143話:(1867年1月/新春)完済の朝—海軍特会終章
江戸城の勘定所は、まだ朝の冷気を残していた。障子越しの光は淡く、帳場に並ぶ机の上には帳簿と算盤が整然と置かれている。冬を越え、新春の兆しを帯びた風が吹き込んでいたが、部屋の空気は張り詰めていた。今日という日を、誰もが待っていたからだ。
藤村晴人は、一枚の大帳を開いていた。そこには「海軍特会残高」と朱で記された大きな文字、そして最後の数字が並んでいる。
――九万六千両。
この数字を払い終えれば、長年肩にのしかかっていた「海軍特別会計」の借財が完全に姿を消す。
藤村は指先でその数字をなぞった。紙の感触が、いつもより鮮明に伝わってくる。思えば、この会計は常に国の重石であった。洋式艦船の購入、兵器の調達、造船所の建設……すべては未来を拓くための投資だったが、その代償として莫大な債務を抱えてきた。
「ついに……ここまで来たか」
低くつぶやいた声は、帳場の木の梁に吸い込まれた。
傍らに控えていた小栗忠順が、手元の算盤を弾き、ゆっくりと頷いた。
「間違いございませぬ。九万六千両、一括納付にて完済。これにて海軍特会、すべての帳簿に“済”の字が入ります」
書役が一斉に筆を走らせ、朱印を押す。その音が乾いた紙の上で響くたびに、長い歳月の重みが剥がれ落ちていくようだった。
「終わった……」
藤村は深く息を吐いた。目の奥が熱を帯びる。数年前、誰がこの日を予想できただろうか。欧米列強に遅れを取り、借金の山に追われ、それでも進まなければならなかった。あの日々の不安と焦燥が、いまは一枚の証書に凝縮されている。
―――
やがて勘定所の広間に、関係する役人や藩士たちが集まってきた。誰もが顔を引き締めていたが、その目の奥には隠しきれぬ期待が光っている。
「御用達より入金完了の報せ、届きました!」
走り込んできた若い書役が声を上げる。紙を差し出された小栗が中身を確認し、静かに藤村へと渡した。
そこには、海軍特会残金九万六千両――完済の証が記されていた。
藤村は受け取り、しばらく黙って見つめた。紙の白は眩しく、朱の印字は鮮烈だった。
「……よくぞ、ここまで耐えた」
その言葉は自分に向けたものではなく、この場にいるすべての人間、そして全国で汗を流してきた人々に向けられていた。
広間の隅で、若い藩士が拳を握りしめていた。彼の弟は横須賀で船大工として働いている。もう一人は蝦夷地で測量に従事している。誰もがこの特会の資金に縛られ、その重圧の中で働いてきた。だが今日、その鎖は外れた。
「殿……」
声をかけてきたのは渋沢栄一だった。彼もまた目を潤ませていた。
「これで年六十万両、遊休の枠が生まれます。未来への投資が、ようやく“借金返済”から“成長のための支出”へと姿を変えるのです」
藤村は大きく頷いた。
「そうだ。終わりではない。ここからが始まりだ」
―――
その瞬間、勘定所の空気が変わった。安堵の吐息が広間を満たし、次いで拍手が沸き起こった。最初はためらいがちだったが、やがて大きなうねりとなり、梁を揺らすほどになった。
藤村は静かに手を上げ、人々の視線を集めた。
「この完済は、我ら一人ひとりの力で成し遂げたものだ。だが忘れてはならぬ。借金を返すことが目的ではなかった。海を護り、未来を築くための礎であったのだ」
言葉に力がこもる。役人も藩士も、農夫上がりの書役も皆、まっすぐ彼を見ていた。
「数字は冷たいと思う者もいるだろう。だが、数字は嘘をつかない。数字を積み重ねた末に、我らは今日という朝を迎えた。これを誇りとし、明日の力とせねばならぬ」
しんと静まり返った広間に、再び拍手が起こった。今度は迷いなく、確信に満ちた音であった。
―――
