145話:(1867年初夏)横須賀—機械の歌
春の風が横須賀の湾を抜けると、工廠の大屋根の下から轟々とした響きが湧き上がった。蒸気機関の律動音が地面を揺らし、巨大なクレーンの鎖が鳴り響く。鉄を打つ槌音がリズムを刻み、まるで工廠全体がひとつの楽団となって奏でているようだった。
藤村はその場に立ち、耳を澄ませた。
「……これが近代工業の歌声か」
呟きは、熱気に混じって天井へ昇っていった。
職人たちは黙々と作業に没頭している。顔には汗が光り、衣の裾は煤で黒ずんでいたが、誰もが自分の手に誇りを宿していた。蒸機の基礎技術は着実に向上し、部材の歩留まりはついに八割を超えた。異国の機械に頼るだけではなく、自らの手で誤差を詰め、鉄を形にしている。その達成感が、彼らの表情すべてを物語っていた。
鋳型から外されたばかりの鋼の塊が、陽光を反射して白く光る。その光はまるで、未来そのものを映しているように見えた。
藤村はそばにいた若い職工に声をかける。
「どうだ、出来栄えは?」
職工は煤まみれの顔を上げ、白い歯を見せて笑った。
「殿様、もう異国の部品に頼らずともやれます。手の中で鉄が応えてくれるんです」
「そうか。ならば、これが我らの独立の証になる」
藤村の声には静かな熱がこもっていた。
炉の奥から吹き出す蒸気が白い雲となり、梁の間を這いながら外へ流れていく。その様子は、まるで日本の工業力がこの地から空へ、そして世界へ広がっていくかのようだった。
その日、工廠を訪れた視察役人も、普段は厳しい顔を崩し、思わず職人たちに拍手を送った。拍手は波のように広がり、鉄の響きに溶け込んでいった。
「もう一度言ってやろう」
藤村は視線を炉の炎へ向けた。
「これが我らの“機械の歌”だ。未来を刻む拍動なのだ」
誰もがその言葉に頷き、再び鉄を打つ手を強めた。鉄槌の音はさらに高まり、工廠全体が生き物のように息づいていた。
潮の匂いが濃い。午下がりの風がドックを撫で、外輪砲艦の黒い舷側を淡く濡らしていた。マストの上では信号兵が新設の腕木信号の角度を確かめ、甲板では電信係が真新しい携帯モールス機の蓋を開け閉めしている。舷内では水兵たちが消火栓のコックを操作し、手押しポンプのピストンを上下させていた。
「改修費、四万五千両はここに生きる」
藤村が低く言うと、榎本武揚が頷いた。
「武器を増やす金ではない。艦の“眼”と“喉”と“皮膚”を鍛える金だ。――情報と消火、いずれも生き延びるための術ですな」
甲板脇の板図には、改修の要点が簡潔に描かれている。第一、信号檣の増設と旗章・腕木の標準角度。第二、夜間用の色灯配置と点滅規則。第三、船内消火管の環状配水――石炭庫にも散水孔を穿ち、火が上がれば一斉に水の幕を作る。第四、舷側の防火帆と火見梯。第五、停泊時に岸の電信網へ直結できる携帯電信の据付。
「まずは昼間信号。腕木角、三十・六十・九十。旗は一から十までを基礎に百番まで。――号令だけでなく、手順も“型”にする」
藤村は信号兵に向き直った。
「やってみせよ」
兵は深くうなずき、腕木を滑らかに動かした。角度が空に切り絵のような文字を描き、見張り台の伝令が即座に復唱する。
「三、一、七。……『反転せよ、隊形B』!」
はた、と旗が翻り、沖の僚艦が遅れて同じ合図を掲げた。間に入るのは、海風と波の鼓動だけ。号砲も太鼓も要らない、静かな合戦の用意である。
榎本が目を細める。
「これで“声”の届かぬ距離でも、隊はひとつになれる」
