138話:(1867年1月)式と実、士官と農官
慶応二年一月十二日、まだ夜の帳が残る品川沖。
冬の海は鉛色に沈み、霧が白く立ちこめていた。波止場に集う藩士や町人たちは吐く息を白くしながら、遠くの影を凝視している。
その影――異国の軍艦が、ゆるやかに碇を下ろしていた。
「……来たか」
藤村晴人は外套をきつく合わせ、胸の内で呟いた。
この一団のために、幕府は年八万両――現代換算にしておよそ八億円の投資を決断した。国の命運を託す金額である。彼の肩にかかる重みは、冬の冷気以上に鋭かった。
やがて、甲板に人影が現れた。
霧の帳を割って現れたのは、異国の軍服に身を包んだ男たちである。濃紺の軍衣、金の肩章、鉄のボタンが微かに朝日に反射していた。革靴の音が木のタラップに響き、一歩ごとに緊張が波紋のように岸へ広がっていく。
最初に姿を現したのは、顧問団長――マクレガー少佐。
三十五歳、背筋を真っすぐに伸ばした長身の男である。クリミア戦争を経験したその眼光は、戦場を知る者特有の冷徹さを帯びていたが、同時にどこか好奇心の光も宿していた。
次に降り立ったのは、副官スミス中尉。
二十八歳、砲術専門家にふさわしく、胸には分度器や定規を入れた革のケースを提げていた。几帳面な性格を映すように、動作には無駄がない。彼は足を下ろすたびに視線を左右に走らせ、港の様子を克明に記録しているかのようだった。
三人目は軍医のブラウン大尉。
四十二歳、やや丸みを帯びた体躯に優しい眼差しを備えている。軍服の下からは医療器具を収めた革鞄が覗いていた。戦場医療の経験を持ち、兵の命を救うことを己の務めと信じる人道主義者である。
「Welcome to Japan.」
藤村は一歩進み出て、通訳を介しながら言葉を投げた。声は静かであったが、張り詰めた空気を支える芯の強さを持っていた。
マクレガー少佐が頷き、鋭い眼光を藤村に注ぐ。
「We are honored. This land… has waited long for the world.」
(光栄だ。この国は、世界を待っていたようだ)
通訳が訳すと、周囲の藩士たちがざわめいた。異国の軍人が「敬意」を持って語ったのだ。
藤村は胸を張り、応じた。
「日本は後進ではありません。我らの土地に根差した秩序と技術がある。そのうえで貴国の知識を学ぶ――それが今日の出会いです」
言葉は通訳を介して伝わり、マクレガー少佐の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「A man of numbers and balance, I see.」
(数と均衡を重んじる男か)
スミス中尉は持参した分厚い記録簿を開き、鉛筆で「港の深度・波止場の材質・倉庫の配置」などを即座に書き込み始めた。その几帳面さに、藤村は胸の内で「この男の記録は、後に我が国の財産となる」と直感した。
ブラウン大尉は岸辺に並ぶ町人たちの中に、病に伏した子を抱く母親の姿を見つけ、通訳を通じてこう告げた。
「If permitted, I will offer medicine.」
(許されるなら薬を与えよう)
藤村は頷き、町人たちに伝えた。母親は涙を浮かべて深々と頭を下げた。その一幕に、冷え切った港の空気が少しだけ和らいだ。
―――
日が昇るにつれ、霧は薄れ、軍服の金属が明確に輝きだす。港には緊張と期待が入り混じったざわめきが満ちていた。
「年八万両……国の未来を託す投資だ」
藤村は心中で呟きながら、異国の将兵と共に歩みを進めた。
その背後には、水戸藩士たちの真剣な眼差しがあった。異国への警戒も恐れもある。だが、その奥には「学びたい」という切実な渇望が確かに灯っていた。
――ここから始まる。
異国の「式」と、日本の「実」。
その交わりが、この国の未来を形づくるのだ。
翌一月十三日、冬の朝。
薄氷を踏み砕くような音が、江戸郊外の訓練場に響いた。霜の降りた地面を踏みしめ、数百名の水戸藩士と幕臣が整列している。彼らは甲冑ではなく、簡素な羽織と袴。腰には刀を差しているが、その表情には緊張と戸惑いが入り混じっていた。
やがて、異国の声が響いた。
「Attention! Stand firm!」
鋭い号令を発したのは、マクレガー少佐だった。通訳を介して藤村が声を張る。
「――諸君、気を付け!」
掛け声に従おうとした藩士たちの列は、わずかに乱れた。刀を腰に下げたままでは、西洋式の直立姿勢が保ちにくいのだ。互いに顔を見合わせ、戸惑いのざわめきが走る。
「……武士に背筋を強制するとは」
後列の一人が小声で呟く。
すかさず藤村の声が飛んだ。
「背筋は剣と同じ。折れぬことこそ力になる!」
その言葉に藩士たちは口をつぐみ、再び姿勢を正した。
マクレガー少佐はわずかに頷き、次の号令を放つ。
「Right face!」
藤村が通訳する。
「右向け――右!」
一斉に動いた藩士たち。しかし、剣術稽古で体得した動きが邪魔をし、右と左が混じり合って列が崩れた。罵声を上げる者もいれば、苦笑する者もいた。
その瞬間、スミス中尉が前に出て、手にした模型銃を軽やかに動かした。
「Observe! Watch carefully!」
(見よ、よく見て学べ!)
