17話:剣が語る、その先へ
町の空気が、ほんの少し変わり始めていた。復旧工事の音、子どもたちの笑い声、町人たちの掛け声に混じって、最近では「剣戟」の音が響くようになった。
それは、晴人が独断で呼び寄せた、新たな剣術指南役の稽古の音だった。
今から十日ほど前、晴人は村田蔵六に頼みこんだ。江戸の道場で名を馳せている剣士たちに、水戸へ来て指導してもらえないかと。土木・建築の知識は村田に学べても、治安や護身となると話は別だった。武士の世界に足を踏み入れたばかりの晴人にとって、藩士たちの意識改革は急務だったし、町人たちにも「剣を学ぶ」という選択肢を提示したかった。
当初、村田は首を傾げた。「そんな連中が、あっさり来ると思うか?」と。だが、村田は約束通り、書状を江戸に送ってくれた。返事が来るかどうかも分からなかったが――今、その答えが目の前にある。
「おい、晴人殿。あんたが呼んだという剣術の先生方が来てるぞ。……すげえ連中じゃねぇか、ほんとに来るとはな……!」
町の北にある古道場の前で、土木作業の合間を縫って見物に来ていた町人の稲垣が、額の汗をぬぐいながら声をかけてきた。
「呼んだ……って、まさか……」
晴人の胸がどくんと跳ねた。思わず小走りになり、木造の縁側を駆け上がる。開け放たれた障子の向こう、板張りの床には、動きの止まらぬ二人の男がいた。
剣と剣がぶつかるたび、乾いた音が道場中に木霊する。だが、荒々しさはない。剣先は実に鋭く、そして美しかった。まるで舞を踊っているかのようでいて、互いの間合いを切り裂くような切迫感があった。
ひとりは、筋骨隆々とした身体に、鋭い目つきの男。相手の動きを読むように、柔らかく構えてから一瞬で斬り込む。その太刀筋は、見ている町人たちがごくりと唾を飲むほどだった。
もうひとりは、やや細身ながら、気配を殺すような静けさを纏う男。無駄な動きひとつなく、剣の角度、足さばき、体重移動――そのすべてが理にかなっていた。
「……近藤勇、土方歳三。まさか、本当に……」
口から漏れた名前に、周囲の町人たちが一斉に振り返った。だがその瞬間、二人の剣士は動きを止め、こちらを見た。
「失礼。あなたが藤村晴人殿か」
面を外しながら近づいてきたのは、近藤勇。意外なほど柔和な目元で、晴人を見つめてきた。
「ご紹介にあずかりました、天然理心流・近藤勇。こちらは副長の土方歳三です」
「……来ていただいて、ありがとうございます」
深く頭を下げる晴人の額から、一筋の汗が落ちる。心の奥に湧いてくる感情は、感謝と責任感と、ほんの少しの恐れだった。江戸からはるばる来てもらったこの二人を、無駄足にしてはならない。水戸での居場所を、必ず作ってみせる。
「剣を学びたいという町人がいると聞きました。今朝、すでに何人かと手合わせをしましたが……なかなか筋のいい若者もいますな」
「俺はその辺の町民を見下したりしねえ。ただ、本気でやる覚悟がある奴だけ相手する。それでいいか?」
土方の言葉は、稽古で流した汗の分だけ重みがあった。その声音に、周囲の町人たちは身をすくませる。だが晴人は、静かにうなずいた。
「もちろんです。……ここには、覚悟を決めた人間が集まりつつあります」
晴人の視線は、道場の柱に貼られた一枚の紙に向いた。
《剣術指南 町民も可》
差出人:藤村晴人
それは、たった一枚の紙切れだった。だが、それを見て町人や若い藩士たちが道場を訪れ始め、毎朝のように稽古の場に立ち、汗を流し始めている。晴人の行動は、小さな一歩だったが、確かに町に変化をもたらしていた。
道場の片隅にいた年配の藩士が、腕を組みながらつぶやいた。
「……あれは、使えるな。実戦のための剣術……まさに、これからの水戸に必要なものかもしれん」
