142話(1867年2月) 行幸入城―四年計画の折返し
冬の夜明けは、まだ青さを帯びていた。江戸城三ノ丸の石垣は冷たい霜を抱き、薄靄が石畳を覆っていた。太鼓が重く響く――「どん、どん」と。鼓動のような音に合わせ、城門の外には幾千の人波が息をひそめていた。
「……来られるぞ」
低い声が伝わると、誰からともなく頭が下がる。やがて行列の先頭が霧を割り、金色に縁取られた御所車が姿を現した。車輪の軋む音が、凍りついた空気を割って広がる。孝明天皇の輿が、ゆっくりと三ノ丸へと進み入ったのである。
その瞬間、江戸の歴史が確かに動いた。
―――
広間に待ち構えていた慶喜は、裃の裾を正し、深々と頭を垂れた。背後に並ぶ諸侯の視線は緊張と期待に満ちている。会津の容保、薩摩の久光、越前の春嶽、土佐の容堂――幕末の動乱を潜り抜けた面々が一堂に座していた。
天皇の輿が御簾の奥に静止すると、読誦役が声を張った。
「朝幕一体の大詔、これより奏上」
広間は水を打ったように静まり返った。
「外征、通商、関税、財政運用――これらを幕と朝と共に決すべし。その采配は、評定において二重の鍵をもって執り行うべし」
短くも重い言葉が、冷気を震わせるように広間を包んだ。二重鍵システム――すなわち幕府と朝廷双方の承認がなければ、国家の大計は進まぬという新たな仕組みであった。それは権力の独占を防ぎ、透明性を確保するための決断だった。
読誦の声が途切れると、慶喜は再び額を畳に押しつける。声はわずかに震えていたが、言葉は揺らぎなく響いた。
「謹んで拝し奉ります。余はこれをもって、真に公武一和の政を成し遂げてみせましょう」
―――
次いで、四侯が順に立ち上がった。
「会津藩、会計台帳――」容保が両手で捧げ持つ。
「薩摩藩、同じく――」久光の声は低く、だが重かった。
「越前、春嶽――」
「土佐、容堂――」
次々と台帳が御前に積み上がる。革の表紙に金文字で記された数字は、もはや隠されるものではなく、国家のために開示されるべき真実そのものだった。
その様子を見ていた町奉行の一人が、隣に小声で呟いた。
「藩の会計をここまで晒すとは……時代が変わったものだ」
藤村晴人は静かに頷いた。机上には彼の手によって整えられた「関税配分表」が掲示板に貼られていた。筆太に記された数字は、海横40、繰上35、衛教15、予備10――。
「これが来年、1868年の運用計画でございます」
藤村が声を張った。
「海軍と横須賀造船所に四割を充て、繰上償還に三割五分。衛生と教育に一割五分、そして不測の事態に備えて予備を一割。勅許に基づき、この配分を以て国家を支えてまいります」
張り出された数字を、諸侯も、役人も、市井から招かれた視察人も目を凝らして見つめた。数字が公然と掲げられること自体が、これまでの政治にはなかった革命だった。
―――
広間の空気は、次第に張り詰めた緊張から、じわじわと熱を帯び始めた。
「数字は冷たいようでいて、人の命を支える温もりを持つ」
藤村は広間を見渡し、心の内で呟いた。
その視線の先で、春嶽が頷き、容保が静かに扇を閉じた。久光の口元にも、わずかな笑みが浮かんでいる。容堂は酒気を帯びた顔を少し上げ、「面白うなってきたのう」と小声で洩らした。
それぞれの胸中に去来するのは、誇りか、不安か、あるいは野望か。だが確かなのは、江戸城の広間にいま一つの「新しい秩序」が芽吹いたという事実だった。
―――
やがて読誦役が再び声を上げ、儀式の終わりを告げた。天皇の輿が静かに後ろへ下がる。太鼓が再び鳴り、御簾が閉じられる。
人々の胸には、一つの確信が刻まれていた。
――これは終わりではない。始まりなのだ。
外では、朝日が城の屋根を赤く染めていた。冬の冷気の中で、江戸は新しい一日を迎えた。