彼は銃を肩に担ぎ、右へ、左へと正確に体を回転させた。まるで歯車が噛み合うような、無駄のない動きだった。
藤村は藩士たちへ声をかける。
「刀を抜かずとも、列を組めばそれは力となる。個の技は尊い。だが国を守るには“列”が要るのだ!」
その声に押され、藩士たちは再び挑戦する。今度は列の動きがそろい、地を踏み鳴らす音が霜を震わせた。
―――
続いて行われたのは、銃の分解組立て訓練だった。
スミス中尉は机の上にスナイドル銃を置き、部品を手際よく外していく。螺子、銃身、撃鉄、銃床――彼の指はまるで楽器を奏でるように軽やかであった。
「One, two, three…」
短く数えながら部品を並べ、すぐに再び組み立てる。
「This is discipline. Precision.」
(これが規律であり、精確さだ)
通訳を務める藤村の横顔には、かつて現代で学んだ知識がよみがえっていた。彼は藩士たちに向かい、言葉を補った。
「これは“教範”である。誰が扱っても同じ動きができる。ゆえに八百部を刷り、藩士すべてに渡す。知識の標準化こそが力になる!」
藩士の一人が手を挙げた。
「だが、刀は一人ひとりの工夫が命。銃までも同じ型にはめれば、武士の魂が死ぬのではないか?」
藤村は真っ直ぐにその男を見た。
「魂は死なぬ。魂を守るために、型が要るのだ。型があるからこそ、誰もが同じ力を発揮できる。戦は“個”ではなく“群”で勝つ。武士道もまた、群を守る道ではなかったか?」
その言葉に、男ははっと息を呑んだ。列に戻り、銃を手に取った。
―――
昼近くになると、野戦築城の訓練が始まった。
マクレガー少佐は地面に棒で図を描き、通訳を介して説明する。
「兵はただ刀を振るうにあらず。土を掘り、木を組み、身を隠して戦う。これが近代戦の第一歩だ」
藩士たちは驚きの表情を見せた。戦場で土を掘ることなど、卑しいと教えられてきたのだ。だが、藤村は声を張った。
「剣は誇り、銃は力。だが、穴こそが命を守る壁だ。生きてこそ義を果たせる!」
その声に押され、藩士たちは鍬を取り、土を掘り始めた。最初は渋々であったが、やがて汗を流すうちに声を合わせ、協力して壕を築いていく。
「見よ、これこそ兵の道だ」
マクレガー少佐が低く呟き、ブラウン大尉が頷いた。
「傷を減らす戦、それが人の命を守る戦だ」
―――
午後。訓練が一段落した頃、藩士たちの表情は朝とはまるで違っていた。最初の困惑は消え、代わりに新しい知識を得た興奮と、未来への期待が宿っていた。
ある若侍が藤村に駆け寄り、声を弾ませる。
「殿、いや藤村様! この銃の動き、学べば必ず戦に役立ちましょう。我らは刀の腕だけでなく、列を組む力も持てるのですね!」
藤村は笑みを浮かべ、彼の肩を叩いた。
「そうだ。武士道は変わらぬ。ただ形を変えて、未来へと受け継がれるのだ」
冬の陽が傾き、訓練場の霜が溶け始めていた。
藩士たちの瞳には、もはや迷いはなかった。
その代わりに燃えていたのは――「理解」と「熱意」。
――初日の衝撃は、確かに国を変える一歩となったのだった。
江戸城の勘定所には、冷たい冬の光が障子を透かして差し込んでいた。床に敷かれた畳の上には、巻物と帳簿が幾重にも広げられている。そこに並ぶ数字は、下関戦争の賠償金百萬両。その二回目の分配を巡る会議が、いま始まろうとしていた。
「海軍建設に四十萬両――」
勘定奉行が読み上げると、部屋の空気がわずかに揺れた。
藤村晴人は静かに前へ進み、広げられた帳簿に手を置いた。墨の香りと紙の冷たさが指先に伝わる。
「海を制するものが、未来を制します。帆と蒸気の双方に備え、艦の修繕も怠らぬ体制が肝要です」
老臣のひとりが低く唸る。
「四十萬も……軍事に傾けすぎではないか。城を固め、武器を増やすほうが即効性がある」
その言葉に、藤村は一度だけ首を振った。
「戦は一時。だが海の道を押さえることは、百年の礎となります。四十萬両を海に投ずるのは、決して浪費ではありません」