町人たちも息を呑んでいる。ある者は幼い子を背負いながら見つめ、ある者は手拭いで額の汗を拭いながら、じっと剣士たちの動きを目で追っている。町の者も、武士も、誰もが思っていた。
――本物だ。
晴人の胸に、不意に込み上げてきたものがあった。江戸から来るとは思っていなかった。だが、来てくれた。自分の願いに応えて、ここまで来てくれた。
「……ありがとうございます」
あらためて、もう一度頭を下げる。今度は、先ほどよりも深く。
かつて尚武の国と呼ばれた水戸に、新たな息吹が芽生えつつある。剣が語り始めたのは、斬り合いのためではなく、守るための力――その未来の形だった。
道場の板間に、重く静かな空気が満ちていた。
木刀を手にした二人の男――ひとりはがっしりとした体格に笑みを浮かべ、もうひとりは痩身で目の奥に冷たい光を宿していた。
「始め!」
道場主の掛け声とともに、二本の木刀が弧を描くように激突する。藩士たちの誰もが息を呑んだ。
木が打ち合う音が、銃声のように鳴り響く。近藤勇と土方歳三の剣は、ただの形ではなかった。打ち込みは鋭く、構えは低く、まるで道場剣術の型とはまるで異なる。何よりもその動きは“生きて”いた。実戦の風を帯び、まるでその場に敵がいるかのようだった。
「な、なんだ……あの動きは……」
「型が……ない? いや、違う……これは……」
ざわめきが広がる。尚武を旨とする水戸藩士たちも、初めて見る“戦場の剣”に、戸惑いと興奮を隠せない。
その中で、晴人だけは、立ち上がりかけていた。全身の血が逆流するかのような昂りに、思わず口をついて出そうになった。
――近藤勇さん……? それに……土方歳三さん……!
だが、その名を呟く直前で、彼は唇を噛んで堪えた。ここで時代を乱してはいけない。彼らはまだ“新選組”ではない。ただの剣士だ。だが、だからこそ――この時代の“彼ら”を、この目で見て、共にあることができる喜びが、胸を焼いていた。
最後の一打が交わされた瞬間、道場が揺れたように感じた。
「――ここまで」
近藤が木刀を軽く払って構えを解いた。土方も、静かに膝を折って礼をする。
途端に、道場に拍手とざわめきが広がった。いや、歓声というには控えめだ。ただ、剣の道を知る者として、目の前の“何か違うもの”に心を打たれた者たちが、黙っていられなかった。
「……これが、天然理心流か」
誰かが呟いた。
道場の隅にいた道場主が進み出ようとしたその時――。
「待ってください!」
晴人が声を上げた。
振り返る道場主に、晴人は一礼し、正座のまま前へ進み出る。
「勝手ながら……この場をお借りして、話させてください」
場の空気が静まる。近藤と土方も、その言葉に耳を傾けた。
「私は……まだ剣術については素人です。けれど、ひとつだけ、はっきりと分かったことがあります」
晴人は道場をぐるりと見渡した。
「このお二人の剣は、人を“斬る”ためだけのものではありません。剣を交わすたびに、その動きから、心が伝わってきたんです。守るための力――生きるための技だと、私はそう感じました」
近藤がゆっくりと頷く。
「剣は語る。誰のために振るうかで、言葉が変わる。……俺たちは、まだ語り始めたばかりだ」
土方は口を開かなかった。ただ、静かにその瞳で晴人を見つめていた。そこに、確かに何かを認めるような光が宿っていた。
「この町が、剣の力を正しく使おうとするなら……私は、天然理心流がその道を照らすと信じています」
ざわりと空気が揺れた。藩士たちの視線が、近藤たちから晴人へと移る。
そのとき、道場主が一歩前に出た。
「なるほど、藤村殿。あなたがこの剣士たちを招いたわけか」
晴人は頭を下げる。
「はい。勝手をして申し訳ありません。ですが……この町にとって、きっと必要な力だと思いました」
「ふむ……」
道場主は腕を組み、近藤と土方を見つめる。
