140話:(1867年初夏)鉄が語り、麦が笑う
横須賀の工廠に、朝から甲高い金槌の音が響き渡っていた。炉の中では赤々と輝く鉄塊が唸りを上げ、汗に濡れた職人たちが大槌を振り下ろしている。火花が飛び散り、黒い作業着に星のような痕を残した。
「打て! もう一度!」
親方が声を張ると、若い徒弟たちが息を合わせて鉄を叩く。鍛造場の床は熱気で揺らぐように霞み、そこから生まれる金属音は工廠全体を震わせるようだった。
やがて鉄塊は形を整え、真新しい砲架の部材が姿を現した。職人のひとりが手袋を外し、震える指でそれを撫でる。
「殿、できました……異国に頼らずとも、我らの手で」
報告を受けた藤村晴人は、汗と煤にまみれた職人たちの顔を一人ひとり見渡した。彼らの瞳は疲れていながらも、誇りに満ちていた。
「これが我らの力だ」
藤村は声を低くし、しかしはっきりと告げた。
「鉄は国の骨だ。自らの手で叩き、鍛え、形にできるのならば――日本はもはや誰の庇護も要らぬ」
工廠の片隅で算盤を操っていた渋沢栄一が、すかさず数字を示す。
「従来の輸入部材に比べ、二割近いコスト削減が見込めます。しかも内製化は雇用を生みます。技術も金も、人の中に戻ってくるのです」
「数字も力、誇りも力だ」
藤村は頷いた。
「この音を絶やすな。鉄の響きが国を変えるのだ」
その瞬間、再び金槌が振り下ろされ、鉄の声が大地に響いた。それはまるで国そのものが、自立を宣言しているかのようだった。
―――
正午近く、炉の火が落ち着くと、職人たちは床に腰を下ろし、汗を拭った。誰かがぽつりとつぶやく。
「去年までは、異国の部品を待つばかりでした。けれど今は、自分たちで作れる」
その言葉に仲間たちは黙って頷いた。火傷の痕も、煤に汚れた手も、今や誇りの証だった。
藤村は炉の前に立ち、深く一礼した。
「皆の汗が、砲を動かす。砲が動けば、国が動く。――鉄は語る。今日からは、日本語で」
工廠の天井を突き抜けるように、熱い拍手と歓声が広がった。
横須賀での工廠視察を終えた藤村は、翌朝には羽鳥の田園へ足を運んでいた。初夏の陽が早苗を照らし、風は若葉の匂いを運んでいる。麦畑一面が黄金色に波打ち、その間を縫うように村人たちが立ち働いていた。
「去年なら全滅していたはずの区画が……」
案内していた庄屋の声は、驚きと喜びが入り混じっていた。
「見てくだされ、殿。こんなに穂がそろったのは、わしが生まれて初めてです」
麦の列は整然と並び、背丈も均一である。新品種の導入と栽培法の改良――播種の間隔を見直し、肥料の配合を工夫した結果だった。
「損失率、昨年に比べて一五%減」
渋沢栄一が持参した帳簿をめくり、数字を指先で示した。
「この差は、飢える口を救う差です」
藤村は麦穂を手に取り、指で撫でた。まだ柔らかい穂先から、かすかに青い香りが漂う。
「鉄が国を守るなら、麦は国を養う。どちらが欠けても国は立たぬ」
そばで農夫の娘が笑みを見せた。日焼けした頬が赤く染まり、両手には刈ったばかりの麦束。
「これで冬に子が腹をすかさずに済みます」
その言葉は数字以上の重みを持っていた。
―――
畑の片隅では、農政吏に任命された若者たちが膝をつき、土を指で確かめていた。
「水はけが良くなっている」
「肥やしの配合を記録に残しておこう」
彼らは元農民や郷士、学問を修めた者たちで構成されていた。汗をかきながらも、顔には生き生きとした光が宿っている。
藤村は声をかけた。
「書き付けを怠るな。畑は口を利かぬが、数字と記録なら必ず語ってくれる」
若者のひとりが深く頭を下げた。
「はい。来年は、さらに損失を減らしてみせます」
―――
やがて村の広場に集まった人々の前で、藤村は声をあげた。
「この麦は皆の手で育った。だが忘れるな。新しい種も、工夫も、疑わずに試したからこそ今がある」
農民の一人が帽子を取り、涙をぬぐった。
「迷いもありました。けれど……殿がおっしゃるならと、信じてやってみた。それで、ほんとうに実ったのです」
