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144話:(1867年3月/早春)新宿―市政モデル完成版

新宿の空気には、まだ冬の名残があった。枯れ草の匂いが漂い、吐く息は白い。けれどその白い吐息の先に、未来を照らす光が確かに揺れていた。

 石畳に囲まれた広場の中央。簡素ながら堅牢な舞台が設けられ、朱と白の幕が張られている。ここでいま、歴史の一頁が開かれようとしていた。


 


 藤村晴人は壇上に立ち、手に一冊の厚い本を掲げた。装丁は地味だが、紙の重みは確かなものだった。表紙には力強い書体でこう記されている。


 ――『市政教科書』。


 上下水、市場、印紙、秤、許認可。藩や幕府がそれぞれの流儀で処理していた事務を、誰でも読んで理解できるよう、体系的にまとめた実務書であった。


 


 「諸君。ここに、我らが“市政モデル”は完成した」


 藤村の声は、冬の空気を突き抜け、広場を埋めた群衆の耳に届いた。集まったのは町役人、商人、農民、それに学者や医師まで。立場は異なれど、皆が同じ一冊を手にしていた。


 「この教科書は、ただの紙束ではありません。水を清め、商いを正し、暮らしを守る。全国のどこであろうと、この本に従えば同じ水準の行政が受けられる。それはつまり――“人の命に上下をつくらない”という誓いです」


 


 その言葉に、前列に座っていた農夫風の男が思わず声をあげた。

 「ほんとに、村でもこの通りにしてくれるんで? 江戸ばっかりじゃなく?」


 藤村は頷き、微笑を浮かべた。

 「もちろんだ。井戸の底に澱む泥を捨て、子どもが腹を壊さぬようにする。市でも村でも、人の命は等しい。だから、この本は“都”のものではなく、“国”のものだ」


 


 ざわめきが波のように広がった。半信半疑だった人々の顔が、少しずつ安堵に変わっていく。


 


 壇の傍らでは、若い書役たちが控えていた。机の上には分厚い台帳、そして掲示用の大きな板が置かれている。藤村が合図すると、書役がその板を高く掲げた。そこには太く黒い筆で数字が記されていた。


 「これより先の外征、通商、関税、そして財政運用――すべては“勅許”と“評定”の二重鍵を必要とする」


 藤村の声が厳かに響いた。


 「この仕組みこそが、我らの政を安定させる錠前だ。どちらか一方の思惑では、国は動かない。天子の御意と、衆の合議。その両輪でのみ、未来は拓かれる」


 


 群衆の後ろから「おお……」と低い感嘆の声があがる。町人の中には、これまで政治など遠い存在だと思っていた者も多い。だが、こうして「勅許+評定」という明文化された形を目の当たりにすれば、自分たちの暮らしにも直結するのだと感じられる。


 


 壇下に控えていた重臣たち――容保、久光、春嶽、容堂の四人が順に進み出た。それぞれが抱えるのは自藩の会計台帳である。厚い紙束を藤村の前に差し出すと、壇上の机に整然と並べられていった。


 「薩摩藩、年次会計台帳にございます」

 「越前藩も、同じく」

 「土佐藩、これにて」


 声は一つひとつ異なれど、そこに込められた意思は同じだった。


 藤村はそれらを見渡し、胸の奥で小さく息をついた。――各藩が、隠すことなく数字を差し出す日が来るとは。まるで歴史そのものが扉を開いた瞬間のように思えた。


 


 さらに壇上の奥、緞帳の影から慶喜が姿を現した。黒い直衣に身を包み、深々と拝礼した。その姿に、広場の空気が一気に張り詰める。


 「ただいま読み上げられた大詔こそ、我らの道なり」


 慶喜の声は静かであったが、芯のある響きがあった。


 「朝と幕は一体。外に立つには、内の秩序を固めねばならぬ。今日ここで示された数字と制度こそが、我が国の礎である」


 


