139話:(1867年3月/初春)工廠は城、用水は命
冬の冷たさを残す早春の朝、横須賀の船渠に集まった人々の息は白く立ちのぼっていた。巨大な石積みの壁に囲まれた渠口が静まり返る。やがて号令とともに閘門が開かれ、轟音が天地を震わせた。海からの水が奔流のように流れ込み、乾いていた渠底を一気に満たしていく。
見守る職人たちは、最初は息を呑んで立ち尽くしていた。だが水面がゆっくりと持ち上がり、やがて均等に広がるのを見ると、抑えていた声が爆発した。
「入ったぞ!」
「割れ目なし!」
「持つぞ、これで艦を浮かべられる!」
帽子が宙を舞い、手拭が振られる。歓声と涙が入り混じり、横須賀の冬の空気は一気に熱を帯びた。
―――
藤村はヴェルニーと並んで立ち、その光景を見届けていた。白い息を吐きながら、低く呟く。
「これで、日本は真の意味で“海軍国”への一歩を踏み出した」
その言葉に、背後で控えていた職人や役人たちがまたどよめいた。通訳がただちにフランス語へと訳すと、ヴェルニーをはじめとする仏人技師たちは「Magnifique(見事だ)」と声を揃え、満足げに頷いた。ヴェルニーは藤村の手を固く握り返し、短く言う。
「これで船渠は生きた。あとは、この国の意志がそれを動かす」
藤村も握手を返し、深く頷いた。
「用水は命だ。渠を潤す水は、ただの海水ではない。――この国の未来を流している」
―――
水が満ちるにつれ、木槌を置いた大工や石工たちが互いに肩を叩き合った。汗に濡れた顔は晴れやかで、長き工事の苦労がようやく報われたのだと、誰もが理解していた。渠底に立っていた若い職工が叫ぶ。
「親方! 俺たちの手が、国を浮かべるんだな!」
その声に親方はうなずき、目尻を赤くしながら答える。
「そうだ、忘れるな。この石一つに、お前らの命が刻まれている」
海風に混じるのは潮の匂いだけではなかった。熱い涙の塩味もまた、そこに溶けていた。
―――
式が終わったあと、藤村は水路の設計図を掲げ、職人たちに語りかけた。
「渠は城である。敵艦を退ける砦であり、味方を育む庭でもある。だが、その心臓を打たせるのは水だ。水が絶えれば、砦も庭も死ぬ。ゆえに我らは水を守らねばならぬ」
その言葉に職人たちは静まり、やがて一人が深く頭を下げた。次々に頭が垂れ、波のように広がる。藤村は彼らを見渡し、胸の奥に確信を抱いた。
――工廠は城、用水は命。これを守り抜けば、日本は沈まぬ。
―――
やがて歓声は再び上がり、太鼓が打たれ、横須賀の町じゅうに「完成」の声が響き渡った。子どもたちが駆け寄り、桶に手を浸しては笑い、老いた漁師は静かに掌を合わせた。
藤村はその光景を遠くから見つめ、心中でひとつ息をついた。
――ここから始まる。船渠の水は、ただ艦を浮かべるためのものではない。この国の人心をも浮かべ、支える力となるのだ。
慶応二年三月、横浜港。まだ朝靄が海を覆う頃、一本のマストが霧の向こうから姿を現した。港に集う人々は思わず目を凝らし、息を呑む。やがて桟橋に碇を下ろしたその船から、見慣れぬ軍帽をかぶった長身の男が現れた。榎本武揚――六年に及ぶオランダ留学を終え、海軍士官として祖国に戻った瞬間であった。
岸に降り立った榎本は、硬い石畳を踏みしめると、深く息を吸った。
「……この潮の匂い、懐かしい」
その眼差しは鋭く、それでいてどこか郷愁を帯びていた。
出迎えの旗が翻り、人々の間から一歩進み出た藤村晴人が、榎本の前に立った。軍服の裾を整え、胸を張る榎本に対し、藤村は軽く頭を下げる。