次は夜の練度だ。昼のうちに行う乾式演習では、灯体の枠に色硝子をはめ込み、点灯順と点滅間隔を体で覚える。赤・白・青の灯が規則通りに瞬くと、舷外に立つ記録係が砂時計を返した。
「一呼吸、二呼吸。――よし、間が揃っている」
藤村はその横顔を眺め、ぽつりと呟いた。
「灯の律動は、艦の心拍だ。乱れれば、隊が死ぬ」
消火訓練はもっと激しい。水兵が消火帆を海水に浸し、火見梯を肩で担いで舷側を走る。手押しポンプが唸り、銅製ノズルから扇のような水が甲板を薙いだ。炭庫口に濡れ帆を打ち付け、すかさず散水孔へ圧をかける。艦の腹に、涼しい雨が降り始めた。
「船は水の上にある。ゆえに火が最大の敵になる」
榎本の声は淡々としていたが、言葉の奥は固かった。
「どれほど砲が勝っていても、一度の炎で沈む。――今日の改修は、明日の命を買う投資です」
「投資、と言えば――」
藤村は甲板の端に歩み、沖合いの艦列を見やった。
「通信力が上がれば、艦隊運用の“無駄”が消える。余分に走らず、余計に撃たず、余計に燃やさない。金は血だ。節約は吝嗇ではなく、血止めだ」
海風が、油の匂いを運んできた。舷窓の向こうで機関のリズムが一定に続き、外輪が静かに海を掻いている。甲板の木肌は磨かれて艶があり、晴天の光を飲み込んで少し温かい。
見学に来た若い士官が、おずおずと近寄った。
「藤村様。――砲門は増やさぬのですか」
「増やすことはある。だが、今日ではない」
藤村は微笑を見せた。
「弾は届き、命令は届かぬ、では戦にはならぬ。まず“届く”をそろえる。火と声と光、すべてだ」
士官は深く頭を下げ、顔を赤らめた。彼の背にはまだ新しい肩章が光る。若さの匂いを嗅ぎ分けるように、古参の甲板長が横からひと言添えた。
「お偉方の言う通りだ。わしらは火を消して、灯を上げて、初めて撃てる。順番を間違うな」
その場の空気に、どっと笑いが広がった。笑いは緊張をほどき、同時に士気を底から押し上げる。笑いが出る部隊は、だいたい強い。藤村は、その昔、兵学の師から聞かされた言葉を思い出していた。
艦内の作業は続く。電信係が岸壁の電信局との接続を試み、短く軽快な打鍵音が甲板の木をくぐって腹に響く。信号紙に点と線が踊り、通詞が訳語を走り書きにする。
「本日、風向き北東、魚群薄し。――港外異状なし」
海は甲板の下で穏やかに呼吸している。人と機械と情報が、ようやく三つ巴に噛み合い始めた。
「さて、次は“もしも”の日の稽古だ」
藤村が手を叩く。
「上甲板、火災発生。左舷、消火班前へ。右舷、搬出班、弾薬庫閉鎖!」
声が走り、足音が続く。油煙の匂いに濡れ帆の潮が混じり、甲板の景色が一瞬で変わった。搬出班は銃架を倒し、火の足を食う前に道を開ける。消火班はベンチレーターの風向を切り替え、煙の流れを押さえ込む。誰も叫ばない。だが全員が走っている。決められた“型”を崩さず、速く、美しく。
榎本が小声で笑った。
「型があれば、人は“静かに”速くなれる」
演習が終わると、全員が一息で息を吐いた。濡れた甲板に反射した日差しが、刃物のように鋭い。藤村は濡れ帆を握り、指先に伝う冷たさを確かめる。
「よくやった。――だが、今日の出来は“並”だ」
水兵たちの顔が、少し悔しげに揺れた。
「並ができれば、非常時に“半分”しか出ない。非常時は、できることの半分しか出ないのだ。だから日常で“上”を積み、非常時に“並”を出す」
彼らは一様に頷き、悔しさの色を瞳の奥にしまい込んだ。それは次の稽古へ自らを押し出す熱でもあった。