 群衆は一斉に頭を垂れた。寒風の中でありながら、その場に立つ誰もが熱を覚えていた。


 


 藤村は再び前に出、用意していた大きな板を高々と掲げた。そこには、関税配分の数字が明確に記されていた。


 海横40/繰上35/衛教15/予備10


 「これが来る年の運用計画である。海を護り、借財を減らし、衛生と教育を整え、未来の備えを怠らない。すべてはこの比率に込めた」


 


 群衆の中からざわめきが起きた。

 「借金を減らす分も、はっきり出してあるぞ」

 「衛生と教育に一割半も!」

 「これなら、わしらの子も病で死なずにすむかもしれん」


 町人の目に光が宿る。農民の肩が少し軽くなる。数字は冷たい記号に見えて、実は人の暮らしそのものを映す。


 


 壇の上からその声を聞きながら、藤村は胸の奥で静かに拳を握った。


 ――これが新しい時代の始まりだ。


 


 まだ道は険しい。だが、今日ここで踏み出した一歩が、後の世に確かな礎を築くことになる。彼はそう確信していた。


 


 遠く、早春の陽光が射し込み、雲間から江戸城の屋根瓦を照らした。冷たい空気の中で、それはまるで未来の光が差し込むように広場を包んだ。

昼過ぎ、藤村は江戸城の南門を出て横浜港へ向かった。冬の冷たい風に頬を刺されながらも、胸の奥には熱があった。今日は、全国港湾に通達された「検疫→税関→保険→船積」の一本化フローが初めて本格的に運用される日だった。


 波止場には、早くも荷馬車が列をなし、干芋の俵や石鹸の木箱、Kasama瓶に詰められた乳酸飲料が山と積まれている。潮の香りの中に、人いきれと馬の汗の匂いが混じり、冬の海辺とは思えぬ活気を放っていた。


 


 「さて、藤村様。本当にこれで商人たちが楽になるのでしょうか」

 同行していた渋沢栄一が問いかける。彼の視線の先には、これまで港で当たり前だった長蛇の列――検疫所、税関所、保険事務所、そして船積口。


 だが今日は違った。四つの窓口は一つの建物に集約され、庇の下には「一本化窓口」と書かれた新しい札が掲げられていた。


 


 「いままでは役所を三度も四度も回らねばならなかった。商人は汗を流すより、書付に怯えていた。だが、もう終わりだ」

 藤村は声を低くしたが、瞳は強い光を宿していた。


 


 最初に窓口へ進んだのは、横浜の老舗問屋の主であった。荷車に積んだKasama瓶を背後に控え、眉間に皺を寄せている。


 「お役人衆、ほんとにこれ一度で済むんですかい?」


 書役がうなずき、手早く帳簿に記録した。検疫印が押され、税関の証紙が貼られ、保険証がその場で渡される。そして船積許可票が発行された。


 「――以上で終わりです」


 


 老商人は一瞬呆けたように立ち尽くし、やがて声を震わせた。

 「たった……ひとつで……? なんとまあ……」


 後ろに並んでいた若い商人たちがざわめく。

 「これなら半日かかったものが、一刻で済むぞ!」

 「何度も役所に頭を下げなくていい。こんなことが本当にできるとは……」


 


 藤村はその様子を見守り、胸の奥に温かなものが広がるのを覚えた。

 ――数字の積み重ねだけではない。制度は人の息を軽くするためにあるのだ。


 


 やがて積荷が船へと運ばれ始めた。荷役たちは積付け標準票に従い、石鹸を下に、Kasama瓶を中に、干芋を上にと整然と積んでいく。かつては船頭任せで崩れることも多かった荷が、今では盤石の積み付けに変わっていた。


 その光景を見ながら、渋沢が小声で告げる。

 「効率化だけでなく、手数料も安定収入となりましょうな。商人も役所も得をする、まさにWin-Winです」


 藤村は笑った。

 「“数字は冷たい”とよく言われるが、実際は逆だ。数字こそ、人の暮らしを温める薪になる」


 


