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16話:川底に眠る地図

春の訪れを予感させる風が、屋敷の土蔵の扉をかすかに揺らしていた。


 一陣の埃をまとって、政次郎がその奥から姿を現す。腕には古びた帳面を抱えており、顔には子どものような興奮が浮かんでいた。


「晴人さん! 見つけた! 昔の水路図だ!」


 その声に、庭先で竹筒を片手に測量の準備をしていた晴人が振り向く。日課のように仮設水路の設計に取り組んでいた彼の瞳が、政次郎の持つ帳面に吸い寄せられた。


「ほんとか? それ、本物の……?」


「ああ。じいさまの書付けだ。昔はこの辺り一帯、農地だったろ。用水路も地下流も、ちゃんと書かれてる」


 政次郎が開いた帳面には、墨で描かれた手描きの地図。古びた紙面には谷筋の流れ、地下に潜る水の通り道、そして現在は埋もれてしまった旧用水路の経路まで、驚くほど精緻に記されていた。


「……これはすごい。今の水路とは全然違う。元はこんなふうに分水されてたんだな」


 晴人の声に、仮設小屋から出てきた男がひとり。


「やはり、土中には遺産が埋まっておるな」


 そう言って現れたのは村田蔵六――のちの大村益次郎である。


 彼はすでに晴人たちと行動を共にしていた。町の衛生管理、仮設住居の配置、水路整備……。そのどれもに軍学者としての論理と実地の目を光らせ、民の暮らしを支えてきた。


「村田さん、この図、見てもらえませんか」


「ほう……」


 帳面を受け取った村田の目が鋭くなる。


「この南側……かつて暗渠だった水脈だな。流量は減っておるが、掘り返せば再利用は可能だろう」


「排水と取水を分けられれば、伝染病のリスクも減らせます」


 晴人の提案に、村田はわずかに頷いた。


「むしろ今のような衛生観念が乏しい時代にこそ、導入すべき考えだ。……君のやり方は、時代には早いが、間違ってはいない」


 彼の言葉に政次郎がふと苦笑する。


「やりすぎってことですかね」


「いや、未来を見ておるだけだ」


 村田は帳面を閉じると、空を見上げた。


「だが、ここまで先を行く者は、しばしば恐れられる」


 その言葉に、晴人の胸が僅かに重くなる。


 ――正しさは、いつだって孤独を伴う。


 その後、水路再整備の作業が始まった。


 かつては雑草の茂るだけだった湿地に、鍬の音が響く。町の男たちが手分けして掘削し、子どもたちまでもが小さな手で土を運ぶ。村田が設計し、晴人が実行を促し、政次郎が仲間をまとめた。


 春の陽は次第に高く、空気は土の匂いを孕んでいた。


「……ここ、もっと深く掘れば旧水路に当たるかもしれません」


 晴人がそうつぶやいたとき、鋤の先が硬い石に当たった。


「止まった!」


「石か……いや、これ、石垣だ!」


 土の中から現れたのは、明らかに人工的に組まれた水路の壁面だった。


「間違いない……これが旧水路の底です!」


 歓声が上がる中、村田は冷静に指示を飛ばす。


「土留めを整えろ。雨が来たら、一気に崩れるぞ!」


「はいっ!」


 慌ただしくも希望に満ちた作業のなかで、晴人はふと振り返った。


 いつの間にか、吉田松陰と佐久間象山の姿が、水辺の奥から見守っていた。


「進んでるな」


 象山が短く言う。


「藤村くんは、よくやっていますよ」


 松陰が微笑む。


「ですが……この町を見て、幕府が黙っているとは思えません」


 その言葉に、晴人は歩み寄りながら応じた。


「わかっています。だからこそ、“やるなら今”なんです」


 目を細めた象山が、空を仰いだ。


「君のやり方、あまりに未来だが――正しいかもしれん」

仮設の水路工事が始まって三日目の午後、町の景色は目に見えて変わり始めていた。


 町の裏手にある小川の流れが穏やかになり、かつて埋もれていた古い排水溝の石組みが、泥の中から少しずつ顔を出し始めていた。石の表面には苔が張り付き、所々に屋号や記号のような刻印が浮かんでいる。


