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148話: (1868年11月/晩秋)計量と品質—常陸規格を国規格へ

慶応四年(1868)初秋。江戸城評定所の大広間には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。障子の隙間から射し込む淡い日差しが、畳に長い影を落とす。その中心に置かれた机の上には、一枚の布告書が置かれていた。


 「常陸規格を、全国標準とする」


 その言葉を読み上げたのは、藤村であった。声は低く抑えられていたが、広間の隅々まで響くほどの張りを持っていた。


 左右に並ぶ各藩代表者たちは、最初は息を呑み、その後、どよめきが走った。紀州藩の重臣が眉をひそめ、土佐の代表は小声で隣と囁き合う。佐賀の技師派遣団は顔を上げ、互いに目配せした。


 「まことに、これが国の定めとなるのか……?」

 薩摩の席からひとりが立ち上がり、低い声で問いかけた。

 「藩ごとに培ってきた度量衡の伝統を、一律に塗り替えるというのは、あまりに拙速ではないか」


 広間の空気が重く沈んだ。誰もが心の内に同じ疑念を抱いていたのだ。


 藤村は一歩前に進み、机に手を置いた。指先にはわずかに墨の香りが残っている。昨夜遅くまで布告文を推敲していたのだ。


 「伝統は否定せぬ。だが、度量衡が藩ごとに異なるままでは、商取引も軍備も、列強と渡り合うことなど到底できぬ」


 声は静かだったが、ひとつひとつの言葉が、石を打つように響いた。


 「この三年、常陸にて試行してきた規格は、商人の計算を軽くし、輸出入の誤差を減らし、銃砲や船材の互換性を保ってきた。もはや“地方の工夫”ではない。“国の基盤”となったのだ」


