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147話: (1868年9月/初秋)黒字の作法―繰上と備蓄

初秋の朝、江戸城勘定所の窓からは、澄んだ風が紙の端を小さく震わせていた。夏の名残を残しつつも、空の青さはどこか透明に澄み、城下を流れる人の声も少し落ち着きを帯びているように感じられた。蝉の喧噪は遠のき、代わりに稲の刈り取りを告げる農夫たちの歌が風に混じって聞こえてくる。


 広間には長机が並べられ、その上には分厚い帳簿が積まれていた。硝子窓から差し込む光を受け、墨で書かれた数字が黒々と浮かび上がっている。勘定所の若い書役たちは緊張で背筋を伸ばし、筆を止めて主君の言葉を待っていた。


 藤村は机の前に立ち、一枚の帳簿をゆっくりと開いた。手の中に伝わる和紙のざらりとした感触、その匂いすら、この数年で幾度となく味わった馴染み深いものだ。しかし今日は違う。そこに刻まれた数字は、彼と家臣たちが積み重ねてきた努力の結晶であった。


 「……常陸勘定、黒字最終確定。収入二十九万四千両、支出二十五万両。差引き、四万四千両」


 声は抑えられていたが、室内の空気を切り裂くように響いた。ざわりと周囲の者が息を呑む。これまで借金に追われ、返済のために新たな借財を重ねてきた幕末の財政において、「黒字」という二字が持つ重みは計り知れなかった。


 重臣の一人が思わず身を乗り出した。

 「四万余両……ついに、黒字ですか」


 藤村は静かに頷き、筆を取り上げると帳簿の余白に大きく「繰上:備蓄=一:一」と記した。赤い印がぱたりと押され、墨の香が漂う。


 「諸君。これからの黒字は、遊興に回すものではない。半分は繰上返済に、半分は備蓄に充てる。この原則を曲げることは許さぬ」


 その声には、どこか張り詰めたものと、同時に温かさもあった。


 「繰上は、過去を軽くする。備蓄は、未来を守る。――借金返済と将来への備えを同時に進める。これこそが真の財政健全化だ」


 広間の空気が揺れた。重臣たちの顔に安堵が広がり、やがてそれは確信へと変わっていった。


 「これで、次の事業に安心して取り組めますな」

 「もはや、借金に振り回される必要はございません」


 互いにささやき合う声は、かつての焦燥と苛立ちに満ちた会議とは対照的に、落ち着きと希望に満ちていた。


 藤村は机の端に手を置き、ふと外を見やった。庭の木々はわずかに色づき始め、風に揺れる枝の間から金色の光がこぼれている。数年前、同じ場所で彼が語ったのは「借金をどうやり繰りするか」という悲しい算盤でしかなかった。だが今は違う。黒字をどう未来に活かすかを語れる日が来たのだ。


 重臣の一人、小栗忠順が前に進み出た。

 「総裁様。繰上返済と備蓄を等分に――実に合理でございます。しかし、人の心というものは、余剰を目にするとつい“今”に使いたくなるもので……」


 藤村はその言葉を制するように微笑んだ。

 「だからこそ、作法が要る。黒字の作法だ。数字に裏打ちされた規律を設けねば、人はすぐに揺らぐ。繰上と備蓄、この二つを等分に割ることは、金を扱う我らの“礼”でもある」