外に出ると、冬の空気はまだ冷たかった。しかし東の空からは、柔らかな光が差し始めていた。朝日が瓦屋根を照らし、石畳を黄金色に染める。その光景を見て、藤村は胸の奥で静かに呟いた。
「海軍特会終章――これは新たな章の始まりだ」
その声は風に溶け、やがて江戸城の石垣に反響した。
長く重かった借金の影は、ついに消えた。残されたのは、未来へ進むための広い道だけだった。
横浜の波止場に潮風が吹きつけていた。沖には帆を畳んだ商船が二隻、停泊している。甲板から艀へ、そして陸へ。木箱が次々と運ばれてくるたび、縄の軋む音と荷役の号令が重なり合い、港全体がひとつの大きな鼓動のように鳴っていた。
その木箱の側面には、鮮やかな墨字で**「MITO/KASAMA DEPOT」**と書かれている。角には常陸藩の蔵印が朱で押され、まだ乾ききらぬ赤が潮風に微かに滲んでいた。フランス工房のステンシルは製番や型式を記すのみで、宛先ははっきりと「常陸」とされている。
「……藩の名が、こうして海を越えて届いたか」
藤村は木箱に手を置き、思わず呟いた。冷えた板の感触の中に、遠い異国からの時間と労苦が染みこんでいるようだった。
渋沢栄一が控え、帳簿を繰って声を上げた。
「仕向は常陸藩物産方。決済は横浜支店の信用状どおりに処理されております。ここに間違いはありません」
通関役人も形式的に頷き、札を挟む。幕府勘定所の立会いは監督だけで、実際の開梱や検収はすべて常陸藩側の役人と書役が担っていた。
縄が解かれ、箱が一つ開けられる。油紙を剥ぐと、鉄の匂いが潮風に混じって広がった。磨かれた銃機の金属光沢、真鍮のねじ口、抽筒器や予備バネ――異国の工房で作られた品々が、ここに並んでいる。
「総裁、部品箱の口径規格はKasama瓶の二十八号、三十二号で引かれております。事前の取り決めどおりです」
渋沢が紙包みを持ち上げると、ねじ口がきっちりとはまり、検収の場に安堵の笑みが広がった。
「よし。藩の倉へ直送せよ。武装の検査は羽鳥の軍務並びで現物確認、通関の控えは江戸会所に写しを残せ。幕府の帳には“監督立会い済”の一行があれば十分だ」
藤村はきっぱりと指示した。
木箱の列は港の石畳に二列に分けられていった。左は幕府受領品、右は常陸藩直輸入品。同じ船から降ろされても、水脈は違う。帳面の中で線を引くことで、後の揉め事を防ぐのだ。
小栗忠順が一歩進み、控えめに口を添えた。
「藤村様、幕府分は従前どおり横須賀へ回します。常陸分は藩車列で別送に。……港内での混載は避けましょう」
「頼む。線を引いて分けるのは、すべての始まりだ。後で境が曖昧になれば、誰の荷かも争いになる。ここで明らかにせねばならん」
その言葉に、周囲の藩士や書役が頷いた。彼らの顔には緊張の中にも誇りが宿っている。自らの名で輸入し、自らの手で受け取る――それはただの交易ではなく、国の未来を背負う一歩だった。
夕陽が傾き、箱の墨字「MITO」の二文字が赤く染まる。釘の頭が光り、港の喧噪がひときわ大きくなった。
潮の匂いと鉄の匂いが交じるその場で、藤村は静かに拳を握った。
「世界の物流の片隅に、“常陸”の名を刻む。これが、後に続く道の礎になる」
声に出さずとも、その決意は傍らにいた者たちの胸に確かに伝わっていた。木箱の列はゆっくりと動き出し、常陸藩の車列へと積み込まれていく。波止場に残ったのは、朱の印と、未来を指し示す墨の二文字だった。
翌日、羽鳥城下の演習場に荷が運び込まれた。藩士や募兵の若者たちが列をなし、木箱が開かれるのを待っている。
銃を取り出すと、鉄の匂いと油の光沢が一斉に目に飛び込んできた。これまでの火縄銃とは全く異なる、精緻な機構と均整のとれた造作。若者たちは思わず声を漏らした。
「これが……異国の銃か」
「軽い。肩に掛けても疲れん」
「撃てば、どれほどの威力なのだろう」