 薩摩代表は口を閉ざし、沈黙した。その代わりに、土佐の代表がゆっくりと立ち上がった。


 「……しかし、伝統工芸や地場産業は、どうなるのでしょうか。我らが長年受け継いできた尺や升を捨てよと?」


 藤村はうなずいた。

 「捨てよとは言わぬ。伝統の寸法は文化として残せばよい。ただし、商いと軍事に用いる尺度は、全国一律でなければならぬ」


 彼は机上の木箱を開き、銅製の分銅と秤を取り出した。そこには「常陸一貫」「常陸一升」と刻まれている。


 「これを見よ。銅山の職人が作り、商館の外国人が検証した規格だ。誤差は千分の二以下。いま江戸で扱う輸入砲弾も、この規格で測れば誤差なく収まる」


 広間の隅で佐賀の技師が身を乗り出した。

 「確かに……我らの工廠で用いた規格とも整合している。これなら機械部品の互換も叶いましょう」


 その言葉に、場の空気がわずかに変わった。


 藤村は続けた。

 「伝統は守る。しかし、未来を生きるには、統一が要る。伝統は“心”の誇りとして残し、規格は“技”の誇りとして磨くのだ」


 その瞬間、背後に控えていた記録係が筆を走らせ、布告の条文を大広間に掲げた。


 「常陸規格を国規格とし、商取引・軍需・官用すべてに適用する」


 ざわめきが、やがて静まりに変わっていった。


 ――これは、歴史の扉が開かれる音であった。



 式の後、重臣たちが三々五々退出する中、勝海舟が藤村に近づいてきた。彼の口元には薄い笑みが浮かんでいる。


 「やってみせましたな、藤村様。……藩ごとに勝手な尺度を使うのは、子どもが遊ぶ積み木のようなものだと、前から思っていました」


 「積み木ですか」

 藤村は少し肩を揺らした。

 「ええ、国を築くのに、基礎の大きさが揃わねば、高く積めぬ」


 勝は愉快そうに笑ったが、すぐに真顔になった。

 「だが、敵は外にばかりいるわけではない。内に“面子”を守ろうとする者もおる。今日の反発も、その一端です」


 藤村はうなずいた。

 「だからこそ“品質”という言葉を掲げた。誰も面子を失わずに済む。伝統は守りつつ、品質を誇ればよいのだから」


 勝は「なるほど」と短く返し、背を向けて去っていった。



 評定所の外に出ると、秋風が木の葉を揺らしていた。空は澄み、白い雲が流れている。藤村は立ち止まり、城下の喧騒に耳を澄ませた。


 遠くからは荷車の軋む音や、商人たちの呼び声が聞こえてくる。新しい規格が全国に広まれば、これらの取引もまた軽くなるだろう。


 「常陸から始まった規格が、国の柱となる……」


 彼は独り言のように呟いた。


 その視線の先には、未来の日本がかすかに見えていた。統一された規格が列強の商館で通用し、外国の船乗りが日本製の部品に信頼を寄せる光景。


 ――規格はただの数字ではない。それは、国と国とを結ぶ共通の言葉なのだ。

慶応四年(1868)初秋。評定所での布告から数日後、藤村は横浜へと足を運んでいた。

 道中の馬車の窓から、港の景色が広がる。高いマストを林立させた商船群、荷揚げに汗を流す人足、行き交う異国の商人たち――その喧噪には、江戸にはない開放感とざらついた緊張が同居していた。


 「これだけの船が動く。だが、積まれる荷の規格が揃わねば、いつか必ず混乱が来る」

 藤村は心中でそう呟き、深く息をついた。



 向かったのは横浜の外国商館街。煉瓦造りの建物の前で馬車を降りると、英国商館の旗がはためいていた。赤いユニオンジャックは潮風を孕み、誇らしげに波打っている。


 玄関には、背の高い英国人が待っていた。ロンドン本社から派遣された保険会社の代表、ウィリアム・ハートである。四十代半ば、灰色の瞳と整えられた口髭。仕立ての良い黒い上着に金の鎖を光らせ、書類鞄を片手にしていた。


 「ミスター・フジムラ、ようこそ。我々は“常陸規格”なるものを大いに耳にしております」

 流暢な日本語ではなかったが、通訳を交えつつ言葉は通じた。


 藤村は軽く会釈を返す。

 「本日は、その効用を数字でお示ししましょう」



 応接室に通されると、厚いカーペットの上に深い革張りの椅子が置かれていた。窓の外には港の青が見え、ガラス越しに陽光が反射して眩しい。机上には大きな帳簿と計算盤、そして細かな秤と分銅が並べられている。