「見せてもらった剣は、確かに実戦のものだ。我々が受け継いできた武士の剣とは、また異なるが……しかしそれゆえに価値があるのかもしれんな」
沈黙のあと、道場主は一礼した。
「我が道場、今日より彼らの剣を受け入れよう。ただし……藩主への報告は、私の責任で行う。君が全て背負う必要はない」
晴人は、思わず目を潤ませた。
「ありがとうございます……」
そのとき、後方で近藤が笑った。
「おいおい、泣くほどのことか? こっちはまだ本気出してねぇぞ?」
晴人が顔を上げると、近藤と土方が肩を並べて、まるで兄弟のように立っていた。
この出会いが、のちに新選組となる彼らと、水戸の町を変えていく始まりになることを――
まだ誰も、知らなかった。
翌朝。晴人は早くから道場に向かっていた。
空はまだ白み始めたばかり。吐く息はほんのりと白く、道場の瓦屋根の上には、薄く霜が降りていた。
だが、そんな冷気を吹き飛ばすように、剣士たちの声が響いていた。
「面っ!」
木刀と木刀が激しくぶつかる音。気合いと共に空を裂く風切り音。そこには既に十数名の藩士が列を成し、天然理心流の稽古を受けていた。
道場の中央には近藤勇、そしてその背後には土方歳三が控えていた。
「次ッ!」
近藤の声が飛ぶと、次の藩士が構えに入る。
どの者も緊張に満ちた面持ちで、まるで戦場に向かうような表情だった。
「やる気はあるようだな、晴人」
背後から声がした。振り向くと、木刀を手にした土方が立っていた。
「俺と手合わせしてみるか?」
「……はい。お願いします!」
晴人は躊躇いながらも木刀を受け取った。構えに入った瞬間、身体が強張る。
土方は一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。その歩みは静かだが、まるで獣のような威圧感があった。
「……来ないのか?」
「はい、いえ……!」
晴人は半歩踏み出した。その瞬間、木刀が翻り、土方の刀が横から飛んできた。
「――ッ!」
辛うじて受け止めた晴人の腕に、強烈な衝撃が走る。
重い。技が、速い。何より、その“覚悟”が違う。
「受けただけか。なら、もう一撃行くぞ!」
次の打ち込みが、斜め上から叩きつけられた。
――逃げられない。
だが、晴人は逃げなかった。受けることしかできなくても、踏みとどまった。
土方の眼が、わずかに細まる。
「……腰は甘いが、根性はあるな」
「……ありがとうございます」
息が上がり、膝が震えていたが、晴人は頭を下げた。
道場の隅で見ていた藩士の一人が、思わず声を漏らす。
「ありゃ、本物だ……あの剣士たち、剣の中に“理”がある」
「いや、“殺気”だよ。あれは、生きるための剣だ」
そんな声が広がる中、近藤が立ち上がった。
「みんな、聞いてくれ」
道場が静まり返る。
「剣術とは、技を競い、相手を倒すためだけにあるものじゃねぇ。俺たちが教えたいのは、“守るための剣”だ」
近藤の眼が、一人ひとりの藩士を見つめる。
「世の中は変わりつつある。町で騒ぎが起きたとき、誰が民を守る? 武士が、だろう」
「はい!」
晴人を含め、数名が声を上げる。
「ならば、実戦で通じる剣を身につけろ。形だけの美しさより、現場で通用する“剣の意味”を掴んでほしい」
その言葉が、道場にいた者すべての胸に、ずしりと響いた。
稽古が終わる頃、晴人は木刀を抱えてぼんやりと空を見上げていた。
「痛いな……でも、不思議と怖くはない」
その隣に、近藤が立っていた。
「お前、名は?」
「藤村晴人と申します。……町の再建を任されております」
「町を守るなら、お前に必要な剣は“恐れない心”だ。腕なんか、後からついてくる」
そう言って、近藤は肩を叩いた。
「次は、俺が相手だ」
「えっ?」
