132話:(1866年7月/盛夏)打設・立ち上がり、稲の出穂
七月の盛夏、横須賀の海は白くきらめいていた。水平線には蜃気楼のように帆影が揺らぎ、工廠の煙突から立ちのぼる熱気が空を押し上げる。潮と鉄の匂いが入り混じり、炎天下の浜辺には、槌音が絶え間なく響いていた。
鍛造棟では、汗に濡れた職工たちが一列に並び、真赤に焼けた金具を次々と金床に叩きつけていた。火花は夏の蝉の声に負けぬほど盛んに散り、木槌の振動は床を震わせている。砲耳金具、楔、鋲――三十六種にも及ぶ副資材が日ごとに仕上がり、まるで新たな血管が大砲の躯体へと通じていくかのようだった。
「今日のロットは歩留八十四パーセント!」
番頭格の職工が声を張り上げると、場がどっと沸いた。
しかし、その数字を前に、藤村晴人は首を振った。額の汗を拭うこともせず、紙束を掲げながら静かに告げる。
「八十四では足りぬ。鋲が三千本打たれてなお、二割の欠けがあれば、いずれ艦は沈む。焼戻しの温度を見直せ。鋼が泣いている」
声は柔らかかったが、工廠の隅々まで届いた。沈黙のあと、技師たちは頷き合い、火床の温度計に視線を向け直す。
「やはりあの人は、鉄を人のように扱うな」
小声で呟いた職工に、別の者が答えた。
「人も鉄も、鍛えねば曲がる。そう言っておられた」
―――
工廠を出れば、海風が火照った体を一気に冷やした。桟橋には新設の杭が打ち込まれ、石炭の山が築かれている。玉里港から仮稼働した石炭桟橋が、ようやく横須賀の倉庫に繋がったのだ。黒い石炭を積んだ艀船が並び、艫に掲げられた「玉里」の旗が夏の日差しに翻っている。
「出帆チェック票を忘れるな。石炭、水、船医の三つを揃えてこそ、船は海に出られる」
藤村が声をかけると、若い書記が紙束を抱えて駆け寄った。
「はい、殿。玉里—横浜—上海の航路には、すべて票を添付いたしました」
その紙には、石炭の重量、清水の量、医薬箱の有無が明記されていた。たった一枚の紙が、百里の安全を左右するのだ。
さらに彼は、酒樽や瓶の口径の統一にも目を配っていた。Kasama瓶と呼ばれる薬瓶・酸乳瓶の口径を二十八号・三十二号に揃えただけで、船積み効率は一割以上も向上した。
「数字にすれば些細な差でも、千里の航路では山となる」
藤村の言葉に、荷役頭たちが一斉に頷いた。
―――
その頃、城下では稲の穂が出始めていた。盛夏の陽射しに照らされ、青々とした葉の間から黄金の穂先がのぞく。蝉の声に混じり、遠くからは鋲打ちの響きがかすかに届く。田と工廠が同じ夏の空を仰いでいる――それは、この国の歩みそのもののように思えた。
羽鳥から届いた便りには、こう記されていた。
「城の稜堡、基礎梁の打設始まる。石と煉瓦、水硬性石灰を交えて強く立ち上がらせる」
藤村はその報を読みながら、工廠の音を背にふと呟いた。
「打設も、立ち上がりも。城も田も、同じ命の営みだ」
遠く江戸城では、第三期工事が宣言されていた。防火と電信。火と雷を制する仕組みが、国の心臓を守ろうとしていた。
―――
横須賀の夕暮れ。赤く沈む陽が海を焦がす中、藤村は桟橋に立っていた。積み荷を終えた船が、ゆっくりと波を割り進み出す。出帆票を胸に収めた船医が、甲板の上で深く一礼した。
「良いか。船を出すとは、命を託すことだ」
藤村の声に、見送る者たちは拳を握りしめた。
その瞳に映るのは、工廠の火と田の穂。数字で測られるものと、命でしか測れぬもの。その両方が、この国を立ち上がらせようとしていた。
江戸の夏は、湿気を孕んで重たかった。だが、城下の人々の動きはむしろ軽快である。御幸の余波に町は沸き、道端では子どもが旗を振り、商人は棚に新しい品を並べていた。
その空気の中で、藤村晴人は勘定所に身を置いていた。机の上には、積み上げられた帳簿と印紙が並んでいる。蝉の声が障子越しに響き、硯の墨がじわりと広がる。
「通関手続き、これで何刻短縮できる?」
藤村は目の前の書付を指で叩いた。
応えたのは小四郎だった。まだ若いが、帳簿に向かう姿勢は誰よりも真剣だ。
「輸出入手形を一本化して、統一船荷証券とすれば……通関時間は一八%減ります。無駄な往復も減り、役人も町人も助かるはずです」
藤村は深く頷いた。
「十八――小さな数字のようで、大きい。江戸の港で千艘が行き交うなら、百八十艘分の時が浮くのだ」