 港の片隅で見ていた若い商人が、思わず叫んだ。

 「これで、江戸の商品はもっと遠くまで届く! 異国の市で“日本の日常”が珍重される時代が来るんだ!」


 その言葉に、周囲の目が輝いた。商人にとって、交易は夢であり挑戦だった。だが長い手続きと不透明な制度は、その夢を押し潰してきた。今やそれが解き放たれつつある。


 


 午後になると、藤村は一本化窓口の帳簿を改めて見せてもらった。赤黒の印が一行に整い、数字は美しい秩序を描いていた。


 「たしかに……無駄が消えている」

 彼は指で紙面をなぞりながら、静かに呟いた。


 ――この仕組みを全国に広げれば、交易は流れとなり、やがて大河になる。


 


 港を吹き抜ける風が潮の匂いを運んだ。帆を張る音、鎖を巻き上げる音、そして人々のざわめき。それらすべてが、未来への鼓動に思えた。


 藤村は帽子を押さえ、冬の陽光を受けながら港を見渡した。

 「これでようやく、日本の商いは“歩く”ことをやめ、“走り出す”ことができる」


 その言葉に、渋沢が深くうなずいた。


 


 夕刻、最初の船が汽笛を鳴らし、白い蒸気を立ちのぼらせて出港していった。甲板にはKasama瓶の木箱、石鹸の荷、干芋の俵が並んでいる。日常の品々が、異国の市を賑わすために海を渡る。


 波間に響く汽笛は、ただの出港の合図ではなかった。

 ――それは、新しい日本の始まりを告げる鐘の音でもあった。

鎌倉の海辺は、冬の光に白くきらめいていた。波の音が絶え間なく押し寄せる中、丘の上に建つ養生館の白壁が朝日に映えて輝いている。その門前には、今日も農夫や町人、あるいは武士までが列をなし、医師の診立てを待っていた。


 その光景を眺めながら、藤村は深く息を吸った。潮の香りに混じって、薬草を煮る匂いが漂ってくる。――ここで新しい一歩が始まるのだ。


 


 正面玄関から出てきたのは、養生館の老医師・片岡であった。痩せぎすの体を白衣で包み、背中をわずかに曲げながらも、その目には強い光が宿っていた。


 「藤村様。ついにこの日が来ましたな」


 「ええ。海軍療養所との提携、これで正式に動き出します」


 藤村が頷くと、片岡の皺深い顔に笑みが広がった。


 


 養生館の大広間では、既に式典の準備が整っていた。白布の掛かった机の上には調印文書が置かれ、左右に鎌倉養生館と海軍療養所の代表が並ぶ。海軍軍医のブラウン大尉も席に着いていた。異国の軍服に身を包んだその姿は場違いにも思えたが、彼の眼差しは真剣そのものだった。


 


 「陸と海とで、病は違えど命は同じ。我らが学び合えば、より多くを救える」


 ブラウン大尉が拙い日本語でそう述べると、場の空気が一瞬和らいだ。


 藤村は立ち上がり、文書を手にとって朗読する。

 「――本日ここに、鎌倉養生館と海軍療養所は、医療技術と人材の共有を誓約する。陸にて得た知を海に、海にて得た知を陸に返す。命に身分はない。救える命を救うこと、それを第一とする」


 


 読み上げの最後に署名がなされ、朱の印が押された。赤い印影が紙に広がる瞬間、室内に小さなざわめきが起こった。人々は、歴史が動いたことを本能で感じていた。


 


 式典後、藤村は館内を歩いた。診察室では農夫が子どもの熱に悩み、軍人が傷の治療を受けている。白壁の部屋に響くのは、咳の声と同時に安堵の吐息。そこに貴賎の区別はなかった。


