146話:(1867年3月/早春)御還御—整う二つの輪
江戸城の大広間には、夜明けから張りつめた空気が漂っていた。冬を抜け、春まだ浅い三月の風が障子越しに吹き込み、かすかに梅の香りを運んでくる。白砂を敷き詰めた庭では太鼓が低く鳴り、城中のすべての者が息をひそめていた。今日はただの式典ではない。時代の名が改められる、決定的な日であった。
広間の最奥には孝明天皇が御輿を背に立ち、その左右には和宮、さらに堂上の公卿たちが居並んでいた。天皇は長きにわたる江戸での御滞在を経て、今日この場で「朝と幕を一つに束ねる」御言葉を発することになっていた。
玉座の前方には徳川慶喜が深く頭を垂れ、脇に松平春嶽、山内容堂、島津久光、松平容保といった重臣・藩主たちが居並ぶ。幕臣の列には藤村も加わっていた。胸の奥で脈打つ鼓動を抑えきれずにいた。これまで積み上げてきた四年計画の折返し地点、今日がその象徴となる日だからだ。
沈黙ののち、孝明天皇がゆるやかに立ち上がった。御歳は三十半ばを過ぎ、やや痩せた面立ちには疲労も見えたが、眼差しは澄み切っていた。その声は思いのほか柔らかく、しかし広間を隅々まで満たすほどに深く響いた。
「――朕は見た。江戸における政の営み、幕と朝が二つならず、一つの輪として動く姿を」
広間の者たちは息を呑む。公卿も大名も、すべてがその声に縫い止められたように微動だにしない。
「この地こそ、日の本の政の中心となすにふさわしい。ゆえに、朕はここを“東京”とす」
その一言が、乾いた大地に春雨が降り注ぐように胸に沁みわたった。
ざわめきが起こった。あまりの重さに言葉を失った者、隣と顔を見合わせる者、涙をこらえきれず頬を濡らす者もいた。慶喜は両手を畳に付き、深々と拝礼する。
「ありがたき幸せ。陛下のお導きにより、我らは迷わず歩むことができます。江戸は東京、東の京として、新たな時代を開いてみせましょう」
藤村も胸の奥で拳を握った。――ついに、江戸は過去の名を脱ぎ、未来の名を得たのだ。
春嶽が口を開く。
「朝と幕とを二つの輪として廻してきた政が、今まさに一つの大きな輪となりましたな」
山内容堂も深く頷いた。
「これで我らの子や孫は、二つの力が争う世ではなく、一つの政を信じて暮らせる。まことに大業である」
障子の外から鐘の音が響いた。城下の町にも「東京」という名が告げられたのである。町人たちは初めて聞く響きに驚きつつも、やがて口々に「東京、東京」と繰り返した。その響きは川面を渡り、遠い江戸湾の水面にまで広がっていった。
広間の壇上では、さらに重要な儀が進められていた。慶喜が立ち上がり、用意された「朝幕一体大詔」を朗読する。
「外征・通商・関税・財政運用は、いずれも天皇の勅許を受け、かつ評定において二重の鍵をもって執り行うこと」
その言葉に、公卿と大名が一斉に頷いた。制度としての安定性が明文化された瞬間であった。誰もが「これで二度と恣意的な専横は許されぬ」と理解していた。
続いて、諸藩代表による会計台帳の献呈が行われた。肥前藩、薩摩藩、会津藩、水戸藩……それぞれが自藩の収支台帳を御前に捧げ、透明性を示した。表紙には鮮やかな墨字で収入・支出が記され、数字は誰の目にも分かるよう整理されていた。
藤村が進み出て、関税配分の大きな木札を掲げる。
「海軍・横須賀四割、繰上償還三割五分、衛生・教育一割五分、予備一割」
数値が明確に掲げられると、広間に静かな感嘆が広がった。これまで不透明だった財政が、今や誰もが目にできる形で示されている。藤村は胸の奥で思った。――数字を示すこと、それ自体が人心を軽くするのだ。
孝明天皇が頷き、重々しくお言葉を添えられた。
「数は、誤魔化せぬ真実である。ゆえに、数を公にし、互いに見せ合うがよい」
藤村は深く頭を下げた。その言葉は、自分が信じてきた理念と重なっていた。数字こそが剣よりも鋭く、盾よりも厚く、人々を守る――その確信がますます強まる。
式典はやがて終盤に差しかかった。孝明天皇は御輿へと戻られる。その後ろ姿を、広間にいる全員が起立して見送った。誰もが胸に熱を抱えながらも、足並みを乱さず、静かな規律を保っていた。
外では太鼓が高らかに鳴り、行列が動き出す。天皇は京都へは戻らず、江戸――いや、東京の御所へと還御されるのであった。