 書役たちがその言葉を筆記し、朱で囲んだ。まるで経典の一節のように。


 その時、年配の勘定方が声をあげた。

 「総裁様、備蓄はどのように保管されますか? 米か、金か、それとも……」


 藤村は少し考え、答えた。

 「三割は金銀で、三割は米、四割は道具と人に投ずる。――金銀だけでは非常時に使いにくい。米だけでは腐る。だが、人と道具に回せば、数字を超えて力となる」


 「人と道具……ですか」

 「そうだ。道具とは橋梁材、医療器具、銃の部品。そして人とは、教育を受けた子らや、鍛錬を積む兵だ。金を未来に変えるのは、人以外にない」


 広間に再び沈黙が訪れ、やがて頷きが広がった。黒字をただの余剰ではなく、未来への責任として扱う――その哲学は、重臣たちの胸に強く刻まれた。


 外では、秋の風が庭の砂を巻き上げ、小石をころがしている。その音すら、まるで時代が確かに前に進んでいる合図のように思えた。


 藤村は帳簿を閉じ、ゆっくりと宣言した。

 「今日の黒字は、明日の礎だ。繰上で過去を軽くし、備蓄で未来を守る。この輪を絶やさず回し続けよ。それが、この国の命を長くする唯一の道だ」


 若い書役のひとりが、その言葉を書き留めながら、思わず呟いた。

 「黒字とは……数字ではなく、未来そのものなのですね」


 藤村は彼に視線を送り、静かに頷いた。

 「そうだ。数字の奥に、人の命と暮らしがある。それを忘れぬために、我らは帳簿を開くのだ」


 その瞬間、広間の空気は凛と澄み渡り、誰もが一つの時代の節目を感じていた。

江戸湾の潮風が吹き抜ける演習場。秋の日差しはまだ強さを残していたが、空の色は確かに夏とは異なり、少しばかり淡い青に変わっていた。広場には、海兵志願者たちがずらりと並んでいる。背筋を伸ばし、汗を額ににじませながら、選抜試験の開始を待っていた。


 「人数は一五〇〇から二〇〇〇へ。だが――ただ数を増やすのではない。質を高める」


 藤村は榎本武揚と並んで立ち、視線を前に送った。並ぶ男たちは町人や農民の子弟も多く、かつての“武士中心の兵”とは明らかに異なる顔ぶれだ。だが、その瞳は皆、真剣で、波間を越える決意に満ちていた。


 軍医が前に進み出て、声を張った。

 「まず、体格! 胸囲三尺以上、背丈五尺五寸以上を基準とする!」


 測定の竹竿が背に当てられ、紙尺が胸囲を測る。男たちは固唾を呑み、判定の声を待つ。合格者には朱の印が額に押され、不合格者は無言で列を外れる。


 「次、歯科検査!」

 軍医が口を開かせ、歯並びと歯の強さを調べる。食料の主力が乾パンや干物となる海軍兵にとって、歯は武器の一部であった。虫歯で噛めぬ者は、遠洋航海には耐えられない。


 「三番、視力!」

 視標として白布に黒点を描いたものが掲げられた。一定の距離から読み取れるかどうかで判定される。弓や鉄砲の時代を経て、望遠鏡と信号旗が生命線となる海軍では、目の力が何より重要だった。


 「最後、種痘痕の有無!」

 左腕をまくり、種痘の痕を見せる。痕のない者は予防接種の対象とされ、その場で次回の接種日を記録される。天然痘は戦場よりも恐ろしい敵であり、それを防ぐか否かが部隊の存亡を決める。