次に読み上げられたのは横須賀造船所への二十萬両だった。
「ここは……外国の技師に頼る部分が多い。金ばかり吸い上げられるのではないか」
保守派の一人が訝しげに眉をひそめる。
藤村はすぐに返す。
「確かに異国の技術に頼る部分はあります。ですが、造船所は技術の学校であり、鍛錬の場でもある。ここで学んだ技術は、必ず日本人の手に残ります。二十萬両は未来を買う金です」
その言葉に、若い藩士のひとりが「なるほど」と声を洩らした。
さらに、国債繰上償還三十萬両。これは場の空気を一変させた。
「借金返済など、今は後でもよかろう!」
声を荒げたのは強硬派の老臣だった。顔は紅潮し、畳を拳で叩く。
藤村は視線を静かに受け止め、言葉を重ねる。
「信用は見えません。しかし信用こそが、国の背を支える柱です。借金を減らすことで、我らは初めて胸を張って交易に臨める。三十萬両の償還は、国を軽くし、明日を拓くのです」
しばし沈黙が広がる。火鉢の中で炭がはぜる音だけが響いた。
「では、残る十萬両をどうする」
別の老臣が問いかける。
藤村は深く息を吸い、答えた。
「衛生と教育に充てます」
ざわめきが広がる。
「武器でもなく、城の普請でもなく……衛生と教育だと?」
藤村は迷わず続ける。
「病に倒れる兵は、一人で十人の力を失わせます。無学な町は、一つの愚を国に広めます。だからこそ、人の命と知恵に投ずるのです。健康な国民こそが真の兵であり、教育こそが未来を作る礎です」
その声は決して大きくなかったが、重みをもって会議の空気を包んだ。
若い小四郎が机の隅で頷き、静かに書き留める。
――「衛生十、教育十」。数字は小さくとも、その価値は大きい。
やがて沈黙を破ったのは、老中の一人だった。
「藤村の言に理がある。銭は石垣にあらず。だが国を支える礎にはなろう」
その言葉に他の者も次第にうなずき、決裁の朱印が帳面に押された。
―――
会議を終え、外に出た藤村は、冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。白い息が空に溶け、江戸の屋根の上に漂う。
「短気に走れば国は疲れる。だが、均衡を保てば必ず強くなる」
彼は自らに言い聞かせるように呟いた。その横顔には冷たい風が当たり、しかし瞳には確かな熱が宿っていた。
―――
その夜、篤姫から届いた文を開いた。墨で綴られた文字は柔らかく、しかし芯が通っていた。
《義信は今日も紙を握って離しません。まるで父上の決断を真似るかのように》
藤村は思わず微笑み、文を閉じた。数字も剣も越えたところに、守るべき未来がある。その確信が胸に広がっていった。
江戸の冬の夜は乾いた冷たさで頬を刺した。だが藤村家の洋館は、ガス灯のやわらかな光と鋳鉄ストーブの熱に守られている。硝子窓の外では雪が細く舞い、灯りに溶けては消えていった。
居間では篤姫が義信を膝に抱き、分厚い絵本をめくらせていた。『舟と星』――黒い紙に白で描かれた星図を前に、幼い指がひとつの星を突く。
「ここ、光ってる」
まだ舌足らずな声に、篤姫は微笑みながら頁をめくる。
「星を見て舟は進むのね。お父上がそう仰っていたでしょう」
そのとき藤村が入ってきた。義信は父を見つけると、ぱっと笑顔を広げて腕を伸ばす。藤村は抱き上げ、星の絵に指を重ねた。
「これは北斗、七つの柄杓だ。――今度は外の空で一緒に探そう」
義信は「いっしょ」と復唱し、胸を張る。その声が暖炉の音と重なり、夜気の冷えを溶かした。
隣室からは久信の泣き声。お吉が抱き上げ、あやしていた。
「歯がむずがゆいのでしょう、なんでも噛みたがります」
藤村は布で巻いた木の輪を湯で温め、手渡した。久信は口に当てて安堵の息をつき、瞳を父に向ける。お吉は短い子守唄を口ずさみ、声は灯りの影に溶けていった。
「ありがとう存じます」
