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141話:(1867年初秋)運ぶ・積む、刈る・蔵う

初秋の朝、横浜港はざわめきの渦に包まれていた。海面は凪いでいるのに、港の内は人の声と車輪の軋む音で絶え間なく波打っている。夜露に濡れた石畳を、荷馬車の列がぎしぎしと鳴らしながら進み、俵や木箱が次々と船辺へと運ばれていった。


 藤村晴人は港を見下ろす高台に立ち、胸いっぱいに潮の匂いを吸い込んだ。まだ残暑の湿り気はあったが、空気の奥には確かに秋の冷ややかさが忍び寄っていた。空は高く、雲は薄く流れている。その下に林立するマストの森が、朝日に白く照らされて、まるで新しい城郭の櫓のように見えた。


 「石鹸を先に積め! 次は瓶物、干芋は最後だ!」


 監督役の声が響く。役人の手には「順序票」と呼ばれる札が握られていた。順序票は単なる紙切れではなく、積荷の並びと保険の約款がひとつに連動している。


 その声に従い、荷役たちは息を合わせて荷を運ぶ。まず木箱に詰められた石鹸が積み込まれ、その上にKasama瓶の酸乳や医薬品が並び、最後に干芋の俵が積まれる。どの順番で積むかが、輸送中の破損率や損害補償に直結する。


 「おい、崩れにくいぞ」

 長年船に乗る年寄り船頭が、積まれた荷を叩きながら笑った。

 「波に揺れても荷が動かん。これなら上海まで安心だ」


 周囲の商人たちが顔を見合わせる。かつては積み荷の順序など船頭任せで、荷崩れによる損害も「海の理不尽」として受け入れるしかなかった。それが今では、一枚の票に従って誰もが同じ手順で荷を運ぶ。


 「順序ひとつで保険料が下がるとは……」

 ある商人が唸った。

 「数字で損得が決まるなら、口論する必要もない」


 藤村は静かに頷き、波止場の群衆を見渡した。

 「秩序は力だ。流通が揺らげば商いは滞る。だが順序が整えば、港は城に匹敵する」


 その言葉に、周りの船主や商人たちは驚いたように藤村を見つめ、やがて深く頭を下げた。外注航路の効率化は、すでに十二パーセントのコスト削減を定着させていた。短期の利益よりも、秩序が長期の繁栄を呼ぶ――それを実感した者の表情には、もはや不安はなかった。


 汽笛が鳴った。真新しい蒸気船の煙突から吐き出された白煙が、秋空にまっすぐ伸びていく。その響きはただの信号ではなく、時代が変わる鼓動のように港を震わせた。


―――


 「顔を知らぬ相手とも安全に取引できる」


 近くの会所で交わされた商人たちの声が耳に届く。藤村は足を止めた。彼らが話題にしているのは、最近導入された信用状――すなわちL/Cの仕組みであった。これまで相手の顔や名を知らねば成立しなかった取引が、今や紙一枚の信用証書で遠く上海や長崎の商人とも結べる。


 「為替の損益が安定している。±〇・七パーセントに収まるとは驚きだ」

 「これで、先を読んだ商売ができる」


 商人たちの声は生き生きとしていた。従来の博打に近い交易が、徐々に計算できる商売へと変わっていく。その変化を肌で感じながら、藤村は思った。


 ――港が城であるならば、信用はその石垣だ。崩れぬように積み上げてこそ、内も外も守れる。


―――


 波止場の片隅では、若い商人が順序票を掲げながら年寄りに説明していた。

 「石鹸は下、瓶は中、干芋は上。これを守れば保険料は下がります」

 「ほう……順序が銭に化けるのか」

 老人は感心して頷き、札を手に取った。


 藤村は二人の様子を遠くから見守った。改革は役人の机上だけでなく、現場で人が納得してこそ根づく。若者が説明し、老人がそれを受け入れる。その一瞬に、未来が芽吹いているのを確かに感じた。


―――


 港の喧騒を背に、藤村はふと海の方へ目を向けた。沖に浮かぶ黒塗りの船影。マストに掲げられた旗は、異国の風を受けてはためいている。


 「日本の日常が、異国で珍重される時代が来た」


 藤村は低く呟いた。目の前の木箱や俵は、ただの貨物ではない。石鹸は清潔の象徴、Kasama瓶は衛生の証、干芋は農の恵み。それらが海を渡ることで、日本という国の価値を語るのだ。


