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149話: (1868年12月/初冬)第三年の灯

冬が近づく横須賀は、冷たい潮風が絶えず吹きつけ、造船所の巨大な骨組みに金属音を残していった。海に面した工事現場は、鉄と木と石が混ざり合う匂いに満ち、作業を急ぐ職人たちの声が絶えなかった。


 「総裁様、こちらの乾ドックは、すでに八割方仕上がっております」


 案内役の職人頭・源兵衛が、煤に染まった手で設計図を指差す。図面の上には、完成した時の壮麗な姿が赤線で描き込まれている。藤村はその線を目で追いながら、低く呟いた。


 「あと二割……それで日本最大の工廠が、ついに形を持つのか」


 潮風がコートの裾を揺らす。長年追い求めてきた未来が、手を伸ばせば届く場所にある。胸の奥が熱くなり、言葉が自然と零れた。


 「ここまで来られたのは、地道に積み上げてくれた職人たちのおかげだ」


 源兵衛は歯を見せて笑った。

 「いやいや、総裁様が無理を承知で金を捻り出してくださったからで。最初は“夢物語”と思ってた職人も、今じゃ皆、自分の仕事が国を変えると信じております」


 足元では、若い職人が鋼板を打ち付ける槌の音が、潮騒に重なって響く。打ち下ろすたびに、まるで国の心臓が鼓動しているかのような力強さがあった。


 その奥で、異国の影が揺れた。フランス人技師ヴェルニーだ。濃い髭に覆われた顔をほころばせ、図面と現場を交互に眺めている。


 「Monsieur Fujimura, c’est magnifique… 本当に見事です」

 片言の日本語を交えながら、彼は握手の手を差し出した。

 「三年前、この場所はただの荒れ地でした。それが今では、世界に誇れる工廠へと育っている」


 藤村はその手をしっかり握り返す。

 「ヴェルニー殿、あなた方の技術があればこそだ。だが――」


 視線を工事現場に向け直し、声を張った。

 「最後にこの工廠を完成させるのは、日本の職人たちだ。異国の知恵と我らの手が合わさってこそ、真の自立が生まれる」


 その言葉に、周囲で作業をしていた職人たちが一斉に顔を上げた。煤と汗に汚れた顔に、誇らしい笑みが広がる。


 「来春には全面稼働できます」

 源兵衛の言葉には、自信と期待が入り混じっていた。


 藤村は静かに頷き、深く息を吸い込む。潮の匂い、油の匂い、鉄の匂い。それらが混ざり合うこの場所は、確かに未来を鍛える炉だった。



 少し歩を進めると、巨大なクレーンが視界に入った。木製のアームを蒸気機関で動かし、重い鉄材を持ち上げるたびに、軋む音が空にこだました。


 「これほどの重量を人力で運ぶには、数百人が必要だ。しかし今は、蒸気一つで片がつく」

 ヴェルニーが誇らしげに解説する。


 「人が百人かけても一日かかることを、機械は一刻でやってのける。――これが近代工業の力です」


 藤村は見上げる鉄材の揺れを見つめ、腕を組んだ。

 「その力を国の未来に繋ぐのだ。……我らは列強と肩を並べるために、この工廠を建てている」


 背後から、若い工員の声がした。

 「総裁様! ここの鋼板、規格よりも少し厚いんですが……」


 藤村はすぐさま歩み寄り、板を叩いて耳を澄ませた。硬質な響きが返ってくる。

 「厚い分には構わぬ。ただし、必ず記録を残せ。規格は守るためにあるが、現場での知恵を記録してこそ、次へ活きる」


 若い工員は頬を赤くし、深く頭を下げた。

 「はいっ!」


 その様子を見て、源兵衛が小声で囁く。

 「総裁様は、ただ金を運ぶだけじゃない。現場の心を掴んでくださる」


 藤村は苦笑した。

 「心なくして技は育たぬ。技なくして国は立たぬ。それだけのことだ」



 見回りの終わりに、ヴェルニーとともに高台へ上った。冬の空は重く雲に覆われ、遠く相模湾の波が鈍く光っている。だが眼下の工廠は、まるで巨大な心臓のように脈打ち、煙と蒸気を吐き出していた。