「遠き蘭館の海より戻られた。長き研鑽、よくぞ耐えられた」
榎本は頬をわずかに緩めた。
「いや、学びの年月など、あっという間でしたよ。だが……」
彼は背後に並ぶ荷箱を指した。そこには分厚い製図、航海器具、砲術の教本が詰め込まれていた。
「西洋は、進んでおります。しかし――」
彼は藤村をまっすぐ見据えた。
「日本の技術も侮れませんな。造船の石積み、渠の水門、聞き及んでおりましたが……目にした今日、この国の未来を信じたくなりました」
藤村は微笑しつつ頷いた。
「工廠は城、用水は命――我らの誇りです。されど海は広く、異国は手強い。共に歩む仲間を得たこと、心強い限り」
―――
その夜、横浜の洋館にて、密やかな会談が催された。室内には地図が広げられ、ロウソクの灯が線を照らす。
榎本は地図上の樺太に手を置いた。
「ここだ。樺太の地。ロシアとの境は曖昧で、しばしば摩擦が起きる。だが、もし三十年の租借権を得られ、さらに先買権を結べば……彼らも悪い話とは思うまい」
藤村は腕を組み、静かに耳を傾ける。榎本の目は真剣で、声には揺るぎなかった。
「海軍の根拠地を北に持つ。それは単なる軍備のためではない。漁場も、薪炭も、鉱徴もある。北の大地は生きる糧をもたらすのです」
藤村は地図に手を伸ばし、指で樺太から蝦夷へと線を引いた。
「蝦夷から樺太へ。海の道がひとつに繋がれば、北が動脈となる。……なるほど、租借と先買か」
榎本はわずかに身を乗り出す。
「ヨーロッパで学んだ。条約は剣より重い。銃声は一度、条約は三十年を縛る。日本が列強に伍すために必要なのは、銃火よりも先に“約束”を握ることだ」
藤村は深く頷いた。
「約束で国を縛り、技術で国を護る。……榎本、そなたの言葉は胸に響く」
―――
その後も二人の会話は夜更けまで続いた。ヴェルニーが持ち込んだ造船計画、フランス海軍式の兵学書、横須賀工廠の次期計画――。榎本は西洋の知識を惜しげもなく吐き出し、藤村は現場の事情を照らし合わせて応じた。
蝋燭が短くなり、窓の外で波の音が高まる頃、榎本は静かに盃を置いた。
「日本はまだ若い。だが若いゆえに、伸び代がある。私の学びも、あなた方の努力も、すべて合わされば……必ずや、この国は立ち上がる」
藤村は杯を合わせ、目を細めた。
「ならば、この盃は北の海への誓いとしよう。樺太も蝦夷も、いずれ日本の未来を支える大地となる」
盃の酒は熱く、夜の冷えを忘れさせた。
―――
翌朝、榎本は桟橋に立ち、再び海を見渡していた。東の空には白く光る朝日が昇り、波の面を黄金色に染めている。
彼は心中で呟いた。
――この国にはまだ足りぬものが多い。だが、足りぬからこそ学び、進むのだ。
そして振り返り、藤村に言葉を投げた。
「藤村殿。これからは共に、海の上に国を築きましょう」
藤村も頷き、短く答えた。
「その志、必ず我らで形にしてみせる」
二人の視線の先で、横須賀船渠の水面が朝日にきらめいていた。
春の江戸会所。白壁に陽が差し込み、帳場にはずらりと両替商たちが並んでいた。いつものざわめきではなく、張り詰めた空気が漂う。机の上には分厚い帳簿と新たに刷られた様式――「信用状(L/C)」が置かれていた。
藤村晴人はその中央に立ち、静かに言葉を切り出した。
「これからの取引は、この信用状によって行う。顔を知らぬ相手とも、安全に商いを成すためだ」
年配の両替商が眉をひそめる。
