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129話:(1866年4月)天子、東へ―行幸の詔

京都御所の紫宸殿は、春の光を受けてなお冷ややかだった。桜の花びらが風に舞い込み、畳の上に散る。だが、その場に居並ぶ公卿たちの心は、花の色とは裏腹に重く揺れていた。


 孝明天皇が玉座に坐す。端正な面立ちはやや紅潮し、声には確たる決意があった。


 「国の政は江戸にあり。朕もまた江戸に坐す」


 殿上の間に響く言葉は、まるで鐘の音のように人々の胸を打った。だが同時に、その響きは波紋を広げ、誰もが顔を見合わせ、ざわめきを抑えきれなかった。


 「江戸に……行幸をなさる、と」

 「未曾有の御沙汰にござりまする」

 「行幸と申せば、内裏を離れ、長きにわたり東国に……」


 幾人かの公卿の声は震えていた。天皇が都を離れるなど、千年の都の歴史にも例を見ぬ大事だ。動揺が渦を巻き、殿中の空気は一瞬にして乱れた。


 しかし、玉座の前に進み出た一人の女性がいた。和宮である。


 「兄宮……いえ、陛下のお心を、私は知っております」

 彼女の声は静かであったが、確かな力を帯びていた。

 「世は動いております。長州征伐が終わり、戦火の影は遠のきました。政の中心はすでに江戸にございます。陛下自らが東に赴かれることこそ、国を一つにする道にございましょう」


 和宮の言葉に、再び囁きが広がる。だがその声は、先ほどの混乱ではなく、考えを深める響きに変わっていた。


 そこへ慶喜が進み出た。裃の袖を正し、深く一礼する。

 「恐れながら申し上げます。将軍家の屋敷、江戸城は既に二期の改修を終え、火薬庫・衛生棟を備えました。御座所として陛下をお迎えする準備は整いつつあります。私が命をかけて守り奉ります」


 慶喜の口調は、いつになく重かった。将軍自らが「守る」と明言したことで、公卿たちの顔色はさらに変わった。


 そして藤村晴人が一歩前に出る。彼の声は柔らかく、それでいて数字の裏付けを持つ理の響きを帯びていた。

 「恐れながら申し上げます。行幸は莫大な費用を要します。しかしながら、国の収入と支出を照らせば、これは決して浪費ではございません。むしろ国を一つにまとめ、民心を鎮めることで得られる利益は、銭には換えられませぬ」