 「殿様、これが……」

 片岡が小さな帳面を差し出した。そこには、患者の年齢や症状、処方した薬が細かく記されている。


 「統一した書式です。これなら江戸でも横須賀でも同じ診立てができる。医師が足りなくとも、帳面があれば診療はつながる」


 藤村はその文字を追いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ――数字は政を動かすだけではない。命を守る道標にもなるのだ。


 


 午後になると、海軍療養所の若い軍医が養生館の調薬室を覗いていた。薬草を石臼で挽く音、瓶詰めの匂い。異国の医師には珍しかったのだろう。


 「西洋医学だけでは救えぬ病もある。東洋の薬と術が、その穴を埋める」

 片岡が説明すると、軍医は目を輝かせた。


 「互いに学び合えば、きっと新しい道が開けます」


 


 夕刻。藤村は丘の上から鎌倉の海を見下ろした。冬の海は青黒く、波頭は銀のように砕けている。その向こうには遠い異国の影がある。


 「海の果てまで届く力は、鉄や銃だけではない。病を防ぎ、命を救う力こそ、真の国力だ」


 そう呟いた時、背後から声がした。

 「……藤村様。おかげで村の子が助かりました」


 振り向けば、幼子を抱いた母親が頭を下げていた。幼子は熱の引いた顔で、父の袖を掴んでいる。


 藤村は静かに頷いた。

 「礼は不要です。これからは、当たり前に救える世にしていきましょう」


 


 その言葉に、母親の目に涙が光った。


 夕陽が海を赤く染め、養生館の白壁も朱に染まっていく。医療ネットワークという目に見えぬ橋が、確かに結ばれた瞬間であった。

冷たい潮風がシトカの湾を吹き抜けていた。三月の空はまだ重たく、灰色の雲の切れ間からわずかに光が差すだけだった。だが、その薄い光に照らされて、ひとつの歴史的な場面が進もうとしていた。


 露西亜の監督官たちが隊列を組み、赤と白の旗を静かに降ろしていく。帝国旗は最後の抵抗のように大きくはためいたが、やがて力を失い、ゆるやかに沈み、地上へと落ちていった。


 沈黙を破ったのは、太鼓の低い響きだった。

 新たに掲げられるのは、日本の日章旗。白地に赤い円が北の冷気の中で鮮やかに揺れ、周囲の人々の顔に緊張と歓喜が交錯する。


 「……ついに、この時が来たのだ」

 榎本武揚が目を細めて呟いた。誇りと同時に責任の重さがにじむ声だった。


 露西亜監督官は進み出て巻紙を差し出す。

 「本日をもって、シトカをはじめ北米沿岸の管轄を日本国に委ねる」

 榎本は深く受け取り、力強く答えた。

 「必ずや、この地を治め、人々の命と財を守ってみせます」


 その夜、榎本は移住者に向けて声を張り上げた。

 「ここは極北の地だ。冬は厳しく、病も流行るだろう。だが炭も木も魚もある。必ずや豊かになる。諸君の手でこの地を“住める国土”に変えてくれ」

 人々の瞳に少しずつ光が宿っていった。


―――


 春まだ浅い江戸。藤村は机の上の速報を見つめていた。

 「シトカにて露旗降納、日章旗掲揚、無事終了」とだけ書かれた、簡素な報せ。


 詳細な報告は数か月後、榎本の帰国を待たねばならない。だが、紙片を指でなぞるうちに、彼の胸にはありありと情景が浮かび上がっていた。


 ――灰色の空、降ろされる帝国旗、翻る日章旗。榎本の声、人々の歓喜。

 まだ見ぬ北の大地が、目の前に現れていた。


 「北を買い、南を護る……その第一歩だな」


 藤村は静かに呟き、報告書を胸に当てた。

 江戸の空にも春の細雪が舞っていた。北の旗と、この街の雪が、確かにひとつの未来を結んでいるように思えた。

春まだ浅い江戸の朝。霞がかった空の下、藤村は勘定所から届いた一通の書簡を開いた。そこには「シトカ統治・暫定行政要領」と墨字が並び、検疫、税関、港警を一本化した新窓口の設置が明記されていた。


