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133話:(1866年8月/晩夏)工廠の心臓、農の肺

晩夏の陽は容赦なく石畳を焼いていた。江戸の町も羽鳥の村も、蝉の声に包まれながら息苦しいほどの熱気に満ちていたが、その中で黙々と煙を吐く新しい石造りの建物があった。新宿のはずれに据えられた大きな石鹸釜――三基の炉から立ち上る蒸気は、白い雲のように空へ昇り、夏の太陽と競い合うように白光を放っていた。


 「日三千六百丁、瓶の回収率は九割二分に達しました!」

 若い職工が声を張り上げ、黒く汚れた手拭いで額の汗をぬぐった。背中は汗で濡れ、衣が肌に張り付いている。


 藤村晴人は石鹸の固まりを一つ取り上げ、鼻先に寄せてみた。ほんのりとした油の匂いの奥に、清潔な泡の気配があった。白く滑らかな塊を光にかざすと、角の部分がわずかに透けて見える。

 「良い。人の手に渡り、衣を洗い、病を防ぐ。石鹸は工廠の心臓の拍動にも等しい」

 言葉を発すると同時に、胸の奥に確かな昂りがあった。数字で測るだけではなく、目の前に形を持った成果を手にする喜び――それが心を震わせた。


 そばにいた渋沢栄一が算盤を弾き、帳簿を開いて見せる。

 「この瓶の回収率こそが肝要です。酸乳を詰めて村に送り、使い終えた瓶は農家が堆肥と共に返す。小美玉で始めた循環の仕組みを、さらに拡げましょう」


 藤村は力強く頷いた。

 「工廠と農村が血を分け合うのだな。石鹸と酸乳は町を清め、堆肥は畑を肥やす。まるで農の肺が、工の心臓と呼吸を合わせているようだ」


 背後で黙って聞いていた年寄りの農夫が、思わず大きくうなずいた。

 「殿様のおっしゃる通りでございます。畑は息をしておる。肥やしを得れば、たちまち葉を広げ、穂を伸ばす。わしらも石鹸で手を洗えば、病に倒れる子を減らせましょう」


 その言葉に職工たちの顔にも笑みが広がり、工房の中は一瞬だけ、暑さを忘れるような明るさに包まれた。


―――


 午後になると、羽鳥城外の射撃場では別の営みが進んでいた。炎天下の土手に人夫たちが列をなし、地面を掘り返して鉛弾を拾い集めている。鉄籠に詰められた黒光りする鉛は、ひと月で二百貫を超える。


 「これをまた工廠に送れば、砲の部材に生まれ変わります」

 担当役が報告すると、藤村は土手を踏みしめ、空に漂う硝煙の匂いを深く吸い込んだ。火薬の刺激が鼻腔をつき、額から新たな汗が流れ落ちる。


 「撃つだけでは国は痩せる。拾い、再び鍛えてこそ強くなる」


 彼の言葉に若者たちはうなずき、鍬を振るう手に力を込めた。額から滴る汗は鉛の粒と同じように、未来の国を形づくる礎のように輝いていた。


―――


 日が傾き始める頃、藤村は城下へ戻った。門の外では農夫たちが麦の藁を積み上げ、秋に備えて乾燥させていた。汗に濡れた肌に夕陽が赤く映え、その姿は稲の穂が光に揺れるようでもあった。


