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131話:(1866年6月)勅命と外洋、子らの未来

六月の江戸城・中之口広間は、蒸し暑さを帯びていた。障子の外では梅雨の雨がしとしとと続き、畳の縁に湿り気が忍び込んでいる。だがその空気を切り裂くように、朗々たる声が広間に響いた。


 「藤村晴人、正三位・大納言格。併せて幕府総裁を拝す」


 奏者の声を耳にした瞬間、藤村の胸はどくりと跳ねた。長きにわたり数字と制度で政を支え、財政の重荷を切り崩してきた。その功がここで形になったのだ。頭を深く垂れながらも、心の奥では血が熱を帯びる。


 ――正三位、大納言格。かつての自分が夢想すらできなかった高み。


 遠く水戸に在った頃、米の勘定に追われていた自分が、今は国の舵を取る位置にいる。その事実が重くもあり、同時に甘露のように誇らしかった。


 玉座に坐す孝明天皇が、静かに御言葉を下された。

 「汝に内勅を授く。数字と公正を以て政を治せ。これは朕の願いにして、国の柱とならん」


 藤村は震える手で額を畳に擦りつけた。

 「ははっ……必ずや、御心に背かぬよう」


 数字をもって剣に勝つ。公正をもって国を繋ぐ。その勅命は、自ら歩んできた道の正しさを照らす光だった。胸の奥に燃え立つ炎を、藤村は押し殺すように深呼吸した。


―――


 その後、広間を退いた藤村に、慶喜が声をかけた。

 「藤村。そなたの働きは、すでに国を救った。だがこれからは国を動かす立場だ」

 将軍の眼差しは鋭くも、どこか誇らしげだった。


 「……はっ。しかしながら、私の胸の高鳴りを、どう抑えればよいものか」

 思わず本音が洩れ、慶喜が笑った。

 「抑えるな。その鼓動こそが政を動かす力よ」


―――


 翌日、横須賀工廠。湿った風の中、仏人技師が図面を手に強硬に訴えた。

 「仕様を改めねば、期日に間に合わぬ!」


 藤村は額に汗をにじませ、算盤を叩く。技師の要求は、一見もっともらしい。だが費用増は八%を超える。余裕はない。


 「不等価項目は削る。八%分は我らが呑む必要はない」

 紙上に走らせた筆で、彼は冷静に項目を赤く削った。


 「ここを譲れば、納期も費用も崩れる。ならば、呑めぬ」


 仏人は口を噤んだ。藤村の目に宿る熱は、ただの役人のそれではなかった。国を背負う男の眼差しであった。


 工員たちが歓声を上げた。藤村は静かに頷いたが、胸の奥では叫びたいほどの昂ぶりがあった。数字の上で外国の技師を打ち破ったのだ。


―――


 日を改め、江戸城の御前。会津藩から和泉守兼定が正式に献上された。


 「藤村殿の御働き、藩を挙げての感謝にございます」

 容保の声が響くと、家臣が漆黒の鞘を捧げ持って進み出た。


 藤村は膝を正し、両手で受け取った。鞘を払った刃は青白く光り、梅雨の空気を裂いた。その瞬間、背筋に電流のような震えが走る。


 「……なんと美しい」


 試し斬りの藁束が三段に重ねられ、湿った竹が一本据えられた。深呼吸ひとつ。藤村は兼定を握り、斜めに振り下ろした。


 ズバリ、と乾いた音。藁は一息に断たれ、竹は滑らかに裂けた。手に伝わる衝撃は、数字や勘定では決して得られぬものだった。


 容保が思わず笑った。

 「御用改めの如し、見事」


 藤村の頬に、久しぶりに少年のような笑みが浮かんだ。

 「数字で斬るより、こちらの方が胸が高鳴りますな」


 広間に笑いが広がる。だが藤村は知っていた。刀も数字も、どちらも国を守るための剣であることを。