「遠慮はいらねぇ。覚悟を決めた奴には、ちゃんと向き合うのが俺の流儀だ」
道場の空気が、また引き締まる。
その日の午後、道場には再び、晴人の気迫が響き渡った――。
稽古を終えた道場に、仄かな夕陽が差し込んでいた。
畳の上には、剣士たちの汗の跡が染み、木刀の打ち合いの痕がまだ生々しく残っている。中庭の水桶では、藩士たちが顔を洗いながら、興奮冷めやらぬ様子で語り合っていた。
「……近藤さんの踏み込み、まるで獣だったな」
「土方の打ち下ろしなんて、受け止めた拍子に腕が痺れたぞ。あれが天然理心流か……!」
晴人は軒下の縁に腰掛けて、汗に濡れた道着を風に晒していた。手には、稽古中に土方と交えた木刀。何度も何度も打ち込まれた傷が、木肌に刻まれている。
「まるで……夢みたいだったな」
ぽつりと漏れた言葉に、自分でも驚いた。まさか、自分があの近藤勇と手合わせする日が来ようとは――歴史の教科書に載る彼らが、今ここで、同じ空気を吸い、剣を交えている。
「お疲れのようだな」
そう声をかけてきたのは、近藤本人だった。柔らかい笑みを浮かべ、手には二つ折りの手拭いを持っている。
「あ、ありがとうございます」
晴人は立ち上がって頭を下げた。思わず背筋が伸びる。
「無理に構えなくてもいいさ。お前の剣、俺は好きだ」
「僕の剣……ですか?」
「そうだ。形はまだまだだが、一太刀一太刀に“守りたいもの”がある。その剣には芯がある。……だから、倒されても崩れなかった」
その言葉に、晴人の胸の奥が熱くなった。剣術の心得など中学の授業程度しかなかった自分が、まさかそんな言葉をもらえるとは。
「守りたいもの……それは、町の人たち、です」
「ならば、その気持ちを剣に込めていけ。心無き剣は、人を傷つけるだけだ」
近藤は、晴人の肩を軽く叩いた後、隣に腰を下ろした。しばしの沈黙の後、土方が道場の戸口から顔を覗かせる。
「近藤、時間だ。夜の町の見回り、行くぞ」
「おう、わかった」
立ち上がりかけた近藤が、ふと振り返る。
「晴人。これから先、いろんなことが起きるだろうが、忘れるな。剣は振るう前に、己の心を問え」
「……はい」
深く頭を下げる晴人の背に、近藤の足音が遠ざかっていく。
夜。
道場近くの町はずれ。藩主の意向で町人にも稽古場を開放する構想が進んでいたその地に、簡素な木造の建物が建ち始めていた。
晴人は一人、その仮設稽古場の前に立っていた。
夜風が吹き抜けるたび、木材の鳴る音が小さく響く。灯りはない。だが、晴人の心には、確かな光があった。
「ここが……新しい剣の場所になる」
つぶやいた声が、静かに宵闇に溶けていく。
「晴人さん!」
政次郎が提灯を持って駆け寄ってきた。
「こんなところで何してるんです? 怪我してるんですから、休まないと」
「大丈夫だよ。……ただ、なんだか、じっとしていられなくて」
政次郎はふっと笑い、隣に並ぶ。
「今日の剣術、すごかったですね。見てるだけで背筋が伸びるっていうか……」
「うん。あれが、本物の“実戦”なんだ」
「土方さん、見た目は冷たいけど、稽古後にみんなの手当てしてたんですよ。黙ってるけど、優しい人だと思いました」
「……そっか。剣の型だけじゃなくて、そういう在り方も伝えてくれてるんだな」
遠く、見回りの提灯の明かりがゆらゆらと揺れる。近藤と土方の姿が、町の闇に溶け込むように歩いていくのが見えた。
「この町に、“守る剣”が根付くかもしれない」
晴人の声に、政次郎が頷いた。
「そうですね。誰かを斬るための剣じゃなく、守るための剣。僕も、できるなら……覚えたいです」
「なら、一緒にやろう。きっと、今なら学べる」
新しい風が吹いていた。
それは、ただの武芸を超えて――人を守る心を、町に広げていく風だった。
そして晴人は、また一つ、未来に繋がる道を見つけていた。