「だが旦那様、紙切れ一枚で金が動くなど……万一偽造されればどうなりましょう」
藤村は首を横に振り、机に一枚の帳簿を広げて見せた。そこには外国との取引明細が並び、為替の損益が細かに記されていた。
「従来の手形では、相手を信じるしかなかった。だが信用状は“銀行”を経由する。銀行が保証すれば、商人同士は互いの顔を知らずとも取引できる。為替の損益も±0.7%以内で安定させられる」
ざわめきが広がる。若い両替商が声を上げた。
「……顔を知らずとも取引ができる、ですと?」
藤村は頷き、筆をとって信用状の仕組みを図に描いた。
「江戸から横浜へ、横浜から上海へ――。信用状が一枚あれば、貨物が動くたびに資金もまた動く。紙切れではない。未来をつなぐ“橋”なのだ」
両替商たちは互いに視線を交わし、次第に表情を引き締めていった。初めて目にする仕組みに戸惑いながらも、その論理の確かさを理解し始めたのである。
―――
同じ頃、江戸城西の丸では、軍備契約の会議が開かれていた。長机には仏人顧問団の通訳が控え、傍らには勝海舟、榎本武揚、小栗忠順らが列座している。
藤村が机上の書付を指で叩いた。
「仏国よりの調達、総額七十二万フラン。これを一度に払うのではなく、前払一割――残りは段階ごとの納入とする」
勝海舟が顎を撫で、声を低くした。
「一割前払か。国際の場で信用を得るには、妥当な手だな。だが……資金繰りは大丈夫か」
小栗が帳簿をめくり、淡々と答えた。
「外貨特会を設けました。関税余剰分を直接そこに回し、為替差損を吸収できる。これで前払も滞りなく執行可能です」
榎本は身を乗り出し、紙束を覗き込んだ。
「フランスだけに依存せず、調達先を分散するのが肝要だ。蘭、英、場合によっては米とも。海軍国として生き残るためには、ひとつの綱に縛られてはならん」
藤村は深く頷いた。
「その通りだ。外貨を扱うのは危うさもある。だが信用を築くには、避けては通れぬ道だ」
通訳が仏顧問団に言葉を伝えると、顧問団長マクレガー少佐は口元をわずかに動かし、英語で短く呟いた。
「Fair and bold.(公正にして大胆だ)」
―――
やがて、信用状の試験運用が始まった。横浜の港では、干芋や石鹸を積んだ船に信用状が添えられ、上海の商館に送られる。従来ならば相手の信用を疑い、船頭や仲買人の保証に頼るしかなかった。だが今回は違う。港役人が信用状を掲げ、銀行の印が押されていることを確認すると、誰もがため息をついた。
「これなら確かに……安心できる」
船主が小さく笑い、積み荷を見送った。
波止場に立つ藤村は、風を受けながら独り言のように呟いた。
「信用は目に見えぬが、国を動かす力を持つ。剣で国を護るように、信用で国を育てねばならぬ」
彼の背後で、榎本が頷きながら付け加えた。
「信用を築けば、たとえ外国とて我らを無視できまい」
―――
その夜、江戸の邸宅に戻った藤村は、机の上に並べた帳簿を見つめていた。外貨特会の数字は、まだ小さなものに過ぎない。だが、その小さな数列の奥には、未来をつなぐ力が潜んでいた。
篤姫が茶を運び、静かに言った。
「新しい仕組みは、人もすぐには馴染めぬもの。でも……殿が信じて動けば、やがて皆が従います」
藤村は微笑し、茶碗を手に取った。
「信用は、人の心から始まる。ならばまず、我らが信じねばならぬな」
外の夜空には、細い月が白く光っていた。その光はかすかだったが、確かに港へ、船渠へ、そして未来へと伸びていた。