江戸城の広間がまだ余韻に沈んでいた午後、藤村晴人は外務・海軍連絡の会議に向かっていた。冬の空は冴え冴えと澄み、北の冷気が木立を揺らしている。廊下を歩く彼の足取りには緊張が混じっていた。
――今日、歴史が変わる。
控えの間に入ると、勝海舟が煙管を置いてこちらを見た。あの豪放な男も、今は眉を引き締めている。榎本武揚は新調した軍服姿で直立し、書状の束を胸に抱えていた。
「先生、準備は整っております」
榎本の声には熱がこもっていた。
卓上には厚い契約書の束――『北辰条約(露日北米領買収条約)』と表題された英文書が置かれていた。アラスカ買収の調印、その歴史的瞬間が迫っていた。
―――
列席したロシアと米国の代表が、互いに視線を交わし合う。場を支配するのは英語と露語の通訳の声、そして紙の擦れる音だけだった。
「United States of America agrees…」
「Соединённые Штаты…」
読み上げられる文言は、淡々としていながらも重い。アラスカの広大な土地が、日本と米国の間で手渡されるという、誰も想像し得なかった条約である。
「金額は七百二十万ドル、即金三百四十万、残りは十八か月分割。ロンドン手形で処理することで両国合意済みです」
通訳が読み上げると、室内の空気が揺れた。
「七百二十万ドル……」
勝が小さく反芻した。
「まるで夢のような値だ。だが、これはただの土地取引じゃねえ。北太平洋の覇権の証文だ」
藤村は頷き、深く息を吸った。数字の羅列は冷たいが、その裏に広がるのは海と大地と未来の航路である。
―――
署名台に、羽根ペンを手にした榎本が進み出る。額には汗がにじんでいたが、眼差しはまっすぐだった。
「日本海軍、榎本武揚。ここに署名いたします」
インクが紙に滲む。次いで勝が続き、藤村も名を記した。ロシア、アメリカの代表が順に署名を重ねる。最後のペンが止まったとき、静まり返った広間にざわめきが生まれた。
「調印……完了」
通訳の声と同時に、誰もが小さく息を吐いた。
―――
外に出れば、冬の太陽が沈みかけていた。榎本は白い息を吐きながら空を仰ぐ。
「先生、これで日本は、アラスカを得ました」
「いや、得ただけでは足らねえ」勝が答える。
「守らにゃならん。海を制し、港を整え、そこに人を住まわせて初めて“領土”になるんだ」
榎本は大きく頷いた。
「総監として、その任を果たしてみせます。北を買い、南を護る――その旗を掲げましょう」
その言葉に藤村も胸を打たれた。「北を買って南を護る」。短いが力強い言葉は、やがて時代を貫く旗印になるに違いなかった。
―――
その夜、城内の別室。藤村と榎本は地図を広げ、密談を交わしていた。ロウソクの灯が揺れるたびに、北の大地の輪郭が壁に浮かび上がる。
「樺太をどうするか。ロシアの視線は鋭いが、租借と先買権で道を開けるかもしれません」榎本が囁いた。
藤村はうなずいた。
「三十年の租借、そして先買権――それならロシアも悪くはないはずだ。永久領有ではなくとも、足場にはなる」
榎本の瞳に光が宿った。
「まずは大泊に病院と電信施設を置く。それだけで“旗”の重さは増します。人が住めば、土地は生きるのです」
藤村は地図の線を指でなぞりながら答えた。
「北は命の源だ。資源と漁場、そして航路。いま芽吹かせなければ、列強に刈り取られてしまう」
二人の声は低く、それでいて熱を帯びていた。夜更けの城は静かだが、ここで交わされた言葉は確かに未来を形づくっていた。
―――
翌朝、藤村は一人で城の天守に登った。冷たい風が頬を刺す。遠くには冬の海がかすみ、さらにその先に北の大地がある。
「七百二十万ドル……」
数字を繰り返しながら、彼は胸に手を当てた。大金は重い。だが、それ以上に重いのは責任だった。