 彼は懐から紙を広げ、そこに簡潔な表を示した。

 「江戸に御幸あらば、市の賑わいは二倍となりましょう。税収も増え、物流も潤います。羽鳥、水戸の城も御座所に整え、行在所とすれば、道中も安全にございます」


 公卿の一人が思わず問う。

 「しかし、都が空となれば、朝廷の威は……」


 藤村はその問いを遮らず、静かに答えた。

 「都は消えませぬ。むしろ都の威を、江戸に携えてゆくのです。天子が東に坐すことは、朝廷と幕府が二つに分かれることではなく、一つに重なることを示します」


 和宮がうなずいた。

 「陛下のお心と、政の理と、そして民の願い――それが揃うならば、行幸は“国是”となりましょう」


 孝明天皇はしばし沈黙された。だがやがて、口元に微かな笑みを浮かべられた。

 「ならば、定めよう。行幸は国是である」


 その声は揺るぎなかった。


―――


 夜、京都の宿所の一室。藤村は燭台の灯を背に、篤姫から届いた文を膝の上で開いていた。

 紙面には、墨で押された小さな手形がひとつ。義信の手を取って写したものだろう。まだ一歳にも満たぬ幼子の掌が、和紙に小さな花のように咲いていた。


 文の筆は篤姫らしく、やわらかだった。

 「義信は紙をぎゅっと握って離しません。まるで父上のことを待ちわびているかのようです」


 藤村はしばし黙して手形を見つめ、指先でそっとなぞった。細く震える線に、遠く離れた家族の息遣いが宿っている気がした。


 やがて彼は低く呟いた。

 「国の歩みを、この目で見届けねばならぬ。だが羽鳥も、決して忘れはせぬ」


 障子の外では、春の月が白々と輝き、雪解けの川が遠くで音を立てていた。

 その響きは、まるで時代そのものの歩みを告げる太鼓の音のように、藤村の胸に沁み渡っていった。

行幸の勅が下ったその報は、東国の大地を震わせるような勢いで広がっていった。江戸に天子を迎える――その一言がもたらす意味を、人々はすぐに悟った。江戸はもはや武家政権の都にとどまらず、朝廷の御座所を抱く「新しい首都」となるのだ。


 羽鳥城下にも早馬が駆け込んだ。役所に集められた町年寄や組頭たちは顔を見合わせ、誰からともなく息を呑んだ。


 「陛下が……東に」

 「では羽鳥も、御幸のお立ち寄りが……」


 藤村晴人は首を振った。

 「違う。羽鳥も水戸も、江戸へ至る街道筋にはない。されど、江戸に天子がおわすならば、その御座所を支える拠点が要る。二条城や伏見城が京を支えたように、東国にも“寄り城”が必要なのだ」


 町年寄たちは一瞬戸惑ったが、やがて理解した。江戸が「国の中心」となるなら、その背後を支える城が必要になる。京における例を引かれることで、未来の絵が鮮やかに浮かんだのだ。


―――


 水戸城では藩士たちが大手門を洗い清め、苔むした石垣の隙間に草を抜いていた。藩主・徳川慶篤自ら城内を巡視し、家臣に声を掛ける。


 「江戸が都となるなら、水戸はその東の柱である。陛下にお立ち寄りいただかずとも、備えを怠ってはならぬ」


 慶篤の言葉に、家中は奮い立った。かつて水戸学を以て尊王の道を説いた藩が、今や実際に天子の近き御座所候補とされるのだ。石段を洗う若侍の顔は紅潮し、城下の民も軒を塗り直し、街道沿いに幟を掲げはじめた。


 「御幸万歳!」

 「水戸も京に続く都となるのだ!」


―――


 羽鳥城でも同じ熱気が満ちていた。雪解けの風がまだ冷たく吹く中、石垣の隙間を埋める工事が急がれた。乾燥庫には新しい板が張られ、白く塗られた壁が春の光を反射した。


 渋沢栄一は算盤を弾きながら、城代に報告する。

 「清掃費と改修費、総額二千五百両。だが御幸後に羽鳥へも御座所の命があれば、この投資はすぐに戻ります」


 藤村は頷き、さらに付け加えた。

 「江戸は人口百二十万。羽鳥は六万に過ぎぬ。されど江戸が政の都となれば、人の波は必ず東へも溢れる。羽鳥は“次の都”を担える。数字はそれを示している」


 その言葉に町人たちの胸は高鳴った。小さな町が国の一部となる――それは彼らにとって夢のようであり、誇りであった。


―――


 一方、江戸城では完成済みの二期工事に対し、行幸を迎えるための最終点検が始まっていた。火薬庫は石と鉄で固められ、さらに防火壁の砂嚢が積み増された。衛生棟では医師たちが導水管を洗い、模擬診療を繰り返していた。