 「三年かけて、ここまで来た……」

 藤村は思わず独り言のように呟いた。


 ヴェルニーが横で笑う。

 「三年でこれほどの変革を成し遂げる国は、ヨーロッパにもそう多くはありませんよ。日本は必ずや、大国となる」


 藤村はしばし黙り、潮風を受けながら工廠を見下ろした。冷たい風が頬を刺すが、その奥底に温かい熱が灯っていた。


 ――これは、ただの工事ではない。

 ――日本が列強に追いつき、追い越すための「灯火」だ。


 その確信が、冷えた空気の中で一層鮮やかに燃え上がった。

冬の朝、江戸城の勘定所はいつになく張りつめた空気に包まれていた。障子越しに差し込む光は白く冷たく、帳簿の墨字を鮮やかに浮かび上がらせる。列席する勘定方、代官、豪商衆――皆が背筋を正し、板の間に並んだ長机の先に掲げられた掲示板を見据えていた。そこには、大きな墨字で数字が記されている。


 「幕府一般債務、二百六十万から三百二十万両にて確定」


 勘定奉行の声が広間に低く響いた瞬間、ざわめきが走った。わずか三年前――債務は一二〇〇万両を超え、利息だけで年三十万両以上が消え、誰もが「返済は不可能」と口を揃えていた。その泥沼から、ここまで減じたというのだ。


 藤村総裁が静かに立ち上がった。冬の冷気を吹き払うように、その声は力強かった。

 「諸君も覚えていよう。あの頃、利息は雪だるまのように膨れ、本金は減らず、商人には嘲られ、兵の俸給すら危うかった――まさしく“借金地獄”であった」


 年配の代官が袖で目頭を押さえた。米価の乱高下に苦しみ、村々の疲弊を目の当たりにしてきたのだ。


 藤村は続けた。

 「だが我らは諦めなかった。小さな節約を積み、港の収入を積み立て、常陸の黒字を篝火にした。数字は正直だ。努力は必ず姿を現す」


 扇を掲げ、掲示板中央の「二六〇〜三二〇」を指す。

 「ここに至り、初めて我らは胸を張れる。債務圧縮――成功である」


 広間の空気が揺れた。重臣の一人、勝海舟が立ち上がり、片手を腰に当てて笑みを浮かべる。

 「へえ、こいつは見事だ。三年前ゃ“幕府は沈む船”と囁かれたもんだが、どうやら艦はまだ浮いている。いや、前よりずっと軽くなったようだ」


 場内に笑いが広がる。重い緊張が解け、誰もが待ち望んだ安堵の笑いだった。


 ⸻


 勘定所の隅には、各藩から派遣された目付も並んでいた。薩摩、越前、土佐、会津――彼らも数字を見つめ、ひそひそと声を交わす。

 「もはや江戸の財政を疑う声は出まい」

 「確かに。あれだけの借財を三年でここまでとは……」


 薩摩の使者の言葉に、土佐の使者が深くうなずいた。


 藤村は彼らの視線を受け、あえて声を張った。

 「債務を減らすことは、ただ借金を返すということではない。信用を築くことだ。商人も、外国も、この数字を見て初めて我らを信用する」


 その言葉に、列席していた豪商・鴻池の番頭が立ち上がり、深々と頭を下げた。

 「確かに。これならば我らも安心して金を動かせます。国が正直であれば、利息も下がりましょう」


 藤村は微笑み、扇を閉じて言葉を結んだ。

 「数字とはただの墨字ではない。人の暮らしを映す鏡だ。――ゆえに我らは数字に正直でなければならぬ」


 ⸻


 会議が散じた昼下がり。藤村は廊下を歩いていた。障子越しに見える庭は冬枯れの色をしているが、空は澄み渡っていた。足音を追ってきた若い勘定方の小役人が深々と頭を下げる。