 「やっと始まったか」

 藤村は低く呟き、指で紙の縁をなぞった。


 これまでの港湾行政は複雑だった。病を防ぐ検疫は医師の判断、通関は勘定所、港の治安は武士団と、役割が細かく分かれているがゆえに混乱も絶えなかった。だが今度は一本化。船が入れば、一つの窓口で検疫から通関、保安まで一気に済む。


 「これなら、どんな異国船でも迷わずに済むだろう」

 渋沢が横から覗き込み、目を細めた。

 「江戸でも横浜でも、同じ仕組みを使えるようにしましょう。地方の役人が“江戸式”をまねる、それが一番の近道です」


 藤村は笑みを浮かべた。制度は“知恵の輸出”でもある。北の果てのシトカでも、南の玉里でも、同じ帳簿、同じ印紙、同じ窓口――そうして初めて「日本」がひとつの体を持つのだ。


―――


 午後、羽鳥城下では別の熱気があった。商館の広間に並べられたのは、毛皮の山、魚肥の俵、そして氷を詰めた木箱。


 「氷、だと?」

 年配の商人が驚きの声をあげた。箱を開けると、まだ冷気をまとった氷塊が現れる。春の陽にきらめくそれは、まるで宝石のようだった。


 若い商人が自慢げに言った。

 「アラスカの冬に切り出し、藁でくるみ、木箱に詰めて持ち帰ったのです。長崎で試しに売ったところ、大評判でして。夏にこれがあれば、どれほどの商いになるか」


 「氷が江戸に?」

 別の商人が半信半疑で手を伸ばす。掌で触れると、冷たさに思わず息を呑んだ。

 「まさか……この時季にこんな冷えを味わえるとは」


 笑い声とどよめきが広がった。毛皮は寒さを凌ぎ、魚肥は畑を豊かにし、氷は人々に涼を与える。極北の産物が確かに日本の暮らしを変え始めている。


 「だが運ぶには保険が要る」

 渋沢が記録帳を広げ、商人たちに問いかけた。

 「氷は溶けやすい。毛皮は湿気に弱い。規格と保険条項を決めねば、誰も安心して投資できぬ」


 藤村が頷き、声を添えた。

 「だからこそ、今日ここで取り決めよう。氷は重量基準、毛皮は等級票、魚肥は湿度計と一緒に記録を残す。それを“保険条項”に組み込むのだ」


 商人たちは顔を見合わせた。面倒に思う者もいたが、やがて一人が口を開いた。

 「……なるほど。決まりがあれば、異国商人にも胸を張れる」

 「そうだ。無秩序で損をするのは、いつも我らだった」


 広間の空気が次第に変わっていった。不安の色が引き、代わりに商売の未来を見据える光が宿っていく。


―――


 その日の夕刻、藤村は帰宅し、机に新しい報告書を広げた。そこには「行政一本化の進捗」と「極北新産業の規格案」が記されている。窓の外には、春先の雨がしとしとと降っていた。


 「北の氷が江戸の夏を涼しくするかもしれぬ……」

 藤村は独りごち、雨の音に耳を澄ませた。


 数字の並ぶ紙面の向こうに、人々の驚き、笑顔、希望が浮かんで見える。行政も産業も、すべては暮らしを支えるためにある。冷たい氷のように透明な制度で、人々の生活を少しでも豊かに――その思いが、静かに胸を熱くしていた。

春の風が江戸の町を渡っていた。まだ冷たさを含んでいるが、その奥に芽吹きの匂いが潜んでいる。藤村は城下の広場に立ち、掲げられた横断幕を仰ぎ見た。


 白地に大きく書かれた標語――

 「北を買って南を護る」


 墨字は力強く、春空に漂う雲を突き抜けるように輝いている。その下には、集まった町人や農民、武士、商人たちの群れ。人々は互いに顔を見合わせ、この言葉の意味を噛みしめていた。


