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135話:(1866年10月/秋)潮待・稲架掛け

秋の海は、夏の荒々しさを鎮めたかのように穏やかだった。玉里港の防波堤の内側では、初めての補給試運転が始まろうとしていた。朝靄の中、蒸気船の黒い煙が立ちのぼり、船体の鉄板が朝日に鈍く光る。港の周囲には村人や町人が詰めかけ、まるで祭りでもあるかのように息を呑んで見守っていた。


 「給炭、始め!」


 港役人の声が鋭く響くと、黒衣の労夫たちが一斉に動き出した。石炭俵を背負った人々が連なり、艀から艦へと途切れることなく荷を運ぶ。肩に食い込む重さに顔を歪めながらも、誰一人声を漏らさない。掛け声とともに、俵が次々と艦の倉口に吸い込まれていく。


 「時速十二トン――記録どおりだ!」

 監督役が声を張り上げ、砂時計を逆さにして確認する。


 別の側では、清水の補給が行われていた。木桶を担ぐ人々が坂を駆け上がり、艦の蛇口に注ぎ込む。水が鉄管を流れ落ちる音は、港に集まった人々の胸を高鳴らせた。


 「一時間に十石……。これなら江戸の軍港にも負けませぬな」

 役人が汗を拭いながらつぶやく。


 藤村晴人は、港の突堤に立ってその様子を見つめていた。潮風に混じる石炭の匂いは決して心地よいものではなかったが、彼の胸には熱いものが込み上げていた。

 ――停泊回転十八パーセント短縮。数字は冷たいが、その裏には船を守る人の命がある。


 彼の視線の先で、艦長が帽を取り、深々と礼をした。

 「これなら長い洋上航海の合間でも、素早く港を発つことができましょう。殿、まことに有難き御用意にございます」


 藤村は軽く笑みを浮かべ、言葉を返した。

 「船が長く港に眠れば、それは国の力を削ぐことになる。潮を待つのは自然の理だが、人の工夫で“待ち”を縮めることはできるのだ」


 その言葉に、周囲の役人たちはうなずき合った。


―――


 昼下がり、補給試運転を終えた港には、また別の活気が満ちていた。港町の女たちが干したばかりの稲架材を船に積み込み、羽鳥へと送る準備をしていた。逆に江戸から戻る船には、石鹸や酸乳、空瓶が積まれることになっている。


 「これを“逆流ローテ”と申すのか」

 年寄りの船頭が感心したように呟いた。

 「空荷を潰すとは、まことに賢い考えだ」


 渋沢栄一が横で算盤を叩きながら答えた。

 「はい。稲架材は羽鳥で稲を干すために欠かせぬ。だが戻りの船はこれまで空であった。江戸へ送る品と組み合わせれば、無駄がない。これで船も人も生きる」


 藤村は黙ってその会話を聞きながら、潮の香りに深く息を吸い込んだ。

 ――江戸と羽鳥を繋ぐ道。交易は物の流れであると同時に、人の命を繋ぐ脈動でもある。


―――


 夕刻、港町の高台に立つと、背後の田では稲刈りの最中だった。黄金色の穂が風に揺れ、農夫たちが刈り取った稲を稲架に掛けてゆく。掛け声とともに、稲束が木の骨組みに整然と並べられ、まるで秋の大伽藍のように立ち上がっていく。


 「殿、見事な稲架でございましょう」

 同行した農頭が誇らしげに笑った。

 「潮待ちの港もよいが、この稲架もまた村の誇りでございます」


 藤村は頷き、低く答えた。

 「稲の呼吸と、船の鼓動。どちらも国を生かす肺と心臓だ。互いが響き合ってこそ、日本は未来へ進める」


 夕陽が海に沈む頃、稲架の影と蒸気船の煙が並び立ち、秋の空に二つの旗のようにたなびいていた。

玉里港の補給試運転が終わった翌日、藤村晴人は江戸城の兵学所に姿を見せていた。空は高く、澄んだ秋風が堀を渡ってくる。だが広場に並べられた砲と銃は、その爽やかさとは裏腹に、鋭い鉄の冷気を放っていた。