藤村は彼らに近づき、銃を一丁取り上げて分解を示した。金具を外し、機構を分け、再び組み立てる。
「見よ、部品は精密だが規格が統一されている。だから修理も容易い。数を揃えてこそ威力を発揮するのだ」
兵たちの目が光を帯びていく。新しい武器は、彼らの心に「遅れをとらぬ」という誇りを植えつけた。かつては列強の軍艦を遠くから眺めるしかなかった彼らが、今は自らの手に同じ時代の武器を持っている。その事実が胸を熱くした。
―――
一方、江戸城勘定所。輸入の詳細報告を受けた幕府重臣たちは、互いに目配せをしていた。
小栗忠順は静かに帳面を閉じ、藤村に向き直った。
「常陸がここまでの信用を得て、単独で輸入を実現した。これは幕府としても大いに助かる。……だが」
「だが?」と問う藤村に、小栗は薄く笑った。
「幕府より先に藩の名が港に刻まれる。それは、時に誇りであり、時に棘ともなろう。気をつけられよ」
その場に居合わせた勝海舟は、笑いをこらえきれずに口を開いた。
「よいではないか。外から見れば、日本はひとつ。どの旗であれ、同じ港から出入りする。……大事なのは“信用”だ。藩であれ幕府であれ、信用があれば交易は成り立つ」
重臣たちの間に小さなどよめきが走る。嫉妬や不安はある。だが同時に、藤村の行いが「列強に伍する力」として現れていることは誰の目にも明らかだった。
藤村は一礼して言った。
「棘も受けましょう。ですが、その棘であっても、国を守る枝の一部といたします」
その言葉に、小栗も海舟も頷いた。数字と信用、そして誇り。三つの言葉が、港から江戸へと響き渡っていた。
江戸城勘定所の奥座敷。
長机の上には、完済を告げる証書とともに、新たな帳簿がずらりと並んでいた。墨痕もまだ乾ききらぬ数字の群れが、これからの方向を告げている。
藤村は硯を手に、太い筆で大きく「遊休枠 六十万両」と記した。周囲の家臣や書役たちは息を呑む。その金額は、長らく借金返済に縛られていた幕府会計にとって、まさに夢のような数字だった。
「まず遠征特会に二十万両。海を越えて動く軍には、常の会計では追いつかぬ。次に横須賀保守に十五万両。船渠も炉も、守ってこそ活きる」
藤村の声は落ち着いていたが、胸の奥では高鳴りを抑えきれない。
小四郎が頷き、書き込みを進める。
「衛生と教育にも十五万両。残り十万は予備に廻す……見事な均衡ですな」
その場にいた渋沢が顔を上げ、眼鏡の奥を光らせた。
「借金返済で終わりではない。ここから投資が始まる……殿の仰る通りです。数字は冷たく見えて、実は未来を温める薪のようなものです」
勝海舟は煙管を置き、ふっと笑った。
「金の置き場所を間違えりゃ国は痩せる。だが今日の采配なら、鉄も海も人も育つ。……借金を敵ではなく、糧に変えたのは見事だ」
藤村は静かに机に手を置いた。墨の匂いと炭火の暖かさが交じり合う。
「数字に囚われるのではない。数字を使って、国を軽くするのだ。返すべきものを返し、残った力を未来へ振り向ける――それが我らの責務だ」
場に集った者たちは誰も言葉を挟まなかった。ただ、それぞれの胸に「次の一歩」が鮮やかに浮かんでいた。
冬の朝の冷気は、石畳を白く凍らせていた。江戸の藤村邸の一角にある小道場では、まだ吐く息が白く立ちのぼる中、慶篤が木刀を握っていた。
「今日から軽い素振りを許す」
傍らの医師が頷きながら声をかけた。長らく体調を考慮して控えていた稽古が、ようやく解禁となったのである。
慶篤は深呼吸をし、木刀を両手でしっかりと構える。ぎこちないながらも、振り下ろすたびに床板がわずかに鳴った。まだ体力は万全ではない。だが、その目は真っすぐだった。
「殿様も武士である以上、刀を知らねばならぬ」
師範がそっと言葉を添えると、慶篤は額の汗をぬぐい、静かにうなずいた。
「数の帳面だけでなく、この腕にも力を刻みたいのです」
