134話:(1866年9月/初秋)計量の革命、収穫の段取り
初秋の風はまだ湿り気を含んでいたが、蝉の声は遠のき、かわって稲穂を渡る風のざわめきが羽鳥の谷に響いていた。田の畦を歩く農夫の足もとでは、まだ青さを残した稲が揺れ、まもなく黄金へと移り変わる兆しを見せている。その一方で、羽鳥城の一角からは槌音が響き、近代の工と農が交錯する季節を象徴していた。
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羽鳥城内、石畳に囲まれた新しい一室。白壁に囲まれ、窓には磨かれたガラスがはめ込まれている。そこは「秤校正室」と名付けられた場所であった。
大きな秤が据えられ、銅製の分銅が整然と並んでいる。部屋の隅には新たに輸入されたゲージが鎮座し、職人たちが息を詰めてその目盛を覗き込んでいた。
「誤差、三分の一匁以内に収まりました!」
若い職工の声が弾む。その声に居並ぶ役人や商人たちがざわめいた。
これまでの市場では、秤の違いが常に争いの種となっていた。干芋を量るにも、梅干を売るにも、「こちらの秤は重い」「いや軽い」と口論が絶えない。ところが今、秤の標準が打ち立てられようとしていたのだ。
藤村晴人は分銅を一つ手に取り、指先で確かめるように撫でた。冷たい金属の感触が、まるで国の新しい秩序の種子のように思えた。
「誤差が縮まれば、人の心の溝もまた縮まる。取引は争いではなく、約束になる」
傍らの渋沢栄一がにやりと笑みを浮かべた。
「数字が整えば、商人も農夫も安心します。文句を言う暇があれば、次の商いを考えるでしょう」
「ただの金属片ではない。これは国を繋ぐ“共通の言葉”なのだ」
藤村はそう言って分銅を机に戻した。
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同じ城内の別の棟では、軍役人たちが集まり、大砲の前で汗を拭っていた。そこに据えられたのは「カスエメート砲座」の試作品である。西洋式の設計を取り入れたその砲座は、城壁の上に据えられ、灰色の石と鉄で組まれていた。
石灰と砂を混ぜたモルタルは、比率を一対二で標準化。職人が「これが一番固まる」と胸を張った。
藤村はその砲座の土台に手を置き、低く唸った。
「ただ撃つための砲ではない。これは、江戸を守る壁の“骨”だ」
軍役人の一人が笑いを交えて言った。
「殿、骨を固めるにも金が要りますな」
藤村は苦笑した。
「金は使えば尽きる。だが秤と石灰は、尽きぬ国の基盤となる」
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秋風が吹く羽鳥の市場。干芋や梅干が山と積まれ、女たちが籠に入れて売り声をあげていた。
「甘いよ、日向干しの芋だよ!」
「塩梅の利いた梅干し、旅のお供に!」
市場の片隅に、新しく掲げられた布札があった。そこには、干芋の等級票と梅干の等級票が、鮮やかな図柄で印刷されていた。
一目で「上等」「並」「普」がわかるようになっており、しかも色と絵柄で識別できる。これによって、艀での検査時間が大幅に短縮されたのだ。
船頭の一人が札を手に取り、感心したように呟く。
「これなら、目の悪い年寄りでもすぐにわかる」
藤村はその様子を見て、目を細めた。
「争いをなくすのは、難しい言葉ではなく、誰もが見てわかる“印”だ」
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やがて江戸の町にも、新しい風が吹き込んだ。関税役所の門前に掲げられた大きな板札。そこには月次の突合結果が克明に記されていた。
「今月の輸出入手形の収入、二十七万両……」
町人たちがざわめき、顔を見合わせる。これまで裏で動いていた数字が、公の場にさらされたのだ。
「隠し立てがないというのは、気持ちの良いものだ」
魚屋が笑い、隣の大工がうなずいた。
「借金もこれで見える化される。国の財布を覗けるなんざ、ありがたい話だ」
藤村は板札の前に立ち、群衆を見回した。