お吉が小さく頭を下げる。藤村は首を振り、眠れる顔を見て安堵した。
居間のテーブルには「育児台帳」が置かれていた。欄外に篤姫とお吉の小さな筆跡――“今夜は咳少し”“乳の量やや減”――数字ではないが確かな記録が積み重ねられていた。
湯気の立つ紅茶を差し出しながら篤姫が問う。
「今日の城はいかがでした?」
「火も人もよく回っている。ただ、焦る声は絶えぬ」
藤村の答えに、篤姫は義信を抱き寄せて笑んだ。
「焦らぬことも力のうちです。子が歩くのを待つのと同じ」
義信は父の胸に顔を埋め、「あるく」と呟いた。
その言葉に藤村は笑い、髪を撫でた。――昼は「式」を整え、夜は「実」を守る。その両輪が揃ってこそ、国も家も冷えぬのだ。
雪は細く舞い続け、家の灯りは静かに夜を照らしていた。
江戸の夕暮れ、霞がかった空に瓦の影が沈み、ガス灯の光がぽつりぽつりとともった。江戸城内の一室では、藤村晴人が分厚い書類を机に並べていた。向かいに座るのは英国海上保険会社の査定官ジョンソン。金縁の眼鏡越しに書付けを覗き込む姿は、冷静そのものに見えた。
「……これは、驚くべき先進性だ」
ジョンソンが眉を上げる。紙には江戸城の防火水路網と電信回線の詳細図が描かれていた。
「火薬庫に専用の防火隔壁を設け、火災の際には電信で即座に全城に通達する。まるで欧州の最新要塞を思わせます」
藤村は淡く笑みを浮かべた。
「日本は決して後進国ではありません。独自の道を歩んでおります。証拠はここにございます」
彼は一枚の実績表を差し出した。過去一年の火災発生件数と、その対応時間。電信導入以降、被害は三分の一に減っていた。
ジョンソンの目が細められる。だがその口角は、僅かに緩んだ。
「なるほど……数値は嘘をつかぬ。保険料は通常より五%割引といたしましょう」
部屋の空気がわずかに変わった。同行していた渋沢栄一が思わず息を呑む。藤村は頷き、ゆっくりと口を開いた。
「英国に利あり、日本にも利あり。――これこそ商いの道理。信用は紙一枚ではなく、人と人の約束に宿るのです」
ジョンソンは眼鏡を外し、まっすぐに藤村を見た。
「貴殿とならば、その約束を交わしてもよい」
その瞬間、江戸の信用は一段高みに登った。
翌朝、江戸城内の大広間には十二名の男たちが並んでいた。粗末な着物に草履を履いた者もいれば、裃を正した者もいる。身分も経歴も異なるが、これから「郡農政吏」として任命される者たちであった。
藤村は彼らの前に立ち、静かに言葉を紡ぐ。
「諸君は新しい日本の礎を築く者たちだ。農は国の肺である。息を絶やせば国は死ぬ。だが息を深くすれば、国は力を増す」
その言葉に、農民出の壮年が涙をこらえて頷いた。彼はかつて凶作で家族を失い、それでも畑に立ち続けてきた。今、自らの手で国の未来を耕せるのだ。
続いて始まったのは種痘事業の拡大式だった。町医者が農村に赴き、月に千二百人の子どもたちへ種痘を施す。迷信を恐れる村人も少なくなかったが、壇上で一人の母親が声を震わせて叫んだ。
「わたしの子は種痘で命を救われました! どうか、どうか皆様も!」
その声に広間はざわめき、やがて静かに、深い賛同の息が広がっていった。
――命を守ることに身分はない。その理念が、草の根に確かに根づき始めていた。
その日、藤村は藩校の広間に立っていた。そこには慶篤と昭武が並んでいた。幼さを脱ぎつつある兄弟の瞳は、真剣そのものである。
「まず体を鍛えることだ」
慶篤が素手体操を始める。深い呼吸とともに腕を広げ、膝を曲げる。規律と協調を重んじる動きは、軍事教練の基礎にも通じる。額に浮かぶ汗を拭いもせず、彼は真剣に繰り返した。
「強い身体に強い精神が宿る――その言葉が、今ようやくわかり始めた」
その隣では簿記の帳面が開かれている。慶篤は筆を走らせ、数字を並べた。
「数字で資源を配分する。藩主もまた経営者たれ――父上が仰った通りだ」
一方、昭武は仏語で書かれた逐語録に取り組んでいた。軍事顧問団の指導内容を逐一記録し、用語を整理していく。