「数字は冷たい。しかし人を守るとき、その冷たさが剣よりも強くなる」
彼の瞳に映るのは、まだ見ぬ未来の港と人々の暮らしだった。
―――
北太平洋の覇権は、静かに、だが確かに動き始めていた。
冬の江戸は、乾いた空気とともに海からの冷気を運んでいた。藤村晴人は、羽織の裾を軽く握りながら評定所の一間に入った。障子を透かして、庭の砂に落ちる霜の光が細かく反射している。
机の上には一枚の紙が置かれていた。題は「南樺太租借+先買権議定書」。まだ墨の匂いが残る草稿に、室内の者たちの視線が集まっていた。
「いよいよだな」
低く呟いたのは勝海舟だった。眼光鋭くも口元には笑みを含む。
「先生、まずは形を作らねばなりません」
榎本武揚が続ける。彼の手には測量図が握られていた。大泊港を中心に描かれた簡素な線が、北の大地の未来を示している。
春嶽が喉を鳴らし、視線を落とした。
「三十年の租借とは、随分と思い切ったものよ。しかし、先買権が加われば、露西亜も悪くはあるまい」
藤村は静かに頷いた。
「永久領有を急げば必ず争いを呼びます。だが“租借”であれば、彼らの面子も立つ。いずれ時が熟したとき、先買権によって我らの地とする道が開ける」
―――
議定書には、こう記されていた。
・存続期間は三十年。
・日本に先買権を付与する。
・大泊港に医師を常駐させ、住民の健康を守る。
・電信線と測量は租借開始に先行して実施する。
榎本は指で地図を叩いた。
「まずはここに電信局を。露西亜は軍事を疑うでしょうが、“医療”と“通信”ならば反発は少ない。港に病院を建て、人を住まわせる。それが最初の旗印です」
勝が笑いを含んで言う。
「おぬし、まるで商いのように言うな。だが確かにその通りだ。人が住めば土地は生きる。港が開けば、海もついてくる」
藤村はその言葉に深く頷いた。
「地図に線を引くだけでは国土にはならない。人の息と声があってこそ、旗は重みを持つ」
―――
署名の刻が来た。机の上に議定書が広げられ、墨と筆が差し出される。春嶽がまず名を記し、次に勝が続く。榎本の筆は震えず、まっすぐに走った。そして藤村が最後に筆を執る。
墨の香が立ち昇り、紙に黒が沈み込む。その瞬間、室内に重々しい沈黙が落ちた。
「これで、樺太は我らの未来の礎となる」
榎本が静かに言った。
「いや、これからが始まりだ」
藤村が応じる。
「この一枚の紙はただの約束にすぎぬ。人を送り、道を作り、火を灯してこそ、土地は国の血肉となる」
―――
外に出ると、冷たい風が一行を包んだ。庭の松がきしむ音が耳に届く。春嶽がマントを整えながら呟いた。
「いずれ世は、この小さな署名を笑うかもしれぬ。だが私は確信しておる。三十年後、この日を記した書が日本の礎であったと振り返られると」
藤村は空を仰いだ。冬の光は弱く、淡い。だがその向こうに広がる北の空を思えば、心は確かな熱を帯びた。
「北を買って南を護る。その道筋は、ここから始まる」
―――
夜、藤村は自邸に戻り、灯火の下で議定書の控えを広げた。篤姫が茶を運び、静かに問いかける。
「殿は今日、何をご覧になったのですか」
藤村は少し考えてから答えた。
「未来の地図だ。まだ誰も知らぬ村、港、学校……そのすべてが、紙の上に芽を出していた」
篤姫は頷き、窓の外を見やった。雪の気配が空を覆っている。
「その芽を、必ず守ってくださいませ。子らが大人になる日まで」
藤村は控えを畳み、胸に押し当てた。冷たい紙の感触の中に、確かな熱を感じていた。
―――
この日、江戸の一室で交わされた墨跡は、ただの外交文書に過ぎぬかもしれない。だがその線は、やがて北の大地をつなぎ、日本という国の息を未来へと運ぶ脈となるのだった。