「数字を示すのは、民を脅すためではない。共に担ぐためだ」
その声に、群衆の間から拍手が湧き起こった。
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夕暮れ、羽鳥城の一室。蝉の声が遠のき、鈴虫の音がかすかに聞こえる。机の上には、出来高と支払を突き合わせた帳簿が広げられていた。
小四郎が額に汗を浮かべ、筆を走らせる。
「往復時間を半分に短縮できました!」
若い書役が声を上げると、小四郎は頷き、穏やかな笑みを見せた。
「ずれを減らせば、人の心も楽になる。帳簿は人を縛るのではなく、自由にするのだ」
その言葉に、隣の藤村は静かに頷いた。
「数の裏に人の息がある。その息を乱さぬことが、政の役目だ」
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その夜、城下に「薩摩藩、年内完済見込み」という布告が出された。
道行く人々が立ち止まり、声を上げる。
「薩摩が、ついに!」
「年内に借金が消えるのか!」
歓声は夜空に広がり、秋の星々にまで届くようだった。
藤村はその声を背に受けながら、静かに空を仰いだ。
――秤を揃え、砲を据え、数字を示す。全ては、稲の穂が揃って実るように、人々の暮らしを支えるためなのだ。
初秋の風が頬を撫で、遠くで稲穂が波のように揺れていた。
秋の海は、まだ夏の名残を抱いていた。横浜の波止場には、白い帆と黒煙をあげる汽船が入り混じり、遠く異国からの商人たちがせわしなく行き交っている。潮の香りに混じって、干芋を焼く甘い匂い、石鹸の油の香り、そして樟脳の刺激的な匂いが漂っていた。
この日、特に目を引いたのは、艀に積まれていく荷の山であった。木箱には石鹸、籠には干芋、そして頑丈なKasama瓶には酸乳や医薬が詰められている。そのどれにも、統一された「等級票」と「積付け順序票」が貼られていた。赤・青・緑の色彩に、稲穂や鶴の図柄――誰が見ても分かる印である。
「石鹸、最下段。瓶物はその上。干芋は最後に」
港役人の声が、波止場の喧噪を割って響いた。
かつては荷の積み込み順序を巡って船頭と商人が口論し、荷崩れによる損害も少なくなかった。しかし今、全員が一枚の紙に従って動く。荷が揺れても崩れず、時間の無駄も生じない。
年配の船頭が、背を伸ばしながら笑みを見せた。
「波に揺れても荷が動かん。これなら厦門まで安心だ」
商人たちは顔を見合わせ、安堵の息をもらした。彼らにとって損耗の減少は、ただの効率ではなく、信用と利益そのものだった。
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藤村晴人は桟橋に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。白い羽織の裾が風に揺れ、眼差しは海の向こうを見据えていた。
「積付けの秩序は、船を守り、人を守る。これが商いの基なのだ」
隣には渋沢栄一がいて、帳簿を手に指先で数字を示した。
「積付け効率は一二%向上しました。それに“乾燥、防湿、JP28口径”を証明する保険証明を添えたことで、保険料率が〇・一五下がります」
藤村はふっと息を漏らした。
「数字は冷たいと思われがちだが、実のところ人の暮らしを温める。病を防ぎ、腹を満たす。それが交易の真だ」
彼の声に、傍らにいた若い通訳官が感嘆の眼差しを向けた。外国語を通じて条件を詰め、数値にして交渉する――それは新しい日本の姿そのものだった。
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一方、通関所では別の試みが始まっていた。
窓口の机に、鮮やかな朱の印を押した小さな紙が並んでいる。それは「簡素印紙」と呼ばれる新しい制度だった。
役人が目を細めて紙を掲げる。
「これを還付の証にするのですか。乾物や医薬瓶のように小口で多い品に、か」
小四郎が一歩前に出た。まだ年若いが、真剣な瞳に力がこもっている。