藤村はその背を目で追いながら、胸の奥で静かに呟いた。
「ここは、もう江戸ではない。今日からは東京だ。朝と幕と、二つの輪は重なり、大きな一つの円となった」
その言葉は、まだ誰にも聞かれてはいない。だが藤村は知っていた。数十年後、数百年後の人々もまた、この瞬間を「東京の始まり」として記すだろうと。
春の訪れは遅い。稚内の岬はまだ鉛色の雲に覆われ、海面は細かく震えていた。北の海を渡る風は冷たく、頬を刺す塩気に交じって氷解の匂いが漂う。船の甲板では、厚手の外套を羽織った作業員たちが黙々と動いていた。
甲板中央には大きな鉄製のリールが据えられている。ぐるぐると巻きつけられた黒い海底電信ケーブルは、油を塗られて艶やかに光り、太陽のない空の下でも獣の背のようにぬらりと輝いていた。
「よし、巻き出せ!」
監督役の技師が叫ぶと、数人がかりでリールを回した。ごうん、ごうんと低い音が響き、重いケーブルが海へと滑り落ちてゆく。
榎本武揚はその光景を見つめ、隣に立つ藤村へ声をかけた。
「これで樺太と本土が、ひと筋の糸で結ばれます。たとえ海が荒れようとも、電信は一瞬で情報を運ぶ。これこそが統治の生命線ですな」
藤村は頷き、潮風に髪を乱されながら答えた。
「遠い土地の孤立を恐れずに済む。兵を送るより先に声を送れる。――それだけで、人の心はずいぶんと軽くなる」
ケーブルが海へ沈むたび、波が跳ね、白い飛沫が甲板を濡らした。作業員のひとりが足を滑らせそうになり、仲間が慌てて肩を支える。荒波に呑まれれば命を落とす危険な作業だ。
「未踏の海域での電信工事など、前代未聞です」
工事責任者の技師が顔をしかめながらも、目は輝いていた。
「だが、必ずやり遂げます。日本が後進国だと侮る連中に、我らの手で証を示してみせましょう」
その言葉に、周囲の作業員たちが一斉に頷いた。誰もが凍えるような風に唇を紫に染めながらも、手を止めなかった。
藤村は胸の内で強く思った。――電信の一本は、ただの線ではない。政治の脈、経済の血管、人心をつなぐ糸。それがこの荒海に沈められている。
やがてケーブルが海底に届いたとの合図が伝えられる。技師たちは緊張に顔を固くしながら、接続点を慎重に処理していった。鉛のカバーを嵌め、樹脂を流し込み、最後に銅線をきつく結ぶ。
「繋がった!」
一人の声が弾む。すぐさま船室の電信機に火が入れられた。
トン、ツー、トン――。
乾いた音が響き、白い紙の上に黒い点と線が刻まれていく。
「稚内局より大泊局へ。聞こえるか?」
一瞬、誰も息をしなかった。甲板の空気が張り詰め、波音すら遠のいたように思える。やがて、応答が返ってきた。
――「こちら大泊、明瞭に受信す」
「おおっ!」
歓声が爆発した。作業員たちは互いに肩を叩き合い、涙を浮かべる者までいた。榎本も笑みを隠しきれず、藤村へ身を乗り出す。
「ご覧あれ、藤村様! 樺太が、ついに一瞬でここに繋がりましたぞ!」
藤村は深く息を吸い込み、冷たい潮の匂いと共にその瞬間を胸に刻んだ。
「これで北の孤立は終わった。言葉が届けば、人は迷わない。――電信は剣よりも早く人を救う」
榎本はしばし黙り、やがて穏やかに笑った。
「我らが生きる幕末は、剣と銃の時代だと思っておりましたが……。どうやら、電線こそが新しい戦の道具かもしれませんな」
「戦だけではない」藤村は首を振った。
「農も商も、人の暮らしも、すべて電信の糸で軽くなる。樺太を繋ぐ一本は、やがて大陸へも延びてゆく。そうなれば、この日本は海の孤島ではなく、大きな網の節となる」
榎本はその言葉を噛みしめるように頷いた。
甲板に戻った技師たちはまだ作業を続けていた。追加のケーブルを慎重に送り出し、余裕をもたせて海底に沈めていく。潮が逆巻けば切断の恐れもある。一本の線を守るために、彼らの全身が凍りつく風と戦っていた。
「寒さで手が動かねぇ!」
若い作業員が叫ぶと、仲間が無言で自分の手袋を押しつけた。
「お前が落としたら全部終わりだ。俺は縄を持ってる、気にすんな」
短いやりとりに、必死の連帯が滲んでいた。藤村はその姿に胸を打たれる。――人の力こそが国家を支えるのだ、と。
夕暮れ時、最後の接続作業が終わった。稚内局と大泊局を結ぶ試験通話は成功し、電文が往復した。