 潮風が頬を打った。冷たさと温かさが入り混じるその感触に、藤村は確信を覚えた。

 ――運ぶ、積む。その秩序の中に、未来は築かれる。


―――


 やがて昼近くになり、港の喧騒はいっそう高まった。入港する船と出港する船、陸に戻る人と海に出る人。そのすべてが織りなす光景は、まるで巨大な織機が糸を紡ぐようだった。


 藤村は深く息を吸い、足を港へと向けた。

 「鉄も麦も、すべては人の手で動く。ならば、港もまた人の声で守らねばならぬ」


 その瞳は、波打つ海の向こうを見据えていた。

昼下がり、横浜港の波止場は出港準備の最高潮に達していた。積荷を終えた船の甲板では、船員たちが索具を締め直し、蒸気機関に火を入れる準備をしている。黒い煙突からは試し焚きの煙が細く立ちのぼり、秋の澄んだ空に溶けていった。


 藤村晴人は波止場に足を下ろし、整然と並べられた積荷を一つひとつ見回した。木箱の表面には「SOAP」の焼き印、瓶詰には「KASAMA」の刻印、そして俵には「干芋」の墨書きがある。いずれも日本では日常の品であったが、今まさに海を越え、異国の人々の生活に届こうとしていた。


 「まさか、石鹸や干芋が“輸出品”になるとはな」

 港役人が肩をすくめる。


 藤村は笑みを浮かべて答えた。

 「珍しきものほど、最初は価値がある。だがいずれ、これは“日常”を支える品となろう。清潔と滋養は、国を強くする二つの翼だ」


 その傍らで、若い商人が帳簿を片手に近寄ってきた。

 「殿、このKasama瓶、異国の商人がずいぶん興味を示しておりました。“乳を入れる瓶に番号が刻まれているのは初めてだ”と」


 藤村は瓶を手に取り、指先で口径をなぞった。規格統一されたその口は、輸送効率を十二パーセントも向上させていた。

 「番号は信用だ。どの瓶も同じ寸法であると示す。それだけで取引は速くなる。異国の商人が驚くのも当然だ」


 商人は深く頷き、帳簿にさらさらと書き記した。


―――


 船の陰では、港の労働者たちが干芋の俵を積み上げていた。乾いた甘い匂いが風に混じり、港全体に漂う。


 「これはどこに送るのだ」

 藤村が声を掛けると、労働者の一人が汗を拭きながら答えた。

 「上海へ持っていくそうです。向こうの人は“珍味”だと喜ぶそうで」


 「日本では農家の冬の保存食に過ぎぬものが……」

 藤村は思わず口元を綻ばせた。

 「だが、飢えを凌ぐ知恵が、異国では宝になる。農の力もまた、海を渡るのだな」


 俵の縄を締め直す労働者の手は逞しく、その汗は塩辛い海風に混じって光っていた。


―――


 一方、輸入品の倉庫では、別の賑わいが広がっていた。電信材の木箱、薬品の樽、そして白い綿布の反物が次々と検品されている。


 「薬は肺病に効くとのこと。江戸の医師どもが目を輝かせております」

 検査役が報告する。


 藤村は反物を手に取り、光に透かしてみた。

 「織り目は細かい。これを倣えば、国内の布産も変わる。……ただ真似るだけではなく、超えねばならぬが」


 検査役が首をかしげた。

 「殿はなぜ、わざわざ外国から取り寄せられるのですか。国産を奨められぬのですか」


 藤村は反物を丁寧に畳み直し、静かに答えた。

 「基盤を作るには、まず学ぶことだ。薬も電信も布も、最初は外から。だが基盤が整えば、必ず国内に根を張る。外から入るものは、国を耕す“肥やし”なのだ」


 倉庫の中でその言葉を聞いた若者たちの目に、迷いはなくなっていた。


―――


 夕刻。港に夕陽が傾き、海面が黄金に染まった。船の帆柱がその光を受けて炎のように輝く。