―――


 その夜、藤村は自邸に戻り、篤姫と子らの寝顔を見つめていた。義信の小さな手が布団の上に投げ出され、久信が静かな寝息を立てている。


 「父が大納言となったぞ」

 思わず囁くと、赤子たちは夢の中で指を握りしめた。


 胸の内で、再び鼓動が高鳴った。喜び、誇り、そして責任――すべてが一度に押し寄せてくる。藤村はその熱を抱きしめ、静かに目を閉じた。


 外では梅雨の雨が瓦を叩き続けていたが、彼の心には確かな炎が燃えていた。

横須賀の工廠には、朝から金属を打つ甲高い音が響いていた。炎と鉄の匂いが潮風に混じり、港から吹き込む湿った風に乗って町全体に広がる。造船台に並ぶ半完成の艦体は巨大な影を落とし、職人たちが忙しく木槌と鋲を操っていた。


 その中央、仏国から招かれた技師ド・ラグランジュが図面を机に叩きつけるように広げた。濃い髭の下から発せられる声は強い抑揚を帯び、通訳を介さずとも緊迫が伝わってきた。


 「仕様変更を要す。追加の鉄板は必須。強度を保つためには厚みを二分増すべし」


 通訳が日本語に置き換えると、場にいた役人や職人たちはざわめいた。鉄板の厚みを二分増せば、費用も納期も大きく狂う。すでに契約は結ばれているのだ。


 藤村晴人は黙って机上の図面に目を落とした。墨で引かれた線を指で辿り、計算尺を取り出す。小四郎が横に控え、緊張した面持ちで帳簿を開いていた。


 「……鉄板の厚みを二分増す。確かに強度は上がる。しかし――」

 藤村はゆっくりと顔を上げた。

 「当初の契約において、その分の対価は見積もられていない。不等価項目、すなわち八分の損失が生じる」


 ド・ラグランジュは目を細めた。通訳を待たずに、彼の口元がわずかに歪んだ。日本語をある程度理解しているのだろう。


 「だが、艦は沈んではならぬ」


 「沈まぬ。設計値のままでも十分に海に耐える」

 藤村は胸を張って言い切った。

 「仏国式は確かに堅牢だ。だが我らの予算と工期には限りがある。仕様を変えれば八%、納期も三月は延びる。八%とは、我が国にとって二十万両に相当する。二十万両を失ってなお、得るものは何か」


 その声は工廠に響き、作業をしていた職人たちさえ手を止めた。小四郎が横から朱筆を走らせ、即座に数値を示す。


 「追加費用 二十万両。納期延長 三月。得られる強度増加 十二%。――しかし海上運用では、現行の設計でも必要強度を満たしております」


 ド・ラグランジュは口を噤んだ。彼の目が藤村を射抜くように見据える。数瞬の沈黙。やがて彼は、ふっと笑った。


 「……ジャポネ、算術で剣を振るうか」


 「我らにとって数字は剣。民の銭を守るため、抜かねばならぬ時がある」

 藤村は静かに言った。


 交渉はその場で決着した。仕様は当初の通り。仏国技師も面子を保つ形で意見を収め、工期と費用は守られることになった。


―――


 同じ日の午後、江戸城の勘定所では別の数字が並んでいた。障子越しの光に照らされる帳簿には「関税収入見込 二百七十万両」と大書されている。


 小栗忠順が朗々と読み上げる。

 「内訳、海軍・横須賀に百八万両、繰上返済に九十四万五千両、衛生と教育に四十万五千両、予備として二十七万両」


 老中の一人が眉をひそめた。

 「予備が二十七万とは少ないのではないか」


 藤村は即座に答える。

 「必要十分です。余剰を溜めて眠らせるより、流すことが肝要。海軍と横須賀への投資は即時の利を生みます。衛生と教育は十年の利をもたらす。繰上返済は国の信用を守る。数字はこの道筋を示しております」