見学の将校の一人が、帳面を抱えて進み出た。
「本日の改修項、実装率八割五分。――不足は、火見梯の掛け方、灯火の覆い、散水孔の圧均し」
「よし。足りぬ二割は、来週までに詰める。金は払った。ならば“手間”を払え」
藤村は笑みを浮かべ、帽沿いを指で押し上げた。
湾の外では、夏の雲が海の上に大きく影を落としている。影と光の境目を、外輪が軽やかに渡る。港の潮の香りの奥に、どこか甘い油の匂いが混じっていた。新しい機械が、よく動いている匂いだ。
岸壁まで戻ると、信号所の若番が駆け寄った。
「藤村様、電信。――玉里港、石炭桟橋の夜間保安灯、試験点灯成功と」
「よし。港は海の玄関。灯は家の顔だ」
藤村は即座に返電を指示した。
「“標準化手順を横須賀へ転送”。――灯の高さ、灯心の幅、油の粘度。全部だ。うまくいった“やり方”を、やり方ごと運ぶ」
榎本が肩をすくめる。
「やり方を運ぶ――それが一番難しい。物は載るが、やり方は重い」
「重いからこそ、書き物にし、稽古にする。……だから今日も、こうして汗をかく」
夕暮れが近づくと、湾は銅色を帯びてゆく。港の喧騒も、工廠の槌音も、ゆるやかに高さを落としていく。だが、静まるほどに空気は濃くなる。昼に張り詰めていた弦が、夕べにほどけ、音楽のように全身へ拡がる。
「戻ろう。今夜も書き物がある」
藤村が歩き出すと、甲板長がさっと敬礼した。
「藤村様、明朝も“上”で参ります」
「頼む。明朝も“上”で来い」
短い言葉に、甲板長はわずかに口角を上げた。海の上に、ひとつ、灯が入る。信号所の白い灯が点り、続いて赤い灯が瞬く。規則正しい拍に、岸壁の水面がやさしく震えた。
藤村はふと足を止め、振り返った。黒い舷側、磨かれた真鍮、張り替えたロープ、濡れた帆。どれもが、人の手の温度を持っていた。彼は胸の内で、ゆっくりと言葉を重ねる。
――砲を増やす前に、灯を増やせ。
――威を上げる前に、声を届かせよ。
――勝つ前に、生き残れ。
三つの短い文は、今日一日の演習を一本の糸で束ねていた。海は眠らない。ならば人も、やり方を眠らせてはならない。
外輪が最後の水を掻き、波紋が岸へ寄せて消えた。砂浜に残るのは、細い泡の列だけ。そこに立っていた水兵のひとりが、思わず鼻歌を洩らした。誰も注意しない。むしろ、その小さな歌声が今日の稽古の締めくくりのように、柔らかく耳に残った。
工廠の屋根の上、夕星がひとつ、はっきりと瞬いた。
「聴こえるか」
藤村は心の中で問いかける。
「これが、我らの“機械の歌”だ」
風が答えるように、ドックの旗が小さくはためいた。
羽鳥の丘に建つ新兵舎と衛生棟は、まだ白木の香を放っていた。上棟式の朝、冬を抜けきらぬ風が吹いていたが、棟木に吊るされた幣束は堂々と揺れ、人々の胸を熱くさせた。
兵舎の外観は西洋式を取り入れつつ、日本の気候に合わせて改良が重ねられている。石の基礎に組まれた木骨造り、厚い瓦の下には通気孔が巡り、湿気を逃がす仕組みだ。窓は大きく取られており、外光が差し込めば室内は昼間のように明るい。
「兵は鉄でできておらぬ。人である。――だからこそ、住む場所ひとつが力を決める」
藤村様はゆっくりと周囲を見回し、集まった大工や兵士に語りかけた。
工匠の一人が汗を拭いながら笑った。
「殿……いえ、藤村様。西洋の図面は難しゅうございましたが、やってみれば案外理に適っておりました」
「理に適うものは、国を選ばぬ。ただ、それを暮らしに馴染ませるのが我らの務めだ」