 藤村は高台に戻り、港全体を見下ろした。そこには石鹸も瓶も干芋も、そして薬や電信材や綿布も並んでいる。出るものと入るものが交わり、ひとつの循環を形づくっていた。


 「日本の日常が、異国で珍重される時代……そして、異国の知が日本を肥やす時代。双つが交わることでしか、未来は築けぬ」


 その言葉に、そばで控えていた渋沢栄一が深く頷いた。

 「“信用”を形にすれば、人も物も動きます。Kasama瓶の番号も、石鹸の印も、信用の証ですな。……いずれ、帳簿一冊で万里を越える商いもできましょう」


 藤村は笑みを浮かべ、眼下の港を見つめた。積み荷を見送る人々の顔には、不安ではなく誇りがあった。


―――


 その時、沖合の船が汽笛を鳴らした。低く響く音が港を揺らし、積み荷の俵や木箱が震えた。港に集った者たちは一斉に空を見上げる。


 煙突から吹き出す白煙が、夕焼けに赤く染まり、やがて風に流されていく。

 「出港だ!」

 誰かが叫び、歓声が上がった。


 藤村は胸に手を当て、深く息を吸った。

 ――これはただの交易ではない。人の知恵と労苦が海を越えて結ばれる、その最初の大きな歩みなのだ。


 夕陽が水平線に沈むとき、港の上には確かに未来を映す光が残っていた。

横浜港の倉庫街には、いつもと違う緊張感が漂っていた。厚い板で覆われた巨大な木箱が次々と荷下ろしされ、鉄製のクレーンが唸りを上げる。箱の側面には、フランス語で「武器」「注意」と赤字で書かれている。周囲を取り囲むのは武装した警備兵たち。人々は遠巻きにその光景を見つめ、ざわめきは風に吸い込まれるように消えていった。


 藤村晴人は帳簿を手に、検収役人の列の先頭に立った。額には汗が浮かんでいたが、それは秋の残暑ではなく、目の前に積まれた異国の武器が放つ重圧のせいだった。


 「開封を」


 指示とともに、槌が振り下ろされる。釘が飛び、蓋が外されると、木箱の中から整然と並んだ鉄の光が現れた。ライフル銃八千丁。銃床は黒く磨かれ、銃身は光を反射して鋭く輝いている。


 「これが……新式のミニエー銃か」

 近くにいた藩士のひとりが、思わず息を呑んだ。


 フランス人技師が一歩進み出て、銃を手に取り、滑らかな動作で分解を始めた。銃身、撃鉄、薬室、部品が次々と机に並べられる。彼は通訳を介さず、身振り手振りだけで組み立てを逆に進め、十数秒で元に戻して見せた。


 「速い……」

 誰かが呟く。


 藤村も銃を手に取った。木目は滑らかで、手のひらにしっかりと馴染む。重さは火縄銃より軽く、しかし銃身の芯には揺るぎない強度があった。頬に寄せ、狙いをつけると、視界の中央に一点の光が浮かぶような錯覚を覚える。


 ――これが列強を支えてきた“文明の道具”か。


 胸の奥に熱が走った。期待と同時に、言葉にできぬ責任の重みがのしかかる。


―――


 次に開かれた木箱には、兵士用の制服がぎっしりと詰められていた。深緑の布地に金の飾緒、堅牢なブーツ。数は八千。


 「兵は、姿で士気を得る。列を揃え、同じ衣を着れば、それだけで軍は一つになる」

 藤村の言葉に、横で記録を取っていた渋沢栄一が頷いた。

 「衣は数字に表れぬ力を持ちますな。兵の心を束ねるのです」


 さらに大箱の蓋が外される。中には砲二十門が収められていた。砲身は厚く、黒鉄が鈍い光を放っている。砲耳や車輪も頑丈で、すぐにでも実戦に耐えそうだった。


 「総額二十四万ドル」

 検収役人が帳簿を読み上げる声が倉庫に響く。

 「外貨特会にて前払十パーセント執行済み。残額は到着確認をもって清算」


 藤村は静かに目を閉じた。――八千の銃、八千の衣、二十の砲。その数字の背後には、幾千の命の重みがある。これらをただの数字と見るか、人の血と見るか。それを決めるのは、自分自身だ。