藤村は頷き、空を仰いだ。雲の切れ間から陽光が差し込み、畑の麦を一斉に照らした。黄金の波は揺れ、まるで笑っているかのようだった。
「――麦が笑う。国が笑う。それこそ、わが望みだ」
その言葉に、農民たちは歓声を上げた。子どもたちが畑を駆け、老人は杖を振り上げて喜んだ。
麦畑は単なる収穫ではなく、未来への約束そのものだった。鉄と同じく、農の技もまた国を支える柱であることを、人々ははっきりと感じていた。
五月の空は高く澄み、風はまだ涼しかった。だが品川の浜辺では、熱気が地面を揺らすように満ちていた。新たに設けられた射撃場――真新しい土手と的座が並び、銃声が乾いた初夏の空にこだました。
「発射!」
号令とともに、藩士だけでなく町人や農夫の姿までが一斉に銃を構える。耳を裂く音が続き、硝煙が風に乗って流れた。
藤村は腕を組んで立ち、様子を見つめていた。従来、武芸は武士の専売であった。しかし、この射場では違った。背に刀を差さぬ者が、堂々と銃を手にしている。
「町人や農民まで射撃を?」
驚いたように声を上げたのは近隣の庄屋だった。
藤村は微笑んで答えた。
「国を守るのは一握りの武士だけではない。国に生きるすべての者が、守る力を備えるべきなのだ」
―――
羽鳥の城下でも同じような光景があった。築かれたばかりの射場に、子どもを背負った若い母が弁当を持ち寄り、夫の訓練を見守っていた。農作業着のまま銃を構える男たちの手は荒れていたが、的を狙う眼差しは真剣だった。
「外れた!」
笑い声と悔しさが入り混じる。隣で見ていた少年が、憧れのように父の姿を見つめていた。
藤村はその少年の頭を軽く撫で、膝を折って言った。
「学べ。銃は人を傷つけるだけのものではない。的を狙う心を鍛えるのだ」
少年は大きく頷き、拳を握りしめた。
―――
江戸の外堀沿いに設けられた三つ目の射撃場では、すでに訓練体系の整備が進んでいた。的の距離を五十間、百間と段階的に分け、各射手の記録を板札に刻んで貼り出す。点数制を導入し、競い合いが自然に生まれていた。
渋沢栄一が帳簿を携え、藤村に耳打ちした。
「総額三万両の建設費ですが、町人や農民の参加費で三割は回収できます。あとの七割も、税でなく“国を守る誇り”として人々が負担を望むはずです」
藤村は頷き、眼前に広がる光景を見つめた。銃声はもはや戦の音ではなく、未来を刻む拍子のように聞こえていた。
「これは単なる訓練場ではない。国民皆兵の基盤だ。武士も町人も農民も、同じ的を狙い、同じ汗を流す――それが新しい国の形をつくる」
風が吹き抜け、土手の旗が音を立てた。硝煙の匂いの向こうで、藤村は確信していた。鉄も麦も、人も心も、すべてがつながってこそ国は強くなるのだと。
江戸城の一角に設けられた会議室。分厚い机の上に置かれたのは、榎本武揚が持ち帰った最新の測距器と電信資材だった。銀色の筒に刻まれた目盛りは精緻で、レンズ越しに見える像は遠くの旗までも克明に映した。
「艦用測距器六万ドル分、加えて電信材も揃います。これで我が海軍は、敵艦の位置を一刻の遅れもなく把握できます」
榎本が声を弾ませる。
藤村は器材を手に取り、重みを確かめながら応じた。
「視力だけでは戦に勝てぬ。距離を測り、瞬時に伝えることが肝要だ。これで列強に肩を並べられる」
その場にいた勝海舟が腕を組み、低く笑った。
「技術が戦を決める時代だ。だが、肝心なのは使いこなす人の心だな」
―――
午後の会議ではさらに重い話題が上った。樺太租借のための特別会計――前払百万両という巨額の資金繰りである。
勝が眉をひそめた。
「これだけの金額、果たして回収できるのか。漁場も鉱も確かに魅力だが、道遠く、冬は閉ざされる」
藤村は静かに首を振った。
「未来への投資です。いまは赤字でも、三十年後には日本の命綱となる。ロシアとの交渉でも、この“先買権”は必ず効いてきます」
榎本も頷き、地図を広げて指差した。