衛生棟の前では、若い医師たちが設備を確認していた。消毒用の石灰棚、手洗い用の流水槽、そして寝台の間隔を広く取る工夫。従来の兵舎に比べれば、すべてが新しい。
「これなら流行り病も広がりにくいでしょう」
医師が満足そうに頷いた。
「死ぬ兵を少なくすることが、最大の増兵である」
藤村様の言葉に、兵たちの背筋が自然と伸びた。
―――
その日の午後、江戸では別の「完成」が祝われていた。市政教科書の編纂が終わり、関係者が集まっての披露式典である。
机の上に積まれた分厚い冊子の表紙には、端正な字で「市政要覧」と記されていた。上下水の管理、市場規制、印紙税、度量衡の統一、許認可制度。――どの地域でも同じ基準で行政を行えるようにする、まさに「標準書」であった。
「これで全国どこでも、同じ水を飲み、同じ秤で量り、同じ印紙で商いができる」
藤村様が手に取った一冊を掲げると、役人や商人たちから感嘆の声が洩れた。
「便利になりますな……」
古参の商人が、思わず口元を綻ばせる。
「これまでは、町をまたげば秤も違う、許可も違う。何度も足を運ばされておりましたが……」
「もう、その心配は要らぬ」
藤村様は力強く答えた。
「“同じやり方”を国全体に流すこと、それが国を一つにする力となる」
会場の壁には、新たに定められた流通のフローが大きく描かれていた。港湾検疫、税関、保険、船積――それらを一本の線で結び、役所ごとの往復を不要にする仕組みだ。
「これで、商人は一度の窓口で済む。商いの無駄は国の無駄だ。減らせば、その分が力となる」
役人のひとりが頷きながら口を開いた。
「藤村様、商人衆が“数字が立つ”と喜んでおります。“手間が減れば、取引が増える”。この理屈がようやく腹に落ちたようでございます」
「数字は裏切らぬ。数字に笑みが宿れば、人の心も動く」
その場にいた若い書役が、思わずつぶやいた。
「これが……市政というものか」
彼の声には驚きと尊敬が入り混じっていた。藤村様は微かに微笑み、答えを返した。
「市政とは、人の暮らしを軽くすることだ。――剣が敵を退けるなら、秤と印紙は人を生かす」
―――
日が傾き始めるころ、鎌倉養生館の医師団と海軍療養所の代表が羽鳥を訪れ、提携の調印式が行われた。
調印が終わると、海軍の軍医ブラウン大尉が立ち上がった。
「戦場で学んだ医療と、日々の暮らしを守る医療。これを共に分かち合えるのは、実に喜ばしいことです」
藤村様は力強く頷いた。
「命に身分はない。兵も町人も同じ血を流す。同じ薬と技術で救われねばならぬ」
居並ぶ医師や看護役が深く頭を垂れる。提携により、薬剤や治療法が互いに共有され、人材不足も補い合える。これこそが「医療の近代化」であった。
篤姫が傍らで囁くように言った。
「これで、戦も暮らしも、人の命を繋ぐ一本の道になるのですね」
「その通りだ」
藤村様は柔らかな声で答えた。
「剣も薬も、目的はひとつ。人を生かすためにある」
―――
夕暮れ、江戸の港に新しい風が吹いていた。露西亜からアラスカの移管が行われたとの報せが、海を越えて届いたのである。
「ついに、日章旗が北米の地に翻ったか」
報告を読み終えた藤村様の目は、しばし遠くを見つめていた。
榎本からの短い手紙には、移管が穏やかに進んだこと、住民が安全に退去または残留を選べたことが記されていた。詳細な報告書は数か月先、榎本の帰国を待つことになる。
「北を買い、南を護る。――この道は、まだ始まったばかりだ」
