137話:(1866年12月/初冬)冬の勘定、冬の畑
初冬の風は骨まで染みる冷たさだった。羽鳥城下を渡る北風は、乾いた大地を叩き、枯れ葉を追い立てていく。その冷気の中で、藤村晴人は勘定所の奥座敷に座していた。障子越しに漏れる光は淡く、手元の帳簿を冷たく照らし出す。
墨で刻まれた数字が、まるで氷柱のように並んでいた。
「……年収入、約七十万両。支出、六十五万両。残りは五万」
藤村は低く呟いた。指で頁をなぞりながら、ふっと苦笑をもらした。
「現代ならば――中小企業ひとつの予算規模で、一つの藩を動かしているようなものだ」
皮肉のようでいて、そこには誇りも混じっていた。銭の流れを正しく見極めれば、たとえ冷たい数字でも人を守る器となる。
「農は黒字、工廠は僅かに赤。貿易は伸びつつも、偽印紙が市場を濁している……」
ページの端に走る赤線を見つめながら、藤村は息を吐いた。偽造された印紙が市中に出回り、税を逃れる商人も少なくない。短期的には損失は小さい。だが、信を失えば商いそのものが瓦解する。
「信頼という名の基盤……それを築かねば、この国の未来は立たぬ」
障子の向こうで風が鳴った。冬はすべてを凍らせる。だが、その中でこそ、芽吹きの種は守らねばならない。
―――
その日の昼下がり。羽鳥城下の広場には、多くの商人や町人が集められていた。真ん中には鉄製の大きな火鉢が据えられ、その脇には束ねられた紙束――押収された偽造印紙が積まれている。
ざわめきは絶えなかった。
「こんな真似をすれば、印紙そのものの価値が下がるのでは……」
「焼くなど無駄だ。回収して使えばよいものを」
商人たちの顔には困惑と不安が浮かんでいた。長年の習慣を断ち切るのは容易ではない。
やがて藤村が壇に上がった。冬の空気を切り裂くように、その声が響いた。
「諸君。ここに積まれたものは、ただの紙ではない。偽りの銭、偽りの信用だ。これを許せば、市場は泥に沈む」
彼の言葉に、一瞬ざわめきが収まった。
「短期的には損失があるだろう。だが、偽りを捨てなければ、正しい商いは息をし続けられぬ。長期的に見れば、この火は未来の利益を灯す炎なのだ」
藤村は印紙の束を一枚取り上げ、白い息を吐きながら火鉢に投じた。
瞬間、炎がぱちりと音を立て、紙は赤々と燃え上がった。火は冬の冷気を押し返すように揺れ、偽りの墨を黒い煙に変えて空へと昇らせた。
群衆は息を呑んだ。炎に照らされた顔には、まだ疑念もあれば、理解の兆しもあった。
「……燃やしてしまった」
「だが、これで市が澄むなら」
「いや、確かに……残されるのは本物だけか」
最初は困惑と反発が混じっていた表情が、少しずつ変わっていった。火の勢いが増すにつれ、疑念は薄れ、炎に宿る力に圧されるように人々の顔に理解と賛同が浮かび始めた。
藤村はその様子を静かに見つめた。火が偽を焼き尽くすたびに、人々の心の中にも小さな炎が芽生えていく。
「信は、銭より重い」
その言葉は、炎の音に溶け込みながらも、確かに広場全体に響いていた。
―――
火はやがて燃え尽き、灰が冷たい風に舞った。群衆の中からひとりの年配商人が前に出て、深く頭を下げた。
「短き損より、長き利。……今、腑に落ちました。これよりは正しく印紙を用いましょう」
その言葉に続くように、周囲の商人たちも次々と頷いた。
藤村はわずかに微笑んだ。冷たい冬の広場に、確かに小さな春の芽が息づいていた。
冬の羽鳥城下は、吐く息が白く凍りつくほどの寒さに包まれていた。しかし工廠の鍛冶場だけは別世界のように熱気が渦巻いていた。炉の炎は赤々と燃え、絶え間なく打ち下ろされる鉄槌の音が壁を震わせている。
その炉の前に、若い職人が立ち尽くしていた。彼の足元には、羽鳥射撃場から回収された薬莢が山と積まれている。銃声とともに吐き出され、土や泥にまみれたそれを洗い出し、溶かし、再び鍛え直す。新たな部品や弾薬として命を吹き込む試みだ。
だが、職人の表情は硬かった。手にした槌を握る指が、わずかに震えている。
「……これをまた、人を傷つける道具に鍛え直すのか」
その独り言を、背後から聞き取った藤村晴人が歩み寄った。
「武器とは、本来そういう性を持つ。だがな――」
藤村は炉の火に目を凝らした。燃え盛る火花は、雪混じりの風に舞い、まるで無数の小さな星が瞬いているように見えた。