 「米国より渡来の余剰兵器、スパンサー銃百挺、ブルームフィールド砲二門……いずれも試射の段取りにございます」


 兵学奉行の報告に、集まった士官たちがうなずく。

 新式の銃は海の向こうから大量に余った兵器として流れ込み、幕府が安く買い入れたものであった。しかし、安さの裏には必ず理由がある。品質に疑いがあるのだ。


 「では、始めよ」


 藤村の声で、射撃場に号令が飛んだ。


―――


 まずスパンサー銃の試射が行われた。若い兵が銃を構え、火薬を込める。引き金が引かれると、鋭い銃声が木立にこだました。白煙が立ち上がり、的の板がぱんと割れる。


 「連発式……確かに速い」

 傍らの士官が感嘆の声を漏らした。

 「だが、薬室の噛み合わせが甘いようだな」


 次の兵が撃つと、今度は装填不良で弾が出ない。火皿から煙だけが立ち上り、兵は慌てて銃を振った。見守る一同の顔に緊張が走る。


 「故障率、三・一パーセントにて」

 検査役が即座に記録を読み上げる。


 藤村は眉をひそめ、煙の匂いを吸い込んだ。

 ――やはり、数が示す通りだ。

 彼の胸には冷たい不安とともに、静かな決意が宿った。


 「兵を危険にさらすわけにはいかぬ。部品ごとに箱を分け、必ず予備を携行させよ。銃も砲も“使う”だけでは足りぬ。“直せる”仕組みを共に運ばねばならん」


 その言葉に、周囲の士官たちは大きくうなずいた。兵器は道具ではなく、人命を預かる伴侶である。その重みを藤村は誰よりも理解していた。


―――


 続いて砲の試射。大砲が火を噴き、轟音が広場を揺らした。地響きに町人たちが思わず耳を塞ぐ。砲弾は遠くの土手に命中し、黒煙を上げて爆ぜた。


 「威力は充分……だが」

 佐野常民が目を細めた。

 「照準が安定せん。軸受けが緩いのかもしれぬ」


 藤村は静かに答えた。

 「ならば規格を定めよ。石灰モルタルの比率を一に対し二に統一したように、兵器の部品も寸法をそろえねばならぬ。国の防もまた“標準化”から始まるのだ」


 その声は確信に満ちており、聞く者に不思議な安心を与えた。


―――


 試射が終わると、会計役が進み出て書付を差し出した。

 「アメリカ機械第2便の遅延違約金――三分減を得ました。総額一万二千両、艦砲修繕の予備費に充てられます」


 その数字を聞いた瞬間、場の空気がほっと和らいだ。兵を危険にさらす兵器を買わされた一方で、遅延から得られる金が国を守る備えに変わる――皮肉ではあったが、前へ進む力にもなった。


 「無駄を憎み、損を糧に変える」

 藤村は低くつぶやいた。

 「それが政の務めだ。兵器に欠けがあっても、人の工夫で補えば、国はなお強くなる」


 その言葉に、若い兵たちの眼が輝いた。鉄の塊がすべてを決めるのではない。人が知恵を絞り、心を合わせることこそが未来を開くのだと、彼らは実感したのだった。


―――


 夕刻。射撃場を後にした藤村は、江戸城の堀に映る夕陽をしばし見つめていた。秋の光は水面に金色の帯を描き、その眩しさが彼の胸を温かくした。


 ――潮を待つ船も、稲を干す農も、砲を鍛える兵も、皆ひとつの流れの中にある。

 藤村はそう思いながら、背筋を正した。

十月の空は澄んで高く、海風は乾いていた。羽鳥から江戸へ、江戸から再び羽鳥へ――港を結ぶ船団は、これまで以上に秩序立って動き始めていた。藤村晴人が考案した「逆流ローテーション」である。


 羽鳥から出るのは稲架掛けに使う長材だ。秋の稲を乾かすための木組みは、東国の農に欠かせぬ道具である。船腹いっぱいに積まれた材木は江戸へと運ばれ、城下の農村や周辺の田地に供給される。


 代わって江戸から羽鳥に戻る便には石鹸が積まれる。町の女たちが洗濯に使う真新しい塊が、木箱に並んで船倉を白く染める。羽鳥に届けば、それは酸乳や野菜を扱う農家へ渡り、暮らしを清める力になる。


 さらにその石鹸の箱を空ければ、同じ箱に乳酸飲料の瓶が詰められ、再び江戸へ戻される。飲み干された瓶は洗浄され、また酸乳や薬品を詰められる。空荷で帰ることのない循環――無駄を潰し、流れを太くする仕組みだった。


