったが、広間に重く響いた。
「この五十万両と八万ドルは、我らが未来に挑むための最後の礎だ。一銭たりとも無駄にはできぬ」
その言葉に、榎本がうなずき、机上の兵力配分表を広げた。
「海兵二千、工兵二百、軍医衛生百二十、憲兵百五十。計二千四百七十名。これが選抜された精鋭でございます」
兵の名簿は細かく記され、体格・歯科・視力・種痘の有無まで逐一記録されていた。藤村は紙面を指でなぞりながら頷いた。
「量ではない。質だ。――この数ならば、我らは必ずや戦える」
勝海舟が座を正して立ち上がった。彼の声は、海を渡る風のように力強く、少し荒々しい。
「これだけの戦力があれば、どんな敵とも渡り合えるだろう。だが忘れるな。戦は大砲や銃だけでなく、飯と薬と橋で決まるのだ」
その言葉に、軍医総監が深く頭を下げた。
「すでに医療資材、仮設病舎の幕、橋梁材の確保は進めております。予算一万八千両を計上し、欠けることなき体制を築きます」
藤村はその報告を聞き、静かに微笑んだ。
「戦いは始まる前に決まる。兵站と医療こそが勝敗を分ける。これは三年前から繰り返してきたことだ」
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机の上に積まれた稟議書は厚く、紙の匂いと墨の匂いが混じっている。勘定奉行がひとつずつ読み上げ、藤村が署名していく。筆先が和紙を走るたびに、広間の空気が張り詰める。
「兵糧米三か月分、二万五千俵」
「火薬三千樽」
「医薬品百二十箱」
「予備銃身八百本」
列席の商人衆が低く唸る。これだけの規模の調達を滞りなく進められる国は、もはや日本では常陸と幕府を合わせた新体制だけだった。
「……一銭たりとも無駄にはできぬ」
藤村はもう一度、静かに言った。
その声は自らに言い聞かせるようでもあり、また広間にいるすべての人間に突きつける戒めでもあった。
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承認の刻はやがて訪れた。
勘定奉行が最終の署名簿を巻き上げると、広間の奥で太鼓が低く打たれた。儀式の合図である。
藤村は筆を置き、立ち上がった。
「これで、遠征特別会計は発足した。諸君、我らは国の未来に一歩を踏み出したのだ」
勝海舟が笑みを浮かべ、肩を叩いた。
「お前さん、やっとここまで来たな。……これで、戦える。堂々と、真正面から」
榎本は真剣な目を藤村に向け、短く言った。
「責任は重い。しかし、この編成なら必ずや果たせます」
藤村は深く頷き、障子越しに春の光を見た。
外では梅の香りが漂い、早咲きの桜が蕾を膨らませている。だが広間にいる誰一人として、その香りを味わう余裕はなかった。
――戦の準備は、戦そのものよりも重い。だが、それを乗り越えてこそ未来は開ける。
藤村は胸の内でそう呟いた。
江戸城からの承認会議を終えた数日後、藤村は横浜の外国商館街に足を運んでいた。春の潮風が港に吹き込み、帆船のマストが軋む音とともに、異国の言葉が飛び交っている。石畳を踏みしめながら進むと、煉瓦造りの保険会社事務所の前に辿り着いた。扉を押すと、真鍮のベルが高く鳴り、外国人事務員が一斉に顔を上げた。
「藤村総裁殿、ようこそ」
待っていたのは、英国系海上保険会社の代表、ジョンストン氏だった。白髪混じりの髭を整え、威厳ある姿で迎える。背後の壁には大航海時代から続く航路図が飾られ、机の上には分厚い契約書の山が積まれている。
「本日は大事な話を持ってまいった」
藤村が腰を下ろすと同時に、通詞が隣で控えた。
「我が国は遠征を計画している。規模はこれまでにない。ゆえに、戦時保険の特約を結びたい」
その一言に、場の空気が一瞬張り詰めた。戦時保険――つまり、軍事遠征中に発生しうるリスクを補償させる契約である。通常ならば、平時の数倍もの保険料が上乗せされる。保険会社にとっては大きな利益だが、依頼する側にとっては莫大な負担となる。
ジョンストンが指先で契約書を叩いた。
「戦時リスク……通常ならば五分増し(保険料率+0.5ポイント)が相場ですな」
広間の空気が固まる。もしそれを呑めば、財政の余裕は一気に吹き飛ぶ。だが藤村は動じず、鞄から分厚い書類を取り出した。