「学んだことを次世代に伝える責任がある。知識は我らの剣であり、盾だ」
二人の姿を見ながら、藤村は胸の奥で静かな誇りを感じていた。
――未来は既にここに芽吹いている。
夕暮れの江戸城道場。障子越しに射し込む橙の光が床板に斜めの筋を落とし、凛とした空気を張り詰めていた。軍事顧問団のマクレガー少佐らが控えの間に並び、武家たちの息も潜む。今日の演武はただの型合わせではない。日本が「武器を芸術にまで昇華させてきた」ことを、異国の眼に示す場であった。
中央に立つのは藤村晴人。その手に握られているのは、会津から献上された兼定。刃は光を吸い、静かに輝きを返す。彼の正面に立つのは河上彦斎。藤村の警護役として常に傍らに控えていたが、今日は大包平を預かり、型演武の相手を務める。
「彦斎、頼む」
短く声をかけると、河上は深く頷いた。普段は無口で、剣を抜く姿すら滅多に見せぬ男だ。だがこの瞬間、彼の全身は一振りの刀となったかのように鋭く研ぎ澄まされていた。
「始めっ!」
掛け声とともに、二人の太刀が交差する。火花は散らない。だが空気が裂ける音が道場を震わせ、見物していた藩士たちの背筋が思わず伸びた。
兼定の太刀筋は実戦を意識した合理。重心は低く、刃は敵を制するための確かな線を描く。
一方の大包平は美を極めた流麗。彦斎の動きは舞のようで、刃が光の弧を空に描く。
打ち込み、受け、返す。互いの息は一分も違わぬ。だが一合ごとに見えてくるのは「実」と「美」の対照。そして、それらが衝突するのではなく、響き合っているという事実だった。
やがて藤村が最後の型を決め、兼定を静かに収めた。彦斎も大包平を胸の高さで止め、刃を返す。二人の呼吸が重なり、道場に静寂が戻る。
マクレガー少佐が低く呟いた。
「これは……武器を超越している。芸術だ」
ブラウン軍医が腕を組み、感嘆の眼差しを向けた。
「戦場の道具でありながら、人の心を高めるとは。まさに魂の技だな」
藤村は額の汗を拭い、顧問団を見回した。
「我らは銃を学びます。しかし剣を捨てるわけではない。式は西洋から学ぶ。だが実は、この地に育まれたものを守り続ける。――それこそが日本の文明開化だ」
その言葉に、河上彦斎は無言のまま深く一礼した。剣に生き、剣で主を守る己の役目を、言葉で飾る必要はなかった。
夕陽が沈み、道場に灯がともる。二振りの名刀は鞘に収まり、しかしなお鮮烈な余韻を残していた。
江戸の夜は、雪の白さに包まれていた。風は乾いて冷たく、頬を刺すほどだが、藤村邸の窓から漏れる灯りは柔らかく揺れ、冬の静けさを和らげていた。
机の上には、軍事顧問団からの報告書と、農政吏任命の記録簿が並んでいる。紙の上に記された文字は、まるで二つの国の未来を映していた。
「――軍事顧問団は『式』を教えてくれる。しかし『実』を作るのは我々日本人だ」
藤村は心の中でそう繰り返した。銃列の歩み方や築城の手順は、確かに強さを形にする。だが、畑に種を撒き、子どもに種痘を施すこともまた、国を守る術に違いない。
「士官は国を守り、農官は国を育てる。その両輪があってこそ、真の富国強兵が実現する」
窓の外に目をやれば、雪片が夜空を漂い、ガス灯の炎に触れては消えてゆく。街の通りには夜警の足音が響き、人々の家々の窓には灯火が瞬いている。寒さの中にも、確かな営みがあった。
藤村はそっと帳簿を閉じ、深く息を吐いた。冷たい空気が胸に入り、やがて温かさを帯びて吐き出される。まるで国そのものが息をしているように思えた。
――この灯火を絶やさぬこと。そのために、剣も数字も、命をかけて握らねばならぬ。
そう自らに言い聞かせ、藤村は窓辺に立った。雪はなおも降り続き、遠くの街を白く覆っていく。だがその下には、人々の歩みと声が、確かに根を張っていた。
未来はまだ形を持たない。けれど、ここに灯る光がそれを形づくる――藤村はそう信じ、静かに瞼を閉じた。