江戸の秋から冬へと移る空気は乾いて澄み、息を吐けば白く立ちのぼった。藤村邸の洋館の一室では、書物と帳面に囲まれて三人の若者が机を並べていた。
慶篤は上衣を脱ぎ、軽い体操に励んでいた。八千歩の歩数を目標とする訓練の一環である。木の床を裸足で踏み、軽く腕を回し、腰をひねる。呼吸を合わせながら声を出すたびに、汗が額を伝い落ちた。
「一、二、三……」
その声は武士というより、どこか兵士の掛け声に近い。藩主でありながら自ら体を鍛える姿に、従者たちは目を丸くした。
「殿、お疲れでは」
年長の給仕が慌てて声をかける。
だが慶篤は汗を拭い、静かに言葉を返した。
「政も、体も、同じだ。鍛えねば続かぬ。強い身体にこそ、強い精神が宿る」
膳の横には、今日の献立を記した帳面があった。米と麦の比率、魚と野菜の分量、乳酸飲料の摂取回数まで、きっちりと数字で書き込まれている。食と運動を「管理」するという発想は、藩主としての彼の新たな責務でもあった。
―――
一方、昭武は机に向かい、分厚いフランス語の軍事教範を前にしていた。
「En avant, marche!」
声に出して読んでは筆を走らせる。だが翻訳に詰まると、しばし頭を抱え、再び六分儀や会計帳簿に目を移す。
「この“En avant”を“前へ”とだけ訳すのは軽い……。隊伍の進発、その全体の気迫をどう伝えるべきか」
彼の声は焦りではなく、誠実な葛藤に満ちていた。通訳役を務める書役が首をかしげる。
「前進でよいのでは……」
昭武は笑みを浮かべ、首を横に振った。
「前進では“足”しか動かぬ。だが“marche”には心もある。軍を動かす号令なのだ」
その言葉に書役は目を見開いた。言葉一つを軽んじない姿勢に、学ぶ者としての昭武の覚悟が浮き彫りになっていた。翻訳作業は彼にとって単なる勉学ではなく、軍事教育の礎を築く使命だった。
―――
その夜、邸内の書斎で藤村は彼らの様子を聞き、静かに微笑んだ。
「若き藩主は体を整え、留学帰りの少年は言葉を整える。数字と汗、言葉と心――これらが未来を支える柱になる」
机上には榎本武揚が持ち帰った資料も広がっていた。樺太租借案、造船技術、航路図……。どれも未来の日本を左右する重みを持っていた。
―――
翌日。春を告げるにはまだ早い、冷たい風の夕刻。横須賀の船渠に立ち、藤村は夕陽に染まる水面を見下ろしていた。用水路を通じて轟々と流れ込む水は、光を反射し、まるで溶けた金のように輝いている。
背後から榎本が歩み寄り、声を掛けた。
「樺太の件、露側も関心を示しているようです。三十年租借、加えて先買権――悪くない条件だと」
藤村は目を細め、水面の光に視線を重ねた。
「海を繋ぐには、まず城を持たねばならぬ。工廠は城であり、用水は命だ。ここを支えにすれば、海も大地も日本のものとなる」
榎本は頷き、やや声を低めて言った。
「それでも、金も人も足りません」
藤村はしばし沈黙し、やがて静かに答えた。
「足りぬものは、育てればよい。人を育て、信用を育て、未来を育てる。工廠も、港も、学校も、すべてはそのためにある」
夕陽は沈みかけ、船渠の壁を赤く染めていた。職人たちの笑い声が遠くから響き、海鳥の影が空を横切る。
藤村は深く息を吸い、胸の内で固く誓った。
――士官が国の盾を築き、農官が国の息を繋ぐ。
――両輪を欠かさず、必ずや日本を支える基盤を完成させる。
彼の横顔は、沈む陽を受けて黄金に染まり、やがて迫る夜を押し返すかのように輝いていた。