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130話:(1866年5月)御道の整備—江戸を磨く

初夏の風が吹き抜ける東海道。

 行き交う人々の頭上にはまだ桜の葉が青く揺れ、路傍には早くも麦の穂が揺れていた。だが、往来の景色はただの旅路ではなく、日ごとに新しく磨き上げられていた。


 藤村晴人は、駿府宿から江尻宿へと続く街道を馬で進んでいた。沿道では大工や町人が梯子をかけ、軒並みの屋根を葺き替え、石を敷き直している。


 「ご覧ください、藤村様。水溝を左右に分け、雨水と汚れとを別に流す仕組みです」

 渋沢栄一が脇から説明した。彼の手元の帳簿には、宿ごとの支出と人足の人数が記されている。


 溝の中では、町娘が竹筒を手に水を流しながら、子どもに笑いかけていた。

 「この道を御所様がお通りになるのね。ほら、泥を残しては笑われるよ」

 子どもは「はい」と答え、桶を抱えて水を撒く。小さな掌にまで「御幸」という言葉の意味が刻まれているのだろう。


 「上下水を整えるだけでなく、宿ごとに夜警も立てました」

 小四郎が報告した。まだ若いが、声は誇らしげであった。

 「火盗改めに任せきりではなく、宿役人が順に見回りをいたします。夜道を歩く旅人も、これなら安心でしょう」


 藤村は頷き、宿場の灯籠に目をやった。灯心には新たに精製した油が用いられているのか、炎は白く澄み、煤がほとんど立たない。

 「道はただ通るものではない。人を迎え、送り出すものだ。……この整えは、国の顔を磨くことになる」


―――


 江戸に入ると、その「磨き」はさらに徹底されていた。

 大川沿いでは人足が列をなし、堀の底に積もった泥を汲み上げ、舟で運び出している。臭気の混じった風が一瞬吹いたが、川面に流れる水は前よりも澄んで見えた。


 「堀を浚渫し、溝を洗い直しております。江戸の水路は都の血脈。詰まれば病が広がります」

 小栗忠順が静かに告げた。勘定奉行としての眼差しは鋭く、しかしその横顔には責務を果たす安堵もにじんでいた。


 町年寄のひとりが駆け寄ってきた。

 「お武家様、塵芥を集める人足を倍にいたしました。橋の下まで手を入れます」

 汗にまみれたその顔は、決して弱音ではなく誇りで光っていた。


 江戸の大通りには、竹箒を持った童や娘が列を作り、路面を掃き清めていた。両国橋の下では屑籠が据えられ、秤屋では改め役が一つひとつの計りを検査している。


 「秤に狂いがあれば、民はすぐに気づく。だが天子様の御目に触れる前に正さねばならぬ」

 検査役の声に、藤村は頷いた。


 「嘘のない秤こそ、国の信用を支える。銭の重さを誤れば、国の重さも揺らぐのだ」


―――


 夕刻、藤村は馬を降り、日本橋に立った。

 橋の袂から眺める江戸の町は、埃を払われ、光を取り戻していた。瓦屋根は磨き直され、道には余分な石も泥もない。あちこちに立てられた御幸旗が風にはためき、老若男女が足を止めてそれを仰いでいた。


 「江戸は、磨かれたな」

 藤村が呟くと、隣の渋沢が小さく笑った。

 「はい。ですが、これは始まりにすぎませぬ。御幸ののち、江戸は“常に磨かれる町”でなければならないでしょう」


 藤村はその言葉に目を細め、夕陽に染まる橋を見やった。

 人々の笑顔、清らかになった水、澄んだ灯火――それらは確かに、ただの掃除や改修ではなく「国の心」を磨き上げることそのものに思えた。

東海道の整備が進む一方で、江戸の西に位置する新宿もまた、大きな変貌を遂げつつあった。

 もとは甲州街道の宿場町であり、旅籠と茶屋が並ぶ程度の町並みにすぎなかった。だが「御成道市場」として、天子の御幸の折にその姿を御覧いただくことが定められてから、町は急速に磨き上げられていた。