その呟きに、周囲の者たちも胸の奥に熱を覚えた。
春まだ浅い江戸の市場は、朝から熱気に包まれていた。威勢の良い声が飛び交い、魚の匂いと石鹸の香りが入り混じる。その一角に、新しい木札が並べられていた。――「Kasama瓶」「石鹸」「干芋」。いずれも近ごろ輸出品として注目を集め始めたものだ。
「ほう、これが“Kasama瓶”か。ずいぶんと堅牢にできておる」
外国商館の男が手に取り、陽光にかざした。厚い硝子に歪みはなく、口縁は滑らかだ。
「水や酒だけでなく、薬も詰められる。輸送に耐える強度があるのだ」
藤村様は静かに答えた。背後で立ち会っていた陶工の親方が、誇らしげに胸を張った。
「土と火の加減を幾度も改めました。異国へ出すと聞けば、職人の心も燃えるものです」
その横では、石鹸の束がずらりと並べられていた。木枠の内側に定価札がきちんと貼られている。
「定価札に印紙を添える……なるほど、これなら値も品質もごまかせまい」
商人が頷くと、藤村様は微笑んだ。
「偽りを嫌うのは商いの常。だが“制度”で守れば、信頼は国を越える。――これからは“日本の石鹸”が名を持つのだ」
干芋の甘い香りが漂う。農民たちが丁寧に乾かした芋を詰め、出荷の準備をしていた。ある老婆が藤村様に頭を下げ、皺だらけの手を差し出した。
「うちの畑の芋が、海を渡るなんて夢にも思いませんでした」
藤村様はその手をしっかりと握り返した。
「夢ではない。これは始まりだ。――あなた方の芋が、遠い異国で“日本の味”となる」
―――
午後、横浜の倉庫街。輸出入の倉庫には毛皮の束や魚肥の樽が並び、その奥では氷室から切り出された大きな氷塊が木箱に収められていた。
「アラスカの氷を江戸の夏に届ける――本当にできるのか」
若い商人が首をかしげると、榎本が笑って答えた。
「氷は夏にこそ金になる。冷たい一杯の酒が、人の心をどれだけ潤すか……欧米ではすでに商いになっている」
藤村様は箱の隅に貼られた保険票を指さした。
「保険条項を整えた。溶けても一定の範囲なら賠償が出る。――だから商人は安心して運べるのだ」
商人たちは目を見交わし、やがて小さく頷いた。
「なるほど、“安心”こそが商いの第一……」
―――
夕刻、港を吹き抜ける風は少し生温かった。岸壁の上から、藤村様は出港準備を整える貨物船を見下ろした。積まれていくKasama瓶、石鹸、干芋、魚肥、氷。どれもが、この国の土地と人の手が生んだものだ。
「運ぶものがある国は、未来を運ぶ国だ」
藤村様の声は、潮風に混じって波間へと消えていった。
春まだ浅い江戸に、一通の報せが届いた。
――シトカにて露国旗を降ろし、日章旗を掲げる。
それは乾いた紙片の数行に過ぎなかったが、海を越えて運ばれたその文言は、まるで北の空気をそのまま封じ込めたように重かった。
「ついに……極北が我らの国土となったか」
藤村様は巻紙を握りしめ、胸の奥で言葉を反芻した。隣にいた榎本武揚が静かに頷き、声を落とす。
「詳しい報告は私が戻るまで待たねばなりませんが……。ともかく旗は翻ったのです」
江戸の面々はその報せを前にしばし沈黙した。長年「極北の夢」と呼ばれていた構想が、いま確かな現実に変わったのだ。
―――
すぐさま準備が動き出した。江戸の役宅では、行政吏たちが新たな指示書に朱を入れていく。
「まずは検疫所だ。港に人が集まれば病も来る。医師を派遣し、検査と種痘を徹底せよ」
「税関と港警は一本化し、役人を現地に常駐させる。混乱を招かぬことが第一だ」