 藤村は黙ってその一連の光景を見つめ、ゆっくりと呟いた。

 「剣術や砲術の技よりも、まずは“生き延びる”体を持つこと。これが、近代軍の第一歩だ」


 榎本が隣で小さく笑った。

 「昔なら『剛の者』と呼ばれた男が、歯の一本で落とされる。時代は変わるものですな」

 「だが、これが科学の力だ。体格・歯・目・種痘。数字と記録で選べば、運任せではない軍ができる」


 落選した男の一人が、列の外で唇を噛みしめていた。肩は震え、目には悔しさがにじんでいる。藤村は歩み寄り、声を掛けた。

 「恨むな。君の体は弱いが、国のためにできることはある。船を支える職人も必要だ。道を違えても、力は同じだ」


 その言葉に、男は深く頭を下げ、無言で去っていった。


 一方、合格を告げられた者たちは顔を上げ、引き締まった表情を浮かべていた。軍医が小声で報告する。

 「これまでにない健康水準の部隊が生まれます。平均年齢十九歳、胸囲三尺二寸、歯の欠損率わずか三分の一。――これなら長期遠征にも耐えられるでしょう」


 藤村は頷き、声を高めた。

 「よいか。選ばれたことは誇りではあるが、それ以上に責任だ。お前たちの背に、この国の未来がかかっている。鍛えよ、学べよ、そして生きて帰れ」


 その声に、若き兵たちは一斉に拳を胸に当て、声を張り上げた。

 「御意!」


 秋の空にその声が吸い込まれ、江戸湾を渡って遠くに響いていった。

夕暮れが近づく玉里港。秋風に混じって、海藻と石炭の匂いが鼻を掠める。波止場では荷車の軋む音、荷役夫の掛け声、船具を締め直す音が入り混じり、港全体が大きな機械のように動いていた。


 その頭上で――ひとつ、またひとつと灯りがともった。

 港湾の保安灯である。新設された鉄柱の上に据え付けられた灯体が、風に負けぬよう厚いガラスで守られ、油の炎を揺らめかせている。


 「おお……明るい!」

 荷役夫の一人が思わず声を上げた。


 従来、夜の港は危険と隣り合わせだった。足元の石畳は濡れて滑りやすく、荷の上げ下ろしで転落すれば命を落とすこともある。実際、過去一年で夜間荷役の事故率は三割に達していた。


 「見てみろ、影が消えた。これなら縄も手元で見える」

 「夜が怖くなくなる……」


 荷役夫たちの顔には、ほんの少し安堵の笑みが広がった。暗闇に潜んでいた不安が、灯りひとつでこれほど変わるのかと、誰もが驚いていた。


 藤村は岸壁に立ち、灯を見上げながら静かに言った。

 「人命こそが、最も貴重な資産だ。金銀では替えられぬ。――だからこそ、安全への投資に妥協はない」


 その言葉に、隣で記録を取っていた役人が深く頷いた。

 「藤村様。夜間荷役の効率も確実に上がります。荷主も運賃を惜しまぬでしょう」


 藤村は軽く笑みを返す。

 「利益はあとからついてくる。まずは死なせぬことだ。死んだ者は働けぬし、家族を悲しませる。それが一番の損失だ」


 港を歩けば、子どもを連れた妻女が新しい灯を仰いでいた。

 「これで、父ちゃんが夜に帰れなくても心配せずに済むね」

 子どもの小さな手が、母の袖を引っ張りながら灯を指差した。


 工事主任の職人が、黒い手拭いで額の汗を拭いながら近寄ってきた。

 「藤村様、油の粘度を上げ、芯も改良しました。これなら風にも揺れません。維持費も従来の半分で済みます」


 藤村はその肩を叩いた。

 「よくやった。技術は人を守るためにある。これからは“安全”も産物の一つとして売り込むのだ」


 夕闇が落ち、港全体に灯が広がると、海面が金色に輝き始めた。まるで夜の海が街の延長に変わったかのようだった。


 「玉里港に夜が生まれたな」

 藤村はつぶやいた。その声音には満足と、さらに次を見据える静かな決意が宿っていた。

秋の陽は短く、江戸の藤村邸の庭には早くも長い影が伸びていた。風は涼しいが、まだ湿り気を帯びている。草の上を駆ける子どもの足音が、虫の声と混ざり合って響いた。


 「いち、に、さん……!」

 庭の石畳を歩きながら、久信が小さな指を折って数を数えている。まだ五を越えると順序が怪しくなるが、その一生懸命さに侍女たちの頬が自然と緩んだ。


 その少し離れた芝の上では、慶篤が歩数を刻んでいた。胸元には小さな木札が提げられており、「八千歩」の目標が墨で記されている。下級士の指導を受けながら、一歩一歩を確かめるように進む姿は、幼さを残しつつも真剣さに満ちていた。額に浮かぶ玉のような汗、赤く染まった頬が努力の証だった。