「これを見ていただきたい。我が海軍の稽古日誌、医療体制の記録、港の保安設備一覧だ」
机の上に並べられたのは、整然と書き込まれた稽古計画、規律違反件数の少なさ、電信網の即応速度、消火設備の図面。細かい数字が列を成し、規律の徹底と準備の周到さを証明していた。
「我が兵は訓練を積み、衛生は整い、港は標準化されている。――つまり、リスクは低い。御社の基準で言えば、むしろ割引対象ではないか」
ジョンストンの瞳がわずかに動いた。通詞を介したやりとりではあったが、確かに心を揺さぶられたようだった。
「……確かに、規律と準備が整った軍隊は、事故率が低い」
彼は契約書をめくり、羽ペンを走らせた。
「通常五分増しのところを、三分増し(+0.3ポイント)としましょう」
通詞が訳すと、場に小さな息が漏れた。藤村はすかさず言葉を重ねる。
「さらに、もし我が艦隊の損害率が一定基準を下回れば、その差分を翌年の保険料から差し引く“報奨条項”を加えていただきたい」
商人特有のしたたかな要求に、ジョンストンは唸り声を上げた。しばし沈黙が流れ、窓の外でカモメの鳴き声だけが響いた。やがて彼は口を開いた。
「……面白い。だが、そんな条項は前例がない」
「前例がないからこそ、我らが作る。日本は常に新しきを試す国だ」
押し問答の末、ついにジョンストンは笑った。
「よろしい。報奨条項を認めましょう。ただし、実績を示せるならば、だ」
羽ペンが再び走り、契約書に新たな条文が書き加えられた。通詞が読み上げる声はどこか誇らしげだった。
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交渉が終わり、港に戻ると夕陽が海を赤く染めていた。外輪船の煙突から薄い煙が立ちのぼり、湾内の水面が光を散らしている。榎本武揚が桟橋で待っており、藤村の顔を見て問いかけた。
「どうでした」
「三分増し、さらに報奨条項だ」
榎本の目が大きく見開かれた。
「……それは前代未聞です。外国商人たちも驚くでしょう」
「戦争も経済活動の一部だ。コストを抑えてこそ、真の勝利になる」
藤村の言葉に、榎本は深く頷いた。遠くで鐘が鳴り、港の倉庫から荷車が連なって出ていく。人々の動きは忙しくも整然としており、国の歯車が音を立てて回っているのを感じさせた。
藤村は夕焼けの海を眺め、静かに呟いた。
「数字は血だ。血を守るために、数字を削らねばならぬ」
その声は潮騒に溶け、港全体を包むように響いた。
江戸の藤村邸、まだ肌寒さの残る早春の夜。書斎の窓には灯が揺れ、机いっぱいに書物と紙束が広がっていた。インクの匂いと紙の擦れる音が、夜の静けさに重なる。そこに座しているのは徳川昭武。筆先を持つ手は疲れて震えていたが、その瞳は真剣な光を帯びていた。
机の上に積まれているのは、パリから持ち帰った国際通信規則や欧州各国の布告文の写しである。厚い羊皮紙の束をめくり、彼は一つひとつを日本語に置き換えていた。
「“All telegraphic communications shall be considered inviolable”……電信通信は不可侵とす……いや、不可侵の権利を有す、か」
声に出し、首を傾げては筆を走らせる。法文独特の硬い表現に、幾度も立ち止まらざるを得ない。だが、背後から覗き込む藤村は、その姿を頼もしげに見つめていた。
「昭武、翻訳は進んでいるか」
「はい。台湾布告に使う雛形、骨子は整いつつあります」
「大切なのは“正しく伝える”ことだ。法文は一字で人の命をも左右する」
藤村の声に、昭武は静かに頷いた。手元の紙には、すでに条文の草案が列を成していた。
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やがて、彼は新しい紙を広げ、筆先を整えた。そこに記された見出しは――
《台湾布告文雛形》
冒頭の一文を書き出す瞬間、昭武の手は少し震えた。
「“本布告は、国際法に則り、現地住民の生命と財産を守ることを旨とする”」
書き終えると、大きく息を吐いた。幼い頃は学問の才を褒められても、それが国のためになる実感は遠かった。だが今、自分の手で書いた文が海を越え、多くの人々の生活を左右するのだ。