 「総裁様……お言葉、胸に沁みました。私ども、日々数字に追われるばかりで、つい心を失いがちで……」


 藤村は立ち止まり、その肩に軽く手を置いた。

 「数字は人の血であり、汗であり、涙でもある。帳簿の裏には必ず誰かの暮らしがある。忘れるな」


 若者の目に熱いものが浮かび、力強く頷いた。


 ⸻


 その日の夕刻、勘定所の裏庭には職人や書役たちが集められていた。債務圧縮の報を受け、顔はどれも晴れやかだ。

 「これで、わしらの子や孫も安心して飯が食えるなあ」

 「借金に縛られぬ国で働けるとは、ありがたいこった」


 藤村はその声を耳にし、胸の奥で思った。

 ――借金の重みを知る者だけが、財政の重みを語れる。だからこそ、この道をさらに進めるのだ。


 西の空は赤く染まり、江戸の屋根瓦を黄金色に照らしていた。三年前には絶望の色に覆われていた町が、今は確かに軽やかな息をしているように見えた。

冬の午後、横須賀の倉庫前は活気に満ちていた。潮の冷たい風に混じって、油と火薬の匂いが鼻をつく。倉庫の扉が重々しく開かれると、整然と並んだ木箱の列が現れた。箱の側面には墨で「海兵一人=弾薬二百発」と書き込まれている。


 「――いよいよ布告の日か」

 榎本武揚が目を細めて、木箱の列を眺めた。


 「うむ」

 藤村総裁は深くうなずき、掲示板に貼られた規則書の第一条を指で叩いた。

 「海兵一人あたり、常備弾数百二十、予備八十。合わせて二百。これをもって、我が海軍の基準とする」


 周囲の士官や兵士たちがざわめいた。これまで弾薬の配給は曖昧で、艦ごとに違いがあった。ある艦では百五十発、ある艦では八十発しか渡らず、いざというときに「足りぬ」と叫ぶ声が絶えなかったのだ。


 「総裁様。――これで補給の計算がやっと立ちます」

 若い士官が感嘆の声を漏らした。

 「いままでは戦ごとに“どのくらい必要か”を都度見積もっておりましたが、これからは“規定量”を基準にすれば済む」


 榎本が笑みを浮かべる。

 「そうだ。無駄を省き、足りぬ不安を消す。それが規格というものだ」


 藤村は静かに口を開いた。

 「数を定めることは、兵の命を守ることだ。誰もが同じ基準で補給を受け、誰もが同じ備えを持つ。これで“運”や“艦の事情”に左右されることはなくなる」


 その言葉に、列をなす兵たちの表情が引き締まった。彼らは互いの顔を見やり、力強くうなずき合った。


 ⸻


 倉庫の脇で、軍医が一歩進み出た。年の頃は四十余、眼鏡の奥の瞳が真剣に光っている。

 「総裁様。弾薬の数を定めたのは大いに賛成ですが、兵の“体”にも標準が必要かと存じます」


 「ほう」

 藤村は興味深げに首を傾けた。


 「たとえば、歯科と視力。砲兵なら遠眼鏡で敵を正しく認識できねばならない。銃兵なら噛みしめて薬包を切れねばならない。体格もまた、重い銃を支えうる者であることが望ましい。――このような基準も合わせて定めれば、部隊はより強くなります」