 農夫の一人が手を休めて声を掛けてきた。

 「殿様、石鹸と酸乳のおかげで、村の子らが夏病に倒れる数が減りました。女房衆もようやく安心して働けます」


 藤村は深く頷き、胸にこみ上げるものを覚えた。

 「工の鼓動と、農の呼吸。この二つが合わさってこそ、国の胸は膨らみ、未来へ息を吐ける」


 その胸の高鳴りは、真夏の蝉時雨とともに、夜の江戸の空へと広がっていった。


―――


 その夜。城の広間では職工や農夫、町年寄たちが集まり、小さな祝宴が開かれた。机の上には干芋と酸乳、そして新しくできた石鹸が置かれている。


 若者が石鹸を手に取り、冗談めかして言った。

 「これでようやく、女房に『臭い』と言われずに済みます」

 皆がどっと笑い、笑い声が梁を震わせた。


 藤村も思わず笑みを浮かべながら、杯を掲げた。

 「石鹸一つ、酸乳一口。だがその一つひとつが国を支えている。お前たちの手が、国を動かしているのだ」


 声は穏やかだったが、胸の奥には確かな高揚があった。数字に現れる利益よりも、この人々の笑顔こそが真の成果だ――藤村はそう強く感じた。


―――


 外に出ると、晩夏の夜風が頬を撫でた。蝉の声は弱まり、代わりに草むらから虫の音が響き始めている。熱気の残る石畳の上で、藤村は夜空を見上げた。


 雲間から覗く星々が瞬き、工廠の煙突から立ち上る白い煙を薄く照らしていた。それはまるで、この国の未来へと続く道しるべのように思えた。


 ――工廠の心臓、農の肺。

 国を生かすのは、この二つの鼓動に他ならない。


 藤村の胸は、かつてなく強く打ち続けていた。

晩夏の蒸し暑さをまといながらも、横浜港の波止場はいつになく整然としていた。空にはまだ入道雲が居座り、夕立の気配を含んだ湿った風が吹いている。桟橋には干芋を積んだ俵、Kasama瓶に詰められた酸乳や医薬、石鹸の木箱――色も形も異なる荷が、まるで城の石垣のように整然と積み上げられていた。


 「積付け標準票に従え! まず石鹸、その上に瓶物、干芋は最後だ!」

 監督役の声が波止場に響く。


 商人たちは驚いたように顔を見合わせた。これまで積み荷は船頭任せで、順序は曖昧だった。乱暴に積めば船倉の中で荷が崩れ、瓶が割れたり干芋が潰れたりすることもしばしばあった。だが今は「順序票」が貼られ、誰もが同じ手順で荷を運び入れている。木箱には番号札、俵には朱の印、瓶の箱には太い縄でしるしが巻かれ、積付けの位置が一目でわかる。