 ハートは、分厚い英文契約書を開きながら口を開いた。

 「我々にとって最大の関心事は、リスクの算定です。荷の重さ、容積、品質が藩ごとに違えば、船が沈んだときに損害を計算できません」


 彼の声には、長年の苦労がにじんでいた。実際、藩ごとに升の大きさが違い、石や斗の重さも統一されていなければ、保険金の計算は常に揉め事の種になっていたのだ。


 藤村は、用意していた木箱を開いた。そこには「常陸一貫」と刻まれた銅の分銅と、「常陸一升」と記された秤が収められている。


 「これが新たな国の標準です。誤差は千分の二以下。これを全国で統一して使うことが決まりました」


 通訳が英語に訳すと、ハートの灰色の瞳がわずかに見開かれた。


 「……全国で、ですと?」

 「そうです。商取引も軍需も、この規格で統一されます」



 ハートは鞄から分厚い紙束を取り出し、机に置いた。

 「これは先月、我々が調べた港湾取引の統計です。藩ごとに誤差があり、保険料の基準を揃えるのに苦労しました。だが――」


 彼は手を止め、ゆっくりと笑みを浮かべた。

 「常陸規格が全国に行き渡れば、この誤差が消える。つまり、リスクが減る」


 藤村は頷いた。

 「その通りです。だからこそ我らは統一に踏み切った。貴社が保険料を下げられるのも当然の帰結でしょう」


 ハートは書類を一枚抜き出し、通訳に手渡した。そこには、正式通知の文言が記されていた。


 《海上保険料 〇・二〜〇・三ポイント改善》


 「これが本社からの決定です。常陸規格の採用を歓迎し、日本航路の保険料を引き下げることとしました」



 応接室の空気が揺らいだ。同行していた横浜の商人たちは、思わず顔を見合わせ、声を上げた。


 「おお……これで輸出品の競争力が一段と増すぞ!」

 「たった〇・二の差でも、千石積めば大金だ!」


 人々の目が輝いているのを見て、藤村は静かに口を開いた。

 「信頼こそ、最高の割引券なのです」


 その言葉に、ハートは感心したようにうなずいた。

 「インシュランスとは、信用の商売です。だが、信用を作るのは言葉ではない。数字と規格、そして国の決意だ。……常陸規格はそのすべてを満たしている」



 商人の一人が、藤村に身を乗り出した。

 「これで、干芋やKasama瓶をもっと安く積み出せますな。海外の商館も喜ぶでしょう」


 別の商人がすぐに続けた。

 「しかも、相場が安定する。これからは値段の駆け引きよりも、品質で勝負できる時代が来るのですな」


 藤村はうなずき、穏やかに答えた。

 「ええ。品質の統一が国力の基盤です。これが実れば、商人は安心して取引でき、職人は自らの技を誇れる」



 会談の最後に、ハートは真剣な表情で言った。

 「日本は、決して後進国ではありません。今日の決定は、我々西洋にも衝撃を与えるでしょう」


 藤村は深く礼を返した。

 「ありがとうございます。だが、これは始まりにすぎません。規格は国の“言葉”です。これを以て、我らは世界と語り合うのです」



 会談を終えて商館を出ると、横浜の港は夕暮れの光に包まれていた。帆柱の影が長く伸び、港湾に灯がともり始める。遠くで汽笛が鳴り、潮風が塩と石炭の匂いを運んできた。


 藤村は足を止め、港を見下ろした。

 ――常陸から始まった規格が、いま世界の商館で価値を持ち、保険料を下げる力になった。


 「品質革命とは、数字が人を守るということだ」


 彼の呟きは、夕風に消えていった。

慶応四年(1868)晩秋。冷たい潮風が横須賀湾を吹き抜け、工廠の屋根瓦をざわつかせていた。空は高く澄み、港の外に停泊する砲艦のマストが並んでいる。その向こうでは、白波が陽を受けてきらきらと砕けていた。


 横須賀工廠――幕府と常陸が共に金と人を注ぎ込み、近代日本の象徴として築き上げられた造船の殿堂である。巨大なクレーンがゆるやかに鉄骨を吊り上げ、鋲打ちの音が木霊する。そこに、藤村と榎本武揚の姿があった。



 広場には、木製の箱がずらりと並べられていた。蓋を開けると、包帯、止血帯、消毒薬、携帯用の担架……すべてがきちんと整列して収められている。箱の側面には、はっきりと「常陸規格・医療箱一号」と刻印が押されていた。


 「これが、各艦に配られる医療箱です」

 藤村の言葉に、傍らの軍医総監が力強くうなずいた。


 「どの艦でも、同じ位置に、同じ内容が揃う。兵が負傷したとき、迷わず手が動く。これは戦場の生死を分けます」


 榎本が蓋を閉じ、手で撫でる。

 「見事なものですな。これまで艦ごとに医療品の種類も量もまちまちで、いざというとき探し物に時間を費やす。あれでは助かる命も助からぬ。……これでようやく、海軍も“ひとつの体”として動ける」