 榎本が頷いた。

 「なるほど。兵の数ではなく質を選ぶ、ということですな」


 藤村は扇を開き、にやりと笑んだ。

 「それはよい。数を追えば質が落ちる。だが質を定めれば、少数でも強兵となる。銃二百発を担える者を選び、その者に確実に渡す。……それでこそ“近代の軍”だ」


 軍医は深々と頭を下げた。


 ⸻


 その日の午後、規格布告の式典が行われた。広場には兵と士官が整列し、傍らには商人や職人たちも集まっている。


 「布告!」

 高らかな声が響き、規則書が掲げられた。


 「海兵一人あたり弾薬二百発、必携とす」


 読み上げられた瞬間、広場にざわめきが走った。若い兵たちは顔を輝かせ、古参の兵も深く頷いた。


 「これで俺らも安心だな」

 「戦の最中に“足りるかどうか”を気にせず済む」


 そんな声があちこちで上がった。


 藤村は壇上に立ち、ゆっくりと見渡した。

 「諸君。今日から我らは“数”を武器とする。数を怠る者は、兵を殺す。数を守る者は、兵を生かす。……これは単なる布告ではない。命の約束だ」


 兵たちの胸が大きく膨らみ、目の奥が光を帯びた。


 ⸻


 式のあと、兵舎の一角で若い兵たちが談笑していた。

 「二百発か……重いな」

 「だが、俺らが担げば砦ひとつは守れる。そう思えば誇らしい」


 古参兵がその肩を叩いた。

 「安心せい。俺らの頃は数すら決まってなかった。足りぬときは己の命で補うしかなかった。……お前らは幸せだ」


 その言葉に若者は目を見開き、やがて真剣に頷いた。


 ⸻


 夕刻、藤村は榎本と共に倉庫の前に立っていた。木箱の列は夕陽を受け、赤銅色に輝いている。


 「榎本。これで我らの軍は、初めて“数字で戦える軍”になった」

 「ええ。補給は計算で回り、兵は安心して銃を握る。勝敗は戦場だけでなく、帳簿の上でも決まる時代です」


 藤村は静かにうなずいた。

 「その通りだ。戦はすでに始まっている。戦場に出る前に、我らの勝敗は半ば決まっているのだ」


 倉庫の屋根の上で、一番星がひとつ瞬いた。


 藤村は空を仰ぎ、心の中で呟いた。

 ――数字に正直であれ。

 ――数字は人を守り、国を守る。


 潮の香と火薬の匂いが交じる空気の中で、その決意は誰よりも固く刻まれていた。

水戸城下の練兵場。凍りついた地面を踏みしめ、七人の剣客が一列に並んでいた。吐く息は白く、東の空はまだ鈍い色をしている。だがその顔には迷いがなかった。


 藤村総裁の前に進み出たのは、黒羽織を翻した 芹沢鴨。鋭い眼差しと堂々たる声が場を圧した。


 「本日付をもって、我ら七名を南方巡検・台湾行の警固隊に任ずる」


 藤村の宣言に、芹沢が一歩踏み出し、深く頭を垂れた。

 「拝命仕った。――この芹沢鴨、命に代えても務めを果たす」


 その背後に立つのは、近藤勇、土方歳三、永倉新八、原田左之助、島田魁、斎藤一。いずれも常陸藩に抜擢された藤村直轄の精鋭である。


 藤村は彼ら一人ひとりに目を配り、役割を言い渡した。


 「芹沢、貴殿を隊長とする。全軍の統率と交渉の先陣を担え」

 「はっ」


 「近藤、隊副として隊務総括と規律を支えよ。歳三は兵站と記録を兼ねよ」

 「承知」

 「心得た」


 「永倉、小隊指導と稽古を任す。原田は舟艇・上陸の先鋒。島田は物資と港務の監督。斎藤は密偵と護衛の要」


 七人の視線が揃って前に向き、声が重なった。

 「承知!」


 芹沢は振り返り、仲間たちを見渡す。

 「藤村様の命、忘れるな。刀を振るう前に、まずは測り、運び、交わり、守れ。剣は最後の言葉だ」


 短い言葉に、永倉はにやりと笑い、原田は槍袋を叩き、島田は帳面を整え、斎藤は沈黙のまま小さく頷いた。土方と近藤は互いに目を合わせ、静かな決意を交わしている。


 藤村はその様子を見届け、胸の奥で思った。

 ――これで台湾行きの布陣は整った。


      ◇


 その頃、道場の縁側には 沖田総司が座していた。膝に木太刀を置き、まだ若い顔に微笑を浮かべている。そこへ近藤が歩み寄り、静かに告げた。


 「総司。お前は台湾には行かん。道場を守れ。天然理心流の後継はお前だ。そして――藤村様の近習護衛は、これからもお前に任せる」


 沖田は短く目を閉じ、やがて澄んだ声で答えた。

 「承知しました。――ここで鍛え、守り、繋ぎます」


 その言葉に、近藤の口元がわずかに緩んだ。

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