 「おかげで崩れにくい」

 背を曲げた年寄り船頭が、額の汗を袖で拭いながら笑った。

 「波に揺れても荷が動かん。これなら上海まで安心だ。昔なら途中で半分は駄目になったもんだが……」


 隣の若い船頭が相槌を打った。

 「これじゃあ俺たちの喧嘩の種も減るな。荷主同士が“誰のせいで壊れた”と口論するのが常だったからよ」


 周りの船員や商人も笑い、緊張していた空気が少しやわらいだ。


―――


 藤村晴人は波止場に立ち、海風を胸に受けていた。潮の匂いと共に、石鹸の香りや干芋の甘い匂いが混じって漂ってくる。彼は並ぶ積荷を見渡し、深く息をついた。

 「積付けの秩序は、船の寿命をも延ばす。人の命も守る」


 その横で渋沢栄一が帳簿を広げ、指先で数字を示した。

 「積付けの効率が一二%上がりました。保険条件も“乾燥、防湿、JP28口径”を証明したことで、率が〇・一五下がります。これなら余剰を次の船に回せます」


 「数字は冷たいようで、人の暮らしを温める。病を防ぎ、腹を満たす。それが交易の真だ」

 藤村の目は、港を越えた水平線の向こうにあった。彼の胸の内には、物資だけでなく「国の信頼」を異国へ送り出すという高揚があった。


―――


 通関所では、新しい印紙を前に役人たちが集まっていた。蝉の声の代わりに、朱肉の香りが漂っている。


 「輸出還付にこの簡素印紙を用いるのですか」

 訝しむように問いかける老役人の前で、小四郎が一歩進み出る。まだ若い声だが、よく通る響きを持っていた。

 「はい。乾物や医薬瓶のように小口で数多い品にこそ、複雑な書式は不要です。印紙ひとつで証明できれば、通関は速くなります」


 役人は半信半疑で朱肉に印紙を押し、紙に捺した。鮮やかな朱が浮かび上がる。

 「なるほど。これなら一目でわかる」


 周りの役人たちがざわめいた。

 「確かに……」

 「これなら検査に要する時間が半分で済むぞ」


 通関時間はおよそ一八%短縮されると見込まれた。船乗りたちは息をつき、商人たちは胸を撫でおろした。遅れが減れば信用が増し、やがて値もつり上がる。


 「紙一枚が、国を速める」

 小四郎の呟きに、藤村は目を細めて笑った。


―――


 その日の夕暮れ。波止場に積み込みを終えた船が汽笛を鳴らした。白い蒸気が夏の空に立ちのぼり、赤く染まった雲に混じって消えてゆく。


 甲板の上では船員たちが手を振り、岸壁では商人の妻子が声を張り上げて見送っていた。

 「気をつけて!」

 「上海で儲けて帰ってこいよ!」


 藤村はしばらくその光景を見守り、胸の内でつぶやいた。

 「江戸の物が、上海で市を賑わす日が来る。その流れを絶やさぬために、印紙も秤も、ただの道具ではなく“橋”なのだ」


 海風は塩の匂いを運び、桟橋に立つ人々の顔を赤く染めた。その眼差しは皆、遠い異国の空を見つめていた。


―――


 日がすっかり落ちた頃、港の一角の小さな茶屋で、商人たちと職工たちが一緒に盃を交わしていた。

 「今日は荷崩れが一つもなかった!」

 「印紙のおかげで、役人に怒鳴られずに済んだわ!」

 そんな笑い声が続き、茶屋は狭いながらも熱気に包まれた。


 藤村は彼らを横目に見ながら、湯飲みを傾けた。熱い茶が喉を滑り落ちると、全身に涼しい風が通り抜けるような気がした。

 「この笑顔が続く限り、国は立ち上がる」


 外では再び汽笛の音が鳴り、港の空気が震えた。藤村は立ち上がり、夜空を仰いだ。遠くの海に灯る船の明かりが、星のように瞬いている。


 ――交易の光が、国の未来を照らす。


 その瞬間、胸の鼓動が確かに高鳴った。

晩夏の陽は長く、しかし人の体を容赦なく蝕んでいた。江戸市中では熱中症で倒れる町人も多く、道端の井戸に駆け寄る姿が絶えない。そんな中、鎌倉の養生館が新しい「暑気養生の指針」を出したという噂が広まり、人々の話題になっていた。


 養生館の門前には、農夫や職人が次々と集まり、張り出された紙を食い入るように見つめている。


 《麦飯に梅干しを添えよ。水は冷やしすぎず、汗をかいたら塩を摂れ。昼の外作業は刻限を短くし、日陰にて休め》


 「なんとまあ……」

 年寄りの農夫が目を細めて紙を読んだ。

 「わしらのやり方と似ておるが、こうして書かれるとありがたいもんじゃ」


 隣の若い大工が頷いた。

 「塩を口にせいってのは新しい。酒ばかりじゃ、かえって体を壊す」


 人々の声は真剣でありながら、どこか安心に満ちていた。病に倒れる子や妻を思えば、こうした指針はまさに命綱だった。


―――


 一方、羽鳥城の学問所では、徳川慶篤が食膳の前に座っていた。三十五歳、藩主としての風格はすでに定まり、言葉には重みがあった。膳には玄米粥、白身魚、少量の乳酸飲料が並んでいる。


 「これは……殿、いつもの白米ではござらぬのですか」

 給仕の若者が戸惑うと、慶篤は静かに笑んだ。

 「玄米は栄養に富む。白米ばかりでは脚気を招く。養生館の医師も申しておる。兵も農も、まず食を正さねば力は出ぬ」


 そう言って匙を口に運ぶ。香ばしい香りと、ほのかな甘みが口に広がった。

 「味も悪くはない。むしろ噛むほどに旨味が増すな」


 彼は帳面に目を落とし、墨筆を走らせた。そこには「食育KPI」と記され、食材の種類、量、体調の変化が記録されていた。家臣が驚いて問う。

 「殿が自ら数を取られるとは……」


 慶篤は筆を止めずに答えた。

 「食は政の根。わずかでも確かな証がなければ、藩士も民も従わぬ。言葉よりも数字で示すのだ」


 その横顔には、責任を担う者の誇りと静かな自信が浮かんでいた。


―――


 同じ頃、横浜の学寮に滞在する昭武は、六分儀を手に海を望んでいた。潮風が強く、書き留めた帳面の端をめくる。


 「六分儀と潮汐の帳を突き合わせるのですか」

 傍らの教師が尋ねると、昭武は真剣な顔で頷いた。

 「はい。星と潮が揃えば、船の道は迷わぬ。異国の皇帝もかくして海を制しました」


 六分儀をのぞき込み、太陽の高度を測る。汗が額を伝い、白いシャツを濡らした。だが彼は気にも留めず、筆を走らせた。

 「仏語の単語も帳面に写しました。“debit”“credit”。商いの言葉もまた、航路を決める羅針盤です」


 若き瞳は輝き、海の向こうを夢見る光で満ちていた。


―――


 そして羽鳥の勘定所では、小四郎が机に向かっていた。昼下がりの暑さに蝉が鳴き狂う中、彼は汗を拭う暇もなく帳簿と向き合っている。机の上には「日計」「出来高」「支払」と書かれた三つの帳面。