 藤村は頷き、静かに応じた。

 「命を救う作法を、規格として刻む。それが近代化です」



 次に視察したのは、艦内に張り巡らされた真新しい銅管だった。艦内消火栓――工廠の職人たちが汗を流して敷設した命の水路である。


 工員がバルブをひねると、勢いよく水が噴き出した。霧のような飛沫が陽を受けて虹を描き、甲板の木材を濡らした。


 「見よ、石炭庫へも散水孔を通じて一斉に水が行く仕掛けだ」

 案内役の技師が誇らしげに説明する。

 「火が上がれば、船全体を水の幕で包む。どの艦でも同じ管、同じ圧、同じノズル。訓練すれば誰でも動かせます」


 榎本が眉を上げ、藤村に言った。

 「これで艦隊運用の効率が飛躍的に向上しますな。火災は最大の敵。だが規格統一で恐れることはなくなる」


 藤村は濡れた甲板に一歩踏み出し、水音を耳に刻んだ。

 「この音を、兵たちは“命の音”と覚えるだろう。砲声ではなく、この水の響きが、彼らを生かす」



 工廠の一角では、職人たちが小さな部品を丹念に組み上げていた。真鍮のねじ、鉄の継手、木箱の蝶番。ひとつひとつの部品に「常陸規格」の刻印が押される。


 若い職人が額の汗を拭いながら藤村に声を掛けた。

 「総裁様。最初は“同じものを大量に作る”なんて夢物語だと思っていました。けれど、やってみると不良が減って、工数も半分で済むんです」


 藤村は目を細め、笑みを浮かべた。

 「それが規格の力だ。誰もが同じ“型”で動くことで、無駄が消える。……兵も、職人も、国も同じだ」


 傍らで年配の工頭が深くうなずいた。

 「若い衆の手元も安定しました。寸法が揃えば、腕の差も埋まります。これなら後の世代に技を伝えるのも容易い」


 「伝える仕組みを作る。それこそが改革だ」

 藤村はそう答え、工場の響きを耳で確かめるように立ち尽くした。



 昼下がり、会議室に移った一行は、規格統一に投じた一万二千両の会計報告を確認した。数字が並ぶ紙の上を指でなぞりながら、榎本が口を開く。


 「大金ですが、無駄遣いではありませんな。どの艦でも同じ手順で救命と消火が可能になる。これは兵士の心を強くする投資です」


 軍医総監も静かに頷いた。

 「戦場では、迷いが命を奪う。統一規格は迷いを消す。医療箱を開けば、誰もが同じ位置に同じ器具を見つけられる。それだけで助かる命があるのです」


 藤村は会議机の上に置かれた小さな部品を手に取り、掌で転がした。

 「このねじひとつが、兵の命を救う。……常陸の規格は、もはや常陸だけのものではない。国の規格だ」



 夕刻、工廠を出ると潮風が頬を打った。赤く染まる空の下、艦艇が静かに停泊している。

 甲板には兵士たちが立ち、試作の医療箱を開け閉めして訓練していた。誰もが迷わず手を動かし、次の動作へ移っていく。その動きはまだぎこちないが、確かな一歩を刻んでいた。


 藤村はその光景を眺め、胸の内で呟いた。

 ――規格とは、人を縛る枷ではない。人を救うための道しるべだ。


 夕陽の光が銅管に反射し、真新しい金属が赤く輝いた。それは、未来の日本を照らす火のようでもあった。

慶応四年(1868)晩秋。日が早く傾く江戸の空に、薄紫の雲が流れていた。冷たい風が勘定所の障子を揺らし、紙の端をかすかに鳴らす。帳場には、数枚の分厚い稟議書が重ねられていた。その最上にあるのが、艦修材六万ドル追加発注の決裁書である。


 藤村は長机の前に座り、羽根ペンを握ったまま、しばし書面を見つめていた。墨痕の新しい数字が、蝋燭の光に照らされて揺れる。六万ドル――幕末の日本にとって、まさに国の命運を左右する大金だった。