 藤村晴人が町を歩くと、両側の商家には新しい暖簾がかけられ、屋台の軒先では秤が一斉に並べられていた。


 「今日は印紙役所の検査でございます」

 秤屋の主が深々と頭を下げる。


 渋沢栄一が脇から説明を添えた。

 「ここでは売買ごとに印紙を貼らせ、銭のやり取りを記録するのです。秤は毎日改め、目方に誤りがあればすぐに取り替え。これならば陛下にも安心してご覧いただけます」


 藤村は秤の皿に銭を乗せ、針の揺れを見守った。誤差はなく、針は真ん中でぴたりと止まる。

 「よい。嘘のない秤は、嘘のない国を映す鏡だ」


―――


 市場の中では、町娘たちが色鮮やかな商品を並べていた。

 常陸から運ばれた檸緑茶は、青磁の壺に詰められ、蓋には金泥で「御土産」と記されている。酸乳は朱の紙で封をし、干芋は絵草紙の挿絵を写した袋に包まれていた。


 「おいでませ! こちらは羽鳥から届いた新しき酸乳! 旅の疲れに効きまする」

 「檸緑は香り爽やかにして、夏の暑気を払いますぞ!」


 町の声は朗らかで、普段の市よりも華やぎを帯びていた。子どもたちが袋を抱えて走り、武士の妻女が笑いながら選んでいる。


 小四郎が帳簿を抱えて駆け寄る。

 「藤村様! 本日の売上げ、すでに千両を超えました! 印紙を通じて記録すれば、後日の調査にも耐えられます」


 藤村は若き補佐の熱に微笑んだ。

 「よいか小四郎、数字は冷たく見えるが、人の喜びがあってこそ生きる。今日の笑顔を記す印でもあるのだ」


―――


 夕刻。市場を見渡すと、秤を点検する役人たちの姿があった。

 「一匁の狂いもなし。御成道市場の名に恥じぬ」

 役人の言葉に商人たちは胸を張り、子どもまでが「御幸の市だ!」と声を上げた。


 慶喜が馬上で市場を見下ろし、藤村に声をかける。

 「余の子らの世に、これが日本の標準となる。秤も印紙も、民の市から始めねばならぬ」


 藤村は深く頭を垂れた。

 「はい。江戸を磨くだけではなく、御幸を契機に国の基準を整えます。ここ新宿が、その見本となりましょう」


 慶喜の横顔は夕陽を浴びて、静かな誇りに輝いていた。


―――


 その夜、新宿の空には提灯の灯りが並び、祭りのような賑わいが続いた。

 商人も町人も、武士も子どもも、皆が声を揃えて唱える。

 「御幸万歳!」


 その響きは夜空を渡り、やがて江戸の町全体を包み込んでいった。

常陸の海は、春の風に白い波を立てていた。羽鳥城の外港・玉里港では、かつての小さな漁港が今や大きく姿を変えつつあった。

 新たに築かれた防波堤の先には、白亜の灯台がそびえている。石を積み上げたその姿は、まるで海の守り神のようだった。昼は太陽に照らされて輝き、夜になれば油とガスを混じえた灯火が遠くまで届いた。


 「おお……これで夜でも船が迷わぬぞ」

 漁師の老人が、しわだらけの手で額をかざして見上げた。


 傍らで渋沢栄一が筆を走らせる。

 「玉里港は江戸の“海の玄関”となります。灯台の光はただの光ではなく、交易と富を呼ぶ印です」


 藤村晴人は静かに頷いた。

 「よいか、港は国の顔だ。天子が江戸に坐すならば、その背を支える港もまた、恥じぬ姿でなければならぬ」


―――


 港の波止場には、常陸の産物を積んだ船が並んでいた。

 檸緑茶の木箱、酸乳の壺、干芋の包み。いずれも「御土産」と記した特注の包み紙で覆われ、鮮やかな色彩が海風にはためいた。


 若い商人が藤村に声を掛けた。

 「殿様、これらはすべて江戸へ運びます。陛下にも御覧いただけるよう、包みも工夫いたしました」


 木箱の表には金泥で「羽鳥産」と記され、干芋の袋には子どもが笑う絵が描かれていた。酸乳の壺には朱の封紙を巻き、檸緑茶の壺は青磁の色を映す。どれも“土産”という名にふさわしく、ただの品ではなく、国の顔を示す一端となっていた。