 「ふむ……」老中は腕を組み、黙り込んだ。小栗は笑みを浮かべて口を添える。

 「この男の言う通りに動いたからこそ、我らは今、債務五百六十万を五百二十万にまで圧縮できているのです」


 広間に沈黙が落ちる。やがて、老中の一人が深々と頷いた。

 「よい。藤村の案で決す」


 朱印が帳簿に押されると、場の空気は大きく変わった。重苦しさは薄れ、誰もがわずかな安堵を覚えた。


―――


 その頃、北の海。蝦夷地を巡る勝海舟は、寒風にマントを翻しながら函館の岬に立っていた。


 「ここから見渡すと、港勢が一目でわかるな」

 彼は部下に命じ、港に出入りする船の数を記録させた。さらに漁場の規模、薪炭の供給地、鉱徴の有無――すべてを台帳に記し、江戸へと送る。


 「藤村が言うには、数字で国を守るらしい。ならば俺は、この北の海を数字で丸裸にしてやる」


 勝は煙管をくわえ、冷えた息を吐きながら笑った。その目は寒気にも負けぬ熱を宿していた。


―――


 江戸に戻った藤村がその報を受けたのは、夜更けの勘定所だった。灯明の下に広げられた蝦夷地の地図。その上に置かれた勝の台帳には、漁獲高、薪炭収量、鉱徴の位置がびっしりと記されていた。