 「総裁、すでに諸役所の合議は済んでおります」

 勝海舟が柔らかな声で口を開いた。

 「これで横須賀の造船修繕は、少なくとも五年は安泰となるでしょう。異国依存を減らし、自前の力で艦を保つ礎となります」


 藤村は小さく頷いた。

 「わかっている。しかし、この額を一気に動かすことの重さも忘れてはならぬ」


 榎本武揚が口を挟んだ。

 「総裁。六万ドルは確かに重い。だが、もし修繕が滞れば艦は立ち往生し、もっと大きな損を招きます。投資を惜しむことこそ、真の浪費です」



 会議の空気は張り詰めていた。勘定方の老吏が震える指で算盤を弾き、控えめに進言する。

 「歳入歳出を勘案いたしますに……この六万ドルは、常陸黒字と外貨積立から転用せねばなりませぬ。備蓄を削ることとなりますが……」


 「備蓄を食うのは一時のことだ」

 藤村の声は静かだった。

 「だが艦を動かせなければ、外貨を稼ぐ術を失う。黒字も備蓄も、結局は“生きた艦”あってこそ意味を持つ」


 勝がにやりと笑みを浮かべた。

 「その通りですな。国の財布は、海の底に沈めるわけにはいかぬ」



 机の上に広げられた設計図には、修繕に必要な部材の明細が並んでいた。鋼板、舵輪、蒸気機関の弁、外輪の軸……細かな部品ひとつが欠けても、艦は動かない。


 榎本が図面に手を置き、熱を帯びた声で語った。

 「これで我らは、自分の艦を自分で治せるようになります。これまで異国の船渠に頼らざるを得なかった屈辱から、ようやく抜け出せるのです」


 藤村は榎本の眼差しを見返し、深く息を吸った。

 「……よかろう。六万ドル、執行する」


 羽根ペンが走り、署名が紙面に刻まれた瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。緊張の糸が切れ、誰もがほっと息をついたのである。



 会議後、廊下に出た藤村の耳に、若い書役の声が届いた。

 「総裁、あれほどの大金を……恐ろしくはございませんか」


 藤村は立ち止まり、障子越しに差し込む夕陽を見やった。

 「恐ろしいとも。しかし、金は使わねばただの紙だ。未来を織り上げる糸として使うとき、初めて命を持つ」


 書役は目を見開き、深く頭を下げた。



 夜、藤村は洋館の書斎に戻った。窓の外には月が上り、港の灯が揺れている。机の上には決裁を終えたばかりの稟議書が置かれていた。蝋燭の灯に照らされた署名は、重くも確かな未来の約束のように見えた。


 篤姫が茶を運びながら微笑んだ。

 「また大きな決断をなされたのですね」

 「六万ドル。……だが、これで艦が生きる。子らの代にも残る財産となろう」


 篤姫は湯気の立つ茶を机に置き、静かに頷いた。

 「未来のための重さなら、きっと耐えられます」


 藤村は茶を口に含み、熱が胸に広がるのを感じながら、心の奥で言葉を結んだ。

 ――黒字も備蓄も、すべては“動く艦”があってこそ。金は血脈、艦は骨格。その両輪を回し続けねばならない。



 外の港では、夜勤の工員たちがまだ槌を振るっていた。鉄と火の音が、遠くまで響く。藤村はその響きに耳を澄ませ、胸に確信を抱いた。


 ――六万ドルは重い。だが、未来の日本を動かすには必要な重みだ。

慶応四年(1868)初冬。江戸城西丸の一室には、珍しく商人と官僚が同じ机を囲んでいた。机の上には南洋の海図とマニラの港湾図、そして赤い蝋で封じられた分厚い書簡が広げられている。