「測量班を急がせろ。地籍と戸口を暫定登録しなければ、租税も保護も成り立たぬ」
ひとつひとつの言葉が、まるで碁盤に石を打つように積み重ねられ、未知の大地に秩序を築こうとしていた。
藤村様は机に地図を広げ、青い鉛筆で大泊港の位置を示した。
「港に電信局を置き、医師を常駐させる。人が住める環境を整えねば、資源も宝の持ち腐れだ」
榎本がその言葉に強く頷いた。
「まずは“住む”を可能にする。次に“使う”だ。――段階を違えれば、人心はついてきません」
―――
そして新産業への挑戦が始まった。
倉庫には毛皮が積まれ、魚肥の樽が並び、氷室から切り出された氷が大きな木箱に詰められていた。
「アラスカの氷を江戸の夏に届ける……本当に可能なのか?」
若い商人が首をひねると、榎本が笑った。
「氷は夏こそ金になる。欧米ではすでに大きな商いだ。冷たい一杯が人をどれだけ喜ばせるか、試せば分かる」
藤村様は木箱の隅に貼られた保険票を指さした。
「規格を定め、保険条項を整えた。溶けても一定範囲なら賠償が出る。――だから安心して運べるのだ」
商人たちは顔を見合わせ、やがて笑みを浮かべた。
「なるほど……安心こそが商いの第一。これなら挑戦する価値がありますな」
倉庫の外では、冷たい潮風が吹いていた。しかしその風は、もうただの寒気ではない。新しい商いと暮らしを運ぶ息吹でもあった。
―――
その夜、藤村様は書斎で静かに筆を置いた。
窓の外、まだ冬の名残をとどめた月が淡く光っている。机の上の紙には、大きく一行だけが書かれていた。
――「北を拓くは、人を守ることから」
その言葉は、未来へ向けた約束のように墨痕鮮やかに残っていた。
夕刻、藤村は工廠の高台に立っていた。眼下では蒸気機関のリズムに合わせ、槌音と人々の掛け声が交わり合っている。鉄と火と汗が織り成すその響きは、もはや騒音ではなく「近代の歌」と呼ぶにふさわしいものだった。
榎本が横に並び、腕を組んで呟く。
「……これこそ、日本が独り立ちする音色かもしれませんな」
藤村は静かに頷いた。
「鉄が語り、麦が笑う。人が汗を流し、機械が歌う。――どれかひとつでも欠ければ、国は進まぬ」
総裁の言葉に、榎本は視線を伏せ、しかし口元に笑みを浮かべた。
「その道を築くのは容易ではない。けれど、総裁が先頭に立つ限り、我らも歩みを止めはしません」
高台から見下ろすドックでは、外輪砲艦の舷側に新しい信号檣が立ち、赤や白の旗が風に翻っていた。水兵たちは手際よく消火帆を干し、電信係は岸壁との通信を試している。すべての動きが歯車のように噛み合い、未来を形作っていた。
藤村は帽子の庇に手をやり、ゆっくりと息を吐いた。
「数字で積んだ借金を返し、汗で築いた工廠を動かし、信頼で商いを結ぶ。これらすべてが揃ったとき、ようやく“国”と呼べるのだろう」
その言葉を受け、榎本は視線を遠くに投げた。夕陽が海面を朱に染め、沖の艦列を浮かび上がらせている。
「総裁。……近代の歌は、もう鳴り始めています」
藤村はしばし無言のままその光景を見つめ、最後に短く答えた。
「ならば、明日はもっと強く響かせよう」
風が頬を撫で、背後の旗がはためいた。機械と人と自然が奏でる調べは、たしかに新しい日本の鼓動だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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