机の端では、印紙が刷り上がっていた。海運の証文に貼られるその印は、鮮やかな朱の色をしている。紙の香と油の匂いが、夏の空気と交じり合った。
―――
「御用の船、積み荷を検めよ!」
玉里港の埠頭では、役人が声を張り上げていた。帆を下ろした船からは石炭、清水樽、薬箱が降ろされ、秤の上で次々と数字が刻まれていく。
「秤は正しくあれ」
その標語が板札に掲げられ、船頭も町人もその前で真剣に計量を見守った。もし一樽でも目方をごまかせば、船の安全そのものが揺らぐからだ。
藤村は桟橋を歩きながら、傍らの渋沢栄一に問いかけた。
「この石炭桟橋、仮稼働でどれほどの荷が出入りした?」
渋沢は帳簿を広げ、素早く答える。
「この十日で横浜行き十艘、上海行き五艘。出帆チェック票が定着したおかげで、積み残しや積みすぎの事故はございません」
藤村は満足げに笑った。
「紙一枚で命が救われる。そう信じて、やってきた甲斐がある」
海風が白い帆をはためかせ、港の空には夏雲が流れていった。
―――
その一方、江戸城では第三期工事の起工が宣言された。
「防火と電信」――それが旗印だった。
大広間に集められた家臣や技師たちの前で、藤村は声を張った。
「火は城を呑み、雷は人を殺す。だが備えあれば、どちらも御すことができる。防火の堀と、電信の線。これこそが新しい国の壁であり、道である」
広間に響く声は力強く、誰の耳にも届いた。蝋燭の炎が揺らぎ、汗ばんだ顔に光を映した。
小栗忠順が横で頷き、声を添えた。
「火薬庫を備えた以上、防火は命綱だ。電信は命令を一刻で伝える。総裁・藤村殿の申される通りだ」
人々の顔には確かな覚悟が宿り、畳に正座したまま拳を握る者もいた。
―――
羽鳥城でもまた、大きな音が響いていた。基礎梁の打設が始まったのだ。煉瓦と石、鉄のタイバーを組み、水硬性石灰で固められた梁が地中に沈められていく。
槌の音は、蝉時雨と重なり合って城下に響き渡った。
「稜堡を築けば、火砲も防げる」
現場を監督する職人が額の汗を拭いながら語ると、見物に来た町人が息を呑んだ。
「これが……羽鳥を守る壁か」
石灰の匂いは夏の熱気に混じり、鼻を刺すほどだった。それでも人々は顔を輝かせていた。
―――
江戸の町では、掲示板に新しい紙が貼られた。
「幕府一般債務 五百六十万両→五百二十万両」
文字は大きく、誰の目にもわかるように書かれていた。
町人たちは足を止め、声を上げた。
「借金が減っているぞ!」
「四十万も……」
藤村は掲示板の前に立ち、人々の反応を黙って見ていた。隣で渋沢が低く囁いた。
「数字を示すだけで、民は安心しますな」
藤村は静かに頷いた。
「見えるものは、心を軽くする。闇に隠した債務は恐怖だが、晒した数字は希望になる」
その声に振り返った町人が、思わず頭を下げた。
―――
夏の夕暮れ。江戸城の石垣の上に立ち、藤村は空を仰いだ。真赤に染まった雲の下、街には子どもの笑い声と蝉の声が重なっている。
「打設と立ち上がり……稲も、城も、国も同じだな」
彼は低く呟いた。
数字だけでなく、石や稲や人の声。そのすべてが支え合って、この国を立ち上がらせている。そう思うと胸の奥に熱が灯り、夏の夕焼けが一層鮮やかに見えた。
盛夏の陽射しが城下を白く照らし、蝉の声が耳を埋め尽くしていた。羽鳥城内の学問所では、若き藩士たちが汗を拭いながら机に向かい、教育の稽古に励んでいた。
慶篤は庭に出て、子どもたちや下士の若者とともに素走りをしていた。裸足で土を蹴り、額から汗が滴る。走り終えると、涼やかな声で言った。
「麦飯と白身魚、そして乳酸の飲料。食も鍛錬の一つだ。心と体は繋がっている」
若者の一人が息を弾ませながら問いかける。
「殿様、自らもその食を召し上がっているのですか」
慶篤は笑って頷いた。
「もちろんだ。学ぶ者が先に試さねば、誰も信じてはくれまい」
―――
一方、昭武は六分儀を携え、城の櫓に登っていた。真夏の空に照りつける日を背に、海の彼方の地平を測る。
「太陽の高さ、角度は……」
隣で助手役の藩士が汗を拭きながら答えを控える。昭武は数式を唱えるように測定値を口にし、手元の潮汐観測帳に書き込んだ。
「よし、これで三日分の誤差が縮まった。実地で使える目安になりそうだ」