 「今日は八千六百歩……先月より一八%増でございます!」

 従者が息を切らして報告すると、慶篤は口元をきゅっと引き結び、どこか得意げな面持ちで藤村の方へ視線を送った。


 縁側に腰を下ろしていた藤村は、その視線を穏やかに受け止め、微笑んだ。

 「体は数で育つ。数字で見ると努力が形になる――よくやった」


 その隣では、昭武が帳面を広げて筆を走らせていた。彼の前に置かれているのは、分厚い英仏語の契約書。海上保険会社との複雑な条項を翻訳する作業である。


 「……危険負担、両当事者合意。“mutual liability clause”は、こう記すのか」

 小声で確かめるように呟きながら、昭武は確かな筆致で訳語を記入した。


 「昭武、仕上がりはどうだ」

 藤村が声を掛けると、昭武は顔を上げ、満足げに頷いた。

 「はい。これで我が方も海外の保険交渉で、対等に話を進められるはずです」


 藤村の眼差しが細まり、光を帯びた。

 「よくやった。その一行が船を守り、人を救うことにつながる。――数字の裏には、必ず人の命がある」


 庭では久信が数唱に夢中になり、慶篤は息を整えて再び歩を進めていた。縁側では昭武が紙面に向かい、未来の交渉の形を刻んでいる。


 藤村はその光景を眺め、胸中で静かに思った。

 ――借金を減らすことも、備蓄を積むことも、次の世代へ道を渡すためにある。だが、彼ら自身がこうして成長していく姿こそが、本当の財産に違いない。


 夕暮れの赤みが庭を覆い、子どもたちの影が長く伸びていった。やがて灯がともれば、一日の記録がまたひとつ積み重ねられる。その記録は数字として帳簿に残り、笑顔として人々の心に刻まれていくのだった。

秋の日はすっかり傾き、江戸の空は淡い茜に染まっていた。藤村邸の執務室には、窓辺から差し込む夕陽が帳簿の頁を金色に照らしている。蝋燭を灯すにはまだ早い。だが、光と影の境目に浮かび上がる数字は、どこか静かな威厳を纏っていた。


 机の上には一冊の大帳簿。表紙には「黒字」と太い筆で記され、墨の香りがまだ新しい。藤村はゆっくりと頁を繰り、その中に記された繰上返済の額、備蓄積立の数字を確かめる。


 「黒字とは、余り物ではない」

 彼は独りごちるように呟いた。


 「それは未来への責任だ。借金を削るのは過去を軽くするため。備蓄を積むのは、まだ来ぬ嵐に備えるため。どちらも、数字の先にいる人のためだ」


 その声は、執務室の静けさに吸い込まれていった。


 窓の外では、子どもたちの笑い声が微かに届いてくる。庭を走る足音、縁側に腰掛ける侍女の声。日常の音が、この数字の裏打ちになっていることを、藤村は骨の髄で感じていた。


 机の隅には、先ほど慶篤が歩数を記録した札が置かれていた。八千歩を超えた数字。子どもが汗を流して積み上げたその一歩一歩は、国の未来を刻む数字と同じく尊い。


 「黒字とは、こうした日々を守るための器だ」


 藤村は筆を取り、今日の日付を書き込む。末尾に短く「繰上:備蓄=一:一」と記した。


 「借金を返すのも、備えるのも、どちらも“生きる”ための作法にすぎぬ。だが、この作法を欠けば、いかなる国も傾く」


 そう言い終えると、胸の奥に静かな熱が満ちてくる。


 蝋燭に火がともされる。揺れる光が帳簿の数字を照らし、まるで数字そのものが鼓動しているように見えた。


 「軍事力の質を高め、安全に投資し、人を育てる……すべては一本の線でつながっている。これこそが“持続可能な成長”だ」


 藤村は目を閉じ、深く息を吐いた。冷たい夜気が少しずつ入り込み、灯火がちらと揺れる。だが、その揺らぎすら、彼には未来を知らせる合図のように思えた。


 ――黒字は単なる数字ではない。国を繋ぎ、命を繋ぐ哲学そのものだ。


 机に置いた手を強く握り込み、彼は静かに誓った。

 「この歩みを止めはせぬ」


 夜の帳が江戸を包み、執務室の灯だけがひときわ明るく燃えていた。

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