 晴人は鍬を肩に担ぎ、陽の傾きかけた土手を踏みしめながら、小川のほとりに立つ一人の男の元へと歩み寄った。


「村田さん、ここを見てください。まだ中が空洞です。枝管も生きてるかもしれません」


 村田蔵六――後の大村益次郎と呼ばれるその男は、眼鏡越しに石管の構造をじっと観察し、唸るように言った。


「……これは、予想以上だな。ただの農村の用水とは思えん。よく見ろ、この角度と勾配。水の流れを計算している」


 晴人はうなずきながら、石の印を指でなぞる。


「地主の印です。水路の管理が、地区ごとに分かれていたんだと思います」


「つまり……当時から、分権的な水運管理がされていたわけだ。素晴らしい。だが、それを今、掘り起こして再利用しようという君の発想はもっとだ」


 村田の声には皮肉交じりの調子もあったが、言葉の奥に確かな評価が込められていた。


「ありがとうございます。ですが、図面だけでは水は流れません。現場に立って、泥に触れて、はじめてわかることばかりです」


「まったくその通りだ」


 村田は石管に手をかざしながら、空を仰いだ。


「君のように、理に偏らず、経験と直感で動ける若者がいる……それだけでも、水戸の未来は明るい」


 その言葉を聞きながら、晴人は遠くに目をやる。


 ――未来。自分は未来を見ているのだろうか。それとも、過去の延長線上に立っているだけなのか。


 工事の合間には、町の女たちが握り飯と味噌汁を大鍋に詰めて、現場へ運んできてくれていた。男たちだけでなく、子どもたちも集まり、にぎやかな食事の場となる。


「おかわりありますよー!」


 元気な声が飛び交う中で、晴人と村田は少し離れた縁側に地図を広げていた。


「この堤防の内側に水門を設けようと思うのですが……」


「待て。それよりも、まず導水の方向を見直すんだ。自然勾配で流れるよう、少し南へ振る」


「なるほど……!」


 晴人の目が輝いた。机上の学問ではなく、現場から得られる知見こそが答えを導いていく。


「やはり君は、“やってから考える”者だな。……いいや、そういう姿勢こそが、本当の知だ」


 陽は傾き、空が茜色に染まり始めていた。


 夜になると、晴人たちは小さな囲炉裏を囲んでいた。工事で疲れた身体を休めながら、地図の余白に新たな水路の案を描き込む。


「この水路が通れば、町の南側にも新しい畑を作れるかもしれません」


「いや、畑だけではない。湧水を利用すれば、簡易温泉のような設備だって夢ではないぞ」


「……温泉、ですか?」


「そうだ。人は暖かい湯に浸かると、心がほどける。民が民らしく笑える場こそ、町の支えになる」


 村田の語る未来像に、晴人はしばし黙ったまま頷いた。


「遠くを見てるんですね、村田さんは」


「遠くを見るためには、足元を掘らねばならん」


 囲炉裏の火が、ぱちん、と音を立てて弾けた。


 外では杉の葉が、風に揺れて鳴っていた。小さな変化の積み重ねが、やがて町全体を動かす。それはきっと、誰かが見ていなくても、静かに始まっているのだ。

四日目の朝、空には薄雲がかかり、陽射しは柔らかく町を包んでいた。


 仮設の導水路は既に町の外れから旧市街へと達しつつあり、その脇では、晴人たちが水門の設置作業に追われていた。


「ここの継ぎ目、少しずれてます!」


 政次郎の声に、若い職人が慌てて杭を打ち直す。


 地面に膝をついた晴人は、木枠の水平を確認しながら、慎重に水路の傾斜を調整していった。ひとつひとつの石板、土の詰まり、枝流の分岐――どれひとつとして気が抜けない作業だった。


「水が、流れ始めたぞ!」


 誰かの声に、皆が顔を上げる。


 川の上流から導かれた澄んだ水が、細い流れとなって新たな水路へと注ぎ込んでいく。わずかに砂を巻き上げながら、やがて町の中央に位置する共同井戸へと届いた。


 その瞬間、周囲から拍手が沸き起こる。


 晴人は額の汗を拭い、静かに深呼吸した。


「やったな……」


「これで町の半分が水を使えるようになった」


 村田蔵六が背後から声をかける。


「水門の仕組みも簡素でいい。雨が続いても逆流せぬようになっている」


「……本当は、もっと早くやるべきだったんでしょうが」


 晴人が俯きかけたそのとき、村田は笑いながら言った。


「いつだって“今”が一番早いさ。迷わずやった、それだけで充分じゃないか」


 淡々とした言葉だったが、そこには確かな肯定の響きがあった。


 正午過ぎ、町の集会所では臨時の会合が開かれていた。


 水の再開通に合わせて、晴人と村田は町の水利計画を説明し、住民たちの協力を仰ぐ。


「導水は二段構えで考えています。まず仮設水路、次に恒久的な石管の埋設。その後、町ごとに分水の整備を……」


「すまんが、それ、金はどこから出るんだ?」


 年配の町人が手を挙げて問う。


「藩からの支援は期待できんのか?」


「難しいでしょうね。藩も財政難ですし、幕府も動きが鈍い。今は、自分たちの力で動くしかありません」


「……そうか」


 重苦しい空気が漂ったそのときだった。


「俺、やるよ。堀り作業くらい、朝から晩までだって構わねぇ!」


 若い大工が立ち上がった。


「俺も、土運びは任せてくれ」


「うちは桶屋だが、樽を使って水を溜められるようにしてやる」


 次々と立ち上がる声に、会場の空気が変わっていく。


 その中心で、晴人は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます。皆さんの力があれば、必ずこの町は甦ります」