江戸の冬空は、澄んだ青をわずかに滲ませていた。横浜の波止場には、白い帆と蒸気船の煙が入り混じり、船体を軋ませながら貨物が積み降ろされていた。
「フランス第2ロット、到着いたしました!」
港役人の声が響く。荷揚げ場には木箱がずらりと並び、その側面には“Armée Française”の焼き印が押されている。
藤村晴人は帳簿を手に、勝海舟と並んでその光景を見守っていた。
「銃八千丁、被服八千、砲二十門――総額二十八万ドル。ここまでの金を動かすとは、まさしく国家の一大事業よな」
勝の声には昂揚と不安が半ば混じっていた。
藤村は一つの木箱を開けさせた。藁をかき分けると、冷たい鉄の輝きが現れる。手に取ったのは後装式のライフル銃。従来の火縄や前装銃とは違い、銃尾から弾を込められる構造は一目で革新と分かる。
「これで一人の兵が撃てる弾は三倍。つまり同じ人数で三倍の火力を持つことになる」
藤村の声は静かだったが、背後で耳を傾ける藩士たちの表情は固まった。
「……これが列強と渡り合う武器か」
若い藩士が呟くと、勝がにやりと笑った。
「だが銃だけでは戦は勝てん。兵を育て、補給を繋げ、金を回さねば、鉄はただの重荷に過ぎぬ」
―――
午後、江戸城内の会議室。木机の上に広げられた紙は、横浜から届けられた保険会社の査定書であった。
「防火・電信・検疫の標準実績により、海運保険率〇・二ポイント改善――」
小四郎が読み上げる。まだ若いが、その声は落ち着いていた。
「〇・二と聞けば小さく思えるかもしれません」
藤村は周囲を見渡した。
「だがこれは、航海一度ごとに数百両を浮かせる。月に二便なら数千両、一年で万に及ぶ。銃や砲を買うのも、結局はこうした積み重ねからだ」
重臣たちは頷き、勝が感心したように口を開いた。
「戦は剣でなく、算盤で決まる――おぬしの口癖だが、今なら腑に落ちるわ」
机の端には、最新の海運路線図が置かれていた。玉里から横浜を経て上海へ――外注航路は既に十二%のコスト削減を達成しており、そこに今回の保険改善が加わる。数字の列が、軍備の裏付けそのものとなっていた。
―――
その夜、横浜から江戸へ戻る途上。馬車の中で藤村は書類を膝に置いたまま、窓外の暗闇を見つめていた。
勝が横で口を開く。
「晴人。おぬしは、この国が列強と渡り合えると思うか」
藤村は少し黙り、やがて低く答えた。
「剣と火薬だけでなら、まだ遠い。だが――会計で勝てる戦はある。兵糧、船、信頼、そして数字。これらを積み上げれば、たとえ列強といえど容易には崩せまい」
勝は目を細め、肩を震わせた。
「なるほどのう。戦場での銃声より、帳簿をめくる音の方が大事だと……おぬしらしいわ」
藤村は苦笑し、胸の奥に小さな熱を覚えた。
――戦場で血を流さずとも、数字で国を守れる。そう信じる者がひとりでも増えれば、この国の未来は変わる。
―――
翌朝、港に再び集った職人や商人たちは、保険料が下がったと聞き、口々に歓声を上げた。
「これで荷を積むたびに損を恐れずに済む!」
「外国相手の取引も、胸を張ってできるぞ!」
人々の顔に浮かぶのは、安堵と誇りだった。銃の到着と同じだけ、あるいはそれ以上に、保険率の数字は彼らに未来を信じさせた。
藤村は群衆の中に立ち、静かに見渡した。
「戦は会計で勝つ――それを示すのは、この笑顔だ」
冬の風は冷たかったが、その場の空気は温かく震えていた。
冬の朝、江戸城三ノ丸の石畳には霜が降りていた。白い息を吐きながら出仕する役人たちの靴裏が、しゃりしゃりと小さな音を立てる。その頭上では、まだ試験運用中の電信線が凍った枝のように張り巡らされ、わずかな風にかすかな唸りを響かせていた。
「殿、電信局の暫定運用が開始されました」