 藤村が正面に座し、背筋を伸ばす。その横には勝海舟と榎本武揚、そして商人岩崎弥太郎と若き外交官陸奥宗光が並んでいた。


 「――南方出張所、マニラ開設。これを我が国の新たな礎としたい」


 藤村の言葉に、室内の空気が一段と張り詰めた。


 岩崎が膝を乗り出す。

 「南へ出れば、米や木材だけではなく、砂糖も胡椒も手に入る。商機は無限大ぜよ。いま手を打てば、欧米の牙城に割って入れる」


 その目はぎらぎらと輝き、商人の血の熱が隠しきれない。


 陸奥が、冷静な口調で言葉を継いだ。

 「加えて外交的価値も大きい。マニラは列強が睨みを利かせる要衝です。ここに出張所を設けることは、我が国が南方を視野に収めたと世界に示す旗印となります」


 「旗印、か」

 藤村は静かに頷いた。

 「北のアラスカ、樺太を押さえ、南にマニラを据える。――北と南、二つの楔を打てば、この国は真ん中で揺るがぬ」



 机の上の海図には、細い線で航路が記されている。横浜から上海を経てマニラへ、さらにシンガポールへと続く線。その線はまるで未来を指し示す矢印のように見えた。


 榎本が指で航路をなぞりながら言った。

 「航路の途中には嵐も浅瀬もある。だが電信と保険を組み合わせれば、危険は減らせます。すでに横浜と上海で成果は出ている。あとは踏み出すかどうかです」


 勝が笑みを浮かべ、煙管を軽く叩いた。

 「藤村様、ここで尻込みするなら、これまでの改革はただの絵空事ですぜ。商いも政も、最初の一歩は泥濘を踏むもの。泥に足を取られぬ覚悟があるかどうか、問われております」


 藤村は羽根ペンを取り上げ、机上の書簡に署名した。墨の香が広がり、筆跡が確かに紙を刻む。


 「――覚悟はある。泥濘でも氷でも構わぬ。南の一歩を踏む」


 署名を終えた瞬間、岩崎が大きく息を吐いた。

 「これで日本の商いは広がる。船も荷も、南で待ちゆう」


 陸奥も小さく頷き、眼鏡の奥の瞳を光らせた。

 「歴史に刻まれる一歩となりましょう」



 その夜、藤村は洋館の書斎で再び地図を広げていた。篤姫が茶を運びながら尋ねる。

 「またお仕事ですか」

 「南へ行く道を描いている。……岩崎と陸奥は、頼もしい。だが彼らの熱に呑まれてはならぬ。商いも外交も、欲と理を秤にかけることが肝要だ」


 篤姫は湯を注ぎながら微笑んだ。

 「秤を正しく保つのが、あなたのお役目なのですね」


 藤村は茶碗を手に取り、湯気を吸い込む。香りの向こうに、遠い南洋の潮風が漂うような気がした。



 数日後。横浜港の埠頭では、出張所開設準備のための積荷が進められていた。大きな木箱には「MITO」の墨字、隣には「MANILA」の赤い刻印。石鹸、Kasama瓶、干芋に加え、布地や薬品、測量器具までもが積み込まれていく。


 港湾労働者のひとりが汗を拭いながら言った。

 「夜も保安灯があるから、作業がはかどるな。昔なら、暗がりで荷を落としたもんだ」


 藤村はその声を耳にし、心中で小さく呟いた。

 ――人命を守り、物を運び、商を繋ぐ。それが国家の血脈となる。


 船の汽笛が低く鳴り、白い蒸気が立ち上った。積荷を終えた船が、南へ向けて旅立つ準備を整えていた。



 夕刻、藤村は港の丘に立ち、出帆を待つ船を見下ろしていた。潮風が冷たくも心地よい。背後から榎本が近づき、肩を並べる。


 「総裁、これで北も南も揃いましたな」

 「いや、まだ始まりにすぎぬ。旗を立てただけだ。――これからが本当の試練だ」


 水平線の彼方に、赤く染まる雲が広がっていた。その下を、出帆の船がゆっくりと港を離れていく。帆の白と煙の黒が、夕陽に映えて眩しい。


 藤村は胸の奥で確信した。

 ――北を買い、南を押さえる。常陸規格の次は、日本規格を世界へ。これこそが、次の時代の扉を開く鍵となる。


 冷たい風が頬を撫で、遠い南の海からの香りを運んでくるようだった。

初冬の空は薄曇りであった。横須賀の丘の上に立つ藤村は、眼下に広がる工廠を見下ろしていた。潮風は冷たいが、港全体に響く槌音と蒸気の唸りがその寒気を吹き払っているようだった。