「露も悪い話ではないと見ている。先に足場を固めねば、後で悔いる」
会議の空気は重かったが、誰も反対とは言わなかった。机の上の蝋燭が揺れ、その影が未来の不確かさを映しているように見えた。
―――
一方で貿易の現場は明るさを帯びていた。横浜と上海を結ぶ定期航路の保険率が、さらに〇・二ポイント下がったのだ。
両替商たちは会所の帳場で顔を見合わせ、安堵の息を漏らした。
「これなら計算が立てやすい」
「月二便が安定して運べるなら、商いも大きくできる」
数字の安定は、人の心を和ませる。藤村はその光景を見て、改めて思った。――信頼こそ、交易の最大の貨幣なのだと。
―――
夕暮れ、藤村は羽鳥の麦畑に立っていた。金色の穂が風に揺れ、ざわめきは波のように広がってゆく。
農夫が泥にまみれた手を差し出した。
「去年なら全滅していた区画が、今年は豊作です。殿のおかげで……」
藤村は首を振った。
「いや、そなたらの工夫が実を結んだのだ。鉄も麦も、人の汗なくしては語らぬ」
遠くで子どもたちが笑い声を上げ、麦畑の間を駆け抜けていた。風に揺れる穂がまるで彼らを抱きしめるように傾く。
藤村はその光景に目を細め、胸の奥で言葉を噛みしめた。
「鉄が語り、麦が笑う時代が来た。工と農が歩を合わせ、国の力となる。すべてが軌道に乗り始めた今こそ、次の挑戦へ進むときだ」
初夏の夕陽が麦を照らし、空は朱に染まっていた。鉄の響きと麦のざわめきが重なり、日本の未来の鼓動のように彼の耳に届いていた。
夜、江戸の藤村邸。外はまだ初夏の湿り気を帯びた風が吹いていたが、洋館の居間はガス灯のやわらかな光に包まれていた。机の上には今日一日の記録帳が開かれ、数字と短い言葉がびっしりと並んでいる。
藤村はペンを置き、しばし静かに目を閉じた。頭の奥では、昼間に響いた金槌の音がまだ残響のように鳴り続けている。工廠の炉の熱、農地を渡る風、射撃場の銃声、榎本との議論――すべてがひとつの旋律のように胸の内に積み重なっていた。
篤姫が湯気の立つ茶を運んできて、そっと机の端に置いた。
「今日も、随分と歩かれましたね」
「……ああ。鉄も麦も、人も、よく働いた。数字だけでなく、人の息遣いが見えた一日だった」
そのとき、小さな足音がぱたぱたと近づいた。義信が父の机に身を乗り出し、帳簿を覗き込む。まだ文字は読めないが、真剣な父をまねるように指で行をなぞった。
「……あー」
幼い声を上げ、振り向いて父の顔を見上げる。
藤村はその小さな手をそっと包み込み、微笑んだ。
「ここにある数が国を軽くも重くもする。けれど――最後に国を動かすのは、人の声だ。父は今日、鉄が語り、麦が笑うのを聞いた」
義信は意味などわからぬまま、父の笑みに釣られて「あー」と声を重ねた。その無垢な仕草に、篤姫は目を細め、安堵の息を洩らした。
―――
夜が更けると、榎本からの使者が封書を届けてきた。封蝋を割ると、短い書き付けが現れる。
《樺太交渉、露側も関心を示しつつあり。近く水面下での回答ありとの報》
藤村は紙を折り畳み、炎の灯にかざした。遠い北の島の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。そこに住むであろう人々、漁をする姿、木を伐り、家を建てる姿。まだ見ぬ未来が、確かに手の中に芽吹いている。
「未来への投資……焦れば借金に見えるが、時が経てば礎になる」
彼は独りごち、灯を少し絞った。
―――
やがて屋敷全体が静まり返る。廊下を吹き抜ける風が、薄いカーテンを揺らした。藤村は書斎の窓辺に立ち、遠くに霞む江戸の灯を見下ろした。
「鉄が語り、麦が笑う……」
呟きながら、自分の胸に手を当てる。工業も農業も、軍事も経済も、人の営みから生まれ、人の営みを守るためにある。
その確信が、冷たい夜気の中で静かに熱を帯びていた。
――この歩みを止めるわけにはいかない。
硝子窓を叩く小雨の音が、まるで未来への拍子のように響いていた。