「撃つだけなら国は痩せる。だが拾い、鍛え直し、再び使うならば、それは“秩序”だ。人を守り、国を軽くする道にもなる」
若い職人は、しばし黙したままその言葉を噛みしめた。そして再び槌を握り直し、力強く炉に打ち下ろした。
「……ならば、この槌もまた、人を生かす力に変えてみせます」
カンッ――。
甲高い音が冬の空気を突き抜けた。
その姿を見届けてから藤村は鍛冶場を離れ、次に向かったのは城下の広場であった。そこでは、別の「秩序づくり」の儀式が行われようとしていた。
⸻
広場の中央には、木製の大きな焚き台が据えられていた。その上には束ねられた紙の山――すべて偽造印紙である。町人や商人たちが数百人も集まり、ざわめきながらその光景を見つめていた。
「もったいない……」
「せっかく刷ったのに、焼いてしまうのか」
困惑と不満の声が方々から上がる。これまで裏市場で流通してきた偽印紙は、安値で取引されることもあり、短期的には商人たちの得になっていたのだ。
壇に立った藤村は、その空気を正面から受け止めた。
「確かに、今日ここで焼くことで、そなたらの懐は軽くなるかもしれぬ」
その言葉に群衆は一斉にざわめいた。
だが、藤村は言葉を切らずに続けた。
「しかしな、偽の印紙で取引をすれば、真面目に働く者が損をする。損をすれば、怒りと不信が広がる。不信が広がれば、やがて市場そのものが壊れる。短き銭を得るために、未来の商いを潰してよいのか」
焚き台の横に立つ火付け役が松明を掲げる。炎が夜気を赤く染めた。
藤村は振り返り、商人たちの顔を一人ひとり見渡した。
「今日の損は、明日の得となる。偽りを燃やし尽くし、真実の取引を残す。それが“信頼”という名の基盤だ」
その言葉に、最前列にいた老舗の呉服商が深々と頭を下げた。
「……殿のお言葉、肝に銘じます。短気な利より、長い商いを選びましょう」
松明が下ろされ、炎が偽印紙を飲み込んだ。紙の束は瞬く間に赤く燃え上がり、黒い灰となって夜風に舞った。見物人の表情も、疑念から理解へ、やがて静かな賛同へと変わっていった。
⸻
焼却のあと、藤村は広場の片隅で渋沢栄一と合流した。
「短期の銭勘定だけを見れば、彼らの反発は当然です」
渋沢は算盤を指で弾きながら低く言った。
「しかし、ここで秩序を作らねば、未来の利益は永遠に逃げます」
藤村は頷き、空に舞う灰を見上げた。
「信頼は目に見えぬが、最も重い貨幣だ。今日の火は、その鋳型になろう」
夜空には星がまたたいていた。まるで焼かれた偽印紙の灰が、天へと昇り、新しい光に変わったかのようだった。
⸻
翌日。羽鳥の工廠の射撃場では、薬莢再利用の実験が続いていた。炉の前で汗を流す若い職人の顔には、昨夜とは違う決意の色が宿っていた。
「偽りを燃やし、拾ったものを鍛える。……我らの仕事も同じですね」
彼の言葉に、藤村は静かに笑った。
「そうだ。銭も鉄も、人も同じ。使い捨てれば痩せる。拾い直し、鍛え直せば強くなる」
工廠の天井に響く槌音は、もはや迷いを含んでいなかった。それは未来へと続く秩序の拍動だった。
翌日。羽鳥の工廠の射撃場では、薬莢再利用の実験が続いていた。炉の前で汗を流す若い職人の顔には、昨夜とは違う決意の色が宿っていた。
「偽りを燃やし、拾ったものを鍛える。……我らの仕事も同じですね」
彼の言葉に、藤村は静かに笑った。
「そうだ。銭も鉄も、人も同じ。使い捨てれば痩せる。拾い直し、鍛え直せば強くなる」
工廠の天井に響く槌音は、もはや迷いを含んでいなかった。それは未来へと続く秩序の拍動だった。
―――
その日の夕刻、羽鳥城の会議所。書役たちが帳簿をまとめる手を休め、自然と薩摩藩の話題になった。
「薩摩が幕府への借財を完済したのは、大きな出来事にございますな」
小四郎が帳面を閉じながら言う。
「まさか、あの薩摩が……」と一人が感嘆すると、渋沢栄一が算盤を弾いた。
「残債総額は二割も減りました。これは市場にとっても安心の種でしょう。銀座の両替商どもも胸をなで下ろしております」
藤村は静かに頷いた。
「薩摩はただ借りを返したのではない。己の誇りを示したのだ。西国の大藩が率先して秩序に従えば、次に続く藩も出てこよう」
「長州も、いずれは……」と誰かが口にする。
藤村は軽く笑みを浮かべ、声を落とした。
「急ぐ必要はない。一歩ずつ積めば、山も越えられる。今日の薩摩の完済は、その証だ」
会議所の窓から差し込む光は、冬の夕暮れにしては温かかった。人々の胸に、数字の先にある未来の景色がほんのりと浮かんでいた。