 「伝染病は剣より恐ろしい敵ぞ」

 藤村がそう諭すと、若侍たちは真剣に耳を傾けた。


 城の櫓に立った慶喜は、遠く町を見下ろして低く言った。

 「陛下を迎える都が、ここにある」

 その横顔は張り詰めていたが、確かな誇りがあった。


―――


 教育の場でも変化があった。


 慶篤は藩校で講義を受け、筆を走らせていた。

 「朝廷と幕府、一体の政治史……。なるほど、都を二つに割るのではなく、二つを重ね合わせるのか」


 昭武は横浜から届いた書簡を開き、欧州皇帝の行幸記事を翻訳していた。

 「フランス皇帝は国を巡り、民を励ました。象徴は座しているだけでなく、歩むものだと」


 小四郎は羽鳥の勘定所で、机いっぱいに紙を広げていた。

 「行幸経費――総額は八十万両。出来高精算を導入すれば、浪費は防げる」

 若き補佐の額には汗が滲んでいたが、その眼は輝いていた。


―――


 やがて春風に乗って、江戸の町に「御幸万歳」の声が満ちた。町人たちは旗を振り、子どもたちは小歌を口ずさんだ。


 「御所様がおいでくださる!」

 「これで江戸も都となる!」


 人々の声は空を震わせ、瓦屋根に反響していった。


 その響きはやがて羽鳥や水戸にも届き、町は祝祭のような熱気に包まれていった。


―――


 夜。藤村は江戸の一室で筆を置き、しばし外を見つめた。


 行幸はただの旅ではない。都を二つにし、国をひとつにする試みだ。

 そして羽鳥も水戸も、江戸の影に寄り添う「新たな都」として未来を担う。


 窓の外には春の月が白く光り、江戸城の瓦を照らしていた。

 その光の下で、国の形は確かに変わろうとしていた。

江戸の町は、行幸の報を受けて一変していた。

 「御幸万歳!」の旗が至る所に掲げられ、町人たちは晴れ着に近い衣をまとい、通りごとに歌や囃子が響いた。店先では団子が売り切れ、染物屋は「御幸」の二文字を染めた半纏を並べ、子どもたちは小歌を口ずさみながら駆け回った。