小四郎が書類を抱えて駆け寄る。頬は赤く、吐息は白く煙っている。
藤村晴人はうなずき、石造りの新庁舎へと足を進めた。ガラス窓の内側では、伝令役が真新しい電鍵を叩いている。カチ、カチ、と短く鋭い音が響くたび、銅線を通って別室の受信機が応える。
「まるで雷の言葉だな」
見学に訪れた藩士のひとりが、思わず呟いた。
藤村は笑みを浮かべた。
「雷を制すれば、戦場の声を制する。火より速く、馬より確かに――これが新しい国の“耳”だ」
―――
同じ頃、羽鳥城でも大工や職人が最後の仕上げに追われていた。木槌の音が寒空に響き、漆喰を塗り込める音が途切れなく続く。兵舎の棟では、窓枠に硝子がはめ込まれ、衛生棟では新設の下水溝に水が流れる試験が行われていた。
「殿、これで病兵の収容も、ようやく人並みに整いました」
監督役が帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。
藤村は溝を流れる水の音を聞きながら、深く頷いた。
「剣を振るう者も、鍬を握る者も、病に倒れれば国を支えられぬ。衛生こそ、見えざる兵備だ」
周囲の若い大工たちが顔を見合わせ、誰からともなく笑みを浮かべた。自分たちの手が、戦にも平時にも通じる礎を築いていると実感できたからである。
―――
さらに南の玉里港では、冬の風に白波が立ちながらも、夜間保安灯の試験点灯が行われていた。油を満たした鉄灯籠が、規則正しく埠頭を照らす。
「これで夜の停泊も格段に安全になります」
港奉行が胸を張る。
漁師や船頭たちがその光を見上げ、しみじみと声を漏らした。
「夜の港が、昼のように見える……これで荒天の夜も恐れず戻れる」
藤村は風に外套を翻しながら、海を見渡した。
「灯は人を導くだけでなく、数を生む。停泊効率が上がれば、荷も人も無駄なく動く」
その視線の先では、倉庫の扉が開かれ、Kasama瓶や石鹸、干芋を詰めた木箱が積み込まれていた。倉内には新設の温湿度計が据えられ、番人が目を凝らして針の動きを記録している。
「温度二十度、湿度五十二」
番人が報告すると、傍らの商人がほっと胸を撫で下ろした。
「これで上海まで品質を保てる……」
藤村は頷き、壁に掛けられた統一B/L(船荷証券)を指差した。
「紙一枚に過ぎぬが、これは商いの命綱だ。誰が積み、何を積んだか、これで世界中に証明できる」
―――
夕刻、江戸城の広間に戻ると、各地の進捗を報告する使者たちが集まっていた。
「江戸城第三期、防火区画と行幸動線、暫定ながら稼働を開始」
「羽鳥城兵舎、衛生棟、仕上げ段階」
「玉里港、保安灯設置完了、港倉温湿度計常備」
報告が読み上げられるたび、部屋の空気が明るさを増していく。四年計画の折返し点に立ち、誰もが手応えを感じていた。
その中で藤村は静かに口を開いた。
「工廠は城であり、港は喉であり、用水は命だ。数字も剣も、この基盤の上でこそ活きる」
老臣のひとりがしみじみと呟いた。
「戦わずして国が強くなるとは、こういうことか」
藤村はその言葉に軽く頷き、机上の図面を手で押さえた。そこに描かれているのは、電信線の網、衛生棟の配置、港の光――すべてが一本の糸で繋がるように見えた。
―――
夜更け、洋館の書斎で藤村は一人帳簿を開いた。今日の数字を記入しながら、ふと窓越しに外を見やる。江戸の町に散らばる灯は、もはや闇を追う小さな焔ではない。港から、城から、村から――人々の営みそのものが、灯となって未来を照らしているようだった。
「戦費は会計で勝ち、未来は基盤で勝つ……」
そう呟き、ペンを置いた。静かな夜気が、次なる一歩を待ちわびているかのように澄んでいた。
広間の空気は、緊張と高揚の入り混じった熱を帯びていた。冬の冷え込みにもかかわらず、列座する公卿や諸侯の額には汗がにじんでいる。