―――


 夕方、検収を終えた倉庫の外で、藩士たちが新しい銃を手に取り、試しに構えていた。銃口の先を見つめるその表情は、恐れと期待が入り混じっている。


 「これで……我らも列強と肩を並べられるのか」

 一人の藩士が小さく呟く。


 藤村は歩み寄り、その肩に手を置いた。

 「武器は手段にすぎぬ。これをどう使うかが国の価値を決める。――決して、数の幻に飲まれてはならぬ」


 その言葉に、藩士は深く頷いた。


―――


 港の沖には、積荷を終えた輸送船が停泊していた。夕陽を浴びた煙突から黒煙がたなびき、空に溶けていく。港の空気は熱気と緊張で張り詰めていたが、同時に確かな充実感が漂っていた。


 藤村は波止場に立ち、遠くの船影を見つめた。

 ――これで本当に列強と渡り合えるのか。


 その問いは重く胸に落ちた。だが同時に、答えを探し続ける覚悟が彼の眼差しを鋭くした。鉄と布と火薬、そのすべては未来を試す秤にほかならなかった。

江戸城内の一室。壁には大きな海図と地形図が並び、卓の上には分厚い巻物と設計図が重ねられていた。秋の陽が障子を透かして淡く射し込み、室内の空気を冷ややかに照らしている。


 藤村晴人は榎本武揚の広げた地図を覗き込んだ。緻密に描かれているのは樺太の沿岸線、炭鉱予定地、港湾候補地、さらには病院と電信線の配置図。西洋式の測量記号が日本語の注釈と並び、東と西の知識が交錯している。


 「まず人が住める環境を整えるのです。病院と電信線がなければ、資源も兵もただの漂泊者にすぎません」

 榎本の声は熱を帯びていた。


 藤村は深く頷き、指先で図の一点を押さえた。

 「ここは……小さな入り江か」


 「ええ。石炭層のすぐ近くです。船が横付けできれば、掘り出した炭をすぐに積み出せます。ですが冬の氷結を避けるために、掘削の手順を逆算しなければ」


 榎本の説明は途切れなかった。彼の瞳は樺太の大地そのものを見据えているようで、藤村はその情熱に押されながらも確かな手応えを覚えていた。


 「……さすがは“海軍の頭脳”だな」

 藤村がつぶやくと、榎本は照れくさそうに笑った。

 「学んだのはオランダでの数年にすぎません。それを生かすのは、この国の地であり、殿のお考えです」


―――


 同じ頃、藤村邸の書斎では、別の静かな営みがあった。


 洋風の書斎。硝子窓の外には秋の夕陽が傾き、麦色に染まった庭を照らしていた。机の上には分厚い絵本とひらがなの手習い帳。義信が膝に両手を置き、真剣な眼差しで頁を見つめている。


 「か……さ……ま」


 たどたどしい声で三つの文字を読んだ。筆で書かれた「かさま」の文字は、まだ幼い指にとっては難しい線の組み合わせだったが、義信は歯を食いしばって声にする。


 篤姫が隣で微笑んだ。

 「ええ、よく読めましたね。父上のご城の名です」


 義信は得意げに父の方を振り向いた。藤村は机越しに小さく頷き、温かな声をかけた。

 「その一文字一文字が、やがて国を支える礎になる。焦らず、ひとつずつ積み重ねるのだ」


 義信は「はい」と答える代わりにもう一度「か」と呟き、指でなぞった。


―――


 隣室では久信がお吉に抱かれていた。まだ文字は読めないが、兄の真似をして、木の積み木を机に並べている。


 「ほら、これも“城”だよ」

 お吉が笑いながら積み木を三段重ねる。


 久信は声を上げて笑い、積み木を崩してはまた積み直した。その仕草を見守りながら、藤村は胸の奥に確かな感覚を抱いた。――数や文字の訓練だけではない。遊びの中にも、未来を形づくる芽が潜んでいるのだ。


―――


 やがて夜。藤村は書斎に戻り、窓越しに庭を眺めた。榎本との議論で浮かんだ北の大地の姿、港に積まれた銃や砲の重み、そして子どもたちの無垢な声。そのすべてが胸の中で響き合っている。