 「北を……買う、だと?」

 年配の町人が小さく呟く。

 「アラスカのことさ」

 隣の若い職人が答えた。

 「異国から大地を買い、そこに港や町を築く。そうすれば、南を守る盾になるってわけだ」


 周囲にざわめきが広がる。夢物語に聞こえる者もいたが、これまで藤村が築き上げてきた実績――関税制度、横須賀工廠、電信、防火網――それらを思い出せば、誰もが「あり得る」と感じずにはいられなかった。


―――


 壇上に立った藤村は、ゆっくりと人々を見渡した。春の風が羽織の裾を揺らし、声を運んでいく。


 「皆が見ている横断幕の言葉、それは夢ではない。北の地を拓き、そこに人を住まわせ、資源を掘り、港を作る。そうして初めて、日本は細長い島国の弱さを克服できるのだ」


 人々は息を呑み、耳を傾ける。


 「南にばかり目を向ければ、背後を突かれる。だが北を確かに握れば、南は安泰となる。北を買って南を護る――それは、我らの未来を築く道である」


 その声は広場の隅々にまで響き、人々の胸を打った。


―――


 榎本武揚が壇の脇に立ち、口を添えた。

 「すでに露西亜側も樺太租借案に関心を示しております。アラスカ買収は終わりではなく、始まりなのです」


 「その通りだ」

 藤村は頷き、続けた。

 「北米の氷は江戸を涼しくし、毛皮は人々を温め、炭は工廠の炉を燃やす。極北の地は、我らの暮らしに直結している。そして――その背後にあるのは、日本が大国と肩を並べる未来だ」


―――


 群衆の間から拍手が湧いた。最初はまばらだったが、やがて大きなうねりとなり、広場を満たした。農夫が鍬を掲げ、職人が帽子を振り、子どもたちが声を合わせて叫んだ。


 「北を買って、南を護る!」


 その声は春の空に吸い込まれ、旗に描かれた日の丸を震わせた。


―――


 藤村はその光景を見つめ、胸の奥で静かに言葉を刻んだ。

 ――アラスカは序章。樺太も、台湾も、朝鮮も、いずれは視野に入る。

 ――数字は裏切らない。制度と計画を積み重ねれば、夢は現実になる。


 春風が頬を撫でる。横断幕ははためき、人々の声と混ざり合う。

 その瞬間、藤村は確信していた。日本の未来は、もう後戻りしない。

春まだ浅い江戸の夜、藤村邸の書斎は静まり返っていた。机の上には「市政教科書」の初版本が置かれ、燈火に照らされて頁が金色に浮かんでいる。昼の喧騒が嘘のように、紙の匂いとインクの香りだけが漂っていた。


 藤村は椅子に深く腰を下ろし、手元の筆をしばし弄んだ。今日掲げられた「北を買って南を護る」の横断幕、その赤字が目に焼きついて離れない。――あれは単なる標語ではない。数字と制度で支えた四年の積み重ねが、人々に「未来は築ける」と信じさせた証だった。


 障子越しに春風が入り、遠くの鐘が時を告げる。篤姫がそっと戸口に現れ、湯気の立つ茶を置いた。

 「お疲れでしょう。……でも、殿の道はまだ続きますね」

 藤村は微笑み、湯を一口含んだ。わずかな渋みが、心を落ち着かせる。

 「そうだ。今日の教科書も、氷の一片にすぎぬ。だが積もれば、大河を変える」


 窓の外には、かすかな春雪が舞っていた。その白は静かに大地を覆い、やがて新しい芽吹きを待つ。藤村は胸の奥で呟いた。

 ――制度は根となり、人は芽となる。明日もまた、この手で種を蒔こう。

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