 「この三つを突き合わせる。ずれがあればすぐに判る」

 小四郎の声はまだ少年の張りがあったが、その眼差しは鋭かった。


 助手の若者が首をかしげる。

 「ですが、手間が三倍になるのでは?」


 「いや、むしろ手間は減る。支払いで間違いがあれば、日計と出来高がすぐに教えてくれるからだ」


 小四郎は筆を走らせ、紙を指で叩いた。

 「数字は人を縛るためにあるのではない。人を守るためにある」


 周囲の書役たちは、若い背中を黙って見つめた。その姿はすでに一人前の吏僚であった。


―――


 江戸城下の広場では、夕暮れに大きな掲示板が立てられていた。そこには「幕府一般債務」と記された数字が並んでいる。


 「見よ、前年比で減っておる!」

 町人たちが声を上げ、ざわめいた。


 「借金が減るなど夢のようだ」

 「会津の分はもう完済とあるぞ。監査まで済ませたのか」


 人々の顔に安堵が広がった。借金は国の恥であり、人々の暮らしを重くする鎖でもあった。それが減ると知れば、誰もが希望を持てる。


 藤村はその場に立ち、群衆を見渡していた。蝉の声がなお鳴り響く中で、彼は静かに言葉を口にした。

 「数を隠さず示すことが、国を軽くするのだ。恐れるより、共に担ぐ方が、人は強くなる」


 広場の空気が変わった。町人も職人も、まるで自らが政の一部に加わったように胸を張った。


―――


 その夜。藤村は灯火の下で帳簿を閉じ、深く息をついた。


 ――工の心臓が打ち、農の肺が呼吸する。その間を流れる血こそ、教育と数字、そして人の暮らし。


 耳には蝉の声とともに、子どもたちの笑い声が遠くから届いた。義信と久信の幼い声が、夏の夜気の中で柔らかく混じり合っている。


 未来はまだ形を持たない。だが確かにここに脈打っている。


 藤村は静かに目を閉じた。

晩夏の夜風が、ようやく涼しさを運び始めていた。江戸の町に立ち込めた熱気も、日が落ちるとともに少しずつ和らいでいく。藤村の宿所の座敷では、灯明が柔らかく揺れ、子どもたちの声が重なっていた。


 義信が畳に腹ばいになり、小さな筆で紙に丸を書いている。まだ幼い手つきで、筆は震えながらも必死に墨を運んでいた。篤姫が後ろからそっと見守り、微笑む。

 「まぁ、父上のお帳面を真似しているのね。数字でなくても、気持ちは伝わりますよ」


 藤村はその様子を見て、思わず頬を緩めた。

 「義信、上手だぞ。いつか父と同じように、国を守る帳簿を書けるようになるかもしれぬな」


 隣では久信が、竹の積み木を重ねては崩して遊んでいた。崩れるたびに大きな声をあげ、また積み直す。篤姫が笑いながら声をかける。

 「根気のいる子ね。壊れてもまた立て直す……父上の工事と同じでしょう」


 藤村は頷き、胸の奥に小さな誇りを感じた。

 「そうだ。積んでは倒れ、倒れてはまた積む。人も国も同じ道を歩むのかもしれぬ」


―――


 その頃、江戸城の御殿では和宮が慶喜皇子・慶明を抱いていた。涼やかな月光が障子を透かし、母子を柔らかく包んでいる。

 「この子が大きくなる頃には……世の形もまた変わっているのでしょうね」


 側に控える慶喜は、静かに息をつきながら答えた。

 「朕らの世で築いた秩序が、子らの世に残ることを願うばかりだ」


 その言葉に和宮はうなずき、幼子の頬を指先で撫でた。月明かりに照らされたその横顔は、母としての柔らかな強さを宿していた。


―――


 夜更け、藤村は再び帳簿を閉じた。義信と久信は篤姫に抱かれて眠り、寝息を立てている。障子の外からは、まだ蝉の声がわずかに残り、虫の音が混じり始めていた。


 藤村は小さく呟いた。

 「工の心臓も、農の肺も、結局は人の暮らしのためにある。数字や制度はただの骨組みだ。血を通わせるのは……こうして眠る子らの未来なのだな」


 篤姫がそっと微笑み、夫の言葉に応じる。

 「ええ。殿が守っているのは、目に見える帳簿ではなく、こうして眠る命たちです」


 藤村は頷き、子どもたちの寝顔をひとつずつ見つめた。小さな胸の上下が、まるで国そのものの呼吸のように思えた。


 夜空には満ちかけの月が昇り、江戸の町を静かに照らしていた。

 ――未来はまだ形を持たぬ。だが確かにここに息づいている。

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