 「運ぶ、積む、刈る、蔵う……」


 彼は低く呟き、机の上の帳簿に視線を落とした。そこには今日一日の収支が数字となって記されていた。しかし藤村には、その数字の背後に人々の息遣いが見えた。炭を掘る手、稲を刈る腕、銃を磨く指、文字を覚える幼子の口。


 数字は冷たい。だがその冷たさが、人の温かさをより鮮やかに浮かび上がらせる。


 藤村は筆を取り、帳簿の余白に一行書き加えた。


 ――鉄も麦も、子も国も、運ぶことで未来を得る。


 墨の香りが夜気に溶け、秋の虫の音がその言葉を刻むように響いていた。

夕暮れ、江戸から少し離れた港の高台に立つと、秋の空気は澄み渡り、潮の香が肺に心地よく広がった。眼下には横浜から出帆を待つ船団が並び、帆布が夕陽を受けて黄金色に輝いている。荷役人夫の掛け声、木箱を滑らせる音、汽笛の短い咆哮――それらが重なり合い、まるでひとつの交響曲のように響いていた。


 藤村晴人はマントを翻し、港を見下ろした。昼間に検分した貨物はすでに積み込まれ、Kasama瓶、石鹸、干芋という日本の日常品が異国へと運ばれようとしていた。かつては武器や絹が主役だった交易に、いまは庶民の生活品が堂々と加わる。


 「これが、我らの時代の形か……」


 小さく漏らした言葉は、潮風に溶けて消えた。だが藤村の胸には確かな実感が残っていた。日本の暮らしそのものが、世界と交わり始めている――その事実こそが何よりの誇りだった。


―――


 港の片隅では、仏から届いた新兵器の検収が続いていた。整然と並んだ木箱を開けると、油に濡れた鋼の匂いが立ち上る。銃八千丁、砲二十門、被服八千組。兵装を実際に手にした藩士たちの眼は驚きに見開かれ、その重みを肩で受け止めると同時に背筋を正した。


 「これで……本当に列強と渡り合えるのか」

 一人の若侍が呟く。


 藤村はその声を聞きながら、心の奥で答えを探した。兵器は確かに力だ。しかし真に国を支えるのは、人の心と秩序。鉄がいかに冷たく重くとも、それを使う者の熱と責任がなければ無用の塊にすぎない。


 榎本武揚が傍らに立ち、低く言った。

 「藤村卿、樺太の件ですが……露側も交渉に前向きとの報が入りました。三十年租借と先買権、現実味を帯びてきましたぞ」


 藤村は眉をひそめつつも頷いた。

 「百万円を前払いした意味が、ようやく芽吹き始めたか」


 榎本の眼差しに迷いはなかった。北の大地は決して楽な道ではない。だが、港で鍛えられた技術も、農地で育まれた麦も、すべてはあの白い大地に繋がってゆくのだ。


―――


 やがて日が沈み、空は茜から群青へと変わった。港を出る船が一隻、また一隻と汽笛を鳴らし、波間に白い航跡を描いていく。


 藤村はマントの裾を握りしめ、呟いた。

 「運ぶ・積む、刈る・蔵う……すべてが回り始めた。鉄も、麦も、海も、人も」


 背後から風が吹き抜け、麦を刈ったばかりの俵の匂いを運んできた。それは工廠の鉄の匂いと交じり合い、不思議な調和を形づくる。


 「工業と農業、軍事と経済――両輪が噛み合ってこそ、国は進む」


 その言葉は自らへの戒めであり、未来への誓いでもあった。


―――


 夜。藤村邸の書斎。義信が篤姫に支えられて「か・さ・ま」と声に出し、久信がその横で無邪気に積み木を崩しては笑った。灯の下に響く幼い声は、白紙の未来に最初の文字を刻む音のようだった。


 藤村は机に置いた帳簿を閉じ、二人の子の声をしばらく黙って聴いた。数字も兵器も、港の取引も、すべてはこの声を絶やさぬためにある。


 窓の外、港に立ちのぼる白い煙が夜空に溶け、星の光と交じり合っていた。


 ――鉄が語り、麦が笑い、子が未来を呼ぶ。


 その確信を胸に、藤村は静かに灯を落とした。

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