「これで……我らも、ただの武力ではなく、法に基づいた国家として振る舞える」
昭武の言葉には、疲労の中にも確かな自負が込められていた。
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深夜、藤村が書斎の窓を開けると、外には春まだ浅い月が霞んで浮かんでいた。庭からは水のせせらぎと虫の声がわずかに届く。
「戦争も統治も、剣や金だけでは成り立たぬ。法がなければ、ただの略奪に終わる」
藤村の呟きに、昭武は顔を上げた。
「総裁……この翻訳を終えれば、我らは“国際社会の言葉”で語れるようになります」
「そうだ。日本が本当に近代国家となるための礎だ」
二人はしばし沈黙し、筆音だけが続いた。
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夜明け前、昭武は最後の文を記し、筆を置いた。紙面には細かな条文が整然と並び、布告文雛形が形を成していた。蝋燭の炎が揺れる中、その文字列はまるで新しい時代の扉を開く鍵のように見えた。
「……できました」
昭武は深く息を吐き、草稿を藤村へ差し出した。
藤村はそれを受け取り、しばし黙って目を通した。そして口元に微笑を浮かべる。
「よくやった。お前の書いたこの布告が、我らの統治を正義とする」
その言葉に、昭武の胸は熱くなった。紙の上に並ぶ文字は冷たい墨跡に過ぎない。だがそこには、人々を守ろうとする意思が宿っていた。
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窓の外では、夜明けの光が江戸の空を染め始めていた。淡い光が庭を照らし、やがて机の上の文書にも差し込む。
藤村は窓辺に立ち、静かに呟いた。
「法の言葉は、剣にも砲にも勝る。……昭武、この夜の働きは、きっと百年先まで響くだろう」
昭武は背筋を伸ばし、深く頭を垂れた。
胸の奥に、確かな誇りが灯っていた。
春まだ浅い江戸の藤村邸。午後の光は柔らかく、庭の梅がほころび始めていた。だが空気にはまだ冬の冷たさが残り、庭に立つと頬を刺す。
縁側の前で、義信が小さな木札を抱えて座っていた。札には「た・い・わ・ん」と仮名が墨で書かれている。義信はそれを指でなぞり、一文字ずつ声を確かめるように読んでいた。
「……た。……い。……わ。……ん」
幼い声が途切れ途切れに続く。音はまだ拙いが、確かな意志が込められていた。見守る侍女たちの顔がほころびる。
一方、庭の芝では久信が木太刀を握りしめていた。まだ腕の力は弱く、振り下ろすたびに体がよろける。だが、瞳は真剣だった。従者が背後から肩を支え、腰の位置を直すと、少年は歯を食いしばって再び構えを取った。額には小さな汗が光り、口を結ぶ顔は幼さを越えて決意の色を帯びている。
縁側に腰を下ろした藤村は、静かにその光景を見つめていた。
「読もうとする声」と「正しく立とうとする姿」。どちらもまだ未熟だ。だが、そこに宿るものは確かな芽吹きだった。
隣に控える教育係が帳面を広げて言った。
「若様方の上達は目覚ましいものにございます。義信様は文字の響きを追い、久信様は正しい構えを身につけようとされております」
藤村はゆっくりと頷いた。
――借金を減らすことも、備蓄を積むことも大切だ。だが、この子らが育つことこそが最も確かな未来への投資なのだ。
そのとき、庭の隅で風が梅の枝を揺らした。淡い花びらがひとひら落ち、義信の膝に留まる。少年はそれに気づき、嬉しそうに小さな指で押さえた。その隣で久信は木太刀を振り下ろし、勢い余ってよろけながらも、必死に踏ん張って立ち直った。
夕暮れが迫るにつれ、子どもたちの影は長く伸び、縁側の藤村の膝元まで届いていた。声と動きが交錯する庭は、まるで未来の縮図のように輝いて見える。
藤村は心の奥で静かに呟いた。
――黒字も規格も、戦備もすべてはこの子らに引き渡すため。次の十年を担うのは、彼らなのだ。
やがて灯がともり、一日の記録がまたひとつ積み重ねられる。帳簿に残る数字と、庭に響いた声。どちらも未来へ続く礎であることに、藤村は改めて気づいていた。
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