「はい。書式が複雑であれば遅れが生じ、船が立ち往生します。印紙ひとつで証明できれば、通関時間は必ず縮まります」
役人は試しに印を押し、透かしてみた。鮮やかな朱が浮かび、誰の目にも明らかだった。
「確かに、一目でわかるな」
通関に並んでいた商人たちがざわめいた。
「これなら上海行きの船に間に合う!」
「遅れで失った信用が戻ってくる!」
役人も、机を叩いて笑った。
「確かにこれは楽だ。通関が一八%は速くなるだろう」
小四郎の口元に小さな笑みが浮かんだ。紙の一枚が国の時間を変える――その確信が胸にあった。
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夕暮れの港。積み込みを終えた船が、汽笛を高らかに鳴らした。白い蒸気が空へ立ち昇り、橙色に染まった雲に混じっていく。
藤村は船影を見つめながら、静かに呟いた。
「江戸の物が、異国の市を賑わす日が来る。その流れを絶やさぬために、印紙も秤も、ただの道具ではない。“橋”なのだ」
彼の言葉を受けて、周囲の人々も空を見上げた。
塩の匂いを含んだ風が頬を撫で、桟橋に立つ町人も役人も商人も、同じ方向に目を向けていた。
それは、ただの貿易ではなかった。江戸と羽鳥、そして日本全体が、新しい世界へと踏み出すための確かな一歩だった。
―――
その夜、横浜の宿所に戻った藤村は帳簿を開いた。
「積付け標準票」「等級票」「簡素印紙」――一見すれば小さな工夫だ。だが彼の心臓は高鳴っていた。
――これが革命なのだ。刀を抜かずとも、人々の生活を守り、未来を拓く革命。
帳面の上で灯火が揺れ、墨の黒がひときわ濃く映った。外では虫の音が響き、秋が確かに訪れていることを告げていた。
初秋の風が羽鳥城の台所を吹き抜けた。夏の熱気をまだ残しつつも、稲穂の香りを含んだ風は、秋がすぐそこに迫っていることを告げていた。石造りの厨房の奥では、薪のはぜる音と共に、鍋から湯気が立ちのぼる。香ばしい醤油の香りと、異国の香辛料が入り交じり、学問所に集った若者たちの鼻をくすぐっていた。
「まさか……殿が自ら料理を?」
若侍が驚きの声を洩らす。
そこに立っていたのは、裃を脱ぎ、袖をまくった藤村晴人だった。鉄鍋の中では、牛肉と馬鈴薯、玉ねぎが柔らかく煮込まれ、黄金色の照りを放っている。――肉じゃが。まだ名はないが、異国の技と和の味を合わせた新しい料理である。
「政も料理も同じだ」
藤村は木杓子で鍋をかき混ぜながら、口元に笑みを浮かべた。
「配合を誤れば崩れ、火加減を怠れば焦げる。秤で測り、匙で整える。そうして人の口に合うものを作ってこそ意味がある」
隣の小鍋では、大豆を練り上げて肉のように仕立てた「大豆肉の煮込み」がぐつぐつと煮えていた。さらに奥では、黄色い香辛料を溶かしたカレー風のスープが湯気を立て、甘い香りと辛さが入り混じって鼻を刺した。
「砂糖は三匁、醤油は盃一つ。分量を定めれば、誰が作っても同じ味になる」
藤村はそう言いながら、白衣姿の職人に分量を計らせた。
「それは政と同じだ。秩序を与えれば、乱れは防げる」
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「では、いただきます」
まず膳についたのは慶篤だった。齢三十五、藩主として円熟を迎えつつある彼だが、この日も少年のように真剣な眼差しをしていた。玄米飯の上に肉じゃがをよそい、一口食べる。
「……柔らかい。芋は甘く、肉はほぐれる。腹に力が湧くようだ」
その表情に周囲の若者たちがどよめいた。
慶篤は膳の脇に置いた帳簿に、さらさらと文字を書き込む。
「栄養、満腹感、体調……食もまた政の基なり。数字に記してこそ、次代に伝えられる」
それは「食育KPI」と名づけられた試みだった。人が何を食べ、どのように働けるかを記録する。政を支える基礎は兵でも金でもなく、民を養う食から始まるという確信が、彼の筆先には込められていた。
―――