羽鳥の勘定所。帳場には冬の光が差し込み、硯の水面を白く照らしていた。小四郎は三冊の帳簿を並べ、朱筆を走らせていた。その最中、米商人が慌てた様子で駆け込んでくる。
「代金がまだ支払われておりませぬ! 羽鳥は約定を違えたのか!」
周囲の書役がざわめく。だが小四郎は顔色を変えず、三冊の帳面を指し示した。
「ご安心を。日計、出来高、支払の三つを照らし合わせればすぐに判ります」
彼が指で示すと、支払帳には確かに入金が遅れと見える。だが出来高帳には「検収未了」の印が残っていた。
「つまり米の一部に水増しがあり、倉から戻された分があったのです。検収を終えれば支払いはすぐに行われます」
商人は顔を赤らめ、深く頭を下げた。
「お恥ずかしい……こちらの確認不足でございました」
周囲の書役たちは息を呑み、小四郎の冷静さに感嘆した。藤村も傍らで静かに頷き、胸の内で誇らしく思った。
――数字は机上のものではない。人の顔と暮らしを守る剣となるのだ。
―――
江戸城の庭では、秋風の名残を切るように慶篤の声が響いていた。
「一、二、三……そこまで!」
彼の前で若侍たちが素手体操を繰り返していた。背を反らし、腕を伸ばし、呼吸を合わせて走り込む。慶篤は自らも膳を離れ、額に汗を光らせて動きを示していた。
「弓も刀もよい。だが素手で体を鍛えねば、武も政も支えられぬ」
彼は的に向かって軽く弓を引いた。矢はまだ放たれない。
「今日は“素引き”だけだ。筋と息を鍛えよ。体を治められぬ者に、政は治められぬ」
声は朗らかであったが、その眼差しは真剣であった。若侍たちは頷き、再び力強く素引きを繰り返す。城の石垣に響く弦音は、まるで政を支える鼓動のようであった。
―――
遠く横浜。学寮の一室に昭武が座していた。机の上には羊皮紙、傍らには分厚い辞典。彼は仏文の外交書簡を筆写していた。
「Monsieur le Ministre…」
声に出しながら筆を運ぶ。硬い筆致に汗が滲む。だが、その瞳には確かな自信があった。
師が後ろから問いかけた。
「なぜ直訳せず、書き直すのか」
昭武は顔を上げ、静かに答えた。
「言葉はただの符号ではありません。外交とは心を伝えること。ならば相手の礼を守り、我が誠を載せねばなりません」
机の上の単語帳には「traité(条約)」「droit(権利)」「douane(関税)」などの文字が並んでいる。
「debitやcreditが商いの羅針盤なら、外交の文は国の帆。これを誤れば、船は沈みます」
窓の外では冬の海風が帆柱を鳴らしていた。彼の筆はその音に呼応するように進み、日本の未来を描く航路を一行ずつ刻んでいた。
―――
こうして勘定所では数字が不正を防ぎ、庭では体が政の礎を鍛え、学寮では言葉が国を繋いでいた。
初冬の冷たい空気の中で、それぞれの学びと実践は、確かに国の未来を支える力となりつつあった。
夜の羽鳥邸。洋館の窓を叩く初冬の風に、ガス灯の炎が揺れていた。暖炉の火が部屋を柔らかく照らす中、篤姫は義信を膝にのせていた。
義信は父の机に興味を示し、小さな手で羽ペンを握ろうとする。
「まあ、この子ったら」
篤姫が笑い、手を添えると、義信は得意げに紙の上へ筆先を走らせた。墨はないが、確かに“書く”仕草だった。
「父上の真似をしているのですね」
篤姫の声に、藤村は目を細めた。
「学ぶ心は、真似から始まる。積み木よりも早く、机に向かうとはな」
―――
隣室では、お吉が久信を抱き、子守歌を口ずさんでいた。まだ幼い久信は母の声に合わせて、ぱちぱちと小さな手を叩いた。
「ほら、拍子を取っております」
お吉の頬は赤らみ、喜びに満ちていた。
藤村が覗き込むと、久信は父を見上げ、さらに強く手を鳴らした。
「声はまだだが、音で応えるか」
藤村は静かに頷いた。
「やがて言葉も歌も、この子らの口からこぼれよう」
―――
二人の母が子を抱き、炎のそばで語り合った。
「乳母に任せず、自分の手で育てられる――幸せなことですね」
篤姫が言うと、お吉も深く頷いた。
「泣き声も、笑い声も、すべてを聞けるのですから」
藤村はその姿を見つめ、胸の奥に温かなものを覚えた。
「数字も剣も国を支える。だが――この笑い声こそ、国を未来へ運ぶ舟だ」
暖炉の火がぱちりと弾け、壁に映る影は、まるで家族の絆を浮かび上がらせるようだった。