海図に向かうその横顔は、少年の好奇心と学者の冷静さを併せ持っていた。
―――
勘定所では、小四郎が机いっぱいに帳簿を広げていた。日計と出来高、そして支払帳簿。その三つを突き合わせ、赤や黒の線で照合を行っている。
「今日の石炭桟橋の杭打ちは、予定どおり七本。出来高は一日分の銀で清算……」
指で頁をなぞりながら、小四郎は低く呟いた。数字が合った瞬間、肩の力を少し抜いた。
「これで一日の労が、確かに形になった」
藤村が後ろから声を掛ける。
「紙の上に記すだけでなく、現場の者に見せてやれ。それが彼らの励みになる」
小四郎は顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。
「はい……私も、学んでみせます」
―――
城の庭では、藁束が三段に積まれていた。だが藤村は腰に佩いた兼定を抜かず、ゆっくりと素振りを繰り返していた。
「まだ試し斬りはせぬ。規程が整うまでは、刃を振るうは慎む」
見守る藩士たちが驚いたように声を上げる。
「しかし殿、その腕前ならば……」
藤村は首を振り、静かに言った。
「剣は人を励ます道具にもなる。だが、秩序なき刃は、ただの暴れ馬だ。武もまた、制のもとでこそ力を持つ」
真夏の蝉声を背に、藤村の刀が陽を受けて光った。それは威嚇ではなく、誓いの輝きのようでもあった。
―――
夕暮れ。掲示板の前には町人や百姓が群がっていた。
「ほら見ろ、幕府の借財、去年より減ってるぞ!」
「六十万両が五十万……いや、さらに減ってきたか」
人々の声は驚きから次第に安堵へと変わった。数字は遠いものではなく、日々の暮らしに直結する「知らせ」となっていた。
「銭の流れが見えるだけで、こんなに気が楽になるのか」
誰かがそう呟くと、周りの者も頷いた。
―――
その夜、藤村は庭先に立ち、満天の星を仰いだ。
蝉の声がなお続く中、風が稲の葉をざわめかせる。青々とした穂先が夏の月明かりに照らされ、静かに揺れていた。
「打ち立てた梁も、稲の穂も……結局は、人の声と暮らしのためにある」
藤村はそう呟き、火照った体に夜風を受けた。夏の重さと、未来の兆し。その両方が胸の奥に沁みていた。
夜風がようやく涼しさを運んでくると、羽鳥城の御殿にも静けさが満ちてきた。
行燈にともる灯が障子に柔らかな影を描き、蝉の声が遠くで細く続いている。
座敷では、篤姫が義信を膝に抱き、絵本を開いていた。
「ほら、今日は稲の出穂ですよ」
彩色された絵には、夏の陽に揺れる青稲の穂が描かれていた。
義信はまだ小さな指を伸ばし、絵の穂先をつまもうとする。
「あっ……」
その声に篤姫は微笑んで、子の背をやさしく撫でた。
「ええ、これはご飯になるもの。父上も、あなたと同じようにこれを食べて育ったのですよ」
少し離れた座に藤村が控えていた。数字や工事の話ばかりの一日を終え、今はただ父の顔である。
「お前の手に触れるものが、やがて国を動かす力になるかもしれぬな」
つぶやきに篤姫が顔を上げ、目を細めた。
「そうなるように、私も母として支えてまいります」
―――
隣の部屋では、お吉が久信をあやしていた。
子は眠りに落ちかけ、母の胸にすがりつく小さな手が徐々に緩んでいく。
「今日はよく笑いました。殿が声を掛けてくださったからでしょう」
藤村は襖越しにその声を聞き、穏やかに答えた。
「笑いも泣きも、すべてが成長の証だ。剣よりも帳簿よりも、私にとっては何よりも大事な営みだ」
お吉は小さく頷き、眠る子の額に口づけを落とした。
―――
その夜更け、三人の子らの寝息が重なって響いていた。
義信、久信、そして和宮に抱かれる慶喜皇子・慶明――それぞれの寝顔は涼やかな夏の風に撫でられ、未来を夢見るかのように安らかだった。
藤村は縁側に立ち、庭の稲田を見渡した。青稲の穂が月光に照らされ、ざわめきを奏でている。
「打ち立てた梁も、稲の穂も、そしてこの子らの寝顔も……すべては、これからの国を支える柱だ」
篤姫が背に寄り添い、静かにささやいた。
「殿、今日もお疲れさまでした。どうか、その柱を共に見守ってまいりましょう」
藤村は頷き、夜空にきらめく星を仰いだ。
盛夏の闇は重たかったが、その奥には確かに未来の光が瞬いていた。