「稚内局より。天候曇、作業終了。……通信良好」
広間に居合わせた全員が再び歓声を上げた。榎本が振り返り、拳を固く握る。
「これで樺太は孤島ではない。東京の政も、羽鳥の城も、一息で声が届く」
藤村は空を仰ぎ、冷たい風に目を細めた。灰色の雲の切れ間から、わずかに夕陽が覗いている。
「――情報は血流だ。今日、この北の海に、日本の心臓が一本打ち込まれた」
その言葉に、榎本も技師たちも、静かに深く頷いた。荒波は相変わらず船を揺らしていたが、その揺れすら未来への鼓動のように思えた。
春の江戸は桜の名残を風に散らしていたが、城下の一角には華やぎとは無縁の緊張が漂っていた。臨時に設けられた倉庫前には、麻布を巻かれた木箱や大きな樽が幾重にも積み上がり、兵士や町人が汗をぬぐいながら荷を運んでいる。
その中身は、野戦病院用の幕舎資材と医療器具、そして橋梁に用いる鉄骨や木材だった。ひとつひとつが、まだ訪れていない「戦場」の匂いを孕んでいる。
「これが……一万八千両分の備えか」
藤村は巻き上げられた伝票に目を落とし、額に刻まれる数字の重さをかみしめた。
傍らに立つ軍医の青木は、真剣な面持ちで答える。
「藤村様。これまでの合戦とは規模が違います。数千の兵がぶつかれば、これまでの救護体制では到底間に合いません。負傷者を救うためには、戦う前に“場”を整えておくしかないのです」
彼の声には医師としての焦燥がにじんでいた。
「手遅れで命を失わせるのは、戦の敗北以上に痛ましい。……血で国を築くのではなく、血を留めて国を護るのです」
藤村はしばし無言で青木を見つめた。医師の手は細かい傷で覆われ、冷たい風に赤く荒れていた。その手がどれほどの命を繋いできたかを思うと、胸の奥に静かな重みが広がる。
「戦いは、始まる前に半ば決している」
藤村はゆっくりと口を開いた。
「剣や銃だけでなく、橋を架ける板、血を止める布、湯を沸かす釜……それらを揃えてこそ、勝利は近づく。兵站と医療を怠れば、兵は自らの国に討たれるようなものだ」
青木の表情にわずかな光が戻った。
「では、この準備は無駄ではないと……」
「無駄どころか、最も堅実な投資だ。戦場で生き残った兵が戻れば、その背に続く民も安心する。兵が守られることは、国が守られることと同じだ」
倉庫の奥では、職人たちが橋梁用の鉄骨を組み合わせ、仮設の形を確かめていた。鉄が擦れ合い、甲高い音が春風に響く。
「戦の最中に橋が落ちれば、それだけで軍は分断される。逆に橋を迅速に架け直せれば、退き際すら戦果になる」
藤村はその様子を指差し、青木に語った。
「戦を終えるのは剣ではなく、数と流れだ。数を繋ぐのは橋であり、流れを留めるのは医だ。……我らはその二つを手に入れねばならぬ」
その言葉を耳にした若い兵が、思わず藤村の方を見た。背の袋には包帯と止血帯が詰められている。彼は声を潜めて仲間に囁いた。
「戦う前に、俺たちの命を数えてくれている……」
仲間の兵は笑みを浮かべ、肩を叩いた。
「だから、俺たちも戦場で“数”を守ってみせるさ」
倉庫を出ると、冷たい風が川沿いから吹き抜けた。江戸の空は淡い薄青で、遠くの水面には春霞が漂っている。
藤村はその光景を見つめながら、静かに呟いた。
「この準備の先にある戦いを、できれば避けたい。だが避けられぬならば、せめて兵と民を守り抜く。それが、我らの務めだ」
青木は黙って頭を下げた。彼の瞳は、冷たい海風の中でも確かな熱を宿していた。
庭には春の光がやわらかく差し込み、梅の香りが風にのって漂っていた。砂地には幼い足跡がいくつも刻まれている。
義信はまだ三つに満たぬ体で、木太刀をぎこちなく両手に抱えていた。振り下ろすたびに空を切り、よろけて地面に突き刺す。
「とー! えい!」
声だけは大きく張り上げるが、腕は細く、動きもおぼつかない。
篤姫が駆け寄り、手を取りながら微笑む。
「よくできましたね。もう一度、立ってみましょう」
義信は悔しそうに唇を尖らせつつも、再び構えを取ろうとした。その瞳は、真剣そのものだった。縁側に腰を下ろしていた藤村は、その姿に小さく頷く。
「まだ形にはならぬが、熱はあるな」
篤姫は振り返って笑みを浮かべる。