 造船所のドックでは、規格化された木材と鉄材が順序よく並び、職人たちがそれを迷いなく組み合わせていた。かつては各藩ごとに寸法が異なり、継ぎ目の合わない部材に職人が汗をかいて調整する光景が当たり前だった。だが今や「常陸規格」を基準とした統一寸法が導入され、木槌の音は無駄なく響き、鋲は一撃で定位置に収まる。


 「総裁、見てください。この継ぎ目、一分の狂いもございません」

 若い職人が笑顔で鉄板を指差した。


 藤村は近づき、手袋越しに表面を撫でた。冷たく硬いはずの鉄板が、まるで生き物の皮膚のように滑らかに繋がっている。

 「よくやった。規格が人を縛るのではない。人を解き放つのだ」


 その言葉に、職人の目がさらに輝いた。



 港の別区画では、海軍士官たちが医療箱と消火栓の標準化作業を確認していた。箱を開ければ同じ位置に包帯、同じ寸法の鉗子、同じ手順で薬瓶が収まる。消火栓の管も接続口が統一され、どの艦でも即座に水が通る仕組みになっていた。


 榎本武揚が記録帳を手に説明する。

 「総裁、これでどの艦に乗っても同じ手順で救命と消火が可能です。艦隊行動の効率は飛躍的に向上します」


 藤村は深く頷いた。

 「戦は力だけではない。秩序と整合、それが人の命を守る」


 背後で見守っていた勝海舟が、にやりと笑って煙管をくわえた。

 「まるで西洋の軍港を見ているようだ。だが、西洋の真似をしただけじゃねえ。ここには“日本の工夫”がある」


 確かに、医療箱の隅には干し梅と生姜が備えられていた。長期航海での脚気や胃病に効く、日本ならではの知恵だった。



 夕刻が近づくと、工廠全体が銅色の光に染まった。クレーンが鉄材を吊り上げる音、鋳造所から立ち上る煙、波止場で積み込まれる石鹸やKasama瓶――どれもが規格の枠に沿って動き、無駄がなく、滑らかに流れていた。


 岩崎弥太郎が港に現れ、書類を掲げた。

 「総裁、英国保険会社から正式通知が届きました。常陸規格の全国展開により、リスク評価が正確になったとのこと。海上保険料が〇・三ポイント下がります」


 「〇・三……」

 藤村は低く繰り返した。

 「数字は小さいが、国全体で見れば莫大な差だ。信頼こそが最高の割引券だ」


 岩崎は豪快に笑い、両手を広げた。

 「商人どもも大喜びですぜ。これで輸出競争力がぐっと増す。異国の商館に堂々と渡り合える!」


 藤村の頬に、わずかな笑みが浮かんだ。



 その後、丘の上に戻った藤村は、夕陽を浴びる工廠全体を見渡した。規格化された作業が織りなす光景は、まるで巨大な機械が呼吸しているかのようであった。


 そこへ陸奥宗光が静かに歩み寄った。

 「総裁、マニラ出張所の件、準備が整いました。常陸規格をそのまま南方の港にも適用します。国際市場での評価はさらに高まるはずです」


 「南でも同じ規格が通じる……それはつまり、日本が“信用の国”になるということだ」


 遠くに見える煙突から、白い蒸気が空へと昇っていく。その形は、未来への狼煙のようにも見えた。



 日が落ち、灯がともる。工廠の窓々から漏れる光は、ひとつひとつが規格の成果であり、人の努力の証だった。


 藤村は胸中で静かに言葉を結んだ。

 ――計量と品質。この二つを制するものが、近代国家を制する。


 常陸から始まった小さな規格が、今や全国の標準となり、海外の評価をも勝ち得た。品質は信頼を生み、信頼は経済効果を生み、経済はさらなる品質を育む。循環は確かに回り始めていた。


 「これが、品質革命の完成だ」


 彼の声は誰に向けられたものでもなかったが、潮風と夕闇の中に確かに響き、工廠全体の律動と重なっていった。

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