一方、横浜の学寮に滞在する昭武は、六分儀を片手に潮風を浴びていた。机の上には潮汐観測帳が広げられ、仏語の単語帳が散らばっている。
「六分儀で測った数値と、潮の満ち引きとを突き合わせれば、船の道は迷わぬ」
昭武は師に向かって説明した。
「異国の皇帝もこうして海を制したと書物にあります」
彼は汗を拭うことも忘れ、帳面に数字を記す。
「仏語の“débit”“crédit”……商いの言葉もまた、航海の羅針盤です」
潮の匂い、紙の擦れる音、夕暮れに光る文字。そこには若き学徒の熱がこもっていた。彼にとって勉学は単なる知識ではなく、未来の航路そのものを切り開く作業だった。
―――
さらに、羽鳥の勘定所では小四郎が机に向かっていた。机の上には「日計」「出来高」「支払」と書かれた三つの帳簿。彼は真剣な眼差しで筆を走らせている。
「三つを突き合わせる。ずれがあれば、すぐに判る」
助手の若者が戸惑う。
「ですが、手間が三倍では?」
小四郎は顔を上げて、汗を拭いながら微笑んだ。
「いや、むしろ手間は減る。誤りが見つからぬまま進む方が、よほど高くつくからだ」
紙に指を置き、力強く言葉を続けた。
「数字は人を縛るのではない。人を守るのだ」
その言葉に周囲の書役たちは静かにうなずいた。まだ若い小四郎だったが、その姿にはすでに一人前の吏僚としての気迫が漂っていた。
―――
夜。羽鳥城の広間。
料理の余香がまだ漂う中で、藤村は子どもたち――義信や久信を抱きながら、弟子たちを見渡した。
慶篤は食を記録し、昭武は星と潮を追い、小四郎は帳簿を整える。
「政とは机上の論だけではない」
藤村は柔らかな声で語った。
「口にする飯も、海を渡る船も、銭を数える帳も、すべて人の暮らしを支える一つの糸だ。その糸を編み上げてこそ、国の織物となる」
障子の外からは秋の虫の音が聞こえた。
子どもたちの笑い声が混じり、やがて静かな夜風が部屋を包む。
――工の心臓と農の肺。そこに教育の知恵が加わることで、国は生きた体となる。
藤村は膝の上の小さな手を見つめ、未来の確かさを胸に刻んだ。
夕暮れ。羽鳥城の御殿の一室では、秋風が障子を揺らしていた。外では稲穂が色づき始め、農夫たちの掛け声が響いてくる。収穫の足音はすぐそこにあった。
篤姫は義信を膝に抱いていた。義信はまだ一歳半ほど、小さな手で木の積み木を重ねては崩し、声をあげて笑った。篤姫はその様子に目を細め、髪を撫でながら言葉をかける。
「上手に積めましたね。崩れても、また積めばいいのです」
義信は「あー」と声を出し、母の顔を仰いだ。その瞳には、すべてを信じきる幼い光があった。
一方、別の部屋ではお吉が久信を抱いていた。まだ首も頼りない幼子で、乳を飲んだあとはぐっすり眠っている。お吉はその頬にそっと指を滑らせ、微笑んだ。
「殿に似て、目元がきりりとしております」
小さな寝息が胸に伝わり、お吉の心は満ち足りていった。彼女にとって、この静かな時間こそが何よりの宝であった。
和宮もまた、慶喜皇子・慶明を抱いていた。京から江戸へと移り住んだ彼女は、まだ慣れぬ土地に不安を抱きつつも、幼い命の重みを腕に感じるたび、その心は穏やかになった。
「あなたは江戸で育つのですね。けれど京の雅も、母が必ず伝えてみせましょう」
慶明は小さな手を伸ばし、母の袖を掴んだ。和宮はその仕草に笑みを洩らし、揺り籠に包んだ。
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その夜、藤村は御殿の一角で三人の子らの寝息を聴いていた。篤姫、お吉、和宮――それぞれの母の胸で眠る子どもたちの呼吸が、重なり合って聞こえる。
「計量も、税も、砲座も……すべては、この小さな寝息を守るためにあるのだな」
蝋燭の灯に照らされたその横顔は、戦場で指揮を執るときよりもずっと柔らかだった。藤村の胸に広がる想いは、未来への責務と、父としての温かな祈りであった。
秋の虫の音が夜風に乗り、御殿の中に響いていた。
その調べはまるで、国の歩みと子らの成長とが一つに繋がっていることを告げるようだった。