 小四郎が秤を取り出し、壺を一つひとつ量りながら記録していく。

 「目方を誤れば、信用を失います。御土産こそ国の信用を担うものですから」


 藤村は若き補佐を見つめ、穏やかに言葉を返した。

 「その通りだ、小四郎。土産とは“地の誇り”を包んで渡すものだ。数も、形も、笑顔も――すべてを欠いてはならぬ」


―――


 やがて夕刻、港の空が朱に染まった。

 灯台の灯がともり、海に長い光の道が引かれる。その光に導かれて、遠洋からの艦船が次々と入港した。帆を下ろす音、綱を投げる声、木板が軋む響きが港に満ちる。


 慶喜が甲板から降り立ち、藤村に声を掛けた。

 「見よ、晴人。ここが江戸の海の玄関となる。余の子らの世には、これが日本の標準となるであろう」


 藤村は深く一礼した。

 「はい。江戸を磨き、港を備え、御土産を整える。それが“国の姿”を示すこととなりましょう」


 港の人々が一斉に「御幸万歳!」と声を張り上げた。灯台の光がその声を受け止め、夜の海へと放っていった。


―――


 その夜、玉里港の町には提灯が並び、賑やかな市が開かれた。檸緑茶の香り、酸乳の酸味、干芋の甘さが漂い、人々の笑い声が絶えなかった。

 「御幸の土産に!」と声を掛けるたび、町人たちは胸を張った。


 藤村は人混みの中に立ち、微笑んだ。

 「江戸を磨くとは、ただ城を飾ることではない。道を整え、港を築き、町を生かすことだ」


 灯台の光が背後から差し込み、藤村の影を長く伸ばした。

 その影は、江戸へ、羽鳥へ、そして国の未来へと続いているかのように見えた。

初夏の風が江戸の町を渡っていた。東海道は宿場が磨かれ、水路は清められ、夜警の声が規則正しく響く。新宿の市場では秤が並び、印紙が貼られた品々が整然と並べられていた。玉里港には灯台の光が夜を裂き、遠くの海を行く船の目印となっている。


 人々はまだ戸惑いながらも、その変化を肌で感じ取っていた。

 「道が明るいと、夜も怖くない」

 「秤が同じなら、遠い町でも騙されぬ」

 「港が光れば、うちの米も海を越えるかもしれん」

 そんな声が、路地や茶屋の軒先から洩れていた。


―――


 江戸城の一室。

 慶喜は窓の外に広がる町を見下ろし、藤村に語った。

 「晴人、これが“磨かれた都”というものか。余の子らの世には、これらが当たり前の姿となるであろう」


 藤村は深く頭を垂れた。

 「はい。都を飾るのは瓦の光ではなく、人々の暮らしそのものにございます。道と水と港、すべてが繋がってこそ、国の力となりましょう」


 慶喜の横顔には、張りつめた誇りと、わずかな安堵が浮かんでいた。


―――


 その夜。藤村は独り、城の廊下を歩いていた。

 障子越しに聞こえるのは、子どもたちの笑い声、市井から届く祭囃子の余韻。外には月が浮かび、石畳に白い光を落としている。


 彼はふと立ち止まり、胸の内で思った。

 ――剣で国を守る時代は去った。道を磨き、港を築き、暮らしを整えることこそ、新しい守りなのだ。


 数字に換えられぬ声、秤に乗らぬ笑み。それらが積み重なってこそ、国は揺るがぬ。

 形にした備えも、人の心が寄り添わねば力を持たない――藤村はそう確信していた。


―――


 遠く、玉里港の灯台の光が夜空を貫いていた。その光はただ船を導くだけでなく、国そのものの行く先を照らしているかのように見えた。


 江戸を磨くことは、未来を磨くこと。

 藤村は静かに目を閉じ、その光を胸に刻んだ。

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