 「まるで祭りが続いているようだな」

 藤村晴人は馬上から町を眺め、呟いた。

 隣にいた渋沢栄一が算盤を肩に掛けたまま、軽く苦笑する。

 「祭りではありますが、銭勘定は日々です。八十万両――あの額をどう捻るか、誰かが頭を抱えねば」


 その言葉に、藤村は頷いた。

 「数字で支えるのが我らの役目だ。浮き立つ心を冷ますのではなく、浮き立った心を長く持たせるためにな」


―――


 羽鳥城の勘定所では、小四郎が机いっぱいに紙を広げ、朱の筆を走らせていた。

 「御幸経費、総額八十万両。出来高精算を導入すれば、浪費は防げます」

 額に汗を浮かべた若き補佐は、数字の海に没頭していた。


 藤村が背後から声を掛ける。

 「小四郎。数字は人を縛るものではない。導くものだ。誰もが安心できる道筋を、数字で描いてみせよ」


 小四郎は顔を上げ、真剣に頷いた。

 「はい。……江戸と羽鳥、水戸の数字を繋げれば、人々の負担も見通せます」


 筆が再び走る音は、まるで太鼓の拍のように勘定所に響いていた。


―――


 一方、水戸の藩校では、慶篤が講師の声に耳を傾けていた。

 「朝廷と幕府、一体の政治史……」

 彼は筆を走らせ、深く息をついた。

 「都を二つに割るのではなく、二つを重ね合わせる……そういうことか」


 近くに座っていた昭武が書簡を広げ、声を弾ませた。

 「兄上、これはフランス皇帝の行幸の記事です。皇帝は国を巡り、民を励まし、象徴は座すだけでなく歩むものだと書かれています」


 慶篤はしばし考え込み、やがて微笑んだ。

 「なるほど……天子が江戸へ行かれるのは、歩む象徴となることなのだな」


 若き二人の眼差しには、新しい国の姿を学び取ろうとする輝きが宿っていた。


―――


 その夜。羽鳥城の御殿。


 篤姫は義信を膝に抱き、麦の絵本を開いていた。幼子の瞳は絵に釘付けになり、指先で穂を撫でるように触れた。

 「義信、これは麦。春に穂を出して、実を結ぶのですよ」


 義信は小さな声で「ふみ……」と呟き、母の顔を見上げた。


 篤姫は微笑み、幼子の頭を撫でた。

 「もうすぐ、天子様も東へおいでになります。江戸は新しい都となるのですよ」


 その言葉の意味は義信には届かない。ただ、母の声を感じ取り、笑みを浮かべる。


 別室で文を読んでいた藤村は、その記述に目を落とした。篤姫の筆には「義信は父上を待ちわびるように紙を握ります」とあり、墨で押された小さな手形が添えられていた。


 藤村はしばし手形を見つめ、指先でそっとなぞった。

 「……国の歩みを見届けねばならぬ。だが、羽鳥も家族も、決して忘れはせぬ」


 障子の外では、春の月が白々と輝き、雪解けの川が遠くで音を立てていた。


―――


 江戸の町ではその頃、夜更けにもかかわらず「御幸万歳」の声が絶えなかった。ガス灯が街路を照らし、雪解け水に反射して星のように瞬いた。


 藤村は宿所の窓からその光景を見下ろした。

 「天子の行幸は数字では測れぬ。だが、数字を以て守らねばならぬ」


 その独白は、誰に聞かれるでもなく夜に溶けていった。


 祭りの熱気と、帳面の静かな数字。その両方が重なり合って、新しい国の形を描こうとしていた。

春の風が江戸の町を包み込むように吹き渡っていた。まだ肌寒さは残っていたが、空気にはどこか新しい匂いが混じっている。魚河岸では威勢の良い声が響き、呉服屋の店先には色鮮やかな反物が吊され、町人たちの顔には自然と笑みが浮かんでいた。

 「御幸万歳!」

 子どもたちが声を合わせて駆け抜ける。竹の竿の先に白い紙旗を結び、風にはためかせながら路地を走る姿は、まるで春を先取りする燕の群れのようだった。


 その日の夕刻、羽鳥城の御殿。障子の向こうに沈む日差しが金色の筋を描き、座敷の中は柔らかな光に満ちていた。篤姫は義信を膝に抱き、手製の絵本を広げている。

 「これはね、京から江戸へ行かれる天子様のお話ですよ」

 幼子の指が絵の中の輿に触れ、小さく声をあげる。

 「あっ」

 篤姫は微笑みながら、その小さな手を包み込むように握った。

 「そう、天子様がお乗りになる輿。江戸に行かれるのですよ」


 藤村は傍らで静かに座り、二人の様子を見守っていた。帳面も硯も今は脇に置き、ただ父としてそこにいる。義信の丸い頬が光に染まり、篤姫の声に合わせて笑い声を洩らす。


 「江戸には大きなお城がございます。お父上もそこでお仕えするのですよ」

 篤姫の声は柔らかく、子守歌のようでもあった。義信は意味を分かっているわけではない。だが母の調子に合わせて「うあー」と声を響かせ、手を叩いた。

 藤村は思わず笑みをこぼし、その額にそっと手を置いた。

 「元気だな。父がどこにいようと、この声を忘れはせぬ」


 障子の外から、町のざわめきが届いた。祭囃子にも似た声の波。羽鳥でも「御幸万歳」の声が日ごとに大きくなっていた。

 渋沢が廊下を通りかかり、顔をのぞかせる。

 「殿、城下ではもう小唄が流行っております。“御所様おいでで米も舞う”と」

 言って笑うと、義信もつられて笑い声をあげた。


 藤村は静かに頷き、窓の外に視線を移す。暮れなずむ空には細い三日月がかかり、城下の灯りがひとつ、またひとつと点っていく。

 江戸でも羽鳥でも、人々は旗を掲げ、歌を口ずさみ、子どもたちが駆け回る。難しい理屈ではなく、ただ心からの声が国をひとつにしようとしている。


 「……この光景こそ、天子を迎える力になるのだな」

 声にしたのは独り言に過ぎなかった。だが篤姫は聞きとめ、義信の頬を撫でながら静かに笑った。


 夜は深まり、町のざわめきは遠のいていく。けれども、障子越しに伝わるその熱は、なお温かく残っていた。天子が東へ向かわれる春を、人々の心がもう先に迎えていたのであった。

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