 その声には、自信よりも感謝が込められていた。


 会合のあと、村田と二人で町を歩いた。


 瓦の割れた屋根、傾いた井戸、朽ちた橋――直さねばならぬものは山ほどあったが、晴人の足取りはどこか軽やかだった。


「村田さん、聞いてもいいですか?」


「ん?」


「……もし、あの黒船がまた現れて、この町にも火の粉が降りかかるようなことがあったら、どうすればいいんでしょう」


 立ち止まった村田が、空を見上げた。


「今はまだ、答えはない。ただ、備えておくことはできる。水路もそうだ。防火帯にもなるし、流通路にもなる」


「はい……」


「そして何より――人を動かせ。技術も、知識も、最後は人が動かすものだ」


「……肝に銘じます」


 二人の背後には、子どもたちの笑い声が追いかけてきた。


 泥だらけの手で水をすくい、太陽の下ではしゃぐ姿に、晴人は目を細めた。


 それは確かに、命の循環だった。


 水が流れ、人が動き、町が生き返っていく。


 その始まりが、ここにある。

日が傾き始めた頃、町の西端――かつての遊水池跡地に集められた石材と木材の山に、職人たちの威勢のいい掛け声が響いていた。


 晴人は、手にした設計図を睨みながら、村田蔵六と並んで地面に膝をついていた。


「あと一尺、東寄りだ。土台がずれると全体が傾く」


「わかった!」


 石工の一人が額の汗を拭いながら、声を返す。整地の上に並べた基礎石をひとつずつ調整し、晴人は手元の水準器で細かく角度を確認していく。


 その様子を、村田がじっと見つめていた。


「君は、町づくりに必要なのは技術と心だと言ったな」


「はい。知識も、人手も道具も大事ですが、結局それをどう使うかは人間次第ですから」


「それを、今も信じているか?」


 静かな問いに、晴人は少しだけ黙した。


 夕焼けが空を染め始め、空気がわずかに冷え始めていた。


「……ええ。信じています。どんなに遅くても、ひとつずつ積み重ねていけば、必ず届くと」


「ならば、もう一段、先を見るがいい」


 村田が、ひときわ大きな石の上に立った。


 その姿に、作業していた者たちが自然と手を止めた。


「諸君。町の再建は、ただ元に戻すためではない。十年、二十年先に、この町がどう在るか。そこまで考えねば意味がない。今日の水路、明日の堤防、それが未来を形づくる」


 力強い声が、風に乗って広場を包んだ。


「いずれ、中央の者たちはこの町の変化に気づく。……その時、問われるのは『なぜ水戸だけが変われたか』ということだ」


 沈黙が降りる。


 村田の目が、晴人を見据える。


「その時、君は立たねばならん。自らの手で成した道を示す者として」


 晴人は驚いたように目を見開いたが、やがてゆっくりと頷いた。


「……はい。覚悟は、あります」


 作業再開の合図とともに、再び打ち込まれる杭の音が響いた。


 それからしばらくして、村田が町を離れる日が来た。


 土手沿いに馬を牽いて立つ村田を、晴人と数人の若者が見送る。


「ありがとう、村田さん。あなたの言葉と知恵がなければ、今の水路もなかった」


「礼を言うのはこっちだ。……この歳になって、町を相手に夢を見るとはな」


「また来てくれますか?」


「ああ。だが次に来るときは――もっと厳しい目で見るぞ」


 馬にまたがりながら、村田は晴人に手を挙げた。


「君のやり方、あまりに未来だが……正しいかもしれん。だからこそ、信じてみたいと思った」


 その言葉に、晴人は何も返せず、ただ深く頭を下げた。


 馬の蹄音が遠ざかる中、政次郎がぽつりと呟いた。


「寂しくなるな……」


「でも、ここからです。始まりは、ようやく」


 晴人が見上げた空には、群青がじわじわと広がっていた。


 その日の夜、晴人は登勢の家を訪れた。


 囲炉裏では柔らかな火が揺れ、登勢が小鍋をかき混ぜている。


「おやまあ、忙しいのによう来てくれたねぇ」


「少し、話したくて」


 登勢は椀を差し出しながら、にっこりと笑った。


「水路、よう出来たね。おかげで裏の畑も潤ってる」


「皆のおかげです。登勢さんの炊き出しがなければ、誰も動けなかった」


「うちは火を焚いただけさ。動いたのは、あんたたちだよ」


 ふたりで味噌汁をすすりながら、しばらく沈黙が続いた。


「……登勢さん。昔の町、どんなだったんですか?」


 火を見つめながら、晴人が尋ねる。


「そうだねぇ。もう、今の若い衆には想像もつかないだろうけど……人の声が絶えなかったよ。朝には屋台の音、夕には子どもの笑い声。冬には、川に張った氷の上で滑る子もいたねぇ」


「そんな風景を、また見たいです」


 登勢がじっと晴人を見た。


「見られるとも。……あんたが、信じていれば」


 その言葉が、胸に深く染みた。


 翌朝。町の通りでは、子どもたちが木桶に張られた水を覗き込んでいた。


 魚が跳ね、笑い声が響く。


 かつての町の面影が、少しずつ蘇っていく。


 そして、藩の上層に近い者たちの耳にも、その変化は届き始めていた。


 「水戸に、何か起きている」――そんな噂とともに、静かに時代の風が吹き始める。

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