 「……これで北の大地も、数字で繋がった」


 藤村は地図を見下ろしながら、小さく笑った。その笑みには、安堵と同時に新たな挑戦への高鳴りが混じっていた。


―――


 こうして六月の政と財は、東西南北に伸びる数字の糸で結ばれていった。

 それは剣や矢に勝る、新しい時代の武器だった。

夏の湿り気を帯びた風が羽鳥城の障子を揺らしていた。広間に並べられた文箱の中から、使者が一通の巻物を取り出す。外洋を渡って届いたばかりの台湾探検隊の報告であった。


 「台南沖にて、風待ちの間を利用し調査を進め候――」


 巻紙の冒頭に記された筆致は、龍馬らしい奔放さに満ちていた。藤村晴人はその字面を追い、思わず口の端を緩めた。

 「まるで海が筆を運ばせておるな」


 読み進めると、海岸線の測図が挟まれていた。潮流と風向が細かく記され、寄港に適する湾が印されている。龍馬の手になる図は粗いが、要所は外していない。

 「これは……実地の足で測ったに違いない」

 傍らの佐久間象山が目を凝らす。「兵学書の机上演習よりも、よほど役立つな」


 次いで弥太郎の記録が現れる。

 《砂糖十樽、銀六十両にて買得。樟脳二十斤を試買。品質佳。船修理費銀二十五両、人夫雇用費銀十両。損益差引、僅少なるも信用拡充の益あり》

 几帳面な筆で、収支が整然と並べられていた。


 「弥太郎は商いを病床の診断のごとく記すな」

 佐野常民が感心の声を洩らす。「これなら後からでも流れが追える。まさに損益表だ」


 さらに陸奥宗光の文が添えられていた。

 《清国役人との応接、法理を確かめ候。漂流民処遇につき明文化の余地あり。交易は条約の外に出でず、誤解を避くべし》


 その几帳面な理路に、津田真道が深く頷いた。

 「国際紛争を避ける鍵は、こうした文にある。龍馬の豪胆さ、弥太郎の算盤、陸奥の法理――三つが噛み合ってこそ成る探検だ」


 広間は静まり返り、誰もが巻物の言葉に引き込まれていた。半年余りの調査が、まるで現地を歩いているかのように鮮やかに蘇る。


―――


 その夜、江戸城の一室でも同じ報告が読み上げられていた。小栗忠順が目を細め、地図を卓に広げる。

 「樟脳は火薬に不可欠。これを確保できれば、国防の柱となる。しかも砂糖は民の口を潤し、商いを広げる」


 藤村は静かにうなずいた。

 「北に蝦夷、南に台湾。いま我らの視野は島国に留まらぬ。龍馬らは、まさにその“翼”だ」


 慶喜は報告書に視線を落とし、口を開いた。

 「彼らの目は荒海を越えている。だが、その背を守るのは我ら江戸だ。数字を積み、城を磨き、兵を備える。すべてが繋がらねばならぬ」


 その言葉に、場の空気はさらに引き締まった。


―――


 羽鳥の町にも探検の話は広がっていた。市井の人々が茶屋で噂を交わす。

 「龍馬様は南の島で砂糖を買うておられるとか」

 「樟脳は火薬になるそうな。戦の道具じゃが、商いにもなる」


 遠い海の向こうの出来事が、まるで隣村の市の話のように語られていた。六万の人口を抱えた羽鳥は、もはや辺境の町ではない。世界と繋がる「港町の耳」を持ち始めていた。


―――


 夜更け。藤村は独り巻物を広げ直し、龍馬の筆を指でなぞった。

 「海の彼方の匂いが、この紙から立ち上がってくるようだな……」


 胸の奥に、熱いものがこみ上げてくる。数字で積む石垣も、法で築く秩序も大切だ。だが、荒海に船を出し、新しい地を記すその勇気――それが国を前に進める。


 「龍馬、弥太郎、陸奥……必ず無事に戻れ。そなたらの描く未来を、この国に繋いでみせる」


 藤村はそう呟き、墨を研いだ。彼自身の役目は、この熱を形にすることだった。

羽鳥城の一室。障子越しに初夏の光が差し込み、畳の上には子どもたちの声と筆の音が重なっていた。


 「麦飯と白身魚、そして乳酸の飲み物……これを常とすれば、兵も民も病を遠ざけられる」

 慶篤が筆を走らせながら、時折口に出してまとめている。まだ少年の面影を残すが、その眼差しは藩主のそれに近づきつつあった。


 隣では昭武が六分儀を掲げ、窓辺から差す光を追っていた。

 「角度は……三十度二分。よし、これで位置が読める」

 呟きながら仏語の教本をめくり、弟子たちに読み聞かせる。その発音にまだたどたどしさは残るが、声には確かな自信があった。


 一方、小四郎は帳面に向かい、行を指でなぞっていた。

 「日計と出来高、そして支払……三つを突き合わせる。誤りがあれば、ここで必ず見つかる」

 若き補佐は自ら設計した帳票を用い、役所の者に実地で示していた。汗ばむ額を拭うことも忘れ、数字の流れを確かめては頷いていた。


 その学びの場のすぐ脇では、篤姫が義信を膝に抱いていた。幼子は母の声に合わせて指を振り、隣で久信が笑い声を上げる。お吉がその背を支え、揺れる小さな体をあやしていた。


 「お兄さまの声に合わせて、手を叩きますのよ」

 篤姫が微笑むと、義信は昭武の発音に応じるかのように手をぱちりと打った。

 その音に若者たちがふと振り返り、緊張した顔がやわらぐ。学びの場と家庭のぬくもりが、同じ座敷にひとつになっていた。


―――


 一方、江戸城。


 和宮は御殿の一隅で、幼い慶明を抱いていた。

 「この子も、いずれは江戸の空気を吸い、国の行く末を背負うのでしょうか」

 彼女の問いに、慶喜は黙って頷き、子の額に手を置いた。


 「余が守るべきは政ばかりではない。この命もまた、未来の柱だ」

 将軍の言葉は低かったが、その声音には父としての響きがあった。


―――


 夜更け、羽鳥の廊下を歩きながら藤村は子らの寝息を耳にした。

 障子の向こうでは、篤姫とお吉が寄り添い、義信と久信を寝かしつけている。遠く江戸でも、和宮が慶明を抱いているだろう。


 「学びも、政も、剣も銭も……結局は、この小さな命を繋ぐためにある」

 藤村は胸の内でそう呟き、手を組んだ。


 形にした備えも、人の声が寄り添わねば力を持たぬ。

 子らの声と笑いが、未来を固める石垣のように感じられた。


 外では初夏の月が輝き、羽鳥の城下を静かに照らしていた。

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