「父上を真似したくて仕方がないのでしょう」
―――
そのすぐ隣、縁側の影ではお吉が久信を膝に抱いていた。まだ二つにならぬ幼子は、母の胸元から顔を出し、小さな積木を両手で持ち上げては、目の前に並べている。
「ほら、ひとつ……ふたつ……」
お吉が指を折りながら数えると、久信は真似をして「いー」「にー」と声を上げた。発音はたどたどしいが、その仕草に場の空気が和んだ。
積木が崩れると、久信は「あっ」と驚いた声を出し、また一から積み直す。お吉はその髪を撫でながら「よくできましたね」と声をかける。
藤村は義信の木太刀の構えと、久信の積木遊びを見比べ、胸の内で静かに思った。
――剣を学ぶ子と、数を覚える子。どちらも未来を形づくる力になる。
庭に響く幼い声と母のやさしい笑みが、春風に溶けていった。
春まだ浅い江戸の空は、淡い霞に包まれていた。城中では、和宮付の女官たちが慌ただしく廊下を行き来していた。近く、慶喜と和宮の皇子――慶明親王の御初参内が予定されていたからだ。
御簾の奥では、まだ幼い慶明が乳母に抱かれ、玉のような頬を桜色に染めて眠っていた。小さな胸が規則正しく上下し、その寝顔は周囲の大人たちにとって何よりの慰めであった。
「殿下は、よく笑われるようになりました」
そっと布団を整えながら乳母が報告すると、和宮は柔らかく微笑み、額にかかる髪を指で整えた。
「その笑みこそ、この世の安らぎにございますね」
城内に広がる噂は一様に明るかった。将軍家に皇子が生まれ、順調に成長している――それだけで、多くの者が未来への確信を抱きはじめていた。
藤村もまた、その報せを受け取っていた。机の上に置かれた報告書には、慶明の体重や発育の記録が几帳面に綴られている。義信や久信と同じ年頃であることに、彼はしばし思いを馳せた。
「この子らが共に育ち、互いに支え合う時代が来る……」
その言葉は誰に向けたものでもなかったが、傍らで聞いていた篤姫は静かに頷いた。
「皇子様のご成長は、この国の安定そのもの。義信や久信にとっても、心強い“兄弟のような存在”になるでしょうね」
藤村は視線を遠くに投げた。城の外では、まだ雪の名残を抱く街道を多くの人々が行き交っていた。彼らの暮らしを支えるための政治も軍事も、結局は次の世代に渡すための礎にすぎない。
――御初参内は、単なる儀礼ではない。この国の未来が確かに歩み始めている証なのだ。
夕暮れの江戸城。西の空は薄紅に染まり、城の瓦は柔らかな光を返していた。大広間での一日が終わり、政務に関わった諸侯や官人たちが三々五々に退出していく。
藤村は、しばらくその場に立ち尽くしていた。襖越しに響く子どもたちの声――義信の木太刀の音と、久信の数を数える小さな声。さらに、御殿の奥からは慶明親王の笑い声が風に乗って届いてくる気がした。
――それぞれの声が、今この江戸で重なり合っている。
政の場では、朝廷と幕府が二重の仕組みをもって一体運営を始めた。稚内と大泊を結ぶ電信工事が進み、北の果てまで情報の道が繋がろうとしている。野戦病院資材は倉庫に積まれ、もしもの時に備えた準備は怠らない。
そして家庭の場では、次世代の子らが共に成長し、笑い声を響かせている。政治も軍事も、結局はその笑いを守るためにあるのだ。
藤村はゆっくりと大広間の縁へ歩み出た。遠くには、東の町並みが夕靄に沈み、西には山並みが影を伸ばしていた。
「朝廷という輪と、幕府という輪――その二つが、ついに一つの大きな輪となった」
誰に語るともなく呟いた言葉は、静かな空に吸い込まれていく。背後ではまだ役人たちが書付を片付け、兵が行き交っていたが、その音もすべて新しい時代の律動のように聞こえた。
藤村の脳裏には、これまでの四年の歩みがよみがえる。債務の返済に始まり、工廠と港の整備、貿易の近代化、そして北米の新領土獲得――ひとつひとつの積み重ねが、確かに今ここで国を動かしている。
夕陽が沈む直前、空がひときわ赤く燃え立った。その光を浴びながら、藤村は静かに目を閉じた。
――これが、折り返しの地点だ。だが、この歩みを止めるつもりはない。さらに遠くへ、この国を運ばねばならない。
やがて鐘の音が響き、夜の江戸がゆっくりと幕を下ろしていく。だが藤村の胸の奥では、確かに火が燃えていた。