 港の人々は初めは半信半疑だったが、やがて口々に驚きをもらした。


 「船が軽々と戻らなくなったぞ。どの便も腹に荷を抱えておる」

 「空荷を潰せば、その分の銭が残る。稲架も石鹸も瓶も、みな役に立つものだ」


 港役人の一人が、藤村に深く頭を下げた。

 「これまで“行き”ばかりを考えておりましたが、“帰り”にも価値を見つけるとは……さすがでございます」


 藤村は海風を浴びながら、静かに答えた。

 「潮は往きと還りを繰り返す。交易もまた、片道では痩せる。両の流れを一つにしてこそ、海も国も豊かになる」


 その言葉に、周りの船頭や商人たちは大きくうなずいた。


―――


 その頃、羽鳥城の庭では、慶篤が汗を流していた。衣服は簡素な稽古着。広場に集められた若者たちと並び、彼は素手での体操を繰り返していた。


 「一、二、三、四……」

 彼の声が秋空に響く。腕を伸ばし、膝を折り、深く呼吸を合わせる。


 「殿……このようなことを直々に?」

 側に控える家臣が不思議そうに尋ねると、慶篤は笑みを浮かべた。

 「体を整えるのは誰の務めでも同じだ。剣も政も、この身が立ってこそ成せる。素手体操は軽んじられがちだが、兵の基はここにある」


 汗が額から滴り落ち、土に黒い点を描いた。だが彼の顔には疲れよりも爽快さがあった。


 「玄米を食し、体を動かす。小さな積み重ねが国を強くするのだ」


 慶篤の声に、若者たちの背筋も自然と伸びた。藩主自らが汗をかき、共に声を出す姿は、何よりの教育であった。


―――


 一方、横浜の学寮では昭武が机に向かっていた。窓から差す西日の中、彼は仏文の外交書簡を模写していた。


 「Monsieur le Ministre……」

 口の中で声に出しながら、筆を走らせる。硬い羽根ペンの先が紙を擦り、インクの匂いが立ち上る。


 傍らの教師が感心したように呟いた。

 「文章の調子を耳で覚えてから書き写すとは……ただの模写ではなく、呼吸を写しているのですね」


 昭武は顔を上げて微笑んだ。

 「外交文は剣と同じです。言葉一つで血を流すこともあれば、国を救うこともある。だからこそ調子を身に染み込ませねばなりません」


 彼の眼差しはまだ若いが、未来の重みを知る光があった。


―――


 夜。羽鳥城の一室で、藤村は灯火の下に地図と帳簿を広げていた。昼に見届けた港の循環、慶篤の体操、昭武の書簡模写――それらがすべて線で結ばれていくように思えた。


 「往きと還り。体と心。言葉と剣。……どれも一方では弱い。重なり合って初めて国の力となる」


 彼は筆を置き、深く息をついた。外からは虫の声とともに、農家が稲架を組む木槌の音が微かに響いていた。稲もまた、干し、戻し、循環の中で実りを増す。


 ――潮も稲も、人の暮らしも。すべては繰り返しの中にある。


 藤村はその響きに耳を澄ませながら、遠い未来を思い描いていた。

秋の夜風がガラス窓を震わせ、洋館の廊下には淡いランプの光がゆらめいていた。壁には時計が規則正しく時を刻み、磨かれた床板に子どもの足音が小さく響いている。


 義信が両手で壁の腰板をつかみ、よろよろと伝い歩きをしていた。まだ一歳を過ぎたばかりの小さな足が、靴を履かぬまま木の床を踏みしめる。そのたびに、赤い絨毯の端がわずかに揺れた。


 「ほら、ご覧ください。四歩、いや五歩も行きました!」

 篤姫が両手を叩き、頬をほころばせた。洋装の袖がさらりと揺れ、目には涙すら浮かんでいた。


 藤村はすぐそばに立ち、片手を伸ばして支えながら笑った。

 「小さな足取りだが、これもまた大行進に等しいな」


 その向かいで、久信がお吉の腕に抱かれていた。まだ乳を離れぬ幼子だが、兄の歩みに引き寄せられるように体を前へと動かし、声にならない声をあげた。


 「この子もすぐに立ち上がりますよ」

 お吉は久信の髪を撫でながら微笑んだ。


 藤村は灯火に照らされた二人の顔を見つめ、胸に温かなものが広がった。

 「港の船も、工廠の炉も、帳簿の数字も……すべてはこの歩みを守るためだ」


 篤姫は窓を開き、夜風を入れた。外には庭の稲架が月明かりに浮かび上がり、黄金色の穂が静かに揺れている。

 「子も稲も、育つには時と手が要りますね」


 「稲は根に水を、子は胸に愛を。どちらも欠けてはならぬ」

 藤村の声は深く響き、義信が再び一歩を踏み出した。


 「よし、歩いたぞ!」

 その瞬間、座を囲む声が重なり合い、館の高い天井に響き渡った。久信も釣られて笑い声をあげ、洋館は家族のぬくもりで満ちた。


 遠く港からは汽笛の音が聞こえてきた。潮待ちの船も、稲の収穫も、そして幼子の一歩も――すべては未来へつながるひとつのリズム。


 藤村は義信を抱き上げ、その小さな額に口づけを落とした。

 ――国を築くとは、この歩みを見守ることでもあるのだ。

読了感謝です!「お、いいじゃん」と思っていただけたら、ポイントとブクマをチャリンと投げてください。感想・レビューは作者のHP(やる気)を全回復させます。助かります!

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