壇上に置かれた長机の上には二振りの刀が並べられていた。ひとつは薩摩藩から献上された天下の名刀・大包平、もうひとつは会津藩が差し出した和泉守兼定。鞘から放たれる微かな光が、まるで国の未来そのものを映すようだった。
「薩摩藩、借財すべて完済につき、証として大包平を献上仕り候」
使者が深々と頭を下げる。
「会津藩、借財を残らず返納し、兼定を奉る」
続いて容保の使者が声を張り上げると、広間のざわめきは一層大きくなった。
藤村はその場に立ち、両手を膝に置いたまま深く一礼した。
「両藩が誠を尽くし、ここに債務を果たした。この日を迎えることができたのは、皆の忍耐と努力の賜である」
声が響くと、広間にいた町奉行や財政方、さらには記録係の若い書役たちまでが一斉にうなずいた。
―――
かつて薩摩や会津は、戦費や藩政の逼迫によって幕府に多額の借財を負っていた。それは藩の誇りを削り、人々の肩に重くのしかかる鎖でもあった。だが四年にわたる厳しい繰上償還と透明な会計運営によって、その鎖はようやく解かれたのだ。
壇上の刀を見つめる視線には、ただの儀礼以上の意味が宿っていた。大包平は武の象徴、兼定は忠義の証。その両方が「完済」という形で幕府のもとに集ったことは、数字以上の重みを持っていた。
―――
「殿、これで幕府一般債務も、三百二十万から三百八十万の帯に収まります」
渋沢栄一が記録を手に、声を潜めて報告する。
藤村は深く息を吐いた。
「あと一息だ。海軍特会の残九万六千両も、来春には一括で終える」
その言葉に、場内からため息とも歓声ともつかぬ声が上がった。これまで「幕府は借金漬け」という揶揄は、町人から武士に至るまで共通の苦笑であった。だが今、その笑いが確かな自負に変わりつつある。
「借金が減ると、これほど人の顔が明るくなるものか」
誰かが呟いた。
藤村は静かに頷きながら、壇上の二振りに視線を移した。
――刀は血を流すためのものではなく、誠を刻むために在る。今日ここに並ぶ二振りこそ、その証なのだ。
―――
式が終わると、庭に出ていた人々の間にも歓声が広がった。掲示板に「薩摩完済」「会津完済」の文字が墨書されると、町人や職人がどよめき、商人たちは互いの肩を叩き合った。
「これで信用が回る。貸す方も借りる方も、胸を張れる」
「数を隠さぬ政は、怖ろしくもあり、ありがたくもあるのう」
雪の舞う庭で交わされるその言葉は、ただの噂話ではなかった。人々が国の財政に直に触れ、共に安堵する――それは幕末の世にあって、かつてなかった光景であった。
―――
藤村はその人波を背に、庭の片隅で足を止めた。氷を張った池の上を、冬の陽が白く照らしている。
「借金を減らすことは、心の荷を減らすことでもある。……だが、本当に試されるのはここからだ」
呟きながら拳を握る。数字の軽さは、未来への重さに変わる。借財の完済は終着ではなく、新しい出発点なのだ。
その思いを胸に、藤村は再び歩を進めた。背後では、大包平と兼定が冬の光を浴び、静かに輝いていた。
行幸の儀が一段落したあと、江戸城の広間はまだざわめきに満ちていた。だがそのざわめきは戦や借財の重さからくるものではない。未来を見据える期待の気配だった。
中央に据えられた長机の上には、数冊の帳面と信号旗、そして紙に大きく書かれた二文字が置かれている。
「北辰――」
それを指でなぞったのは、まだ幼い義信だった。二歳を過ぎたばかりの小さな指が、墨の跡をたどるようにゆっくりと動く。周囲から驚きと微笑の声が漏れた。
「殿の御子息が、もう文字に興味を持たれるとは」
傍らで和宮が目を細め、声を洩らした。
久信はまだ乳児の身ながら、畳の上で這い回り、小さな足をばたつかせている。その姿は「駆け足」への第一歩のように見え、場を和ませた。