そう言い、もう一度木刀を振り下ろす。小さな音だが、確かな意志がそこにあった。
―――
一方、横浜の学寮では、昭武が机に向かっていた。分厚い洋書と信号書の草案が広がり、紙の上には仏語の単語と日本語の訳がびっしりと並んでいる。
「En avant, marche!」
声に出して読み上げ、意味を一つずつ確かめる。――「前へ、進め」。単純な号令だが、正しく伝わらなければ隊は乱れる。
「信号とは兵の耳と目だ。誤れば命を落とす」
昭武は小さく呟き、ペンを走らせた。
やがて彼は草案を閉じ、窓の外に目をやった。港には帆を下ろした船が並び、白い息を吐く人々がせわしなく荷を運んでいる。その光景を眺めながら、昭武の胸にはひとつの確信が芽生えていた。
――自分は今、海軍の「言葉」を一から築いているのだ。
その責任は重い。だが、若さゆえの情熱は恐れを上回っていた。彼の瞳には、未来の艦隊が一糸乱れず動く姿が、はっきりと浮かんでいた。
―――
藤村は二人の報告を受け、帳面の余白に短く記した。
「慶篤:素振り十回/体調良好」
「昭武:信号書翻訳進展」
数字では表せぬ若き芽の成長。しかし、その一歩が未来の国を支える柱になることを、藤村はよく知っていた。
正月明けの江戸城勘定所は、張りつめた空気に包まれていた。障子越しに差し込む朝日は淡く白く、まだ冷たい空気を金色に染めている。帳場には幕臣や書役がずらりと並び、机の上には大きな帳簿と封印済みの証書箱が置かれていた。
藤村は静かに席に着き、深呼吸をひとつ置いた。
「海軍特会、残九万六千両――本日をもって一括完済いたす」
その声が響いた瞬間、場内の緊張がほどけるように、あちこちから小さな吐息が漏れた。書役が慎重に証書を読み上げ、朱印を押す。その音は、まるで長年の鎖がひとつ外れるかのように重く響いた。
「……ついに、やった」
藤村は胸の奥からこみ上げる思いを抑えきれず、低く呟いた。これまで数字に追われ、眠れぬ夜を幾度も過ごした。支払期限に怯え、余剰をかき集めるために奔走した日々――そのすべてが、今ようやく終わりを告げたのである。
脇にいた小栗忠順が笑みを見せた。
「これで年六十万両の遊休枠が生まれる。武士にとっての借金返済は、戦に勝つよりも難しいと申しますが……殿の背を預かる身としても、胸がすっといたしますな」
藤村はうなずき、机上の帳簿を閉じた。
「借金返済は終わりではない。ここからが始まりだ。この余裕を、遠征にも、横須賀の保守にも、民の衛生にも振り分けねばならぬ。数字は生きて動いてこそ力を持つ」
窓の外で初春の光が強さを増し、雪解けの雫が瓦を伝って落ちていく。外に待つ兵士や職人たちの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。彼らもまた、この完済の意味を理解していたのだ。
―――
儀式を終え、勘定所の外に出た藤村は、冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。石畳の上に立つと、日の光が背を温める。
「海軍特会終章は、新たな章の始まりだ」
その言葉は、誰に向けるでもなく吐き出された。しかし、近くにいた書役の若者がふと振り返り、目を潤ませて深く頷いた。
長きにわたり人々を縛りつけてきた負債の鎖は、今や解かれた。残るのは、積み上げられた経験と信頼。そして遊休枠という新たな力である。
藤村の心には確かな手応えがあった。数字で裏付けられた進歩は、虚構ではない。確かに国は前に進んでいる。
――この光景を、次の世代に渡さねばならない。
彼は背筋を伸ばし、勘定所を振り返った。白壁の向こうには、未来へと続く道が伸びている。その道の先に待つ挑戦へ、胸の奥から再び熱が湧き上がっていた。