―――
一方、慶篤は体操着姿で壇に上がっていた。弓の素引き、素手の屈伸、そして軽やかな歩法。汗が額を伝うたびに、堂上の人々は「規律」と「健康」が同居する姿を目の当たりにした。
「体を鍛えることは、政を鍛えることに通じます」
慶篤は深々と礼をして言った。
「藩主といえど、身体を怠れば民に示しがつきませぬ。私自ら範を示します」
その真摯な声に、公卿も大名も頷いた。武士の世から民の世へと移りゆく時代に、統治の姿が変わろうとしているのだ。
―――
続いて昭武が壇上に進んだ。手に持っていたのは仏語で書かれた艦信号書と、信用状(L/C)の雛形である。
「En avant, marche! ――前へ進め!」
フランス語を読み上げ、すぐに日本語で続けた。
「これは兵の号令であると同時に、商いの心でもあります」
彼は逐語訳を示しながら、帳面の余白に細かな注釈を書き込んでいく。軍の通信体系と、商いの信用制度。異なる分野を一つに織り合わせる若者の姿に、人々は「知」が次代を支えることを悟った。
―――
その場に静かに立ち上がったのは、徳川慶喜だった。和宮がその隣に座し、懐には産声を上げたばかりの皇子が抱かれている。
「この子が歩む時代は、剣がすべてを決する時代ではあるまい」
慶喜の声は低く、しかし力を帯びていた。
「剣は五分、法と勘定で五分。これが我らの新しい国を支える三本柱――軍、政、市政である」
その言葉に、広間は静まり返った。やがて誰からともなく拍手が起こり、波のように広がっていった。
―――
藤村は机の端で、その光景を見つめていた。義信の小さな指、久信の幼い駆け足、慶篤の鍛錬、昭武の翻訳、そして慶喜の宣言。
――すべてがひとつの線となり、未来へと続いている。
数字も剣も、そして人の心も。国を支えるのは一代で終わるものではない。その継承の重さを、藤村は胸に刻んでいた。
午後の儀がすべて終わり、夕暮れが江戸城の瓦を赤く染めていた。
長き一日を締めくくる会議室に、乾いた音が響いた。
――コトリ。
机の上に置かれたのは、ロシア使節が残していった公印の入った印章であった。朱と黒がまだ鮮やかに残り、冷たい金属の縁が光を帯びている。その音は、まるで未来の扉がわずかに開いたことを告げる鐘のようでもあった。
「北を買い、南を護る――」
藤村は胸中で呟いた。
その背後では、障子を少し開けて、義信と久信が覗き込んでいた。小さな手には、白地に赤い円を描いた日章旗の小旗。幼子の無邪気な眼差しが、朱印と旗とを交互に見つめる。
「父上、これ……あかいまる」
義信が幼い声で囁くと、久信も真似て「まる」と口にした。
その姿に場の者たちは思わず頬を緩めた。彼らが見上げているのは、単なる布切れでも墨の印でもない。未来の日本そのものだった。
―――
窓の外には、冬を前にした空が紫から群青へと変わりつつある。江戸の町からは篝火と行燈の灯が川面に揺れ、遠く海上には試験運航を終えた船の灯がちらちらと瞬いていた。
藤村はゆっくりと立ち上がり、机の上に両の手を置いた。
「数字は裏切らない。剣は一瞬の力だが、数は世代を超えて国を支える」
その言葉に重臣たちは静かに頷き、誰もが胸の奥で「四年計画」の折返しを感じていた。借金の山を削り、関税を立て直し、農も工も軍もここまで漕ぎ着けた。これから先は、さらに大きなうねりに挑むことになる。
藤村は障子越しに義信と久信を見やり、小さく微笑んだ。子らが手にする小旗はまだ幼い掌には大きすぎたが、やがてそれを掲げて歩む日が来るだろう。
――その日まで、この旗を汚さぬように。
城の回廊に夜風が吹き込み、旗の布がふわりと揺れた。その音はまるで、未来からの囁きのようであった。